新兵衛 - みる会図書館


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1. 幕末

と目を見はると、むこうも、ニャリと笑った。 さわおみ よくみると、同藩の広沢兵助 ( のちの真臣・維新後参議となり、明治四年刺客のため横死・功によりそ の遺児金次郎に伯爵授与 ) であった。もっともこの話の真偽はわからない。 さて。 ! よみず 京の清水新道に、一 という場所がある。 源平のむかし悪七兵衛景清が土牢に入れられたという伝説の土地で、その後数百年、乞食の巣 窟になっている。 桂は牢ノ谷を住いとし、三条橋下を持ち場にして、毎日市中に出かけた。 市中は数万の罹災人でごったがえしていた。 きょたんきわ この数日間の桂小五郎の身辺にさまざまな虚譚奇話が残されているが、「幕末防長勤王史談会」 とくとみ が刊行した得富太郎氏の「史談」に、「これだけは事実に近い」というはなしが摘出されている。 ちどり ここに千鳥という女が登場する。 五 かって桂が塾頭をしていた江戸の斎藤弥九郎道場 ( 練兵館 ) の隣りに高橋盛之進という直参が住 の んでいたが、千鳥はその盛之進の娘であったという。女ながらも隣りの練兵館に通い、剣の指導 逃を桂に受けるうちに、情を通じた。桂が京にのばったあとで、懐妊していることがわかり、大さ ぶんべん わぎになった。が、ひそかに乳母の里で男児を分娩し、小弥太と名づけた。千鳥はこの小弥太を

2. 幕末

144 田中新兵衛が「斬ってはじめて剣がわかりもす」と上機嫌にわめきながら、ひらつ、と軒端へ とびこんだとたん、格子戸をあけて出てきたその諸大夫髷の武士の胸にもろに突きあたった。 武士は、おどろいたらしい。時節がら、 兇漢 とみたのは当然なことだ。田中新兵衛の奇妙な運命はこのときからはじまった。 武士はよほど使える男らしく、新兵衛の体がとんできた拍子に、とっさに刀のツカをぐっとあ げて新兵衛のみそおちを突き、たくみに新兵衛を雨中でころばせるや、 「無礼者」 と抜き打ちに斬りさげた。刀に恐怖がこもっている。新兵衛は危うくかわしてころころと転び、 「ご無礼さアして済ンもはんでごわす。事情がちがいもす」 とわめいたが、とっさの薩摩なまりだから先方に通じない 武士も必死だ。二ノ太刀が、風を捲いて袴を切った。新兵衛もころげながら刀を抜き、 たも 「待って呉いやっ給ンせ。名を云もンで。薩摩藩の田中新兵衛でごわす」 。しよいよ最初の直感に狂いは 恟、とした表情を、武士はした。薩摩の田中新兵衛ときいてよ、 ない。武士は踏みこむや、 「死ねつ」 と一颯、太刀を入れた。すさまじい撃ちである。新兵衛はグルリと体をまわし、薩摩鍛冶和泉 - よっ いっさっ

3. 幕末

新兵衛はよほど気に入ったらしく、大庭の肩を抱きよせるようにして、 まん 「お前さアの気概、この新兵衛と生きうっしに似ちょうがア。一緒に仕事し申っそ」 天誅の仕事を、であった。新兵衛によれば、二人、剣をそろえてやれば、京の奸賊はのこらす ちょてさあ 斃すことができるというのだ。それが新兵衛の朝廷様への忠節というものであった。 たけち その日、ふたりは土州藩邸を出て、木屋町三条の「丹虎」 ( 武市半平太が潜伏して刺客団をあやっ っていた料亭で、起居していた茶室は現存 ) で痛飲し、出たときは音、 しかも雨になっている。 おな - 一 「あとは、女を行き申そ」 先斗町へ行こう、と新兵衛は云い、そのあとちょっと卑猥な顔をして、 おなごで まん 「お前さア、京の女、抱たこツがごわすか」 この男の言葉がわからない。新兵衛がくりかえしていうと、 「ああ、わかりました。京の女」 ふと、小里の顔を思いうかべた。小里は、大庭の帰りがどんなに遅くても着付けを着崩さす、 ふんたい 匂い袋を懐中にし、瀞稽な粉黛をこらして大仏裏の寮で待「ている。茶の湯のたしなみの沁みつ いたような折り目のある女であった。 「しかし私 . は」 , 入 ~ 庭はきつばりと、 「女は抱きません」

4. 幕末

新兵衛は、ばっと下駄を捨てた。すでに二尺三寸和泉守忠重を抜いている。 大庭もとびさがって、二尺七寸の大剣を上段にかまえた。酔っていない。 はっそう 新兵衛は泥酔しているはすだが、薩摩風に八双にかまえ、両足を撞木に踏み、剣尖を天に衝き あげるよ、つにしてじりじりとせまった。が、自 5 がみじかい ( 斬れる ) と、大庭恭平は、新兵衛の粗い呼吸を一つ二つとはかった。ふつ、と新兵衛は息をとめた。同 時に撃ちこんできた。大庭はすばやく上段から刀を落して、その出籠手を鋒で撃った。 新兵衛の刀が飛び、それが暗い地上におちたときは、大庭恭平はすでに姿勢をひくめて東へ走 ていた。 手に、新兵衛の愛刀をひっさらっている。 その翌日、大庭は、木像事件の残党六人を大仏裏の寮にあつめ、 しいか、黒豆 ( 姉小路卿 ) が軟化しはじめている。黒豆が軟化すれば、莫逆の白豆 ( 三条卿 ) も影 響されすにはすむまい このさい 、二卿を斬って宮廷の惰気を払うのだ」 「よかろ、つ」 血この連中に、思慮などはない。血気と功名心だけがあった。さっそく手配りして宮廷の情報を 辻あつめると、明後日の五月二十日は廟議があり、最近の例からみて長びきそうだという。 猿大庭はその前日、一同を御所周辺に連れて行って、十分に地形地物をみせた。 「公卿衆は」 あら だき ばくやく みね

5. 幕末

。しまでもなそになっている。原因は、祇園に女ができたため 新兵衛のこのころの銷沈ぶりよ、、 しもだちうりせんばん レ」、もいし 、またこれよりすこし前の正月二十八日、新兵衛は同志とともに下立売千本東入ル賀川 はじめ ちぐさ 肇 ( 親幕派の公卿千種有文の雑掌 ) の屋敷を襲い、賀川の一子弁之丞 ( 十一歳 ) の泣きさけぶ前でその 父の首を落した。これ以降、鬱々として楽しまなかったともいう。おそらく両方とも原因だった のだろう。 「一色君。おはんも武士なら、わけは訊いてたもるな」 大庭は、しぶる新兵衛を木屋町の「丹虎」にひつばって行き、 「浮かぬときは、酒にかぎります」 と、「丹虎」の娘おゅう ( 土佐脱藩浪士吉村寅太郎の恋人 ) にすすめさせて、臓腑も溶けるほどに 飲ませた。 へりにある「トー そのあと、三条繩手を下った鴨川。 月亭」で飲みなおすために大橋を越えたとき、 「一色君」 と、新兵衛はいった。大庭恭平はすかさず、 「申されるな、わかっています」 なん 「何が、じゃ」 おくしん 「あんたには臆心がある。去年の秋、先斗町の妓楼の前で、あんたは不覚をとられた。姉小路卿 の雑掌吉村右京がこわいのでしよう」 「何ン」 さが うつうつ ぞうふ

6. 幕末

165 猿ケ辻の血闘 「ど、つじゃ」 と永井がふたたび畳みかけたとき、田中新兵衛はわ「と中腰になり、その腹にはすでに脇差を 突きたてている。 「 , れは」 永井が立ちあがった。と同時に新兵衛は脇差をひきぬいて宙にかざし、やがて血ぶるいして躍 りあがったかとみると、 「やっ」 と、自分の首をはねていた。場所は、西町奉行所槍ノ間である。事件はこのまま、謎になった。 大庭恭平は、その後行方不明。が、釜師藤兵衛の菩提寺である鳥辺山の蓮正寺にはかれの墓碑 と思われるものが、いまも朽ちて残っている。 文久三年五月二十一日歿、と読めるから、これが大庭の墓碑ならば、事件の翌日自害したこと になる。 なんのために自害したか、かれの場合もまた、当時の会津人になってみなければわからない。 とり・ヘやま

7. 幕末

146 と、大庭はいった。新兵衛は、雨中ですわったままである。 「が、出来てしまったことです。仕方がない。木屋町の丹虎に戻って飲みなおしましよう。傷の 手当もせねばならぬ」 「構ん」 新兵衛はいきなり刀を逆さにつかんで、腹に突き立てようとした。大庭はおどりかかって、そ の手をつかんだ。 「短慮ですそ」 たも 「放っしやっ給ンせ。公卿の傭い剣客づれに、薩摩藩士が犬の子みたいにころがされて、三太刀 も受けるなどの不覚があってよいものか。生きて藩邸に戻りができ申さん」 揉みあううちに、折りよく空き駕籠がきたから、押しこんで薩摩藩邸まで送るように命じ、駕 籠わきから離れた。あとは、新兵衛が死のうと生きようと大庭には興味がな、。 その翌夜、大庭恭平は、仏光寺裏の会津藩宿舎をこっそり訪ね、右の一件を家老田中土佐に報 告した。 「ほう、それはそれは」 田中土佐は、眼を光らせた。 「耳よりなはなしじゃ。これがもし大事になれば、薩藩の宮廷における勢力を削ぐことになる。 そうではないか」 かんま

8. 幕末

大庭は、おちついている。 うれ 「諸君と同じきを憂える悲歌の士のつもりでいる。京で討幕の素志をとげるために国表を脱藩し てきた。ます、おすわりあれ。大いに天下のことを論じようではないか」 大庭は、一同を鎮めたうえ浪士でもへきえきするほどの激論を展開しはじめた。議論もなかな かずのみやこうか か堂に入っている。折りから皇女和宮の降嫁事件で京の志士が湧きたっているときだったから、 大庭は畳をどんとたたき、 さんかん りようひんほふ 「三奸斬るべし、両嬪屠るべし」 などと論じた。それだけではない。徳川家こそ史上最大の賊臣であると説き、攘夷を断行する しオ芝居とは知りつつも徳川家を宗家とする会津側 ためにはまず幕府を倒さねばならぬ、と、つこ。 は、大庭の言葉に一同蒼白になったはどである。 「挈、 , つい、つ田刀た ) 」 と、島村衛吉はいった。 「そげなお人か。論するに足り申さ」 田中新兵衛はおどりあがってよろこんだ。性単純な男だ。当時の同志の評にある、「新兵衛、 血性、淡泊にして感激多し」。感激しては、政敵を斬る。 なかだち 竝田中新兵衛が、島村の媒介で、河原町の土州藩邸で「一色鮎蔵」こと大庭恭平と会うことにな 猿ったのは、文久二年十月のなかばである。 会った。

9. 幕末

178 である。 鞍馬口にもどってから太兵衛に、「冷泉為恭という絵師のことをご存じですか」とたすねてみ ると、意外にも、 「手前どもの得意先でおす」 といった。太兵衛自身、節句の餅などをとどけに行ったことがあるという。 「、ど、つい、つ田刀で . しよ、つ」 とっげん 太兵衛はすこし思案して、田中訥言という絵師はえらかった、といった。尾張のうまれで京都 ほっきよ、つ にのばって画名をあげ、晩年は朝廷から法橋に叙せられたほどだったという。宮殿の図や位官の 人物を描くのに長じ、剛直清廉で、うそをいうことをきらった。 田中法橋は、平素、 「眼はわしのいのちゃ。そんなことはないやろが、もし盲目になったなら、わしは死ぬ」 ところが、晩年、法橋がもっともおそれていた眼病をわすらい、失明した。訥言は、平素のこ とばがうそになることを怖れ、失明したその日から食を断った。ところが十日ばかりを経たがな お死ねなかったため、ついに舌を噛み切って死んだ。 太兵衛のはなしでは、それはど頑固一徹の師匠の弟子にしては、為恭はひどく軽い感じの男ら 「世間の評判は、どうでしよう」 「よくもわるくもおへんが、市中のうわさに冷泉様の名がよく出るのは、お裏様のせいやという うらさま

10. 幕末

132 武士はただそれだけをいい、主人藤兵衛に案内されて、奥八畳に通った。この一家が待ちかね ていた客である。 「お国表から御家老さまお差し立ての御書状を頂戴し」 と、藤兵衛は平伏しながら、 「いさい、承知っかまつっております。この寮はほとんど無人でございますゆえ、ごそんぶんに お使いくださいますよ、つに」 武士はちょっと頭をさげただけである。 そのあと、この寮にすむ藤兵衛の叔母の小里、といっても甥よりも十も年下だが、次の間であ いさつをし、進み出て茶を出した。このとき小里は、内心おどろいた。 かたもり ( この方が、会津様 ( 松平容保 ) がわざわざ京にさしつかわされたご密偵なのか ) おおばきようへ 大庭恭平という会津藩士はおよそ密偵という感じからは、遠かった。皮膚は三十前の桜色で眉 いきゅう ふとく、頬からあごにかけ、髯の意休とまではいかなし力、かなりひげを貯えている。 もうひとつ、密偵に不似合い 豪傑といって、 ししが、異相である。これでは密偵にむかない なことがあった。会津なまりである。これほどめだっ男が密偵になるというのは、どういうこと につつ , っ 「小里と申しまする」 おもて ひげ