いうべきであろう。 有村治左衛門は、ある日、兄の雄助に 「ひと足さきに日下部家に行っておれ」 といわれて、お静の宅をたすねた。 この家は、訪ね心地がいし後家殿のお静も親切だし、娘の松子も、治左衛門に好意をよせて しるようであった。 おやこ お静母娘は、治左衛門のことを、 「弟さん、弟さん」 とよんだ。日下部家としては、早くから長兄の俊斎に親戚同然の待遇をあたえてきたからその 末弟をそうよぶのは自然な気持であったろう。二度目に訪ねたときなど、母親のお静は、 きまま 「失礼ながら、家族同然のおつもりでお気儘をいってくださいますように」 といってくれた。なんといっても彼女にとって治左衛門は、自分の一族にかわって敵をとって くれる大事な若者である。 治左衛門は、治左衛門で、男兄弟の中で育っただけに女世帯というものがめすらしく、座敷で ただすわっているだけで楽しかった。 と、つかすると、 茶はいつも、娘の松子が出してくれた。母親のお静は、 ' 「わたくしは台所で手が離せませんから、松がお相手しますように」 と、娘に命じて二人っきりにしてくれたりした。
しかがです」 関は、考えた。が、 すぐ決断した。 「そ、っ取りはからいます」 といった。治左衛門に首をあげさせて薩厚藩に花をもたせるというのは、関の薩摩藩に対する 政治的な配慮で、斬奸ののちの京都義挙は薩摩藩にたよらざるをえない。花をもたせて奮起をう ながす、ということであった。 ( とはいえ薩摩藩は結局、この年から七年後、慶応三年の薩長土三藩の王政復古密議までついに腰があがらな っ , ) 、 0 、刀子′・刀 関は一同の顔が出そろった上で、右の件をはかり、一同の賛同をえた。 みなの視線が、治左衛門にあつまった。どの視線もこの若者にひどく好意的であった。 ( オイは、やつど ) 治左衛門は、涙が流れてきた。何度もふいた。拭いてもふいてもあとから滲みあがってきて、 佐野の思うところ、他藩士のなかでたった一人参加しているあの薩摩の若者があわれである、 おおばら というのである。最初大法螺をふいていた薩摩藩士がつぎつぎと脱けてゆき、ついには治左衛門 ひとりになった。治左衛門は、ある日佐野に、「自分ひとりが参加するだけでも、水薩義盟に対 する薩人の誠意が後世に疑われすに済む」といった。また治左衛門は一人で藩を代表しているつ , も。り : か一 - 不・ 、「ムは井伊の行列にまっさきに斬り込み、島津家四百年の武勇を代表したい」ともいっ
まして数日後にやってくる水戸藩有志代表の木村権之衛門に、どういう返事もしようがないので ある。 「治左衛門」 雄助は悲痛な顔をした。 「われら兄弟二人だけで参加するか。藩も余人も頼むに足らぬ。二人で百人分の奮戦をすれば水 戸への義理もたとうというものだ」 「兄上」 治左衛門はくすくすわらった。雄助は、あきらかに藩の有志から置きざりにされている。自分 に機転がきかぬと叱りながら、次兄もたいした政治力があるわけではない。 「なにを笑う」 「いや、結局は、リ 険あるのみですよ。国許工作や京都工作などと諸先輩は奔走なさるが、要は井 伊を斬ればいいのでしよう」 「治左衛門、よくそいった」 なるほどそうである。能力のある連中は政治が多すぎ、つい本質を忘れてしまう。治左衛門の ふんきゅう のような男は、かえってこういう紛糾事態にあえば迷わない。 門「治左衛門、われらは薩摩藩士の名誉を守らねばならぬ。薩人にも信義あり、ということを水戸 桜人と天下、後世に示すのはわれわれ兄弟をおいてない」 % 「兄上も、論者だな。そういうことをいわなくても、要するに井伊を倒せば世がかわる。それだ
と、母親は、意外な顔をした。 「あなたに会うためにいらっしやったのですよ」 「ええ、あなたと雄助兄上様とに。水戸藩有志の代表として、薩摩藩有志と連絡をとるために命 がけで出ていらっしたのです」 「はは十め」 治左衛門はあらためて自分がよはど重要人物になっているらしいことを知った。しかし自分の ような田舎者に、かれらと連絡密議などできるものかどうか。 「おいくつぐらいのひとです」 「治左衛門様とおなじでございますよ」 「どちらも二十二歳でいらっしゃいます」 わけ ( なんじゃ、若な ) 安心して、奥へ通った。 そこに、佐野、黒沢がいた。松子を相手に冗談をいっている。日下部家がもと水戸藩士だった 、互いに旧知の間柄らしいのが、治左衛門に軽い嫉妬を感じさせた。 「それがし、俊斎、雄助の弟、有村治左衛門でごあす。兄同様おひきまわしを願わしゅう存じま
と、お静は断乎といし 「さりながら、その志をお汲み受けなきにおいては、ぜひに及ばず候につき、この席を御立たせ 申すことは、相ならす」 と、涙を溜めて詰め寄っている。治左衛門はうれしかったであろう。いや恋の成就などという ものではなく、人間、この場の治左衛門ほどに他の人間から厚遇を受ける例は、ますありえない であろう。死ぬ身へ、娘を呉れようというのである。 「治左衛門、情義、黙しがたく」と、大久保は云う。 おばしめし 「快然として、それほどの思召については、随分、その意に応じ候」 「母儀、喜悦ななめならす。娘をよびて盃をなさしめ、仮りに夫婦の契りを」 とある。仮り祝言をしたのである。その夜この夫婦は、添臥しをしたかどうか、わからない。 ただ大久保利通日記には、ただの半夜であるのに、「夫婦の契りを続けけるよし」とある。 想像するところ、年若い壮士の門出のために、お静は娘を贈ったのであろう。さらに想像すれ ば、壮士治左衛門を一夜でも婿にすることによって、桜田門外の斬奸は、日下部母娘にとって身 内の手による仇討ということになる。 変 の 翌る未明、治左衛門は、わらじを踏みかためて日下部家の軒下を出た。 田 桜路が、白い。提灯の明りの中で、しきりと白いものが降りしきっている。 ( 三月三日というのに、雪はめずらしい ) もだ ち
降雪で、幸い、相手は気づかない。杖にしていた刀をふりあげると、力いつばい、斬りつけた。 ばっと皮がはじけて幅が七寸ほど 刃は、治左衛門の後頭部にあたった。傷の長さは四寸、が、 になり、血がざあっと、襟くびから尻まで垂れた。 が、冶左衛門は倒れす、 「広岡君、敵じゃ」 と、顔をしかめていった。 広岡はふりかえりざま、小河原を斬り倒した。小河原は、再び気絶した。のち蘇生してこのと きの様子を語っていた。 たっくち たじまのかみ 治左衛門らは、なお歩いた。しかし和田倉門前から童ノロの遠藤但馬守屋敷の辻番所まできた とき、ます治左衛門が歩けなくなった。 「広岡君、オイはここらで切腹する」 広岡も重傷で、意識がもうろうとしているから、聞こえない。ただ、歩いた。しかし、すこし うたのかみ 離れた酒井雅楽頭屋敷の前まできて、どかっと大石に腰をおろし、 の「有村君、おれはここで腹を切る」 外 いった。冶左衛門がそばにいると田 5 ったのであろう。腹を一文字に切り、さらにのどをふ 田 桜た突きに突いて、つつ伏した。 治左衛門はそのころ路上に倒れ、脇差を抜き、倒れたままやっと腹に突きたてたが、それ以上 っ一 ) 0
しかしこういう対座は、ものの五分ともたなかった。治左衛門は、二人きりになると不器用に だまりこくってしまうし、松子もうつむいたきりで、たがいに話を交す勇気も話題もなかった。 ー ) かーし・内、心、 ( こぎゃん美しか娘は、鹿児島のお城下にもおらん ) とあぶら汗を流すような懸命さで、考えていた。しかし惚れている、と素直におもえなかった のは治左衛門の不幸であった。女に惚れるなどの感情は愧すべきものであると国ではおしえられ てきた。 その日、日下部家を訪ねると、母親のお静が出てきて、 「ああ、ちょ、つどよろしゅ、つ 1 ギ、いましたわ」 と、水戸なまりでいった。珍客がきている、という。この日、事件年譜によれば治左衛門が出 府して四カ月目の万延元年正月二十三日。 月声で客の名をいった。水戸藩小 玄関さきでお静が、治左衛門に予備知識をもたせるために、、 うままわりぐみ 姓二百石佐野竹之助、同馬廻組二百石黒沢忠三郎。 ( 同志だな ) 変 の名はかねてきかされている。佐野などは幽閉中の身で藩の監視を受けているため藩地をぬけ出 外 すだけでも容易ならぬ苦労があったはすだ。 桜「おふた方とも百姓の体にやっしていらっしゃいます」 「なにをしに来たのでしよう」
と、治左衛門は答えた。薩摩の幼児遊びに諸侯の紋所を覚える遊びがあるから、治左衛門は遠 目の直覚でわかる。 その行列が桜田門に消えたころ、井伊家の赤門が、さっと八ノ字にひらいた。 行列の先頭が、門を一歩。 よそお やがて、一本道具を先に立て、いすれもかぶり笠、赤合羽という揃いに装った五、六十人の行 列が、きざみ足で、しすしすと押し出してきた。 ようてい 総指揮者関鉄之助は、唐傘を一本、高目にさし、合羽、下駄、通行人といった行体で、ゆっく り井伊の行列にむかって歩いてゆく。そのあと、佐野らがつづいた。 佐野は羽織のヒモを解こうとしたが、関は空を見あげたまま、 「まだまだ」 0 と一い、つ おおすみのかみ 左組の治左衛門は、松平大隅守の長い塀のあたりを、数人で歩いている。 行列の先頭は、やがて治左衛門の眼の前をすぎ、二、三十歩進んだ。 ( まだか ) たんづっ 合図に短筒が鳴るはすである。 行列の先頭が、松平大隅守屋敷の門前の大下水まで達したとき、かねて辻番小屋の後ろにひざ まずいていた先頭襲撃組の森五六郎がにわかにとび出してきて、 「捧げまする、捧げまする」 と おおげすい
ありむらじざえもんかねきょ 桜田門外の事変であまねく知られている有村治左衛門兼清が、国許の薩摩から江戸屋敷詰めに しゆっぷ なって出府したのは、事件の前年、安政六年の秋のことである。二十二歳。 「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」 と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、 「米のめし」 と治左衛門は大声で答えた。薩摩藩士にはめすらしく色白の美丈夫で、頬があかい。外貌どお り、素直すぎるはどの若者だったのであろう。 ちゅうごしようっとめやく 江戸藩邸では、中小姓勤役という卑役をつとめた。 江戸ははじめてではあるが、次兄の雄助が一足さきに江戸詰めになって裁許方の書記をしてい 変たので、諸事、その引きまわしを受けた。 掛藩邸にわらじをぬいだその日、兄雄助は、 田「治左衛門、江戸に来た以上、命はないものと覚悟せよ」 とひくい声でいった。 びじようふ くにもと * 、いきょ
治左衛門はひきかえして、松子から笠をもらい、歩きだした。 あたごやま 集合地は、愛宕山である。山上の社務所付近で落ちあうことになっている。 石段をのばるころには、白雪がすでに二寸は積もっていた。 ばたんゆき のばるにつれて、足もとに市中のみごとな雪がひろがってきた。雪はすでに牡丹雪にかわり、 舞い重なって落ちてくる。 ( このぶんではまだ降るな ) からかさ 社務所付近には、すでに同志があつまっていた。唐傘、羽織、マチ高袴といった普通装束の者、 かつばすがた 笠をかぶって股引姿といった者、合羽姿、まちまちである。同志十八人。 この少数で、彦根はどの大藩の行列に斬り込んで功を収めうるかどうか、たれしもの気持に多 少の不安があった。 「やあ、治左衛門」 と、佐野は傘をさしかけてくれた。このほか黒沢が微笑して寄ってきた。あとの水戸侍は治左 かいごさきの - すけ なじみ ごじつだん , 日ーレ」馴氿木、が薄し学 / レし ) こナこどこかよそよそしかった。海後嵯磯之介、森五六郎などの後日譚では、 治左衛門をみるのははじめてであったという。かれらへはすべて、佐野竹之助がひきあわせの労 をとった。 やがて総指揮者関鉄之助の最後の注意があり、数人ずつ石段をおりはじめた。 やがて桜田門外の掛茶屋に入った。すでに井伊屋敷付近へは斥候として岡部三十郎が行ってお り、行列が門を出るや、合図を送ることになっていた。 ものみ