ちょうそか・ヘざむらい はおもっておらず、長曾我部侍である、と思っていた。こういう藩はほかにない。 かずとよ もともと山内家というのは、他国者である。藩祖山内一豊が関ヶ原の功名で遠州掛川六万石の 小身から一挙に土佐一国を与えられたもので、藩祖一豊が本土からつれてきた連中の子孫が、す べて藩の顕職につく 長曾我部家の遺臣群は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上 と早 - ま 士から「外様」として蔑視されている。 藩祖入国のころは、かれらはしばしば叛乱をおこし、討伐されたが、最後には、浦戸湾の浜で だいとさっ いちりようぐそく わなを設けて大屠殺されたという史実がある。山内家から、国中の郷士 ( 当時、一領具足とよばれた ) ふれ に布令がまわり、相撲の大試合をするというのであった。カ自慢の連中が、二日、三日の行程を かけて浦戸の浜にあつまってきたが、山内家ではその周囲に鉄砲隊を伏せ、一斉に射撃した。水 中に逃げる者は、舟の上から槍で突き殺した。このとき殺された者は千人を越えた。 その後、郷士どもは怖れておとなしくなったが、 憎悪だけが残った。いま、幕権がゆらぎはじ めるとともに、その家系の連中が、 「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」 とさわぎはじめるのは当然であった。 ( それだけのことだ ) 弥太郎は、冷たい眼でかれらをみている。 むりはなかった。岩崎家は、おなじ在郷の出ながら、先祖がめずらしく長曾我部家の遺臣では 0
「いやいや、ひが目やごわへん。村正どす」 村正は徳川将軍家の家祖家康の前後数代にわたってしばしば不吉な事故をおこし、諸侯でさえ 徳川家に遠慮をして所蔵していない。 あだ ただし、徳川家に仇をなそうとする者はことさらに村正を帯びたという故実がある。大坂の陣 の豊臣方の軍師真田幸村などがそうであったし、木村重成も冬ノ陣の講和使節に立っときにはわ ざと村正の脇差を用いたという。 河内介の村正佩用このかた、尊攘の志士はあらそって村正をもとめ、のちに西郷隆盛でさえ村 正の短刀を身につけていた 9 「清河はん、奇琿じゃ。わしの村正で徳川家を討ち、あんさんの七星剣によ「て王権を復活させ る。奇瑞やおへんか」 「奇瑞ですな」 しの、、 清河は、なおもその村正を凝視した。物打ちから一寸ばかりあがった鎬にきすがある。本に よればこの場所のきすは凶穴といい不慮に命を失うという。 「このきず」 「ああ、そのきす」 河内介も気づいている。 やくたい 「なんの益体もないこっちゃ。たとえわが身は凶運に堕ちょうとも、奸賊徳川氏を倒すことがで きれば、男子の本懐どす」
井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、 国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであ 「たからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなか「た。だから、この大獄は攘夷主義者 がいこくがかり への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の 幕吏を免黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の万槍主義に復活させているほどの病 的な保守主義者である。 むちょっきょ この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想 の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上 の対象者である。 とにかく井伊の弾圧には、政見というものはない。多少根拠のある妄想からきている。かれは 水戸斉昭の政治的容喙をきらい、憎悪し、ついには斉昭に幕政乗取りの大陰謀ありと見、水戸支 持の公卿、諸侯、志士をその陰謀加担者とみて弾圧した。いわば一徳川家の家政の私的な問題を、 国家の問題として、これだけの大事をひきおこし、なおおこしつつある人物である。 「ただ、無智、頑癖、それだけの男が強権をにぎっている。狂人が刃物をふるっているにひとし と、佐野竹之助はいった。この「暴悪」を停止させる力は、井伊自身による独裁政治の治下で もはやその人物を殺す以外にかれの暴走を停止させる手がないであろう。 はどこにもない。
「今夜は、蒸す」 このとき清河がこうつぶやいたことまで、おどろくべきことに幕吏の耳にちゃんと入っている。 ふう 清河は例の七星剣を枕もとに置き、帯を解いた。やがて素裸になった。出羽の風である。 そのころ床下で幕府の偵吏が這いずっていることは、清河ほどの男でも気づかなかった。 みなとがわ というのは、清河屋敷の裏は、湊川という当時知られた力士の家と背合せになっている。幕吏 はすでに一月ほど前から湊川の家から地下道を掘りぬいて鑿道を清河屋敷の土蔵の下まで通じて いた。浪士らとの密会は常に筒抜けである。この事実は、明冶になって故老のはなしから明るみ むろん当時の清河は、夢にも知らない。 なにぶん大老井伊が、昨春殺されている。つぎは老中安藤の暗殺だといううわさが、江戸では ひつけとうぞくあらため 高かった。その策源地の一つが清河屋敷の土蔵であることは、すでに火付盗賊改渡辺源蔵の手 もとで知られており、手先がいちいち盗み聴きしては出入りの浪士の名簿をつくり、日ならずし いちもうだじん て一網打尽にする手はずをきめていた。 この夜、湊川の家では、渡辺源蔵みずから出役していた。 日没後、水戸の過激浪士が数人清河屋敷にあつまる。 という情報があったからである。 こぶしんぐみ へやずみたださぶろう しかし清河は手ごわい、というので、とくに源蔵は、小普請組七百石佐々木家の部屋住唯三郎 みまわりぐみ という男に加勢をたのみ湊川の家にひかえさせていた。佐々木唯三郎は、のちに京都見廻組組頭
った。新選組の探索方で、米田鎌次郎という男である。人斬り鎌次郎といわれ、神道無念流の使 い手で、この男に殺された尊攘浪士の数は、五人や六人ではなかった。 ( 鎌次郎が、付け人になっているのか ) 二人は、馬之助とすれちがった。鎌次郎はチラリと馬之助をみたが、気づかない様子だった。 その日の夜陰、馬之助は、雅楽寮の楽人多備前守の屋敷の塀を乗り越えた。 武家屋敷とはちがい、ほとんど無防備にちかい家で、そのまま庭を横切って、冷泉家との境界 の塀をやすやすと越えることができた。 時は、亥ノ刻をすこしまわったころおいで、月はなかった。家々の灯は、とっくに消えている。 ところが、庭からみると、冷泉家の雨戸だけは、かすかに灯が洩れており、人が起きている気配 かわや 馬之助は、厠のそばまで近づいた。目の前に、船形の大石を据えたツグパイがあり、そのむこ うに縁側がある。いまにたれかが手洗いに立ってくるだろうと、気ながに待った。 きようこっ やがて、奥のほうで女の笑う声がした。軽忽なはどの高調子だった。半刻も待つほどに、手燭 の明りがゆらゆらと近づいてきた。 ほどなく縁側がにわかに明るくなり、男女があらわれた。女が手燭をもち、男の足もとを照ら していた。為恭か、と思って凝視すると、ひどく若い男だった。公卿まげと着ながしの白い小袖 が、長州そだちの馬之助の眼には異風にみえた。 「あぶのうおすえ」
285 逃げの小五郎 城 中 と 市 ・が方 と昌 あ と そ ぐ寺 で れ堀住て 丈 の 、中 だ妻 . は ら 田職会に後 但 に ' 人い 、か寺 か は 。釈通 、馬出 柄 答 い ら に 石 さ数ぶ石 多 ) も る き ん で り 川 通 い妙 を のせ れ 日 だ て 仁光ず る し カ ; 、ろ の たな て無流て と ・気、 の居 つ はに っ 置 退 、堀愛 は候身 れ ーこ い い 室 田 い る も ま 半な川 し た と て ま 左 の 但 山 め の る で 々両馬な し ま住 門 が側 出力 で っ持 に石 は あ あ と 昌 た る 町 と た る . 硺だ 家し 0 ( ト う堀 そ寺け そ の 農 ひ に の 田 の 家 は半 そ出町 と せ : 生 が仙ん 尸 か で き あ入石 ~ 衛 で け 舌た 家け門 り る 田 し て住昌 じ万但を 左 い持念り 馬ま 衛 が寺な千出 た 門 町 が石石し 、は は 人 3 碁町 の藩 ら 体が のち の にいた東ま下槍 っ き 北 で術 ち く だ 尸師 に ま と数範 あ っ か 役 た ら る か は 男 で 。オこ ギで が あ 並る り と 五 ち 戸石 あ あ が と は 家 り 1 = 一口
ているかもしれぬ。ちょっとみてきます」 「この夜分に。 大利がちょっと表情を曇らせたのは、すでに顕助とお光の関係に気づいていて、顕助がなにを しにゆくかがわかったのだろう。 大利鼎吉がお光とどの程度のかかわりであったかは今となってはわからないが、すぐこの男特 有の澄んだ表情にもどって、 「ではお光さんにこれをあげてくれないか」 うどし と、こより細工の兎を渡した。お光は卯年うまれなのである。 「すぐ戻ります」 この夜は、あいにく橋本鉄猪、池大六は河内久宝寺の庄屋飯島家に義挙の相談に行っており、 那須盛馬も外出中であった。本多家の屋根の下にいるのは、町人姿の本多大内蔵とその母お静、 妻おれん、それに、大利鼎吉の四人である。大利はひとり、二階にしオ やがて二史の鐘がきこえたが、大利鼎吉はまだ寝につかず、差料の手入れをしていた。この刀 は、天訣組の大将であった侍従中山忠光が佩用していた半太刀で、銘不詳、こしらえはめずらし 打く太刀造りである。 城そのとき、家鳴りがするのと、雨戸を打ち破る音がしたのと同時であった。 浪 ( 来たっ ) にいたこの家の当主元武者小路家の公家侍本多大内蔵は、 と大利が立ちあがったときは、階下
果して、・お静はそのことをきりだした。雄助は、右の理由でことわり、 「冶左衛門、どうか」 とばなし ときいた。治左衛門は突然のことで、お伽話でもきくような遠い気持がしてしばらくばんやり - っ・つよ・、 していたが、すぐ、自分のことだと気づき、狼した。 「こ、こまります。明朝は命はないというのに、婿などにはなれませぬ」 せふ ここで、大久保利通日記を藉りよう。「母儀云ふ、妾、婦人の身といへども粗そその故をしか りといへども亡父の霊夢の訳もこれあり」 霊夢、とは、ある夜、亡父日下部伊三次が娘松子の枕頭に立ち、「治左衛門を養子としそなた めあわ に娶せん」といったというのである。 霊夢というものが存在するものかどうかは別として、松子はハ夢にみるほど治左衛門のことを ひそかに想っていたことは確かであろう。 また、日下部家は、当主を失ってもなお薩摩藩に臣籍をもっから、家中の士を養子にすれば、 家、名、家禄は存続できるのである。薩人との養子縁組は日下部家にとって当然の利益なのだが、 かといってわざわざ明日死ぬ者を婿にするとはどういうことであろう。 「婿にするなら、むしろそういう人をぜひ」 という、い境になったのは、ここ一年、この母子は、井伊への復讐斬奸の密謀の渦中に身をおき すぎ、異常に感傷的になっていたにちがいない。 さらに大久保の簡潔な文意を借用すると、 「ぜひその主意を達するまでに候」 む - 一 ちんと、フ およ
ことどす」 あやこ いい、男山八幡宮の社家新善法寺家のむすめで、京 太兵衛のはなしでは、為恭の内儀は綾子と 洛随一の容色であるという。御所の後宮にも、公卿の姫にも、綾子ほどうつくしい女はいなかっ 太兵衛のいうのは、綾子の容色がうわさに出るときに、その亭主として為恭の名が出る程度 だというのである。 「小柄で、おとなしいおひとでござりましてな。おロ数のすくないおひとで、あまり外へお出ま しになりまへぬ」 数日たって折りよく冷泉家から女正月のための餅の注文があったので、馬之助がとどけにゆく ことになった。 勝手口から入ると、下女が出てきて餅をうけとった。 この日はそれだけのことで、為恭の姿をみることができなかった。しかし馬之助は失望せす、 おおのけ 邸内の構造をすばやく読みとり、庭の西側の低い塀が、となりの多家の庭に接していることに気 づき、忍び入るには隣家から入れば容易だろう、とおもった。 その翌日、冷泉家の前を通りかかると、為恭が出てきた。 ( この男か ) 拍子ぬけするはど貧相な四十男であった。はやりの黒縮緬の無紋の羽織に細身の大小をさし、 毛の薄いあたまに諸大夫まげをのせていた。 しかし為恭のあとからもう一人、背の高い男が出てきたとき、馬之助の顔が、おもわずこわば
346 ただつぐ 余談だが、塙次郎の子が、塙忠韶である。すでにこのとき三十一歳で、父の横死後家禄を継ぎ 和学講談所付を命ぜられた。祖父、父同様、歴とした幕臣である。 ところが維新後、忠韶は幕臣、かつ「奸賊」の子でありながら明治政府から召し出され、大学 そぜいりよう 少助教に任ぜられている。さらに文部少助教となり、ついで租税寮十二等出仕、修史局御用掛な どを歴任した。はじめ、何者がそのように優遇するのか、忠韶は不可解であったろう。 忠韶は、明治十六年五十二歳で官を辞めた。ついで、家督も長子忠雄にゆずり、隠退した。あ るいはこのころ、父を殺した下手人が何者であるかを知ったのではないか。 この稿を書くにあたって筆者は、忠韶の心境を察しうる材料をさがそうとした。その家系が、 東京都内に現存しているらしいということもきいた。なにしろ忠韶は長命で、八十七歳まで生き、 大正七年九月十一日に病没している。・塙家には、云いったえがあるであろう。が、その塙家の所 在をさがしえぬままに、 この稿を書いてしまった。 伊藤博文は晩年、この事件につき、大磯の別邸で前記中原邦平 ( 毛利公爵家家史編輯主任 ) にこ う語っている。「あのとき、わが輩は実に危うかった。というのは、わが輩の衣類に血がっ ておった。その血のついたままで、幕府の偵吏の前を通りぬけたのであるから、もしその節に 捕縛せられたならば、その血痕が証拠となって、ついに罪をまぬがれることができなかったで あろうが、幸いにしてまぬがれた」 れつき