武市 - みる会図書館


検索対象: 幕末
15件見つかりました。

1. 幕末

( 田淵町か ) そこには、軽格が群れている。首領の武市半平太は、長州藩の過激志士とたえす連絡をと「て いる倒幕運動家であった。 武市は、江戸にいるころ鏡心明智流の桃井春蔵道場の塾頭をつとめたほどの剣客で、帰国して から、藩の軽格に学問、武芸をおしえている。それが非常な人気で、土佐七郡のすみすみから門 人があつまっており、那須信吾もその一人である。 朱鞘 直刀 よヾ、守、学 ) よ ↓ / 、刀ー刀十′十′ というのが、この武市門下っまり「土佐動王党」の風体で、藩では手を焼いている。弥太郎は、 おなじ軽格出身ながらもこの連中を好まなか 0 た。粗豪で無学で、武市になら 0 て熱狂的な、 「天皇好き」 であった。 そのくせ武市は別として、彼等がはたして真実の天皇好きかどうかについては、弥太郎には疑 雨問がある。 の 佐 かれら土佐郷士には奇怪な感情がある。藩主山内家への憎悪である。この憎悪は、どの土佐郷 士の家系にも代々伝えられ、二百余年十数代っづいてきた。 もはや種族的な憎しみにな「ているもので、かれらのたれもが、自分たちを山内家の家来だと

2. 幕末

らと麻布長州屋敷に密会し、「各自藩に帰って藩主を説き、藩論をまとめ、明年、時を期して京 都に入り、一せいに勤王倒幕の義軍をおこすべし」という、いわゆる三藩密約をとげていた ( も っともこの密約は、三藩とも藩内事情が保守的でうまくゆかなかったが ) 。 武市は帰国後、東洋をはじめ、譜代家老や大目付などを説きまわり、挙藩勤王をおこすよう必 死の工作をした。 が、東洋をはじめ藩の上層部は「武市の天皇狂いめ」とわらってたれも耳をかたむけない。武 市はついに、死を覚悟して最後の説得をするため東洋に会った。 ずいざん 「これは瑞山先生」 と、東洋は、うれしそうこ、つこ。ー 冫しオも議論も、この仕置家老の大好物であった。勝てるから である。とくに議論にかけては、幼少のころからたれにも負けたことがなかった。議論に勝つの は、男子の最大の快事であると思ってきた。 武市は、弁じたてた。もはや日本にとって徳川家は無用であるという。 「あんたは詩人だ」 と東洋は上機嫌で笑った。「歴史を詩で読んではいかぬ」と東洋は得意とする日本史をタテに とって説き、「上古は知らず、文治はじまって以来、日本では天皇自身が治世をしたことがない」 その間、武市のもっとも嫌いな人物をほめることで、相手を刺戟した。 「あんたはいやがるかも知れないがね、足利尊氏などは大した人物さ」 果然、武市はわなにかかって激怒した。怒らせてから東洋はさらに話題を一変し、

3. 幕末

274 しかがでした」 と、那須信吾がきいた。武市は、東洋の議論を逐一話し、最後に関ヶ原の報復うんぬんにまで きたとき、 「それは、われわれへの挑戦ではないか」 あわめし と、一同がさわいだ。関ヶ原で敗れて、二百数十年粟飯を食わされてきたのは、長州、薩摩よ りも長曾我部家の残党である土佐郷士こそそうではないか。そういう素姓を東洋が公然と侮辱し たとすれば、 ( 藩こそ、先祖代々の敵である ) と、かれらは思わざるをえない。 武市も、他の譜代家老とはちがい、吉田東洋だけは、最後に腹を打ちあければわかると思った。 というのは、東洋はめったにいわないが、その家系が長曾我部の老臣吉田大備後から出ていると いうことを武市たちは知っている。山内家入国後、長曾我部の遺臣から上士にとりたてられた数 少ない家系のひとつで、いわば武市らと同種族なのである。 ( 見誤った。 東洋は、同種族だからこそ、自分の出身種族の叛意に複雑な腹立ちを覚えるのだろう。 ( あの男の家系が一介の郷士なら、薩長の人材よりもさらにすぐれた志士になっていたろう。吉 田家は二百年、暖衣を着すぎた ) しかもいまは栄達の極にある。藩主も隠居の容堂も、東洋を家臣とはみず、師弟の礼をとり、

4. 幕末

「東洋先生」 とよんでいる。藩からこれほどまでの優遇をうけている東洋が、郷士どもにかつがれるはすが ( 斬るか ) と、武市が決意したのは、この夜である。 武市は、田淵町の徒党から刺客八人をえらび、これを三組に分けた。 第一組は、鏡心明智流の目録岡本猪之助を首班とする二人。第二組は、同流の免許皆伝島村衛 吉 ( のち土佐勤王獄で切腹 ) を首班とする三人。第三組は那須信吾である。武市は那須の組に、安岡 嘉助、大石団蔵を加えた。 、東洋にも油断がない。 刺客団は、各組とも根気よく東洋の動静をうかがったが 文久二年四月八日、この日は朝から曇っていたが、夕刻になって雨がふった。 「おい」 と、城下築屋敷にある家老深尾家の下屋敷の長屋をたたいた男がある。長屋には、例の若者が 寄留していた。田中顕助である。 雨戸をあけると、頭からミノをかぶった男が入ってきて、雨滴をふるいおとした。叔父の那須信 せまぞ 吾である。立派に髪がのび、好みの大たぶさを結い、月代を、「土佐勤王風」といわれる狭剃り 土 にしている。 「なにか、急用ですか」

5. 幕末

ろうぜきもの 「狼藉者、いずれにある。 声が湧きあがると同時に、ツッと那須が進んで、声を真向から斬った。 横倒しに倒れようとするところを、大石団蔵が、斬りつけ、倒れ伏したところを、安岡がとど めを刺した。 那須が首を打った。 大石団蔵が、自分の古褌でその首をつつんだ。真新しい晒を、と思っだが、たがいにそれを 購める金がなかった。 すぐ支度所である町はすれ長繩手の観音堂に引きとろうとしたが、大が首に食いっこうとして いかさま無事に観音堂へ持ちつけ」 ( 那須信吾書簡 ) 、 離れず「大いに迷惑っかまつり候へども、 とがま こうのますや それを観音堂で待機していた同志の河野万寿弥 ( のちの敏鎌。明治中期の農商務大臣 ) に渡し、ただ ちに旅装をととのえて、領外へ出た。 岩崎弥太郎は、同僚の井上佐一郎とともにその下手人探索を命ぜられ、かれらが大坂の長州藩 邸に潜伏しているところまでつきとめたが、弥太郎は井上に説き、 「京坂はすでに尊攘派の巣で、京都所司代、大坂城代の力さえおよびがたい。再起を期し、いっ 雨たんは国もとに帰ろう」 の といったが井上はきかす、このため岩崎は単身帰国し、すぐ士籍を脱している。 佐 土 残留した井上佐一郎は単身探索していたが、この年八月二十二日夕、武市党の岡田以蔵らの巧 みな誘いに乗り、心斎橋筋「大市」でかれらと飲み、帰路、九郎右衛門町の河岸まできたとき、 もと ふんどし 、、らし

6. 幕末

ドしこ言吾がとがめると、縁の上の東洋は信吾に一瞥もくれす、 家老とはいえあまりの丿ネーイ くそほ 「屁ではない。糞が咆えたのじゃ」 といった。 おら ( なるほど、吉田様の糞が叫びなさったか ) と、後日、このはなしをきいて下横目岩崎弥太郎は、さすがは東洋らしいと思った。ちかごろ 郷士どもが増長しすぎる。あれらは、糞のようなものだ。東洋は、連中にロで一喝するよりも、 胎中の糞をして一喝せしめたのだろう。 ところがその後はどなく、 東洋を斬る、という密謀がある。 といううわさが、家中で流れた。出所がどこで、何者が斬るのか、ともわからなかったが、弥 太郎はひそかに、那須信吾ではないか、と直覚した。信吾は、東洋の糞咆えにひどく憤慨してい たとい、つ 当然、このうわさを嗅いで、多勢の下横目が動きだした。弥太郎も役目がら、動いた。 が、目算ははすれた。 密謀のぬしは、檮原村の一郷士どころか、さらに巨大な存在であることがわかった。 集団である。五人や六人ではない。おそらく二百人はいるだろう。二百人中、数人をのそいて は、すべて、郷士、庄屋、地下浪人などの軽格である。その密謀の中心は、城下田淵の武市塾で あった。首領は、武市半平太である。

7. 幕末

「しかし、こういう時勢でございますから、手のきく者を一人、お召抱えになればいかがでござ ましょ , つ」 「それほど、わしが臆病にみえるか」 東洋はそうみえるのがいやなのである。登城下城は、依然として草履取り、若党をつれるだけ の手薄な供廻りだった。これも東洋の伊達のひとつなのであろう。 四 田淵町の武市塾の近所に、弥太郎の妻お喜勢の薄い親戚で、伊予屋五兵衛という筆を商う家 があった。弥太郎は、あるじの五兵衛に会い、 「事情がある。しばらく二階の物置を使わせてくれぬか」 と強引にたのんで、一ト月ばかり泊まりこんだ。この二階から、武市塾の人の出入りがよくみ えるのである。 のぞいていると、動静がよくわか「た。人の出入りが、一日二、三十人はある。例の佐川郷で 会「た田中顕助という若者がすでに城下に出てきているらしく、木綿の紋服、、 月倉の袴をつけて、 雨大声で議論しながら、往来を歩いていた。 の那須信吾も、二日か三日に一度はきた。いつも旅装で、肩に槍と面籠手をひ「かつぎ、馬のよ うな早さでや「てきては、帰る。この男は、檮原から二日がかりの道を一日で米るといううわさ であった。

8. 幕末

「京都の公卿の現実をご存じか。天下でもっとも腐敗しきった連中だ。政権をあの連中に渡すな どと、瑞山先生は正気で考えておられるのか。まさかと思うが」 さらに舌題を転じ、 「武士には恩義というものがある。わが山内家は、関ヶ原の功によって遠州掛川の小大名から土 佐一国を徳川家から拝領した。この事情は、関ヶ原で負けて減封された長州藩や、減封されぬま でも敗北の屈辱を負った薩摩藩とは、同日には論じられぬ。あの二藩はもともと徳川家へ怨みを 抱いて二百数十年をすごしてきたのだ。たまたま、こういう時勢になったから、にわかに尊王倒 幕などと申して報復しようとしている。わしは参政として、そういう連中には加担できぬ」 議論は数時間つづき、武市はついに座を蹴って立ちあがった ~ 東洋は勝った、と思った。が、義論に勝っことは同時に相手の名誉を奪うことだということを 東洋は知らない。 「そういう次第だ」 と、東洋は、弥太郎にいった。 弥太郎は、この男は殺される、とおもった。東洋の面上には、すでに死相がある。おそらく東 雨洋自身も気づかないそういうものが、玄関の物蔭にいた弥太郎の影におびえさせたのだろう。 の 佐 五 土 武市が真蒼な顔で田淵町にもどったときは、門下の二、三十人が詰めていた。

9. 幕末

「 ~ 行け」 弥太郎を追 0 ばら「たあと、若者はすぐ旅装をととのえ、佐川郷から二日行程の山中である檮 原村に急行した。叔父某はその村の郷士那須家の養子になっている。名を改めて那須信吾 ( 明治 後、贈従四位 ) 。 養父家は二百年つづいた貧乏郷士で、養父俊平は近郷の郷士の子弟に槍術を教えて食「ていた。 新妻は為代といった。人がよくて丈夫なのが取り柄の女である。すでにんでいた。 「叔父はいますか」 しんぞ と、新造の為代にきくと、「あの音がきこえませぬか」と、為代は笑「た。なるほど、裏で物 音がする。 裏へまわると、叔父の那須信吾は、四尺のびわの木刀をふる「て素振りの稽古をしていた。腰 を沈める。と同時に撃つ。はねあげてさらにうつ。空をうつのだが、撃つごとに渾身の力が地へ 吸いこまれて、地ひびきがするようであ「た。みごとな芸である。幼少のころから剣を好んだが、 近ごろ高知城下新町の田淵町に鏡心明智流の道場をひらいている武市半平太の手直しを受けて一 段と上達した。すでに武市道場では信吾におよぶ者がない。 雨「叔父上」 の と田中顕助は声をかけた。 佐 土 信五ロは、ふりむいた 「だいぶ、お髪がのびられましたな」

10. 幕末

と、その夜、真顔でいった。資金さえあれば、この土佐で儲かる商法がある。材木である。土 佐では材木は藩の専売品にな「ているが、それを山中で密伐し、に組んで土佐洋に出、大坂で 密売すればたちどころに巨利を得る。むろん、命がけの仕事だが、おなじ命を張るなら、そうい うことのほうが、弥太郎には魅力があった。 ( 資金は、郷士の株を売って作ればいい ) そこまで考えて、その夜は寝た。ところが翌夕、東洋の屋敷からよびだしがあった。行ってみ ると、東洋はまだ下城していない。 夜ふけになって、用人が、「おかあえり。 」とよばわり、いつものように門、玄関の障子を あけはなった。これも恒例で、家中の者が玄関へ迎えに出る。 弥太郎は玄関わきの湿った土の上に膝をつき顔をあげて待っていると、 門から提灯に先導され て入ってきた東洋が、弥太郎の前まできて、はっと飛びのいた。刀をぬいている。 「あ、弥太郎めにござりまする」 「わかっている」 東洋は自分の臆病を恥じたのか、気むずかしい顔で刀を収め、奥へ入った。 雨その夜、東洋の口から、藩庁でおこった事件をきいた。一 武市半平太が、「腹を切る覚悟できた」 のと、東洋に面会をもとめてきた、というのである。 土 このころ、武市はすでに、土佐藩における蔭の政党首領といってよかった。背後には血判加盟 かばやますけゆき している二百名近い同盟の士がいる。しかも、さきに江戸で、長州の久坂義助、薩州の樺山資之 とさなだ