志士 - みる会図書館


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1. 幕末

「人数は ? 」 ひょうかん 「海援隊、陸援隊の残党のなかから剽悍決死の剣士数人をえらぶ」 「どなたと、どなたどす ? 」 「 ~ 宀疋だ。が、もっとも」 と、陸廛 ( はきつばりといっこ。 「一人だけはきまっている」 「どなた」 「大将のおれだ。おれが指揮をとる」 「陸奥さんが ? 」 お桂は、この男が海援隊でも文官だったことを知っている。 この二十四歳の青年は、紀州藩の上士伊達宗広の末子にうまれた。弱年のころ江戸で学問修行 をするうちに脱藩して京にのばり、諸藩の志士とっきあううちに坂本に見出され、海援隊結成と ともこ、ー」 洳量官兼隊長秘書のような役目についてきた。この閲歴からみても、剣に格別の心得が あるとは思えない。 「まあ、やってみるさ」 と陸奥は自分に云いきかせるようにうなすいた。この血の気の多い秀才は、自分の才能を愛し てくれた坂本に酬いるために、すでに死ぬ気になっている。 「そこで、あんたに頼みがある」

2. 幕末

おなじ土佐鍛冶久国なのである。 まん 「これア、刀同士が兄弟じゃ。お前さんとわしア、前世に契りがあるかも知れませんそ」 と坂本はいってくれた。 後家鞘は、この一言で参って、翌夜も坂本を旅館に訪ねた。 坂本は、しきりと天下の風雲を論じたが、後家鞘はそれに相槌を打ちながらも、そのあいま合 間に、自分の養家におけるつらさや、養父との折りあいの悪さを愚痴った。むろん彦六は、それ 以前もそれ以後も、そんな湿っぱい愚痴などは、肉親にも洩らしたことはないが、坂本とは、ふ しぎな男だった。それを訴えたくなるようなところが、この無邪気で豪快で、そのくせ策謀の好 きそうな土佐人にはあった。 「家など、捨ててしまえ」 さらに、 と坂本はい、、 「藩も捨てることだ。いすれ京都を中心に新しい武権が出来る。そのときは、藩を捨てた天下の ラ人がその武権に参加するのだ」 あお そう煽ったまま翌朝坂本は宇和島を発ち、ついに会っていない。 撃 襲幸い、とい、つカ 、、ほどなく家付の女房の安子が死に、彦六は元結掛町の実家に帰ったが、もは 町やトウの立った年頃で養子のあてがおいそれとない。そのうえ、隣国からのうわさで坂本が脱藩 花したと聞き、しやにむに彦六も脱藩して、大坂へ出てきたのである。 が、坂本は脱藩しても、すでに天下の名士で、薩長その他の志士との交遊もあり、むしろその

3. 幕末

326 姓は、養子に行って志道。 おおくらだゅう のち実家にもど 0 て井上。維新後は、名を馨と改めた。のちの大蔵大輔、外相、農商務相、内 相、蔵相を歴任して侯爵、元老の座にのばった男である。 れつき たオカ養家の志道家も、世禄二百二十石の家で、 実家の井上家も、長州藩では歴とした上士こ 0 こ。、、 しかも聞多自身、藩主敬親に可愛がられ、特別のお声がかりで小姓に召し出されていた。もんた という奇妙な名前も、敬親が可愛さのあまりつけてくれたものだ。 そこへゆくと、俊輔はみじめである。 さず うじも、素姓もない。維新後、総理大臣になり、公爵まで授けられたこの人物は、遠祖は鎌倉 期の名族河野・越智氏から出た、などと称したが、要するに長州藩領の百姓の子である。それも 田地持ちの百姓ではなく、熊毛郡束荷村から流れて萩で作男をしていた人物の子である。その点、 しゆっじ 戦国期の秀吉と出自が似ている。 いや、似ているどころか、萩の武家屋敷の小者として奉公していた少年時代、深夜、日課とし て習字をしたが、その習字がおわると、いつも、くるくると筆を走らせて奇妙な人形を描き、 たい - 一う これが太閤秀吉である。 と、つぶやいた。そのあと、床についた。それが習慣にな 0 ていた。草履取りから天下をと 0 た太閤によほどあこがれていたのであろう。聞多も妙な男だが、俊輔 ( 春輔・のちの博文 ) もかわ 0 ている。維新史は、志士たちの屍山血河とい「ていいが、豊太閤を心のどこかで抱いていた 「志士」は、伊藤俊輔のほか、なかろう。

4. 幕末

しかがでした」 と、那須信吾がきいた。武市は、東洋の議論を逐一話し、最後に関ヶ原の報復うんぬんにまで きたとき、 「それは、われわれへの挑戦ではないか」 と、一同がさわいだ。関ヶ原で敗れて、二百数十年粟飯を食わされてきたのは、長州、薩摩よ りも長曾我部家の残党である土佐郷士こそそうではないか。そういう素姓を東洋が公然と侮辱し たとすれば、 ( 藩こそ、先祖代々の敵である ) と、かれらは思わざるをえない。 武市も、他の譜代家老とはちがい、吉田東洋だけは、最後に腹を打ちあければわかると思った。 というのは、東洋はめったにいわないが、その家系が長曾我部の老臣吉田大備後から出ていると いうことを武市たちは知っている。山内家入国後、長曾我部の遺臣から上士にとりたてられた数 少ない家系のひとつで、いわば武市らと同種族なのである。 ( 見誤った。 東洋は、同種族だからこそ、自分の出身種族の叛意に複雑な腹立ちを覚えるのだろう。 ( あの男の家系が一介の郷士なら、薩長の人材よりもさらにすぐれた志士になっていたろう。吉 田家は二百年、暖衣を着すぎた ) しかもいまは栄達の極にある。藩主も隠居の容堂も、東洋を家臣とはみず、師弟の礼をとり、 あわめし

5. 幕末

はじいていた成一郎は、 おらアどもも . やるべえか。 と、従弟の栄一にもちかけた。栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血 の気の多いところも似ている。 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし、 しんべいぐみ 「神兵組」 という田舎の天誅団をつくった。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」 という題がついている。 ゅうりよ あまくだ 近日、高天ヶ原より神兵天降り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三ヶ所に住居致 す外夷の畜生どもをのこらず踏み殺し、 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あた りへ斬りこもうというものであった。 が、この暴発計画は、未遂におわった。田舎では人数があつまらなかったのであろう。 そこで、成一郎、栄一は、江戸へ出た。百姓ながらもすでに武士の風体を整えている。乱世で 用 算ある。 かいほじゅく 隊江戸では、攘夷党の巣窟のようになっている北辰一刀流の海保塾、千葉塾で剣を学び、さかん 彰に諸藩の志士や浪士とまじわった。 当時、一橋家では、当主の慶喜が京都御守衛総督として京へのばろうとしていた。 げきぶん

6. 幕末

かしの同志の甥というあたまがある。 - もめい 「顕助どのも、よく肝に銘じなされ」 。ひしやりといっこ。 「難物だな」 と、顕助は、あとで香川にこばした。香川も、連れてきたものの、ややヘきえきしたらしい 「あれは国学者だから」 と、香川はいった。おなじ攘夷主義者でも国学者系の志士は、」 の臭味がある。毛色が別だと かだのあずままろかものまぶちもとおりのりながひらたあったねおおくにたかまさ いっていい。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正といった系列から出ており、 宗教的な自国尊重者である。かれは、洋学、洋人、洋臭をきらうばかりか、漢学、仏教をも外国 思想として極度にきらっている。顕助と同時代の志士では、九州系浪士団をひきいて元治元年蛤 ぐうじ 御門の幕兵と戦い、天王山で自刃した久留米水天宮の宮司真木和泉や、但馬の生野銀山で義兵を くにおみ あげ、京の六角堂で獄死した筑前浪士平野国臣などはそうであった。平野は通称二郎といったが、 土かれの復古思想から国臣と改名し、大刀の帯びかたも異風であった。「戦国以来、武士は刀を差 夷すが、あれはまちごうちよるたい」と、中世の武士のように腰に佩いていた。幕末、ひと口に攘 けいれつ の 夷志士というが、この国学系統の志士はひどく宗教的で、行動も勁烈であった。明治後なおこの 後 じんぶうれん 最 系列は生き残って、熊本で神風連ノ乱をおこしたのは、この精神の残党であろう。 「なるほど」

7. 幕末

三枝は一礼してそれを読み、 「心が一つになったな」 と、めすらしく破顔した。親友の朱雀操も三枝がこれはどさわやかな徴笑を見せた記憶がかっ てなかった。 「やろう。どの洋夷をやる」 と、朱雀がいった。三枝はうなすき、 「大国がいし 。英国とする。公使といえば大将であろう。その首を一刀両断し、安政以来攘夷殉 とむら 難の志士を弔おう」 三枝は、最後の攘夷志士の心境にまでなっていた。自分が時流に遅れつつあることはすでに気 づきはじめている。しかし男子たる者が、節を捨てて時流に乗ってよいものかどうか。 攘夷は、多くの志士にとって天の声であった。三枝蓊も家を捨て、生死の間を流転し、ついに こんにちまできた。死を賭けた攘夷をいまさら捨てられるものではない。 朱雀に見せたのは、辞世である。 今はただ何を惜しまむ国のため 君のめぐみをわがあだにして あだにして、とは御親兵に取りたてられた天朝の恩にそむいて脱出する、ということであろう。 歌人朱雀操がみせた歌は、さらに悲痛である。もはや攘夷の時代おくれであることを知りつつ、 なおその志操に殉する、という心懐がこめられている。

8. 幕末

437 浪華城焼打 と訊きにきたとき、しばらく考えて瞑想した。おそらく幕末風雲のころを想いだしたのであろ う。めすらしく生真面目な顔で、 長生きの術やいかにと人問はば 殺されざりしためと答へむ と詠んだ。 才質さほどでもなく、維新の志士のなかでは三流に近かったが、一流ははとんど死に、顕助、 え - 一う ただ奇蹟的な長寿を得たために多くの栄誉をうけた。晩年は維新殉難の志士を毎日回向して暮ら した。かれが自筆でかいた大冊の過去帳が、故郷高知県佐川町の「青山文庫」に保存されている。

9. 幕末

最後の攘夷志士

10. 幕末

458 幕府は攘夷の勅命にそむいた。だから討伐する、という論旨である。奇説ではない。 この攘夷論は、嘉永六年の。ヘリー来航いらい、天下の攘夷志士が奉じてきた思想で、その思想 が革命エネルギーとなって時勢がここまで煮えつまってきたのだ。 かっての天誅組の殉難志士などは、ただひたすらに攘夷のさきがけたらんとして事をおこした。 ( しかしこまるなあ ) とおもったのは、顕助である。天誅組の事件はわすか数年前だが、その後、与流は眼にみえぬ 川底でかわっているのだ。攘夷の雄藩といわれた薩摩藩は、英国艦隊に鹿児島を砲撃され、薩摩 ゅ - つよく 方の沿岸砲台からうちだす砲弾はすべて海中に落ち、英国艦隊は射程外を悠々游弋しつつ長距離 砲撃を行ない、はとんど一方的な砲戦におわった。その後ひそかに英国と手をにぎり、軍制を洋 式化した。 四カ国艦隊の砲撃をうけた長州藩も、おなじ事情で英国と手をにぎり、その軍制も戦術も武器 も一変させた。 両藩とも攘夷はすてた。しかし秘密に、である。捨てた、となれば、全国の攘夷志士の支持を うしなう。第一、攘夷の総本山である京都朝廷がおどろくであろう。 薩長にとって、「攘夷」はもはや、倒幕の道具にすぎなくなっている。 ( 三枝さんは、天誅組のころから一歩もすすんでいない ) 顕助はもともと思想というほどのものはない。ただ土佐を脱藩してから長州へ身をよせ、第二 かまた 幕長戦争のときなどは、長州の軍艦にのって艦底の罐焚きまでしてきたのだ。時流の変化は、身