渋沢遁走後、事情は天野派に好転した。幕府そのものが、彰義隊の面倒をみはじめたのである。 幕府は、統制上、家格の高い幕臣を頭目にすえることにきめ、頭、という最高首脳には小田井 蔵太、池田大隅守を据え、頭並、として、天野八郎、菅沼三五郎、春日左衛門、川村敬三。その ほか、頭取、頭取並、さらに組頭格の会計掛、器械掛、本営詰、兵隊組頭 ( 一番から十八番隊まで ) 、 天王寺詰、真完詰、万字隊取締、神木取締、などの幹部職制ができ、堂々たる陣容にな 0 た。 このほか、彰義隊頭の指揮下に入るものとして、砲兵隊、純忠隊、臥童隊、旭隊、松石隊、浩 気隊、水心隊、高勝隊などが付属せしめられた。 俸禄俸給も、幕府から出ることになった。 天野八郎が国もとの実兄大助のもとにや 0 た手紙を口語に訳すると、「ちかごろは金には困 0 ていません。ただいまのところ、頭は千石、頭並は四百俵」とある。平隊士でさえ、「支度金五 両、戦争中は、日当十両」という景気であった。 遊興には、十分すぎるほどの俸給である。 このため吉原の妓楼は、空前のにぎわいをみせた。 寺沢新太郎、明治後の正明は、こう語っている。 きせる 彰義隊士が現はれると、助六ではないが、それはそれは、あちらからもこちらからも、煙管 よそお の雨が降るやうだ。 ( 遊女どもは ) あたまに隊名「彰義」にちなんだ将棋駒のかんざしをさし、見るもまばゆき粧
376 むろん、云いがかりである。天野が必死になって弁駁すると、渋沢は鼻でわらい、 たもと 「では、天野さん、袂をわかつまでですな」 としオ 天野は、やむなく隊士一同をあつめ、 「自分の意見に御賛同のむきは、上野寛永寺にあつまってもらいたい」 と説くと、なんと半数しか賛成者がなかった。天野も渋沢の政治力にはかなわなかった。あら かじめ隊士に金銀をまいて下工作をしてあったのである。 彰義隊は、ふたつできた。 天野派彰義隊は、上野寛永寺山内。 渋沢派彰義隊は、浅草東本願寺別院。 。渋沢は例の政治力で幕閣の要人を説き、幕府の府庫や一 ところが渋沢派のほうが景気がいし 橋家からしきりと金を流させたから、天野派から渋沢派へ走る者がしだいにふえ、ついに寺沢新 太郎の八番隊とあと十数人という貧弱なものになった。 「幕府もしまいだね。こう同志が金で動くようじゃ」 天野八郎も、さすがにさじを投げたかたちだった。 天野はよほど腹がたったのか、「新さん、幕臣がこう金にきたなくちゃ、薩長の田舎者に負け というので出陣を るはすだよ。先年の長州征伐のときなんざ、旗本八万騎が、お手当がでない、 しぶった。あのとき身ぜにを切ってでも幕兵がどんどん出てりやア、長川はけっこう叩きつぶさ べんばく
をどんどん積んでは運びだした。 そのうち、大手門を打ちゃぶって、新選組と伝習隊がなだれ込み、一人の伝習隊が機敏に天守 台へあがって一番乗りの隊旗をかかげた。 事実先登したわが彰義隊は、隊長金蔵行きのために旗をたてる機会をうしなった。 ( 寺沢翁 直話 ) このあと、渋沢は、妓楼「松川屋」を買いきり、腹心とともに連夜大騒ぎをし、その間新太郎 らが斬り込むのだが、このときも渋沢はすばやく蔵の中へにげこんで、一命をたすかった。 そうとう それより二日後、熊石に拠る松前藩の残兵掃蕩のために総軍出陣したが、旧天野派の彰義隊全 員が、 「渋沢を隊長に戴けない」 といって出陣を拒否し、ついド闘に参加しなかった。 榎本軍は、明治二年五月十八日、官軍に降伏。その降伏の寸前まで、渋沢派は、「旧天野派は、 日曜日に出陣しても賃銀は貰えぬから、といって出陣を拒否した」といい 、旧天野派は「城を取 るより金蔵に駈けこむような連中と戦さはできぬ」といって紛争し、榎本はこの旧幕臣団の始末 用 算に頭をかかえこんだ。 隊 義 彰 寺沢新 ( 個 ) 太郎、維新後正明ーーー一時、旧幕臣とともに静岡に居住していたが、榎本武揚の 新政府入りで引きたてられて官途につき、北海道開拓使出仕を手はじめに、太政官、内務、逓
何が「天野の志」か。 しゃべっている新太郎もわからねば、渋沢もむろんわからなかったろう。ところが、渋沢の勢 力はわすか三十五人、新太郎側は二百余人である。ここは、わけはわからすともとにかく甲板に 頭をこすりつけておくが勝ち、とおもったのだろう。 えぞち わしき やがて、秋十月二十日、蝦夷地の鷲ノ木港上陸。 - 一りようかくせんきょ 同二十五日、五稜郭占拠。 十一月五日、松前藩の居城福山城攻撃。 福山城は、前に幅三十間の川をめぐらし、背後に山を負っている。 城主松前徳広をはじめ主だつ重臣はすでに落ちのびていたが、それでもわすかな守兵が、城内 と、川のむこう岸に銃陣を布いて待っていた。 榎本軍は、旧陸軍奉行松本太郎を攻城軍司令官とし、フランス海軍士官カズノフが実戦指導に しようはうたい あたり、新選組、彰義隊、衝鋒隊、エ兵隊、砲兵隊、伝習隊、仙台額兵隊、それに高田、豊橋、 用 算長崎、桑名、会津各藩の脱士隊が、 月↓む力い、むらがり突入した。 隊自然、諸隊、競争になった。 彰「彰義隊、進め」 新太郎は、河中で流れと闘いながら、一番乗りをすべく、必死になって怒号した。敵は薩長で
馬糞の上であろうと備中は容赦せず、ころぶのをためらう者があると、靴で蹴った。こういう制 あしげ 裁法もフランス直輸入なのだが、武士を足蹴にかけることは、幕臣の誇りにかけてゆるされない。 「天誅、天誅」 と、新太郎配下の彰義隊、備中の訓練をうけた者十人ともども駿河台の屋敷におしかけ、邸内 を逃げまどう備中守を追いかけて殺してしまっている。幕末暗殺史上、大平備中守ほどあわれな 被害者はなかったであろう。政治上、思想上のどういうことともかかわりなかった。もっともこ の討入りで彰義隊のほうでも、討死一名を出している。内田安次郎という人物で、備中守のビス トルで撃たれた。 そんなことで日を消しているうち、歓楽と狂躁の尽きるときがきた。 五月十五日払暁、天野八郎は山の下の市街を巡視するために、馬上、広小路から山下道根岸ま きりどおし で行ったときに、本郷切通あたりで砲声一発がきこえ、馬頭をめぐらして天王寺まで馳せもどっ はた たときすでに七発、池ノ端まで帰ったときには、穴稲荷の付近で小銃戦がはじまっていた。 官軍の第一線は薩摩、長州、肥後、因州、芸川、肥前、筑後、大村、佐土原、館林。第二線は こがおし せきやど 備前、 伊予、尾州、阿波。第三線は紀州、 小田原などの兵を、遠く、古河、忍、川越、関宿あた 用 とえはたえ 算りまで点々と布陣させ、彰義隊の気づかぬまに、上野一山を文字どおり十重二十重にかこんでい 隊 ) 0 義 彰 この日、雲が低い。 夜来の雨が、夜あけとともにはげしくなり、実のところ戦さどころではなかった。
用 算 胸 隊 義 彰「そいつは縁起がいし」 と、伍長の笠間金八郎が、はねあがってよろこんだ。 「寺沢君、これが幕臣だよ」 天野は吐きすてるようにいったが、すぐこの機敏な男は、その足で登城し、殿中で渋沢の行状 をのこらす言とした。 りんのうじのみや 自然、彰義隊正統は天野の手に落ち、輪王寺宮御守護という名目で、上野の各坊を割いて隊士 を分屯することをゆるされた。 「これで大丈夫だ」 と、天野は晴ればれと笑ったが、ところが妙なことに毎日のように隊士が、一人消え、二人消 えして減ってゆく。 「渋沢の手が動いている」 と、天野はみた。 探索してみると、案の定、渋沢は、入谷にある輪王寺宮奥家老奥野左京の屋敷に潜伏し、しき りと上野の隊士を金で釣ってはひきよせ、再挙をはかっている様子だった。 「もはや、化物退治をやるより手がない」 天野はついに決心し、新太郎の八番隊に左京屋敷の討入りを命じた。
375 彰義隊胸算用 数日たった二月二十三日、浅草の東本願寺別院で、彰義隊結成式をあげた。官軍の手前をはば かって、表むきは、 「尊王恭順有志会」 という擬装した名をつけるが、要するに薩長を討って徳川家の冤罪をそそごうという武装団体 であった。 この日、会盟者は、百三十名。数日たっと五百名になった。 隊の組織も、できた。総勢を五十人単位に区分し、十番隊までつくった。寺沢新太郎は、抜擢 されて八番隊副長 ( ほどなく隊長 ) になった。御膳所役人にすぎなかった以前の身分からすれば、 わるい気持はしない。 八番隊五十二名。 天野は利ロである。この隊だけはひとりのこらず、入隊前に天野八郎と縁のあった者ばかり集 めており、天野の私兵といってよかった。いずれ渋沢派をたおす中核兵力になるだろう。 その気配は、渋沢派も察したらしい。連中はほとんど、一橋家の家臣である。 「天野君、、つ ' ) 、彡 しオし ) 早義隊の目的をどこにおくつもりです」 と、ある日、会頭の渋沢成一郎は、わかりきったことを談じこんできた。 天野が、円応寺会議での結論をいうと、 「それア、おかしい。われわれは主人慶喜公の御一 - 身をお護りするために加盟したので、徳川宗 家の安泰とか、薩長官賊の討滅とか、そんな大それた話冫。 こよ応じられませんよ」 えんざい
れ、幕府もこんな事態にならすにすんだんだ。その金のわるさが、土壇場になってもなおらな 。三河武士も、三百年御府内の水で洗われるとこんなぐあいになるのかねえ」 「酷だ、天野さん、それは。渋沢がわるいんだ。あいつ一流のやり方で、金でつらを張るような ことをしやがるから、みなそっちへゆく。彰義隊の隊士と云や、吉原でも大そうなもてかたです。 若いから知らす知らす金の出るほうへ行きますよ」 「知らす知らず ? ー、ー新さん」 天野の云いかたが、上州人らしく、ついあざとくなった。 「きくがね、新さん、まさか、連中、遊興するために彰義隊に入ったのではあるまい」 ( そんな野郎もいるにはいる ) 新太郎は肚のなかでおもったが、これ以上こんな野暮な論議をつづけているよりも、渋沢派に 負けす、器用にこっちも金をあつめることだとおもった。金を勢いよく撒けば、天野派の同志も あつまることだろう。 「じつは、妙案がある」 と新太郎はいった 用 ちゅうぞうしょ 算幕府の金銀座を襲うのである。天下の貨幣鋳造所だから何十万という金はあろう。この金をお カ天野は、 隊さえれば勝負はこっちのものだ。と新太郎は勢いこんで提案した。ま、 彰「蕭玉先生もがらがわるくなった」 と、とりあわなかった。
彰義隊胸算用
ろがかんじんの山王台まできたとき後ろをふりむくと、たれもいなかった。天野はのち獄中で へいきゅうろく 「斃休録」という一文をかき、文中、「此時、我、徳川氏の柔極まるを知る」と歎息している。 彰義隊に、後半から加わったひとで、幕府の大目付をしていた大久保紀伊守という老人がいる。 天野が逃げまどう隊士をかき集めるために駈けまわっているのをよびとめ、 「私の死場所はないか」 と問うた。「されば黒門へ」と天野は手短かに答え、自分は頭並ながらも馬から降り、八発込 めの連発銃をかかえ、 「ご馬前に従います」 大久保老人は大いによろこび、付近にいる旗本約百人をあつめ、東照大権現、と大書した旗を かかげ、黒門へ進んだ。 たちうち ねうち そのとき黒門はすでに破られ、薩摩兵は立射、長州は臥射をくりかえしながら進んでくる。 「三河武士、進め」 と馬上、大久保老人が采配をふったとき、不幸にもひたいに銃丸があたって、どっとあおむけ 用 算ざまにころがり落ちた。 隊 息はある。 義 彰 天野が駈けよって抱きおこすと、たったいままで従っていた旗本百人は、煙のように消えてい 「斃休録」は憤慨している。 ) 0