458 幕府は攘夷の勅命にそむいた。だから討伐する、という論旨である。奇説ではない。 この攘夷論は、嘉永六年の。ヘリー来航いらい、天下の攘夷志士が奉じてきた思想で、その思想 が革命エネルギーとなって時勢がここまで煮えつまってきたのだ。 かっての天誅組の殉難志士などは、ただひたすらに攘夷のさきがけたらんとして事をおこした。 ( しかしこまるなあ ) とおもったのは、顕助である。天誅組の事件はわすか数年前だが、その後、与流は眼にみえぬ 川底でかわっているのだ。攘夷の雄藩といわれた薩摩藩は、英国艦隊に鹿児島を砲撃され、薩摩 ゅ - つよく 方の沿岸砲台からうちだす砲弾はすべて海中に落ち、英国艦隊は射程外を悠々游弋しつつ長距離 砲撃を行ない、はとんど一方的な砲戦におわった。その後ひそかに英国と手をにぎり、軍制を洋 式化した。 四カ国艦隊の砲撃をうけた長州藩も、おなじ事情で英国と手をにぎり、その軍制も戦術も武器 も一変させた。 両藩とも攘夷はすてた。しかし秘密に、である。捨てた、となれば、全国の攘夷志士の支持を うしなう。第一、攘夷の総本山である京都朝廷がおどろくであろう。 薩長にとって、「攘夷」はもはや、倒幕の道具にすぎなくなっている。 ( 三枝さんは、天誅組のころから一歩もすすんでいない ) 顕助はもともと思想というほどのものはない。ただ土佐を脱藩してから長州へ身をよせ、第二 かまた 幕長戦争のときなどは、長州の軍艦にのって艦底の罐焚きまでしてきたのだ。時流の変化は、身
刷顕助は、香川と顔を見合わせた。顕助も攘夷党である。しかし本当は血気にはやって風雲の中 にとび出し、討幕、攘夷、尊王、と叫んでいるだけで、かれの攘夷には思想というほどのものはない。 いや、顕助たけでなく薩長の連中の多くはそうであった。その証拠に、すでに薩長は藩兵を洋式 化し、英国とひそかに好誼を通じ、ただ開港政策の幕府をこまらせるために、攘夷、攘夷とさけび、 「朝廷は攘夷の御方針である。しかるに , ) 夷大将軍 ( 将軍の正称 ) は、征夷の官職にかかわらず、 外夷の威圧に屈している。倒すべし」 と恫喝し、すでに薩長とも、初期の純正攘夷主義をひそかにすてて、それを偽装しつつ、攘夷 を倒幕の道具にしようとしている。 「三枝をどういう職につける」 と、顕助は、年上の香川に相談した。香川は、人のわるそうな微笑をうかべて、 「さあ」 と思案した。当然、三枝は先輩である。しかも歴戦の勇士でありかっ学識者である以上、もし 一軍の職につけるとすれば、顕助らと同格の参謀であるべきである。 「まあ、当分、客分のようなかたちで、三枝先生というだけにしておこう。先生、先生と奉って おれば、むこうもよろこぶし、こちらも実害はあるまい」 三枝、そのとおりであった。 べつに、参謀、監軍、監察といった役目をはしがるでもなく、毎日未明に起きて井戸ばたで水 をかぶって体をきよめ、京を遙拝し、伊勢神宮の方角をおがみ、そのあと、大剣をふるって数百 どうかっ
三枝は一礼してそれを読み、 「心が一つになったな」 と、めすらしく破顔した。親友の朱雀操も三枝がこれはどさわやかな徴笑を見せた記憶がかっ てなかった。 「やろう。どの洋夷をやる」 と、朱雀がいった。三枝はうなすき、 「大国がいし 。英国とする。公使といえば大将であろう。その首を一刀両断し、安政以来攘夷殉 とむら 難の志士を弔おう」 三枝は、最後の攘夷志士の心境にまでなっていた。自分が時流に遅れつつあることはすでに気 づきはじめている。しかし男子たる者が、節を捨てて時流に乗ってよいものかどうか。 攘夷は、多くの志士にとって天の声であった。三枝蓊も家を捨て、生死の間を流転し、ついに こんにちまできた。死を賭けた攘夷をいまさら捨てられるものではない。 朱雀に見せたのは、辞世である。 今はただ何を惜しまむ国のため 君のめぐみをわがあだにして あだにして、とは御親兵に取りたてられた天朝の恩にそむいて脱出する、ということであろう。 歌人朱雀操がみせた歌は、さらに悲痛である。もはや攘夷の時代おくれであることを知りつつ、 なおその志操に殉する、という心懐がこめられている。
466 早く攘夷のなるを守らん おおみこころ その辞世の一つである。かれらは攘夷がまだ天子の「大御心」であることを信じ、自分の死が 無駄でないことを信じて、よろこんで切腹した。 その報は、即日、京にったわった。 「顕助どん、ど、つ思、つ」 と、三枝蓊が、顕助の部屋に入ってきたのは、妙国寺事件の翌夜である。 「君は土佐の人だ。君の御縁族をはじめ、土佐浪士は多く攘夷のために死んだが、いままた妙国 寺で多数の土佐人が血を流した。これが黙視できるか」 「まあまあ」 顕助は、なだめるしか手がない。 「これ以上、洋夷の侮辱に堪えられぬ。幸い高野義挙以来、寝食を共にしてきた浪士団がここに いる。君は立て、立つのだ」 「ど、っせよ、と申される」 「神戸の居留地を襲撃する。それとも君は、攘夷の志を捨てたか」 顕助は逃げるように部屋を出た。出るとき、ふとふりかえった。燭台のむこうに三枝蓊の両眼 が、異様に光っている。 ( こいつは、何かやる )
二月二十七日だったという。二条城東苑の老梅を一枝、三枝蓊が剪りとって、竹筒に活けた。 りつか ふづくえ 士かれは、立華の心得がある。花が、二輪だけひらいていた。その日、文机の上で筆をとり、しき てんさく 儿りと文字を添削していたが、やがて一首出来、朱雀と川上をよんだ。 の「風懐だよ」 最 と示した。 朱雀と川上の表情が緊張した。朱雀は歌人だけにたちどころに一首したため、三枝蓊にみせた。 けんかん しかし、新政府のいかなる顕官もかれを議論によって屈服させることはできなかったであろう。 なぜならば、顕官たちもまた、かっては熱烈な攘夷主義だったからである。その間、新政府は 「非攘夷主義」だった徳川氏を討伐すべく、錦旗を奉じた諸軍が、そくそく東下している。 一方、諸外国との外交を正式に開始すべく「新元首」の天皇が、各国公使を召見することに決 定した。 攘夷派の老公卿大原重徳などは、「されば攘夷は徳川を倒す口実にすぎなかったのか。天下の 志士に会わせる面の皮がない」とはげしく反対したが、押しきられた。 、各国公使の宿舎の宿割りまできまった。仏国は今出川の相国寺、英国は東山の知恩院、 といったぐあいである。 ししんでん 謁見の日は、二月三十日 ( 旧暦 ) 。場所は御所紫宸殿である。当時、明治帝十七歳。少年にすぎ よ、つこ。
井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、 国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであ 「たからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなか「た。だから、この大獄は攘夷主義者 がいこくがかり への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の 幕吏を免黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の万槍主義に復活させているほどの病 的な保守主義者である。 むちょっきょ この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想 の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上 の対象者である。 とにかく井伊の弾圧には、政見というものはない。多少根拠のある妄想からきている。かれは 水戸斉昭の政治的容喙をきらい、憎悪し、ついには斉昭に幕政乗取りの大陰謀ありと見、水戸支 持の公卿、諸侯、志士をその陰謀加担者とみて弾圧した。いわば一徳川家の家政の私的な問題を、 国家の問題として、これだけの大事をひきおこし、なおおこしつつある人物である。 「ただ、無智、頑癖、それだけの男が強権をにぎっている。狂人が刃物をふるっているにひとし と、佐野竹之助はいった。この「暴悪」を停止させる力は、井伊自身による独裁政治の治下で もはやその人物を殺す以外にかれの暴走を停止させる手がないであろう。 はどこにもない。
「聞多、おれも行きたい」 と俊輔は、聞多に運動をたのんだ。おおもっともなこッた、と聞多は一緒に品川の土蔵相模に でも繰りこむような気安さで藩庁とかけあい、伊藤俊輔の名も入れた。この長州藩の秘密留学団 に加わった者は、二人のはかに、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹介の三人で、藩はかれらに英国製 兵器の密輸入の任務もさずけ、渡航費、一カ年の滞在費とをあわせて一人二百両を支給した。 そのころ、聞多は横浜の英国領事ガワーに接近していたが、このガワーのいうところでは、 「それは安すぎる。どうしても一人千両は要る」ということだった。聞多はおどろかなかった。 。しいだろう ) と田 5 った。 ( なあに、そのときは武器購入の金一万両を流用すれま、 シャンハイ 横浜から発ち、上海についた。すっかり洋式化している上海港の景観をみて、聞多はびつくり した。港内では、びっしりと各国の汽船、風帆船、軍艦が錨をおろしている。 「俊輔。故じゃ攘夷々々と騒ぎまわっているが、おらア、やめたよ。これだけの軍艦が攻めよ せて来りやア、攘夷もへったくれもあるものか」 「聞多あ。 伊藤俊輔は、さすがにいやな顔をした。変節が早すぎる。聞多の発想はなんでも即物的なので ある。 尊王攘夷は長州藩の藩是だけでなく、全国の志士の神聖思想であり、強烈な革命詩であり、俊 輔にとってはおかすべからざる先師松陰の政治理念であった。もっともそういうほど俊輔は他の 志士たちほどこちこちには考えていなかったが、それでも聞多とくらべると、まだ「理想」とい はんぜ
ころには新選組、見廻組の手で追われ、捕殺され、新政の世になっても危険視されている。 ( しかし維新というものは、かれら攘夷浪士の死屍が累なり累なりしてゆくうちに気運が盛りあ がったものではないか ) とまでは、顕助は考えなかった。そこまで顕助は詩人ではない。かれの一族から、那須信吾、 那須俊平という攘夷の「死屍」を出したが、時勢は動いている。若い顕助は、むしろその時勢の ほうに過敏である。 ところへ。 へきれき 霹靂のような事態がおこった。 鳥羽伏見の敗報をきいて、大坂在陣の前将軍慶喜が海路江戸にむかって脱出したのは、正月の 六日である。 京畿の地は「官軍」に帰したが、要するに幕軍を追ったその翌日、御所に 「外国事務総裁」 という奇怪な官職ができた。攘夷のための勤王倒幕であったのに、「外国事務」とは何事であろう。 よしあキ - ら 総裁には、宮様が任命された。ちかごろまで僧侶であられた嘉彰親王である。 その数日後の正月十五日、 外国交際の儀は、宇の公法なるをも「て、これを取りあっかい候間、この段、心得申すべき 事。 ( 意訳 ) かんばっ との朝廷布告書が渙発された かさ
めくらへびお 二人は思った。盲蛇に怖じずというか、長州三十六万石は、全ヨーロッパの文明に対して挑戦し てしまった。 俊輔も、いまは攘夷論者ではない。 「帰ろう」 と、聞多にいった。帰って藩の要路者にヨーロッパの文明を説明し、攘夷亡国論を説こうとい うのだ。 滞在数カ月で留学をきりあげ、聞多と俊輔は、元治元年三月中旬ロンドンを発ち、同六月三日 に横浜に入った。 ちょうど、池田屋ノ変の直前である。 聞多と俊輔は、ひそかに横浜の英国領事ガワーを訪ね、 ほんい 長州藩に翻意させて無謀の攘夷主義をすてさせたいから、攻撃をやめてほしい。 と頼んだ。・ カワー領事は、パ ーグス公使に話してやろうといって、二人を日本人の眼から秘匿 するため、横浜の居留地の外人専用ホテルに泊めた。 ホテルの給仕は、日本人である。この日本人にさとられぬように、二人は、、 っさい唖のよ、つ になって日本語を使わなかった。給仕たちは、二人をポルトガル人だと信じた。金がなくてかれ らにチップをやらなかったからである。当時、横浜では、ケチはポルトガル人ときめられていた。 給仕どもは、二人が日本語がわからぬものと信じ、二人の眼の前で大声で悪口をいった。しかし 一様にふしぎがったのは、 おし ひとく
顕助は馬上。 そのそばに、先日京都から受領してきた錦の御旗がひるがえっている。義軍は、官軍になった のだ。 三枝先生は、徒歩である。軍の先頭、数十歩さきを、癖のある怒り肩で歩いてゆく。 ときどき大坂方面から米る巡礼とすれちがった。巡礼はみな馬上の顕助よりも、徒歩の三枝先 ル ~ こ王下 , しーし ' ) 。 この男は、眼がするどい 天性、庶人でさえ打たれる威があったのであろう。あるいは国学系の攘夷志士らしく表情に狂 気があり . 、それに怖れをなしたのかもしれない。 紀見峠の宿場で、分宿した。 夕刻、顕助は三枝先生にたのみ、新募の十津川兵の伍長以上をあつめて、討幕の本義を説いて もらった。戦う目的が兵のすみすみまで滲みとおれば、士気はさらに高まるからである。 「薩長のためにあらす」 士といっこ。 夷「先帝 ( 孝明帝 ) ご生涯のご悲願は、ただひたすらに攘夷におわした。幕府を倒そうとまではなさ の れておらなんだが、天子から武権を委任されている幕府が、征夷攘夷の役目をはたさす、果たさ 後 最 ざるばかりか、外夷に屈従し、港をひらき、神州の土を夷奴の足に踏ませた。幕府は、先帝の勅 命にそむき奉った。皇天皇霊のおん怒りま、 。し力はかりであろう」