しわす 京も師走にちかい もみじ この日朝から紅葉くずしの粉雪がふったが、午後になって雨にかわった。 河原町の酢屋、といっても商売は材木商である。そこへひ 0 そりと訪ねてきた浪人者がある。 ずきんくろちりめん 宗十郎頭巾に黒縮緬の羽織、背が高い。 かいえんたい 海援隊くすれの陸奥陽之助 ( のちの伯爵陸奥宗光 ) で、 「いるか、お桂さんは」 と、台所の土間から中庭を通りぬけて、お桂が仮り住いしている離れの明り障子の前に立ち、 ちょんちょんと掌をたたいた。 「私だ、海援隊の陸奥だよ」 撃 襲 町予期しなかった客である。 しよう ふくめん 花お桂は立ちあがって請じ入れてやった。客は覆面のまま炉のそばへゆき、炭火をかかえるよう にしてしばらく凍えた体をあぶっていたが、やがて防寒用の頭巾をぬいで、
444 と、水戸浪士で、顕助と相役をつとめている香川敬三 ( のち伯爵・皇后宮大夫 ) に相談した。香川 は幕末の一部の志士から「品性劣等」と悪罵されるような面のある男だが、早くから風雲のなか を流転してきた男だけに、諸方の人物をよく知っている。 「妙な坊主がいる」 といった。学問がある。国学者であり、和歌がうまい。軍書にも明るい。しかも、熱狂的な攘 夷論者だ、と香川はいう。 「この坊主を連れ出そうではないか」 「学者か」 顕助は、眼をかがやかせた。顕助には学問というはどのものはない。 は戦さは動かせぬであろう。 「その占 ~ はど、つじゃ ? 」 「いや、この男は戦さができる」 「は ? ・」 じようしよう 「浄尚、と申したかな」 大坂にいる。門徒坊主である。大坂きっての東本願寺派の大寺である願教寺に寄寓していると そうのしものこおりしいのき いう。もとは大和添下郡椎本村浄蓮寺という村寺のうまれである。年のころは顕助より五つば かり・上だとい , フ。 「なんだ、そいつは」 しかし学者というだけで
刀のごとき尻尾あり。足は下駄をはき、頭の前せまし。ただしこの鳥、腹を断ちわってみれば、 こわね 胆、いたって小さし。鳴き声はしきりと詩を吟じ、声音のみを聞けば、なかなか猛勇のごとくな れども、逃ぐること早し」 山本旗郎は、そういう流行のなかから抜けでてきたような男で、 「ます、酒」 と、持参の徳利を、間においた。杯をかさねるうちに、酒を数度買い足し、ついに山本旗郎は ぎん 半ば正気を失うほどに大酔し、藤田東湖の作詩数篇をつぎつぎと吟じはじめた。 いっこうに本題に入らぬために、浦啓輔は、気が気ではない。ついに、山本の膝をつつき、 しゅげんびきやく 「山本氏。修験飛脚に託された手紙の一件、どうなります」 「ふむ。 山本は、朗吟中の腰を折られて、不快な顔をした。 「まだあわてすともよろしいのです。それよりも前にさる御仁に貴殿をひきあわさねばならぬ」 「いったい、その御用とは」 「斬る」 子山本旗郎は、手で真似をした。 園「新選組を」 祗 「いや、もっと大物です。斬り損ずればゅゅしき大事になります。さらに、薩長土いずれの藩士 2 が斬ったとわかってもこれは大事になる。されば、藩などには属さぬ貴殿に頼み入る次第です。
426 どく近郷から憎まれ、とくに土居村では俗謡がはやった。 「西に百々の酒屋 ( 池上 ) がなけりや、若い侍ころしやせぬ」 また、童女の手まり唄にも、こういうのがある。 やまが 「山家なれども土居の村ア名所、今日も論ろで四ッ塚様へ、花を立てましょ手まりの花を、ヒ フーミーヨー何時までも」 明治三十一年、墓は改葬されていま土居小学校の校庭のそばにある。 顕助は相変らず、鳥毛屋にいたが、ある日お光がこの女にしてはめずらしく顔色をかえてやっ てきて、 はんとき 「何やしらん、お武家はんが町年寄はんをつれてやってきて、半刻ほどひそひそ話しこんだはり ましたが、貴方さんらのこととちがいますやろか」 「武士が ? 」 顕助はむろんそのとき知るよしもないが、それが松屋裏町の剣術使い万太郎狐であった。 宿泊人はたしかに土州浪士か、ということを念を入れて確かめにきたのである。長州、土州の 浪士ならば斬りすててよし、しかし他藩の藩士、浪士ならば、うかつに手を出すと本藩が故障を 入れて時節がらなかなかうるさいことになる。 土佐藩は支配層が佐幕だったから、勤王運動をしている土佐人に対して冷酷で、京都でも新
452 そういったきり、香川敬三は数日、顕助にはものをいわなかった。 ところが、ちょっとした異変があった。 もの知らずであったはすの鷲尾卿が、にわかに軍略家になってきたのである。 参謀の顕助、香川敬三、大橋慎三の三人をよび、 「兵はまず威を四隣に張ることが肝要ゃ。わが軍、朝命によって紀川徳川藩およびはるか浪華城 ( 大坂城・当時幕軍の根拠地 ) を後方より牽制している。ところが、兵数わずか七、八百。これでは 幕軍も軽侮しよう。されば兵書に擬兵というものがある。人数を五千はあるかのごとく見せる要 がある」 ななくち と、高野山の七口に巨札を建て、かっ山内の宿坊に札をつくって、 薩州援軍屯所 長州奇兵隊営所 十津川郷士宿陣 せきふだ かん といったような関札を山上の東西五十丁の間いたるところに樹てさせ、その陣所々々に雑多な 旗、 . のばりをひるがえさせることを命じた。 なるはど、妙案である。 さっそく顕助らは実行した。あきらかに実効があった証拠に、あいさつかたがた偵察にやって くる紀州藩の使者たちも、一挙に態度をあらためるようになった。 「田中君、あれは三枝先生の智恵だな」
144 田中新兵衛が「斬ってはじめて剣がわかりもす」と上機嫌にわめきながら、ひらつ、と軒端へ とびこんだとたん、格子戸をあけて出てきたその諸大夫髷の武士の胸にもろに突きあたった。 武士は、おどろいたらしい。時節がら、 兇漢 とみたのは当然なことだ。田中新兵衛の奇妙な運命はこのときからはじまった。 武士はよほど使える男らしく、新兵衛の体がとんできた拍子に、とっさに刀のツカをぐっとあ げて新兵衛のみそおちを突き、たくみに新兵衛を雨中でころばせるや、 「無礼者」 と抜き打ちに斬りさげた。刀に恐怖がこもっている。新兵衛は危うくかわしてころころと転び、 「ご無礼さアして済ンもはんでごわす。事情がちがいもす」 とわめいたが、とっさの薩摩なまりだから先方に通じない。 武士も必死だ。二ノ太刀が、風を捲いて袴を切った。新兵衛もころげながら刀を抜き、 たも 「待って呉いやっ給ンせ。名を云もンで。薩摩藩の田中新兵衛でごわす」 恟、とした表情を、武士はした。薩摩の田中新兵衛ときいては、いよいよ最初の直感に狂いは ない。武士は踏みこむや、 「死ねつ」 と一颯、太刀を入れた。すさまじい撃ちである。新兵衛はグルリと体をまわし、薩摩鍛冶和泉 いっさっ
いう座談のあいだにきいた機密を幕府側に売り、多額な礼金を受けとっているという。 ちょうじゃ 「公儀の諜者か」 わかさのかみ 「そうだ。しかもこの男は絵師だから京都所司代にも出入りし、さきの所司代酒井若狭守などか らひどく可愛がられていたそうだ。所司代役人のなかでとくに親交のある者には、与カ加納伴三 郎という者がいる。加納が冷泉を使っているといううわさもある」 「なんだ、うわさなのか」 つまらぬ、という顔で、馬之助は、茶わんのふちに厚い唇を寄せた。 「酒は、おけ」 「ああ」 馬之助は素直に、茶わんを膝もとにおいた。 「うわさだけではないぞ。あんたは、さきごろ、朝議の機密がしきりと幕府側にもれて大騒ぎに ろうえい なった一件をおばえていよう。あのときは、三条実美公が、機密漏洩の張本人らしいという疑い があった。三条公だけしか知らないはすのことが所司代に筒抜けになっていたからだ。機密が洩 このために、三条公に天誅を加えよ れたために、幕吏につかまった同志も二人や三人ではない。 りうという者も出た。わすれたか」 泉「おばえている。しかし、ほどなく三条公の疑いが晴れたときいている」 冷「晴れていない。一時ほどではないが、いまなお機密が洩れつづけている。どうやら調べてみる 齠と、三条公の身辺に冷泉為恭という名が出た。この男は、ふるくから三条邸に出入りし、家来同
な ところが、一時は京都将軍まで樹てるつもりでいた清河が、その翌文久二年八月、江戸に舞い 奇もどっていた。 小石川伝通院裏の山岡鉄太郎の家に入るなり、ねむい、といった。 「さすが、豪気だ。上方の人に似合わぬ」 ばんどう 「男は坂東とかぎったもんやおへん」 二人はそれそれ刀を鞘におさめ、挙兵の準備として河内介は京都工作に、清河は画国工作にさ っそく奔走することになった。 清河の九州工作はみごとに成功した。かれ自身もおどろくほどであった。 かれはます、 へきすう 「諸子は僻陬の地に住んで、中央の動きを知らぬ。攘夷倒幕の機は熟しき「ている」 と説く。九州各地の志士は、もともと風雲に置きざりされることを恐れていたから、清河の法 螺をきいてふるいたち、 「もはや、時勢はそこまで進んだか」 と思った。京に新将軍家を樹立するとなれば、その親兵が要る。 かれらは清河の弁舌によ「てそくそく京をめざしてのば「てきた。幕末の風雲は、この清河八 郎の九州遊説から開幕したといっていし 四 かみがた
うらけ、すけ 大和十津川の郷士で、浦輔。 といえば、元治元年から慶応年間にかけて京の志士のあいだで高名な若者である。 「浦の剣、粗剛なれども気品あり」 といわれた剣客である。 よしつねりゅう 剣は、義経と、 わしい、今日でも古流の武芸家でこれを伝えている人があるが、十津川郷にった こせつ わった古拙な太刀わざである。それに独自の居合術を工夫し、 「浦の籠手斬り」 といえば、新選組でさえおそれた。 元治元年の禁門ノ変ののちは、洛中、新選組の暴威がすさまじく、過激浪士のなかでもほとん 子どこれに正気で立ちむこう者もいなくなったが、浦はしきりと挑戦し、数度路上で争闘し、三人 いみよ、つ 園までは斬った。 人斬り、と異名された、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦 斎でさえ、新選組に対しては一度も太刀をあわせなかったことからみても、浦啓輔の一種の人気 幻がわかる。
ょに、按摩が。 と、所司代屋敷の詰め所で眼をひからせたのは京都見廻組組頭の佐々木唯三郎である。佐々木 はこのところ、長州人狩りで、何人ひとを斬ったかわからない。 「へい、廚ノ下刻に呼びこまれて入ったきり、出た様子はねえんで」 見なれた按摩か。 「いえ、まったくの新顔で」 まあ、見張ってろ。 が、翌日午後になって、向いの床屋が、例の按摩が幾松の家からのこのこ出てくるのを見た。 旅装をしている。密偵がすぐあとをつけた。いかにも軽捷な男で、路地から路地を通りぬけるう ち、いつのまにか姿を見失ってしまった。 てつきり伏見から大坂へくだり長州へ逃げるてはずとみて、佐々木は、伏見の番所に、人相、 風体を急報した。 「ところが」 そのタ、密偵から意外な報告を佐々木は受けた。按摩は旅に出ていないという。 まだ京にいるのか。 「いるどころか、ついさっき、三本木の吉田屋 ( 料亭 ) によばれて入ったのを、たしかに見ました んで」 按摩だけではない。按摩が入ってからほどなく、桂の友人の対馬藩京都留守居役の大島友之助