オカっては将 あったから、清河は家系といい、腕といし この主税介にある種の叛骨を期待しこ。、 軍家光の地位をおびやかしたほどの謀叛人の子孫なのである。 しかし清河の期待に反した。主税介は骨柄こそたくましいが、気だての温和な貴公子で、清河 はんじかん の人物よりその刀に興味をもち、四半刻ばかり刀をなめるようにながめてから、 「いや、眼福でござった」 と茶人のような顔つきで礼をいった。主税介はただそれだけの男であったが、その後しげしげ とこの屋敷に通うことによってこの屋敷にあつまる幕臣たちと知りあった。 でいしゅう よろず 幕臣というのは、のちの鉄舟、山岡鉄太郎、泥舟、伊勢守の高橋精一、それに松岡万などそれ それ武術凝りで知られた連中で、後年、清河が対幕府工作のうえで大いに利用した連中である。 かれの七星剣は、さっそくその持主を一歩、権門へ近づけることになった。 だいきち しかし大吉の運には、おもわぬ裏目もあるものらしい 意外な奇禍に巻きこまれるハメにもなった。 文久元年五月のことである。 当時、三河町の道場が焼けてしまったために神田お玉ケ池にあたらしく塾をかまえ、常時数人 の食客をおき、江戸に来る名のある尊攘家はほとんど清河の門をたたくほどになっていた。門柱 この剣をもっていたがために、清河は
しよう 1 一いん 2 「ご存じのように、紀州の京都藩邸は聖護院ノ森の東にあって市中への足場が遠いものですから、 かならす下京の油小路花屋町南の旅館天満屋に泊まる習慣がありま 祇園で夜を更かしたときは、 戦いは、市街戦になる。 陸奥は、陸援隊の仮隊長格の田中顕助にその旨を伝えた。が、当初は復仇を叫んでいた顕助の 態度が、この夜にわかに変わっていた。 じちょう 「自重せい」 とい、つ 陸奥は、冷笑をうかべた。臆した者を連れて行ってもなにもならない。 「君にその気がないなら、とくに勧めない。ただ、とめるのはよせ。それと、君の配下の有志は 借りてゆく」 顕助は、なにもいわなかった。顕助こと後の田中光顕伯爵が、このときなぜ急に自重論を出し たかということを、昭和十一年四月刊行の自伝でこう語っている。 私なども若い時分は暴発組の一人で随分乱暴なこともしたが、おいおい前途 ( 倒幕の ) に望み もでき、かっ隊をあすかっているという責任もあるので、もはやそのころは血気者流の軽挙妄 動を戒しめ、国に托した身でもって大死することをとくに慎しむようになった ( 顕助は当時二十 どう
はじいていた成一郎は、 おらアどももやるべえか。 栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血 と、従弟の栄一にもちかけた。 の気の多いところも似ている。 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし、 しん・ヘいぐみ 「神兵組」 という田舎の天誅団をつく 0 た。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」 という題がついている。 あまくだ 近日、高天ケより神兵天降り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三ヶ所に住居致 す夷の畜生どもをのこらす踏み殺し、 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あた りへ斬りこもうというものであった。 が、この暴発計画は、未遂におわった。田舎では人数があつまらなかったのであろう。 そこで、成一郎、栄一は、江戸へ出た。百姓ながらもすでに武士の風体を整えている。乱世で 用 算ある。 隊江戸では、攘夷党の巣窟のようになっている北辰一刀流の海保塾、千葉塾で剣を学び、さかん 彰に諸藩の志士や浪士とまじわった。 当時、一橋家では、当主の慶喜が京都御守衛総督として京へのばろうとしていた。 ゅうりよ かいほじゅく げきぶん
かずさのすけ かやく だまされなかった。加役の渡辺源蔵が松平上総介 ( 主税介を改名。当時すでに講武所教授 ) に清河 の遺品の大小をみせ、 「相違ござらぬか」 というと、上総介が、 「相違ない。しかし清河は別に差料として剣相でいう七星剣をもっていた。それを遺していない かぎり、清河は死んでいない。かれはいまごろその剣をかかえてどこかの山野に起居している」 上総介は、結局、清河を愛していなかったのだろう。 時をうっさす諸国に人相書がくばられた。 「歳三十位」 とその人相書に書かれている。 そうろうほう かくばりそうはっ 「中丈け、江戸お玉ケ池に住居、太り候方。顔角張、惣髪、色白く、鼻高く、眼鋭し」 眼鋭し、という当の清河は、その後、水戸、会津、庄内、越後、仙台、甲州、伊勢、と転々し て京に入った。 かわちのすけ 京都では、過激派の策士として知られる浪人田中河内介と相知り、数夜語りつづけるうちにた ・、いに影響しあってついに。思いもよらぬ結論に飛躍した。 「京で兵をあげよう」 というのだ。 たじまいずし くげざむらい 田中は、公卿侍の出だが、京都人ではない。但馬出石の人で中山大納言家の家来筋にあたる田 ちゅうた まなこするど
「一色鮎蔵とは、かって聞かなんだ名だが、どういう男か」 と、興味をもったのは、錦小路の薩摩屋敷を根城とする同藩の激徒田中新兵衛である。この男 げんみ、、 は、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦点とならんで、幕末の人斬り男として知られた人物である。 よほど興味をもったらしく、わざわざ河原町の土州藩邸を訪ね、知人の島村衛吉 ( 鏡心明智流の 達人で、翌文久三年、土佐藩の勤王党弾圧で獄死 ) に会った。 「よく知らんが、小藩の脱藩浪人のあいだでは、わりあい人気がある」 と、島村は、このなその東北人が浪士仲間に入りこんできた当初のエビソードをおもしろく語 ってきかせた。 古とはこ、つだ。 仏光寺の裏に、かりがね屋という旅籠がある。 ある日、この軒下に ーー会津藩仮宿所 じゅらく 大庭よりもやや遅れて入洛した家老田中土佐をはじめとする京都偵察団の一行の宿所である。 この一行は大庭の任務とはちがうから、堂々と所在を明示している。 宿札がかかった早々、通りかかった数人の浪士がこれをみて、 「グワイヅ藩」 と読んだ ( 当時の駈け廻り浪士というのは大てい無学で、この程度の教養の者が多かった ) 。 ぞう
その御用掛 ( 塾長 ) を兼ねている。 高杉は、ロやかましい小五郎には内緒で、その宇野東桜を、有備館の二階小部屋に連れこんだ。 「いやいや久しぶりで東桜先生の御高説を拝聴しようと思いましてな。伊藤俊輔、茶菓を差しあ げろ」 俊輔は階下へおりた。 東桜は、父の代に肥後細川家を浪人して江戸に出たと称しているが、高杉の調べたところ肥後 藩邸では左様な心当りがないといつ、ている。なかなかの学者で、しかも剣は心形刀流の免許皆伝 である。おそらく宇野東桜は、はじめは純粋な動機からの尊王攘夷主義者だったのであろう。 途中、なぜ幕府隠密になったのかわからない。 ただ考えられることは、宇野東桜が免許まで得た心形刀流は、幕臣伊庭家に十数世伝えられて る刀法で、当代の伊庭軍兵衛のもとに通う門人も、幕臣の子弟が多い。自然、そういう縁につな がって、隠密を頼まれる機会があったか、それとも、単に幕臣に知人が多いというだけの理由で、 ぬ水戸、長州などの過激分子から疑いをうけたのかもしれない。 死 ( 高杉さん、大丈夫かな ? ) で 階下で茶菓の用意を、有備館の小者に命じながら思った。高杉は江戸に出たころ、すぐ斎藤弥 ん 死九郎道場に入門したが、当時、斎藤道場の塾頭だった桂小五郎が手をとって教えても、剣に癖が つよすぎてあまり上達しなかった。 へき
Ⅷ「念のために、あなた様と坂本様との御縁をおきかせねがえませぬか」 「一度、お会いした」 お桂は、声をあげるところだった。この男も、自分と同じように薄い縁でしかない。 「それも、四年前だった」 当時、坂本の閲歴からみて、土佐を脱藩する直前のころだったらしい。剣術詮議のためと藩庁 に届け出て長州にむかう途中、宇和島の城下に足をとめ、旅籠に滞留した。 坂本は、将来のためにこの隣藩にも同志を獲ておくつもりだったのだろう。 が、当時、坂本の名が宇和島まできこえていたのは、国士としての名ではなく、江戸で千葉道 場の塾頭までっとめたという坂本の剣名のほうであった。 宇和島藩でも家中の若い剣術修行者はあらそってたずねたが、その中で田宮流居合の名誉後家 鞘彦六もいた。 坂本は、この彦六に興味をもったらしい 「ちょっと、その差料を」 と、坂本は餅切りで家中に名の高い後家鞘の佩刀を借り、抜こうとしたが、容易に抜けない。 やっと、ひきちぎるようにして抜き放ってから、 「おお」 と、笑いだした。「見なされ」と坂本は自分の佩刀を彦六の膝に押しやり、双方、抜きならべ てから、彦六も坂本の笑った意味に気がついた。
「やめろ」 とどなったが、幾松は舞いつづける。 たいしゅう 幾松の背後に客がいる。佐々木は一人二人の顔の覚えから、対州藩士らしいと見、それ以上の 追及をはばかった。 そのころ、桂小五郎は、一丈の高さの石垣をとんで、河原にとびおりている。 そのまま、桂は、京にも、幾松のもとにももどって来なかった。 あほだらきよう いったん、大坂へ落ちた。途中、旅芸人姿に身をやっし、阿呆陀羅経を唱えながら落ちていっ たというが、どこでどう装東をととのえたのであろう。その翌日、幾松も三本木の家をたたみ、 伏見の寺田屋の浜まで大島友之助の妻に見送られて、桂の搜索に出かけた。 が、大坂では桂を見かけなかった。実のところ桂は当時まだ大坂に潜伏しており、今橋付近で 旅姿の幾松を目撃したといわれているが、声をかけなかった。幾松自身気づいていないが、彼女 の背に密偵の眼がある。 それに当時、新選組の主力が大坂に出張していて、長州屋敷を襲って女子供まで捕縛し、市中 の探索も厳重をきわめた。とうてい、ながく潜伏していられる町ではない。 桂は、但馬の出石に走った。 幾松はそれに気づかす、桂が国許に帰ったものとみて、大坂から長州へ旅立った。 四
328 おみきどくり 愛がられる点、ふたりは御神酒徳利のように似ている。たがいの俗臭が気易くてごく安心してつ きあえる仲間なのだ。そんな弱点でひきあっている。 今夜は。 今夜は、ちょっとちがうのである。明晩、それこそ天下を驚倒させる大仕事をするために、土 蔵相模で流連けしているのだ。 当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しょ 、つとしていた。 「あれを焼いてしまえ」 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分 子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、そ の威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑ねつかえりの若者は、この当時、長州藩 でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。 この連中が、維新までの六年間、正気と は思えぬはどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中、そのほとんどが死に、生き残った者が気づ いたときは、維新回天の事業ができていた。 聞多と俊輔は、もうこういう時代から、この仲間に入っていた。 あくる日の夕方、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、同志の連中十二、三人が、そくそくと土蔵相 模にあつまってきた。 「俊輔、先イ来ちょったのか」
治四十三年刊 ) むろん、当時の藩邸のたれかが作ってはやらせたうわさ話だろう。高杉ほどのあっけらかんと した男と怪談とはちょっと結びつきそうにない。 宇野は隠密ではなかったという説がある。とくに藩邸でも反高杉派 ( 公武合体派 ) はそう信じて じようふ ゅうひっ いた。なかでも被害者宇野東桜と薄い縁者だった長州藩定府の奥祐筆某は、深く高杉を恨んでい たから、怪談。 まこの連中の云いふらしたものだろう。 これから十日あまり後、俊輔は、焼打の仲間の山尾庸三と二人でもう一つとほうもない暗殺を やってのけている。 当時、幕府は、極端な攘夷論者だった孝明帝を廃位せしめることを考え、ひそかに廃帝の先例 はなわ 故事を知るために、幕府の和学講談所の教授塙次郎に調査させているーーといううわさが、天下 の激徒のあいだに伝えられた。 が、うそである。 とは、ほどなくわかったが、噂が立ったころには、俊輔は、百姓じみたしぶとさで塙次郎をね らいはじめた。こんどは高杉の企画でもなんでもなく、豊太閤をあこがれている長州藩の若党伊 藤俊輔の、ひとりで立案した人斬りである。 塙次郎といえば、盲人で不世出の学者といわれた塙保己一の子であった。国学者だが、史実に なっかげ 明るい。そんな関係から、幕閣では、この塙次郎と前田夏蔭の二人に、寛永以前の外国人待遇の ばっかく