「あ、堀田さま」 むざんなほどうろたえた。 「堀田だよ。離れは、明いていような」 「いえ、それが」 「だめか」 おんごく とうりゅう 「あいにく遠国の方が逗留なさっております」 必死の顔である。 ( この娘、女になったな ) ふと、そんな気がした。様子では、娘にとっても大事な客であるらしい おもや なかつば 堀田は、母屋の一間をあてがわれた。明けてば、中壺を通して離れの障子がみえた。 その障子が、堀田がまる二日逗留していても、一度もひらかれたことがない。 ( 風通しのわるいことだ ) そとゆ 湯は外湯である。いちいち町中へ出るのだが、そこでも離れの客とは出会わない。 四日目に、はじめて障子がひらいた。自然、堀田と視線が合った。 「あ、あなたでしたか。よはど御縁があるものとみえますな」 と堀田は愛想よく笑いか。た 男は用心ぶかい眼でじっと見つめていたが、やがて堀田の好人物そうな笑顔に、多少警戒を解 いたのか、片頬でちょっと笑った。それが、男惚れしそうなはどあざやかな表情だった。
316 桂が、きた。 しろうと どちらも素人くさい早碁で、またたくまに三局打った。夜になった。 ひとはり 帰りは昌念寺で提灯一張を借り、城下まで夜道を歩いた。桂は、堀田の左側から提灯をさしの べて堀田の足もとを照らしながら歩いた。 「桂さん」 堀田は、不意にいった。 そのとき桂はもう、提灯を地上にたたきつけて踏み消してしまっている。堀田が本名を知って いようとは、つゆも思わなかった。 「いや、当方に害意はない」 と、堀田はいっこ。 「話がござる。もそっと肩をならべて聞いてもらえまいか。そこでは遠すぎる」 暗くてよくわからないが、桂は道わきのねぎ畑の中に素っとんでしまっているらしい。透かし て、堀田は、苦笑した。 「なんなら、私の大小をそちらへ差しあげてもいいのです。話は、ねぎ畑では遠すぎる」 桂は、夜走獣のように疑いぶかい。さらに二、三歩にげかけたとき、さすがに温厚な堀田半左 衛門も大喝した。 「武士の言葉を信じられぬのか。貴殿も、一時は京を動かしたほどの男子ではないか」
「碁でも打ちませんか」 「ええ」 男は、障子を閉めた。 夕食後、堀田は男と碁盤をかこんだ。さ「きの笑顔とはおよそ遠い、不愛想な顔で男は碁を打 0 た。男の碁は理詰めで、慎重すぎた。これほどくそ面白くない碁打ちは、堀田にと「てはじめ てであった。 ときどき、宿の娘のタキが入「てきて、茶をいれたり菓子を運んだりして堀田の世話を焼いて くれたが、ときどき男へ走らせる視線が、ただな気色ではない。 ( この男女、出来ている ) 碁は二局や「て二局とも、堀田は斬り捨てられるような素ッ気なさで負けた。強い。が、その 間、男は無駄ロはひとこともきかす、名も名乗らなかった。 ( 妙なやつだ ) 翌日、タキに、 「」、つい、つ・仰 . 仁一 - だ」 ときいたが、タキはだまっていた。ただ、 「堀田様」 と田 5 いつめたよ、つに、つこ。 「堀田様のお人柄を信じてお願い申しますけれど、この松本屋にあの方が泊ま「ておいでなされ ′一じん けー ) キ、
いる その後、数日、男を相手に碁ばかり打「た。観察するこ、、 しよいよ長州人である。容貌がいわ ゆる長州顔で秀麗であ「た。碁は、激しいわりに抜け目がすこしもない。世上、「長人の怜悧」 とつあん といわれた、その気質まるだしである ( 水戸の志士大橋訥庵などは、家中の過激派が長州人と提携しょ うとするのをおしとどめ「長州怜悧にして油断ならず。いずれは当方が煮え湯をのまされることになろう」と いったといううわさは、世上、相当にひろまっている ) 。 そのくせ、長州人は頑固で妥協を知らない厄介な気質をも 0 ているのだが、この男もそうだ「 た。ある日、堀田半左衛門は、男の部屋で碁を打「ているとき、どうしても待「てはしい石が出 来た。 「これは、ひとっ御容赦ねがいたい」 し「たが、男は、だま「て、固い表情を左右に振「た。堀田は思わす、 「やはりお手前、長人だな」 とい 0 た。云「てからは「としたが、男はと「さに盤面に顔を伏せて、堀田の眼から表情を隠 した。おそらく真蒼になっていたろう。 「失礼した」と堀田はいっこ。 「ただこれだけは申しあげておきたい。堀田半左衛門は、槍とロの堅さだけは自慢の男です。そ れに、貴殿に好意をも「ている。密告しは致さぬ」 四「いや」
いそうろう ( 昌念寺に、妙な居候がいる ) と妻からきいたのは、きのうである。そのとき堀田半左衛門は、 「寺だ、いるだろう」 たじまいずしはん ぐらい答えて、気にもとめなかった。堀田半左衛門は但馬出石藩の槍術師範役で、五十石。家 せんごくけ 中では人柄で通っている。但馬出石というのは仙石家三万二千石の城下で戸数はざっと千戸。 市中に出石川が流れ、川の両側に町家、農家が入りまじりながらちまちまとかたまり、あとは 城と、但馬ぶりの無愛想な山々があるだけの町である。昌念寺は町の東北にある。 その後、数日して堀田半左衛門は昌念寺に出かけた。住持が、碁がたきだからである。 ちょうにんてい 方丈に通されると、いままで住持とひそひそ声で話していた町人体につくった男が立ちあがり、 やがて会釈もせすに退室してしまった。 じん の「ご住職。あの仁は」 逃と堀田は石を一つ置いた。 「あれか」
住持はめいわくそうに、つこ。 だんか にんべっ 「さる檀家からのあすかりもので、お役人に洩れては、まずい人物らし い。だから、戸籍のこと はきかずにいる。名も知らぬ」 眼つきからして武士だと堀田はみた。中背で肉の締まった体をしており、みるからに機敏そう な男だった。 ( 武芸者だな ) それも凡手でない。 そのことに興味をもった。さもなければ堀田は人を詮索するような男ではない。 ひろえや その昌念寺の客が、こんどは意外にも城下の広江屋という商家で立ち働いているのをみた。 ( はう ) 堀田半左衛門は立ちどまった。 亭主は甚助という気のいい男で、堀田半左衛門はよく知っている。ときどき京に出かけては呉 服を背負って帰り、城下の武家屋敷などに出入りして暮らしをたてている男である。 「甚助、だいぶ涼しくなったな」 まったくこの元治元年の夏は気違いじみて暑かった。 甚助は往来へとびだしてきて、ペこペこ頭をさげた。まだ二十代のくせに、二重に盛りあがっ た頭が禿げかけている。気の毒になるはど、滑稽な面相である。 せんさく ふたえ
男は、石を一つ置き、 「私は長州人ではございませぬ」 堀田の好意が宙に迷った。侮辱を感じた。 ( 可愛げのない男だ ) あとの碁が気まずくなった。 翌日、堀田は出石にもどった。ほどなく隣家のあるじで、京都藩邸に詰めていた橋爪善兵衛と いう者が帰国してきて、あいさつに来てくれた。 橋爪は、せんだっての蛤御門ノ変で他の出石藩士とともに下加茂付近を警備し、凄惨な市街戦 を目のあたりにみてきた男である。 「いやもう、長州軍の勢いというものは物凄いものだった。面もふらず御所の三つの門から乱入 し、一時は幕府もしまいかと思った」 「ところで」 堀田には訊きたいことがある。 「長州の将領たちはどうなった」 ようめい 「三家老は国もとへ敗走した。驍名をうたわれた来島又兵衛は蛤御門へまっしぐらに突っこんで きて会津勢を総崩れにさせたが、なにしろ幕軍は多勢だ。ほどなく会津の応援にかけつけた薩摩 くいち 兵の弾丸を胸に受けて討死してしまった。軍監久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎の三人の切腹死 たかっかさ まきいずみのかみ 体が、乱後、鷹司邸から見つかった。浪人大将の真木和泉守も天王山で自殺している」 きじま おもて
但馬出石城下の広江屋甚助のもとに身を寄せてからの桂については、藩の槍術師範役堀田半左 / 尸か、よく知っている。 ( 甚助はたしか、京にのばったときは、対州藩邸によく出入りしたときいたが、桂が甚助を頼っ たのも、その縁かも知れない ) と思った。 観測は遠くはない。甚助は年来大島友之助の妻に可愛がられており、大島が桂に、 「万一のときは、甚助が頼りになる。あれは小奕などを打 0 て稼業不熱心の者だが、並はずれ て侠気がある」 といったことがある。桂はそれを思いだしたのである。 甚助には直蔵、という弟がある。これも義侠の者で、兄弟そろって、まるで譜代重恩の家来も 及ばぬほどに桂のためにつくしてくれた ( 維新後、木戸はしばしばこの兄弟を東京にまねいて当時の恩 を謝した。兄弟は明治二年大坂へ出て商売を営んでいたが、木戸は他の権門富家の宿をことわって、この広江 屋に泊まっている ) 。 堀田半左衛門は、ほどなく城崎湯島村の松本屋の娘タキが、身籠ったことをきいた。そのころ 五は、桂はすでに城崎にいない。 の タキはほどなく流産した。 逃 ( 桂も、やる ) ところが堀田半左衛門をおどろかせたことは、桂はいつのまにか出石にもどっていて、城下の
「早ければあすにも、幕吏が貴殿を探索するために出石へ入る。それを知らせようと思って、今 夜の機会を作った。しかし左様なことよりも、貴藩のことだ。内外に敵を受けて存亡の岐路にあ るというのに、なぜかような山里で安閑と日を消しておられる」 「帰る」 裂くような声で、圭よ、つこ。。 本。しオとこへ、とまではいわす、身を躍らせ、闇にまぎれて姿を消し てしまった。あくまでも、用心ぶかい。が、このときの堀田半左衛門の一喝が、桂の惰気を一時 にはらった。瞬間、桂は以前のこの男に目覚めたといっていし 広江屋に立ち戻ったとき、甚助がおもわず怖れたほどの表情をしていた。 「甚助さん。生涯の頼みだ。いまから長州へ行「て、国の事情、往還の幕府の警戒ぶりなどをさ ぐってきて貰えまいか」 さすが、桂である。ここまで昻奮していても、なおすぐには腰をあげなかった。帰国するため の沿道の事情を十分調査したうえでのことであった。 「よ , つがす」 甚助は、軽快である。その夜のうちに手形をもらい、早暁には出石を発った。 っ数日して、堀田半左衛門は、桂の荒物屋に立ち寄った。 逃「居るかね」 と、女房にいっこ。 だき
慶応元年正月のなかば、桂が出石にいるという風聞が、京に伝わった。 京都守護職では、出石藩の京都藩邸に対し国許での探索を命する一方、京都見廻組からは三人 かんばっ の剣客が簡抜され、出石へ発った。 出石仙石家三万二千石は小藩だが、幕府にとって外様である。長州藩の相つぐ悲運に同情し、 この探索には、あまり熱意を示さなかった。堀田半左衛門が、藩の仕置家老森本儀兵衛から呼び だされたのは、それからはどもないころである。 儀兵衛は、城下における桂小五郎搜索のことをこまごまと述べ、 「ただ、広江屋の婿で孝助と名乗る他国者だけは、前歴、人相、どうもいぶかしい。おぬし、碁 などを打って心安くつきあっているときいている。いかがであろう、それとなく見さだめてもら んまし力」 と、儀兵衛は言葉を継いだ。 「京から見廻組の連中が入るという。できれば、かれらが来着するまでに、片をつけてもらえば し力」 桂なら遁してやれという謎か、それとも、半左衛門の手で片づけてしまえ、ということなのか。 堀田半左衛門は、昌念寺に行き、住持に、広江屋の娘婿をよびだして貰えまいか、とたのみ、 逃「これよ」 と、碁を打つ手つきをした。住持は気軽にひきうけて、小僧を使いにやってくれた。 のが