大和 - みる会図書館


検索対象: 幕末
19件見つかりました。

1. 幕末

218 そこを赤龍庵も踏んだ。これが、老人の生涯の自慢になった。 「当節。ーーー」と、この老人はロぐせのよナにいう。 「亡き東湖大先生に拝顔した者でその志を生かしているものは、薩州の西郷吉之助とわしぐらい のものであろう。先年の大獄で死んだ長州の吉田寅次郎 ( 松陰 ) も水戸の地を踏んだのは二十二歳 のときで、東湖大先生は御不在、やっと会沢正志斎、豊田天功などに会えただけである」 み、んよ 当時、藤田東湖は、儒者とはいえ藩主斉昭の側用人で藩政の機密に参与するはどの政治家にな っていたから、大和郷士の千葉赤龍庵ごときが会えるはすがなかった。ところが、赤龍庵の名刺 ーー大和十津川郷士。 とあるのをみて、にわかに興をおこし、書屋に通させたという。 「十津川の人とは、おめずらしい」 東湖は珍獣でもみるように、何度もいったというのである。大和十津川といえば秘境といって かみよ ずびと いい山地だが、「古事記」「日本書紀」によれば、神代、国樔人という人種が住み、神武天皇が 熊野に上陸して大和盆地に攻め入るとき、この天孫族の道案内をつとめた土着人がかれらの祖先 である。以来、朝廷が、大和、奈良、京都とうつってもこの山岳人はさまざまの形で奉仕し、京 ほうげん に政変があると敏感に動いて、禁廷のために武器をとって起った。古くは保元平治ノ乱、南北朝 ノ乱などに登場し、南北朝時代には最後まで流亡の南朝のために、足利幕府に抗した。水戸学は、 北朝を否定し南朝を正統とした史観を確立した学派である。東湖が、勤王史の生きた化石ともい しよおく

2. 幕末

「天誅組の市川だよ、市川精一郎」 「あっ」 と顕助がおどろいたのは、天誅組にも生き残りがいたか、ということである。ほとんどは戦死 し、刑死した。顕助の叔父の那須信吾もそうであるし、土佐勤王党では顕助の大先輩にあたる吉 村寅太郎もそうであった。この四年前の事件は、革命の時期を早期に判断しすぎて大和で暴発し、 幕府諸藩の追撃をうけて潰滅した。幕末勤王史上の悪夢のような事件である。 ともーやしみつひら その坊主は、高名ではない。幹部の藤本鉄石の南画の弟子であり、おなじく幹部の伴光平の 国学の弟子である。そういうつながりから大和義挙をきいて、はせ参じ、伍長格となった。 けんそ 天誅組が、大和高取城の嶮阻にこもる植村藩を攻撃したのは文久三年八月二十五日で、これは 天誅組がわのさんざんの敗北におわった。 無類に下手な攻城戦で、天誅組は、急募の十津川兵千人に不眠不休の行軍をさせ、そのまま天 下の名城といわれた高取城の山坂を縦隊でのぼらせた。当然の敗北である。 その坊主は、潰走する敗軍のなかで、 士「こんな馬鹿な戦さはない。主脳部は戦さを知らなすぎる。ああいう主脳部と、大事は共にできぬ」 ののし 夷とさんざん罵り、そのまま敗軍にまぎれて大和から姿をくらましてしまった。 の大事とは、攘夷である。新政府を樹立して横浜、下田、長崎などの開港場にいる外国人を武力 最 で神州の地からおつばらうことであった。この勤王攘夷こそ天誅組の眼目であり、この坊主の強 5 烈な主義であり、同時に、この顕助らの高野山義挙の眼目でもあった。

3. 幕末

206 行ったのだという。太兵衛のロぶりがいくぶん不満そうだったのは、この無縁の男にさえ、綾 子に対する岡焼きの気持があったのだろう。 「意外に貞女だったのだな」 「いや、左様やおへん。甥の多美麿との不義が、すでに町内のうわさになっておりましたゆえ、 ほんね いたたまれずに大和へくだったというのがどうやら本音らしゅうござります」 「綾子は、、 しつ発ちましたか」 「もうひと月も前やと申します。 なんや、間崎さん、どこへお行きなはる」 馬之助はすでに刀をとって立ちあがっていた。 「大和へ行く」 長州からの旅装のままとびだし、途中、長州屋敷のそばまできて、知りあいの藩士をよびだし、 心当りの者十人ばかりの在否をきいた。いずれも脱藩者ばかりで、平素藩邸の長屋でごろごろし ている連中である。 あまおか そのうち、七、八人の者は在洛していることはわかったが、大楽源太郎、神山進一郎、天岡忠 蔵の三人だけは欠けていた。 「どこへ行ったのだろう」 「よくは知らぬが、土州の者と大和へ遊説にゆくと申していたようだ」 「もう半月も前になる」 だいらく

4. 幕末

かれらは直接内山、は来す、ます堺〈まわ 0 て大和屋徳次をおどし、駕籠と手代ひとりを出さ せ、大和屋の使いであるとして為恭をおびき出そうとした。 この詐謀は図にあた「た。為恭はうたがわすに、差しむけの駕籠に乗り、村をはずれたころに は日ざしのこころよさに居眠りをはじめたという。大和内山から堺まではざ「と八里ある。為恭 にすれば、雲雀の声をききつつうとうとするうちに堺へつけるとおも「たのだろう。 かや 永久寺からわすか十丁ばかり行 0 たところに、鍵屋ノ辻というのがある。隣国の伊賀にも同名 の辻があ「て渡辺数馬、荒木又右衛門らの仇討で有名だが、大和の鍵屋ノ辻も血なまぐさい事件 を一お , 、した。ときに、 元治元年五月五日である。 為恭は駕籠のなかで眠り入ったばかりであった。 長州浪士大楽源太郎、神山進一郎、天岡忠蔵の三人は、辻の東がわにある小さな石地蔵のの かげで待ち伏せていた。前夜来から腹痛をおこした神山が痛みにたえかねてしやがんだとき、街 道のむこうから駕籠のくるのがみえた。 二人が駈け出し、神山がすこし遅れた。駕籠舁きが仰天して駕籠をなげだしたとき、にわかに 眼のさめた為恭が、 堺か」 首をつき出したとたん、大楽のふりおろした一刀でコロリと路上に落ちた。 為恭の首は、どういう理由からか、翌六日大坂御堂前の石燈籠の火袋のなかに押しこまれ、そ

5. 幕末

430 その日のうちに、本町橋の西町奉行所へ駈けつけて一部始終を話した。 なにしろ将軍が大坂在城中のことだから奉行所でも神経をとがらせ、すぐ大坂城代松平伊豆守 の公用人まで伺いを立てると、事がひどく重大になってきた。 じようばん 「定番の諸兵を動かそう」 この役には、定法として譜代の小諸侯があてられている。当時は、大和櫛羅一万石の永井信濃 守、大和柳生一万石の柳生但馬守、大和柳本一万石の織田筑前守で、この三藩の兵が松屋町筋ま わりを厳重に警戒することになった。 討入りは、新選組の万太郎狐。 幕府というのは万事先例主義だから、去年の夏京都三条の池田屋のときも、諸藩の藩兵、町奉 行所の人数が遠巻きをし、新選組が斬りこんだ。 「ぜひ、拙者の手で」 と、万太郎狐が申し出たためでもあった。またとない功名の機会である。新選組にはまだ名義 のみの加盟だが、しし 、よ、よ入隊のばあいの絶好な手みやげになろう。 むろん、奉行所の飛脚を借りて、京都の屯営には、局長近藤勇あて手紙を送り、「火急のこと とりあえず もうすべくそうろう ゆえ不取敢、拙者の門弟のみで討込み可申候」と報らせた。 その夜から、万太郎狐は火のついたようにいそがしくなった。 門弟、とは聞えがいいが、例の苗字ももたぬ大坂町人ばかりで、刀の使いかたも知らす、刀ら しいものを持っていなかった。 くしら

6. 幕末

「さよか。まろは湖かと思、ったで」 と何度も感心した。公卿というのは京から一歩も出ないから、これほど世間というものを知ら ない。こういう公卿が総督で、しかも軍略を知らぬ自分が隊長 ( 職名は参謀 ) だから、さきざきど うなるかとおもった。 ( 軍師がほしい ) とおもった。兵はいまでこそ四十数人だが、大和十津川の郷士によびかければ、たちどころに 何百人かになるであろう。 が、軍は頭脳で動く。軍略家が必要であった。さがそうとおもった。 こんこういん 高野山では金光院を本陣とし、四方に募兵した。大和十津川郷には、とくに別勅をくだしたた め、七百人が参加し、総勢八百人という大部隊になった。 紀州徳川藩では、戦略的には和歌山城の頭上にあたる高野山に、にわかに「勅命軍」が湧くよ うにあらわれたため一驚し、とりあえす重臣伊達五郎を使者に立て、千両箱一つを「御軍資金の 土足しにも」と持ってきた。まったく無銭旅行同然で高野山にのばってきた浪人隊だったから、顕 夷助らははっと一息つき、鷲尾卿などは、 の「これで勝ったようなものやな」 最 とよろこんだ。兵も集まり、金もできた。あとは、作戦家である。 「、い工夫はないか」

7. 幕末

28 冷泉祈り の下に長文の天誅状がはり出されてあった。 しかし首よりも胴のほうがも 0 とみじめだ 0 た。為恭遭難の鍵屋ノ辻は、植村藩領の永原村と 伊勢藤堂藩の大和における飛地である三昧田村との境界地だ 0 たため、両村の村役人はたがいに 責任を避けてひきとらす、三日も野ざらしのままだ 0 たという。 綾子は、その後尼にな「たともいい、大和屋徳次の手代の妻にな 0 たともいわれる。

8. 幕末

444 と、水戸浪士で、顕助と相役をつとめている香川敬三 ( のち伯爵・皇后宮大夫 ) に相談した。香川 は幕末の一部の志士から「品性劣等」と悪罵されるような面のある男だが、早くから風雲のなか を流転してきた男だけに、諸方の人物をよく知っている。 「妙な坊主がいる」 。学問がある。国学者であり、和歌がうまい。軍書にも明るい。しかも、熱狂的な攘 夷論者だ、と香川はいう。 「この坊主を連れ出そうではないか」 「学者か」 顕助は、眼をかがやかせた。顕助には学問というはどのものはない。 は戦さは動かせぬであろう。 「〉ての占 ~ はど、つじゃ ? ・」 「いや、この男は戦さができる」 「須は ? ・」 じようしよう 「浄尚、と申したかな」 大坂にいる。門徒坊主である。大坂きっての東本願寺派の大寺である願教寺に寄寓していると そうのしものこおりしいのき いう。もとは大和添下郡椎木村浄蓮寺という村寺のうまれである。年のころは顕助より五つば 、か . り・ト ~ にレ」い、つ。 「なんだ、そいつは」 しかし学者というだけで

9. 幕末

「左様」 鎌次郎が、老婆のうしろ三歩まできたとき馬之助はいきなり、 「米田ーーー」 と低い声でよんだ。人斬り鎌次郎は、はっと刀のツカに手をかけた。その刀が半ば鞘からすべ るのと、馬之助の体が老婆の背を跳びこえるのと同時だった。米田鎌次郎の刀が鞘から地上にす べり落ち、額が、鼻さきまで真二つに割れた。 間崎馬之助が長州での所用をはたし、ふたたび京の鞍馬ロ餅屋太兵衛のもとにもどったのは、 五月のはじめであった。 太兵衛に留守中の京の様子をきくと、冷泉為恭の所在がわかったという。 「あの男、まだ生きていたのか」 正直なところ、厄介な男だとおもった。数カ月前に病死したといううわさをきいたときは、荷 、しこ。しかし生きているとなれば、たれかがこの男を殺さねばならないだ がおりたような思いがオ ろう。 うちゃま 太兵衛のはなしでは、為恭は堺から、大和に移り、内山の永久寺という寺にかくまわれている りという。かれの所在が京にきこえたのは、為恭が綾子をよびよせる手紙を送ったことから知れた 泉というのである。 冷「それで、女は行きましたか」 「へい、それが」 加

10. 幕末

( 手おくれかも知れぬ ) 馬之助は、奈良街道をくだ 0 た。途中道をいそぎながら、何度も、 ( 妙だな ) と首をかしげた。なんのために大和内山の為恭を訪ねてゆくのか、われながらよくわか 0 た。 馬之助には為恭を殺す気持はと「くになくな 0 ている。かとい 0 て、仲間の手からかれを救いだ すつもりも毛頭なかった。とすれば、 けそう ( おれは、綾子に懸想しているのではないか ) 、つめれば、綾子 馬之助は、愕然とした。こんどの大和くだりの目的も、手きびしく自分に問し をもうひと目でも見たいという欲望につなが「ていそうな思いがする。 大和内山についたとき、田に出ている百姓のひとりをつかまえて、為恭の安否をたずねた。し かし為恭の名をきくと、百姓は顔色をかえ、そのことなら村役人か住持に訊け、と追うように手 をふ 0 た。住持は亮珍という老僧で、馬之助がさしだした「近藤家家来平野真蔵」という名札を 手もなく信用し、 「身寄りのお方でござるか」 とたすね、馬之助がそうだと答えると、 泉「むざんなことであった」 冷となみだをこばした。 かんけっ 住持のはなしによると、尊攘党の浪士たちは、じつに奸譎な手をもちいた。