「いやいや、ひが目やごわへん。村正どす」 村正は徳川将軍家の家祖家康の前後数代にわたってしばしば不吉な事故をおこし、諸侯でさえ 徳川家に遠慮をして所蔵していない。 あだ ただし、徳川家に仇をなそうとする者はことさらに村正を帯びたという故実がある。大坂の陣 の豊臣方の軍師真田幸村などがそうであったし、木村重成も冬ノ陣の講和使節に立っときにはわ ざと村正の脇差を用いたという。 河内介の村正佩用このかた、尊攘の志士はあらそって村正をもとめ、のちに西郷隆盛でさえ村 正の短刀を身につけていた 9 「清河はん、奇琿じゃ。わしの村正で徳川家を討ち、あんさんの七星剣によ「て王権を復活させ る。奇瑞やおへんか」 「奇瑞ですな」 しの、、 清河は、なおもその村正を凝視した。物打ちから一寸ばかりあがった鎬にきすがある。本に よればこの場所のきすは凶穴といい不慮に命を失うという。 「このきず」 「ああ、そのきす」 河内介も気づいている。 やくたい 「なんの益体もないこっちゃ。たとえわが身は凶運に堕ちょうとも、奸賊徳川氏を倒すことがで きれば、男子の本懐どす」
まされたのだろう。しかしなぜ、替玉をつかってまで、一国の参政をからかうのか。 「弥太郎」 「、な , んで′」ギ」いき 6 ーレよ、つ」 「そ、そいつ」 東洋の体がふるえてきた。 土佐では不世出の宰相といわれた吉田東洋は、ただ一つ性格に異常があった。短気である。 ちゅうげん 十八歳のとき、中間が東洋の命じたことをしなかったというのでカッとなり、刀をぬいた。気 ふふくづら がついたときには、中間の首が、その不服面のまま地上に落ちていた。東洋はこれを悔いて数年、 門を閉じて身を慎んだが、生来の性格というのはなおらない。 まだある。 東洋三十九歳のときだ。江戸鍛冶橋の土佐藩邸で藩主みずからが親戚すじの旗本をまねく酒宴 があった。東洋は当然接待役として出た。 よりあいせき 主賓は、旗本寄合席三千石の松下嘉兵衛である ( この同姓同名の人物は「太閤記」にも登場する。秀 吉が少年のころ仕えた今川家の家来で、秀吉は出世後、その子孫を大名にとりたて、家系は徳川初期まで残っ 雨た。のち領地を没収されて旗本として残され、嘉兵衛はその子孫である ) 。 しらふ の この嘉兵衛というのは素面では愚にもっかぬ小心者だが、酔うと気が大きくなり、にわかに立 佐 土ちあがった。居ならぶ土佐藩の重臣の頭をなでてまわり、 一望すれば実のない西瓜畑。たたけば、無能々々と音がする。
大庭は、おちついている。 うれ 「諸君と同じきを憂える悲歌の士のつもりでいる。京で討幕の素志をとげるために国表を脱藩し てきた。ます、おすわりあれ。大いに天下のことを論じようではないか」 大庭は、一同を鎮めたうえ浪士でもへきえきするほどの激論を展開しはじめた。議論もなかな かずのみやこうか か堂に入っている。折りから皇女和宮の降嫁事件で京の志士が湧きたっているときだったから、 大庭は畳をどんとたたき、 さんかん りようひんほふ 「三奸斬るべし、両嬪屠るべし」 などと論じた。それだけではない。徳川家こそ史上最大の賊臣であると説き、攘夷を断行する しオ芝居とは知りつつも徳川家を宗家とする会津側 ためにはまず幕府を倒さねばならぬ、と、つこ。 は、大庭の言葉に一同蒼白になったはどである。 「挈、 , つい、つ田刀た ) 」 と、島村衛吉はいった。 「そげなお人か。論するに足り申さ」 田中新兵衛はおどりあがってよろこんだ。性単純な男だ。当時の同志の評にある、「新兵衛、 血性、淡泊にして感激多し」。感激しては、政敵を斬る。 なかだち 竝田中新兵衛が、島村の媒介で、河原町の土州藩邸で「一色鮎蔵」こと大庭恭平と会うことにな 猿ったのは、文久二年十月のなかばである。 会った。
「京都の公卿の現実をご存じか。天下でもっとも腐敗しきった連中だ。政権をあの連中に渡すな どと、瑞山先生は正気で考えておられるのか。まさかと思うが」 さらに舌題を . 転じ、 「武士には恩義というものがある。わが山内家は、関ヶ原の功によって遠州掛川の小大名から土 佐一国を徳川家から拝領した。この事情は、関ヶ原で負けて減封された長州藩や、減封されぬま でも敗北の屈辱を負った薩摩藩とは、同日には論じられぬ。あの二藩はもともと徳川家へ怨みを 抱いて二百数十年をすごしてきたのだ。たまたま、こういう時勢になったから、にわかに尊王倒 幕などと申して報復しようとしている。わしは参政として、そういう連中には加担できぬ」 議論は数時間つづき、武市はついに座を蹴って立ちあがった。 東洋は勝った、と思った。が、議論に勝っことは同時に相手の名誉を奪うことだということを 東洋は知らない。・ 「そういう次第だ」 と、東洋は、弥太郎にいった。 弥太郎は、この男は殺される、とおもった。東洋の面上には、すでに死相がある。おそらく東 雨洋自身も気づかないそういうものが、玄関の物蔭にいた弥太郎の影におびえさせたのだろう。・ の 佐 五 武市が真蒼な顔で田淵町にもどったときは、門下の二、三十人が詰めていた。
井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、 国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであ 「たからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなか「た。だから、この大獄は攘夷主義者 がいこくがかり への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の 幕吏を免黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の万槍主義に復活させているほどの病 的な保守主義者である。 むちょっきょ この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想 の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上 の対象者である。 とにかく井伊の弾圧には、政見というものはない。多少根拠のある妄想からきている。かれは 水戸斉昭の政治的容喙をきらい、憎悪し、ついには斉昭に幕政乗取りの大陰謀ありと見、水戸支 持の公卿、諸侯、志士をその陰謀加担者とみて弾圧した。いわば一徳川家の家政の私的な問題を、 国家の問題として、これだけの大事をひきおこし、なおおこしつつある人物である。 「ただ、無智、頑癖、それだけの男が強権をにぎっている。狂人が刃物をふるっているにひとし と、佐野竹之助はいった。この「暴悪」を停止させる力は、井伊自身による独裁政治の治下で もはやその人物を殺す以外にかれの暴走を停止させる手がないであろう。 はどこにもない。
375 彰義隊胸算用 数日たった二月二十三日、浅草の東本願寺別院で、彰義隊結成式をあげた。官軍の手前をはば かって、表むきは、 「尊王恭順有志会」 という擬装した名をつけるが、要するに薩長を討って徳川家の冤罪をそそごうという武装団体 であった。 この日、会盟者は、百三十名。数日たっと五百名になった。 隊の組織も、できた。総勢を五十人単位に区分し、十番隊までつくった。寺沢新太郎は、抜擢 されて八番隊副長 ( ほどなく隊長 ) になった。御膳所役人にすぎなかった以前の身分からすれば、 わるい気持はしない。 八番隊五十二名。 天野は利ロである。この隊だけはひとりのこらず、入隊前に天野八郎と縁のあった者ばかり集 めており、天野の私兵といってよかった。いずれ渋沢派をたおす中核兵力になるだろう。 その気配は、渋沢派も察したらしい。連中はほとんど、一橋家の家臣である。 「天野君、、つ ' ) 、彡 しオし ) 早義隊の目的をどこにおくつもりです」 と、ある日、会頭の渋沢成一郎は、わかりきったことを談じこんできた。 天野が、円応寺会議での結論をいうと、 「それア、おかしい。われわれは主人慶喜公の御一 - 身をお護りするために加盟したので、徳川宗 家の安泰とか、薩長官賊の討滅とか、そんな大それた話冫。 こよ応じられませんよ」 えんざい
二月二十七日だったという。二条城東苑の老梅を一枝、三枝蓊が剪りとって、竹筒に活けた。 りつか ふづくえ 士かれは、立華の心得がある。花が、二輪だけひらいていた。その日、文机の上で筆をとり、しき てんさく 儿りと文字を添削していたが、やがて一首出来、朱雀と川上をよんだ。 の「風懐だよ」 最 と示した。 朱雀と川上の表情が緊張した。朱雀は歌人だけにたちどころに一首したため、三枝蓊にみせた。 けんかん しかし、新政府のいかなる顕官もかれを議論によって屈服させることはできなかったであろう。 なぜならば、顕官たちもまた、かっては熱烈な攘夷主義だったからである。その間、新政府は 「非攘夷主義」だった徳川氏を討伐すべく、錦旗を奉じた諸軍が、そくそく東下している。 一方、諸外国との外交を正式に開始すべく「新元首」の天皇が、各国公使を召見することに決 定した。 攘夷派の老公卿大原重徳などは、「されば攘夷は徳川を倒す口実にすぎなかったのか。天下の 志士に会わせる面の皮がない」とはげしく反対したが、押しきられた。 、各国公使の宿舎の宿割りまできまった。仏国は今出川の相国寺、英国は東山の知恩院、 といったぐあいである。 ししんでん 謁見の日は、二月三十日 ( 旧暦 ) 。場所は御所紫宸殿である。当時、明治帝十七歳。少年にすぎ よ、つこ。
から身をかくし、武州川越在の奥富村の百姓家を借りてひそんだ。 ところかま 「逃げたわけではない。みすから所構いになって役人の手数をはぶいてやっただけのことだ」 と、清河は相変らず堂々としていた。 事実、かれのまわりは相変らずにぎやかで、お蓮、伊牟田尚平、石坂周造、村上俊五郎、それ に清河の実弟斎藤熊三郎などが同居し、諸方の志士に対しても、 「清河は川越にあり」 と公然と報らせていた。川越は武蔵平野の中心にあり、徳川家が江戸を開府するまでのあいだ は、府中とならんで武州の国政の中心であったから、石坂らにも、 「どうだ、川越幕府と名づけるか」 などと冗談をいった。 が、幕府は甘くはない。 ある夜、清河がひそかに江戸小石川の高橋伊勢守 ( 泥舟 ) の家で山岡鉄太郎らと会合していると、 石坂周造が駈けこんできて、 「いかん、先生、川越は捕吏に踏みこまれたらしい」 すぐ人をやって調べさせると、お蓮と実弟熊三郎が捕縛され、すでに江戸へ引きたてられてい るとい、フ。 「ど、つなさる」 と石坂はいっこ。
「このまま高野山に滞陣していてはいたすらに軍功を京都の薩長土に独占させるようなものだ。 いそぎ大坂を急襲し、幕軍の混乱につけ入って大坂城を陥落せしむべし」 という勇壮な意見が多かった。 しゆったっ 「されば出立やな」 と、鷲尾卿がいったとき、軍議の席に入ってきた男がある。三枝蓊である。 「しょーレ」ほ、つ、がしし」 と、三枝がいった。 「京坂で幕軍が破れれば、逃げる路は、海路江戸か、紀州である。紀州徳川家を頼ってなだれこ んでくる人数はおそらく数千はあろうと思われる。あるいはそれらが和歌山城に籠城すればどう なる」 と、例の瞬きのすくない表情でいった。 きみとうげ 「義軍はよろしく紀見峠の嶮に拠って和歌山への流入軍をおさえることだ」 「なるほど」 士鷲尾卿はふかくうなすいた。正論である。 夷「道理や。三枝のいうとおり、田中、香川、すぐ兵を部署しなさい」 の「はっ 最 といったものの、参謀、監軍といった連中は顔色はなかった。 ( いやなやつだ )
「さよか。まろは湖かと思、ったで」 と何度も感心した。公卿というのは京から一歩も出ないから、これほど世間というものを知ら ない。こういう公卿が総督で、しかも軍略を知らぬ自分が隊長 ( 職名は参謀 ) だから、さきざきど うなるかとおもった。 ( 軍師がほしい ) とおもった。兵はいまでこそ四十数人だが、大和十津川の郷士によびかければ、たちどころに 何百人かになるであろう。 が、軍は頭脳で動く。軍略家が必要であった。さがそうとおもった。 こんこういん 高野山では金光院を本陣とし、四方に募兵した。大和十津川郷には、とくに別勅をくだしたた め、七百人が参加し、総勢八百人という大部隊になった。 紀州徳川藩では、戦略的には和歌山城の頭上にあたる高野山に、にわかに「勅命軍」が湧くよ うにあらわれたため一驚し、とりあえす重臣伊達五郎を使者に立て、千両箱一つを「御軍資金の 土足しにも」と持ってきた。まったく無銭旅行同然で高野山にのばってきた浪人隊だったから、顕 夷助らははっと一息つき、鷲尾卿などは、 の「これで勝ったようなものやな」 最 とよろこんだ。兵も集まり、金もできた。あとは、作戦家である。 「、い工夫はないか」