武士 - みる会図書館


検索対象: 幕末
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1. 幕末

守忠重二尺三寸の切尖でからくも受けたが受けきれす、肩さきに一寸ばかり斬りこまれた。新兵 衛にはかってない不手際であった。 武士が三ノ太刀を打ち込もうとした。このとき大庭恭平の影がやっと動いた。キラリと大剣を ただよ ぬき、片手のまま武士の前に漂わせるように突きだしながら、 「待たれよ」と、ひどい会津なまりでいった。 「うぬも仲間か」 「いや、お手前の思いちがいだ。刀をひかれい」 手短かに前後の説明をすると、武士はわかったのかどうか、身をひるがえして雨中の闇に消え てしまった。後難をおそれたのだろう。 あねのこうじきんとも あとでよしのやに入って武士の名を訊きただしてみたところ、最近、少将姉小路公知に召しか かえられた一刀流の剣客で丹波の人吉村右京という者であるという。 ( 姉小路少将 ? ) 大庭も、新兵衛もおどろいた。 さねとみ 姉小路といえば、三条中納言実美とならんで過激派公卿の双璧といわれ、周囲に尊攘浮浪の志 びようどう 血士を多勢あつめ、年は二十九歳ながら、当時の廟堂を一人で牛耳っているような男である。つま みこし 辻り、志士の煽動に乗りやすい。田中新兵衛などにとっては、神輿のようにありがたい公卿であっ 猿た。吉村右京はその用心棒である。きっと、この一件はもつれる。 「田中君、大変なことになりましたな」 きつ一き

2. 幕末

はじいていた成一郎は、 おらアどもも . やるべえか。 と、従弟の栄一にもちかけた。栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血 の気の多いところも似ている。 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし、 しんべいぐみ 「神兵組」 という田舎の天誅団をつくった。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」 という題がついている。 ゅうりよ あまくだ 近日、高天ヶ原より神兵天降り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三ヶ所に住居致 す外夷の畜生どもをのこらず踏み殺し、 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あた りへ斬りこもうというものであった。 が、この暴発計画は、未遂におわった。田舎では人数があつまらなかったのであろう。 そこで、成一郎、栄一は、江戸へ出た。百姓ながらもすでに武士の風体を整えている。乱世で 用 算ある。 かいほじゅく 隊江戸では、攘夷党の巣窟のようになっている北辰一刀流の海保塾、千葉塾で剣を学び、さかん 彰に諸藩の志士や浪士とまじわった。 当時、一橋家では、当主の慶喜が京都御守衛総督として京へのばろうとしていた。 げきぶん

3. 幕末

かしの同志の甥というあたまがある。 - もめい 「顕助どのも、よく肝に銘じなされ」 。ひしやりといっこ。 「難物だな」 と、顕助は、あとで香川にこばした。香川も、連れてきたものの、ややヘきえきしたらしい 「あれは国学者だから」 と、香川はいった。おなじ攘夷主義者でも国学者系の志士は、」 の臭味がある。毛色が別だと かだのあずままろかものまぶちもとおりのりながひらたあったねおおくにたかまさ いっていい。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正といった系列から出ており、 宗教的な自国尊重者である。かれは、洋学、洋人、洋臭をきらうばかりか、漢学、仏教をも外国 思想として極度にきらっている。顕助と同時代の志士では、九州系浪士団をひきいて元治元年蛤 ぐうじ 御門の幕兵と戦い、天王山で自刃した久留米水天宮の宮司真木和泉や、但馬の生野銀山で義兵を くにおみ あげ、京の六角堂で獄死した筑前浪士平野国臣などはそうであった。平野は通称二郎といったが、 土かれの復古思想から国臣と改名し、大刀の帯びかたも異風であった。「戦国以来、武士は刀を差 夷すが、あれはまちごうちよるたい」と、中世の武士のように腰に佩いていた。幕末、ひと口に攘 けいれつ の 夷志士というが、この国学系統の志士はひどく宗教的で、行動も勁烈であった。明治後なおこの 後 じんぶうれん 最 系列は生き残って、熊本で神風連ノ乱をおこしたのは、この精神の残党であろう。 「なるほど」

4. 幕末

のちにこの男は三菱会社をおこす運命になる。 ふ・つばう とうせき 弥太郎は学才はあるが目つきがするどく、「風半、盗跖に似る」といわれた。盗跖とは、古代 せいげん シナの伝説的な大盗の名だ。「商人の紋章は盗賊の紋章とおなじだ」という一言葉が西諺にあるほ どだから、岩崎弥太郎はそのどっちにころんでもやりこなす男だったろう。 「よいか。・内密に」 「承知っかまつりました」 弥太郎は、その夜は家に帰らす、城下の町名主を一人すったずねまわってうわさをきき、つい につきとめた。 とうじんまち 唐人町の裏長屋にすむにわか医者で十日ばかり前、高知城下から八里ばかり西の佐川郷 ( 家老 かなえ 深尾鼎領地 ) から出てきた男だという。 しんば 大家には信甫などという医者らしい名前を届けでているが、じつは武士である。 「武士 ? 」 「左様でございます」 「郷士か」 雨と、弥太郎は名主にいった。 の郷士とは、土佐の制度では最下級の武士で、上士からは人間あっかいにされない。たとえば上 土士ならその家族でも日傘をさせるが郷士はそれを許されないといったきびしい差別がある。土佐 におけるこの差別問題が、ついに維新史を動かすにいたったことは後述する。

5. 幕末

474 乱射した。 その一発が、三枝の足にあたって転倒したが、さらに起きあがり、人家の軒下へ 子をあけ、土間を走ろうとしたとき、ふたたび倒れた。 そこを捕縛されている。 英国側の損害は、斬撃された者九人、倒された馬は四頭。ただし死者はなかった。 当時、二条鹹にいた浪士取締方の顕助は大いに驚き、即夜、川上邦之助、松林織之助、大村貞 助を監禁した。 「捕繩はせぬ。武士として遇するゆえ、かれらに連繋があったかどうか、ありていに申してもら 「あった」 と、三士とも昻然として答えた。なお攘夷志士としての誇りをもっていたのであろう。 新政府の刑法事務局では、英国側がこれらの一味の存在に気づいていないことを奇貨としてひ そかに隠岐島へ送った。 ただ、三枝と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。 かれらの士籍を削り、平民に落し、朱雀の死屍から首を切りはなして、粟田口刑場に梟した。 きようしゆだい 同じ梟首台に、三枝の生首もならんだ。 処刑の場所は粟田口であり、方法は、武士に対する礼ではなく、斬首である。 かけこみ、格 さら

6. 幕末

お前なんでも聞きたがる、 聞多は学問のできぬ男だが、ひどく好奇心のつよい男である。 と藩主敬親が笑って、「聞多という名にしろ」といったのは前にのべた。この名のとおり好奇心 からここ数カ月、横浜へ行って蘭語や英語をききかじっていたが、とうとう外国へ行きたくなっ た。当時、長州藩といえば攘夷の先鋒藩だから、聞多の企画は常識はずれのものだし、しかも幕 法は密出国を禁じている。が「聞多は藩主に可愛がられているのにつけこみ、こっそり殿様に願 お・つよう ぬい出てみた。毛利敬親は鷹揚な人物だから、眼顔ではうなずき、しかしロで叱った、「そんなこ な 死とを予に直接願い出るものではない」。 で長州藩では、歴代藩主は統治すれども政治せず、という建前である。「藩庁の重役に相談しろ」 死と敬親は暗にいったのだが、機嫌はわるくなかった。「大そうな御機嫌でした」と聞多は重役ど きよくせつ もに説いてまわった。曲折のすえ、極秘で英国へ留学させることになった。 さむらいやとい この事件から数カ月のちに、俊輔は若党から抜擢されて「士雇」になり、苗字を公称できる ことになった。士雇とは、下士ながら武士は武士である。しかし一代限りの武士であった。その 辞令を意訳すると、「右の者先年吉田寅次郎 ( 松陰 ) に従学し、かねて尊王攘夷の正義を弁知し、 ーたいみようじさしゆる 心得よろしきにつき、身柄一代名字差免し、士御雇になさる」ということである。この異数な出 しゅしよう 世ま、・ へつに塙次郎殺しとまさか直接関係はなかろうが、それはど働きが殊勝であるということ であろう。

7. 幕末

「な、なにをなさるのじゃ」 「出て行けつ」 これは東洋のほうが、無法である。が罪にはならない。土佐の武家作法として、郷士が上士に ということになっている。まして東 無礼をはたらいたばあい、上士は斬りすててもかまわない、 洋は二十四万石の仕置家老である。 とはいえ、要するに、もともとは岩崎弥太郎の調査不十分からきた事件で、弥太郎はこのため に責任を感じ、その日から必死に探索をはじめた。 すぐ、手違いの原因はわかった。 唐人町の例の長屋には、一ッ家に長襦袢坊主がふたり住んでいるのである。これを混同した。 が、手遅れだった。わかったころには、すでに大坊主も小坊主も城下を引きはらって、在所に 帰ってしまっていた。弥太郎にとっては狐につままれたようなはなしであった。 小坊主は大石団蔵という郷士で、大坊主の弟分のような男だという。 弥太郎は、さらに調べた。 それによると、大坊主は、佐川郷の領主深尾家 ( 土佐藩の譜代家老 ) の御勝手役で浜田宅左衛門 の三男某であることがわかった。浜田家は、郷士の出である。 家老の知行所のお勝手役といえば聞えがいいが、二人半扶持 ( 一日一升二合五勺 ) の給与で数人 の家族が食っている極貧最下等の武士である。 某はその三男だから医者になったわけだが、医術もろくに学んでいない。だから、城下へ出て、

8. 幕末

144 田中新兵衛が「斬ってはじめて剣がわかりもす」と上機嫌にわめきながら、ひらつ、と軒端へ とびこんだとたん、格子戸をあけて出てきたその諸大夫髷の武士の胸にもろに突きあたった。 武士は、おどろいたらしい。時節がら、 兇漢 とみたのは当然なことだ。田中新兵衛の奇妙な運命はこのときからはじまった。 武士はよほど使える男らしく、新兵衛の体がとんできた拍子に、とっさに刀のツカをぐっとあ げて新兵衛のみそおちを突き、たくみに新兵衛を雨中でころばせるや、 「無礼者」 と抜き打ちに斬りさげた。刀に恐怖がこもっている。新兵衛は危うくかわしてころころと転び、 「ご無礼さアして済ンもはんでごわす。事情がちがいもす」 とわめいたが、とっさの薩摩なまりだから先方に通じない 武士も必死だ。二ノ太刀が、風を捲いて袴を切った。新兵衛もころげながら刀を抜き、 たも 「待って呉いやっ給ンせ。名を云もンで。薩摩藩の田中新兵衛でごわす」 。しよいよ最初の直感に狂いは 恟、とした表情を、武士はした。薩摩の田中新兵衛ときいてよ、 ない。武士は踏みこむや、 「死ねつ」 と一颯、太刀を入れた。すさまじい撃ちである。新兵衛はグルリと体をまわし、薩摩鍛冶和泉 - よっ いっさっ

9. 幕末

「人数は ? 」 ひょうかん 「海援隊、陸援隊の残党のなかから剽悍決死の剣士数人をえらぶ」 「どなたと、どなたどす ? 」 「 ~ 宀疋だ。が、もっとも」 と、陸廛 ( はきつばりといっこ。 「一人だけはきまっている」 「どなた」 「大将のおれだ。おれが指揮をとる」 「陸奥さんが ? 」 お桂は、この男が海援隊でも文官だったことを知っている。 この二十四歳の青年は、紀州藩の上士伊達宗広の末子にうまれた。弱年のころ江戸で学問修行 をするうちに脱藩して京にのばり、諸藩の志士とっきあううちに坂本に見出され、海援隊結成と ともこ、ー」 洳量官兼隊長秘書のような役目についてきた。この閲歴からみても、剣に格別の心得が あるとは思えない。 「まあ、やってみるさ」 と陸奥は自分に云いきかせるようにうなすいた。この血の気の多い秀才は、自分の才能を愛し てくれた坂本に酬いるために、すでに死ぬ気になっている。 「そこで、あんたに頼みがある」

10. 幕末

186 ているのだ。いい、 迷惑にはちがいない 「ちょっと、みせていただく」 ムシロをめくると、予感はしていたが馬之助の顔色がかわった。まぎれもなく川手源内であっ た。左袈裟を心ノ臓まで一刀で斬りさげられている所からみれば、よほどの腕利きの仕業とおも われた。 ( とめるべきであった。それとも、自分が加われば、かようなことにはならなかったかもしれ そのとき、死体の番をしていたものが、悲鳴をあげて散った。 間崎馬之助は、なにげなく背後をふりかえってから、万一の用意に笠の結び目を解いた。武士 たちがちかづいてくるのである。 武士の笠と蓑の上に雪がつもっていた。武士は十歩ほど手前でとまり、 「町人」 と声をかけた。馬之助はうすくまったまま、へい、と笠を解くまねをし、そっと上眼づかいに 武士を見た。米田鎌次郎である。新選組がよくやる手だった。人を斬っておいてから、死体をそ のままにしておき、同類の者が引きとりにくるのを待ち伏せるのである。 「この者の縁者か」 「いえいえ、ちがいまする」