浪士 - みる会図書館


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1. 幕末

かしの同志の甥というあたまがある。 きもめい 「顕助どのも、よく肝に銘じなされ」 びしやりといっこ。 「難物だな」 と、顕助は、あとで香川にこばした。香川も、連れてきたものの、ややヘきえきしたらしい 「あれは国学者だから」 と、香川はいった。おなじ攘夷主義者でも国学者系の志士は、」 の臭味がある。毛色が別だと かだのあずままろかものまぶちもとおりのりながひらたあったねおおくにたかまさ いっていい。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正といった系列から出ており、 宗教的な自国尊重者である。かれは、洋学、洋人、洋臭をきらうばかりか、漢学、仏教をも外国 思想として極度にきらっている。顕助と同時代の志士では、九州系浪士団をひきいて元治元年蛤 ぐうじ 御門の幕兵と戦い、天王山で自刃した久留米水天宮の宮司真木和泉や、但馬の生野銀山で義兵を くにおみ あげ、京の六角堂で獄死した筑前浪士平野国臣などはそうであった。平野は通称二郎といったが、 土かれの復古思想から国臣と改名し、大刀の帯びかたも異風であった。「戦国以来、武士は刀を差 夷すが、あれはまちごうちよるたい」と、中世の武士のように腰に佩いていた。幕末、ひと口に攘 けいれつ の 夷志士というが、この国学系統の志士はひどく宗教的で、行動も勁烈であった。明治後なおこの 後 じんぶうれん 最 系列は生き残って、熊本で神風連ノ乱をおこしたのは、この精神の残党であろう。 「なるほど」

2. 幕末

「しばらく寝かせてくれ」 部屋のひと隅に枕屏風をめぐらし、袴も解かず横になったまま、翌朝になっても起きない。タ 餉にやっと起きてきて、 「西国の武士は頼むに足らん」 と眼をそらし、ひとことだけいって、あとは山岡がどう水をむけても、何も語らなかった。 清河が上方、西国で一体なにをしてきたのか、山岡は明治になるまで知らなかったが、清河は 挙兵一歩手前にまでこぎつけていた。 九州の諸浪士はぞくぞく大坂に集結し、大坂土佐堀の薩摩屋敷に入った。当時薩摩藩は島津久 るざい 光以下諸重役は佐幕派で、過激派の西郷隆盛などは流罪に処せられている状態だったから、藩邸 むね ではこの招かざる客たちに大迷惑したが、とにかく空き棟になっている二十八番長屋をかれらに 提供し、体よく軟禁した。 が、志士たちは軟禁されたとは思わす、清河らのいう「薩摩の大軍」の来着を待った。薩摩の 大軍とは、島津久光が京都守護のために兵をひきいてのばってくるのを途中で擁し、これととも に兵を京都であげるつもりであった。久光こそ迷惑だったろう。 久光は清河のいう「薩摩の大軍」をひきいて文久二年四月十日、大坂の薩摩屋敷にはいった。 が、かれは浪士たちの計画をきき、藩士一同にかれらと交渉するのをきびしく禁じ、同時に浪士 の計画を黙殺した。 ろうかく しかし浪士たちは、まだ清河計画の挙兵が空中楼閣であることに気づかない。清河自身でさえ ゅう

3. 幕末

はじいていた成一郎は、 おらアどももやるべえか。 栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血 と、従弟の栄一にもちかけた。 の気の多いところも似ている。 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし、 しん・ヘいぐみ 「神兵組」 という田舎の天誅団をつく 0 た。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」 という題がついている。 あまくだ 近日、高天ケより神兵天降り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三ヶ所に住居致 す夷の畜生どもをのこらす踏み殺し、 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あた りへ斬りこもうというものであった。 が、この暴発計画は、未遂におわった。田舎では人数があつまらなかったのであろう。 そこで、成一郎、栄一は、江戸へ出た。百姓ながらもすでに武士の風体を整えている。乱世で 用 算ある。 隊江戸では、攘夷党の巣窟のようになっている北辰一刀流の海保塾、千葉塾で剣を学び、さかん 彰に諸藩の志士や浪士とまじわった。 当時、一橋家では、当主の慶喜が京都御守衛総督として京へのばろうとしていた。 ゅうりよ かいほじゅく げきぶん

4. 幕末

474 乱射した。 その一発が、三枝の足にあたって転倒したが、さらに起きあがり、人家の軒下へかけこみ、格 子をあけ、土間を走ろうとしたとき、ふたたび倒れた。 そこを捕縛されている。 英国側の損害は、斬撃された者九人、倒された馬は四頭。ただ し死者はなかった。 当時、二条城にいた浪士取締方の顕助は大いに驚き、即夜、川上邦之助、松林織之助、大村貞 助を監禁した。 「捕繩はせぬ。武士として遇するゆえ、かれらに連繋があったかどうか、ありていに申してもら 「あった」 と、三士とも昻然として答えた。なお攘夷志士としての誇りをもっていたのであろう。 新政府の刑法事務局では、英国側がこれらの一味の存在に気づいていないことを奇貨としてひ そかに隠岐島へ送った。 ただ、三枝と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。 かれらの士籍を削り、平民に落し、朱雀の死屍から首を切りはなして、粟田口刑場に梟した。 きようしゆだい 同じ梟首台に、三枝の生首もならんだ。 処刑の場所は粟田口であり、方法は、武士に対する礼ではなく、斬首である。 さら

5. 幕末

426 どく近郷から憎まれ、とくに土居村では俗謡がはやった。 「西に百々の酒屋 ( 池上 ) がなけりや、若い侍ころしやせぬ」 また、童女の手まり唄にも、こういうのがある。 やまが 「山家なれども土居の村ア名所、今日も論ろで四ッ塚様へ、花を立てましょ手まりの花を、ヒ フーミーヨー何時までも」 明治三十一年、墓は改葬されていま土居小学校の校庭のそばにある。 顕助は相変らず、鳥毛屋にいたが、ある日お光がこの女にしてはめずらしく顔色をかえてやっ てきて、 はんとき 「何やしらん、お武家はんが町年寄はんをつれてやってきて、半刻ほどひそひそ話しこんだはり ましたが、貴方さんらのこととちがいますやろか」 「武士が ? 」 顕助はむろんそのとき知るよしもないが、それが松屋裏町の剣術使い万太郎狐であった。 宿泊人はたしかに土州浪士か、ということを念を入れて確かめにきたのである。長州、土州の 浪士ならば斬りすててよし、しかし他藩の藩士、浪士ならば、うかつに手を出すと本藩が故障を 入れて時節がらなかなかうるさいことになる。 土佐藩は支配層が佐幕だったから、勤王運動をしている土佐人に対して冷酷で、京都でも新

6. 幕末

ドいいたてないから、幕 選組に斬られる者は多くは土佐人であった。斬られても藩が何の故章も 府方では遠慮なしにやった。幕末、もっとも多く血を流した集団の一つは土佐人であったが、 藩としての行動でなかったために、維新政府は薩長に独占された。維新後よくいわれた比喩に、 、、当ギ - たけ 「土佐の志士は、長州のミカン畑のコヤシになり、薩摩の藷畑のコヤシになった」というのが むく ある。かれらの流血ははとんど酬われず、維新後、自由民権運動に奔って、反薩長政府の行動 をとったのは当然であった。 もっとも維新政府で酬われた者も相当数は居た。が、かれらの多くは、維新後でさえ母藩を 恨み、「土佐藩はあのあぶない時期に一度も庇護してくれなかった。むしろかばってくれたの は長州藩で、われわれの故郷は長州であると、 ししたし」といった。もっとも長州藩も、相果的 には土佐浪士を危所に使ってずいぶん得をしている。 じんもん ついにお光も訊問された。利ロな女だからぬらりくらりととばけていたが、 「あの若い武士は本名何というのだ」 と万太郎狐がきいたとき、 トントと可愛が 打「さあ、何といわはりますのやろ。よう知りまへんけど、皆さんから、トント、 城られてはりまっせ」 浪 と冗談まじりについ口をすべらせた。お光は気づかなかったが、万太郎狐は心中、うなすくも のがあった。 ひご

7. 幕末

していることがわかる。 「捨ておけぬ」 と松平容保は断乎として検挙を命じ、二十六日、会津藩兵が市中に押し出し、かれらの大半を それそれの宿所で捕えた ( 因州浪士仙石佐多男は捕吏の前で自殺 ) 。これが京都守護職による最初の浪 おあずかり 士弾圧で、数カ月後、守護職御預新選組が設けられるにおよんで京は浪士殺戮のちまたになる。 かち 松平容保は、徒士の身分の大庭恭平をとくにお目見得をゆるし、 「手柄であった」 とほめたが、大庭恭平にすれば、密告が意外な結果をよんでしま 0 た。他日、姉小路暗殺につ かうために組織した浪士団が一挙に潰滅したことになる。 その上、 ふびん 「不憫じゃが、そちも同罪にするぞ」 と、容保はい 0 た。一色鮎蔵こと大庭恭平だけが捕縛をのがれたりすると、かえ「て密告の秘 密がばれる。 このため、大庭は、諸岡節斎とともに信州上田松平家の家臣にお預けになり、京を離れた。 血 の ほどなく上田を脱走し、京に舞いもど「て大仏裏釜師藤兵衛の寮に潜伏した。むろん、容 辻保承知のうえである。 猿 ーー姉小路を討つ。 これが、大庭恭平が、主家に報いるための執念にな「ていた。男の生甲斐が仕事だとすれば、

8. 幕末

「今夜は、蒸す」 このとき清河がこうつぶやいたことまで、おどろくべきことに幕吏の耳にちゃんと入っている。 ふう 清河は例の七星剣を枕もとに置き、帯を解いた。やがて素裸になった。出羽の風である。 ていり そのころ床下で幕府の偵吏が這いずっていることは、清河ほどの男でも気づかなかった。 みなとがわ というのは、清河屋敷の裏は、湊川という当時知られた力士の家と背合せになっている。幕吏 み一くレ」う はすでに一月ほど前から湊川の家から地下道を掘りぬいて鑿道を清河屋敷の土蔵の下まで通じて いた。浪士らとの密会は常に筒抜けである。この事実は、明治になって故老のはなしから明るみ に出た。 むろん当時の清河は、夢にも知らない。 なにぶん大老井伊が、昨春殺されている。つぎは老中安藤の暗殺だといううわさが、江戸では ひつけとうぞくあらため 高かった。その策源地の一つが清河屋敷の土蔵であることは、すでに火付盗賊改渡辺源蔵の手 もとで知られており、手先がいちいち盗み聴きしては出入りの浪士の名簿をつくり、日ならずし いちもうだじん て一網打尽にする手はずをきめていた。 この夜、湊川の家では、渡辺源蔵みずから出役していた。 日没後、水戸の過激浪士が数人清河屋敷にあつまる。 という情報があったからである。 こぶしんぐみ へやずみたださぶろう しかし清河は手ごわい、というので、とくに源蔵は、小普請組七百石佐々木家の部屋住唯三郎 みまわりぐみ という男に加勢をたのみ湊川の家にひかえさせていた。佐々木唯三郎は、のちに京都見廻組組頭

9. 幕末

188 馬之助は、居合に構えたまま、何物も見ざるごとく眼を細めて立っている。ただ視野のなかを おびただしい雪片のみがいそがしく通りすぎた。真剣の立ち合いでは、鎌次郎のほうが場馴れて いるだけに一日の長がある。しかしいま鎌次郎が仕掛けてくれば、馬之助の手は無意識にはたら いて相手を斬り倒すことができるだろう。 が、鎌次郎は、 「やめた」 といって、刀をひき、 しい芸をもっている。何流の居合だ」 「いすれ、顔をあわせることもあるだろう。そのときは君の首胴、所を変えるとおもって居たま え」 と鎌次郎は、京の浪士のあいだではやっている「給えことば」でいった。きざな男だと馬之助 はおもった。君、僕、などということばも、新選組や尊攘浪士のあいだで、ちかごろしきりとっ かわれはじめている。いわば志士ことばといっていし 雪は夕方になってやんだ。 その翌日、間崎馬之助は、別に用があって河原町の土州屋敷へゆくと、顔見知りの坂本童馬が 暗い土間で呼びとめた。馬之助はおどろき、 「いっ京へのばられたのです」

10. 幕末

秋十月になった。 すでに京の浪士間で、一色鮎蔵という名は知られはじめていた。 血 腕は立つ、というのだ。しかも、激論家である ( むろん偽装だが ) 。そのうえ、京にあらわ の 竝れるなり、軟弱論を唱える志士数人を、下河原で一人、 = 一本木で一人、四条の鵯川堤で一人、斬 猿 った。これが大そうな経歴になった。ちかごろでは河原町の長州屋敷や土州屋敷にも出入りしは じめている。 「小里どのも、京の人だからな。しよせん、われら会津者は、たとえわが殿が御駐留なされても、 この水と油になろう」 「いいえ、会津中将さまが近々に京の守護をなされるといううわさは、京の町方では大そうな人 気でございますよ」 これはこれで事実である。会津中将きたる、 といううわさは、京の浪士群を戦慄させてい る。 なんといっても会津は東方の雄藩だ。その藩兵は軍学長沼流で調練され、藩士いずれも武強で、 藩風は殺伐の評判が高い。 かかる藩が、王城の地に駐屯するのはいかがなものか。 公卿にそう焚きつけて、さかんに反対運動をしている一派もあった。