「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変わらず「ば。ふ。と いっかっ 一してただちに姉を辟易させる。しかし中途でロを出されたものだから、続きを忘れてしまって、 あとが出て来ない。「坊ばちゃん、それぎりなの ? 」と雪江さんが聞く。 「あのね。あとでおならは御免たよ。ぶう、ぶう。ふうって」 「ホホホホ、いやなこと、だれにそんなことを、教わったの ? 」 「おたんに」 「悪いおさんね、そんなことを教えて」と細君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ 9 なっとく 坊やはおとなしく聞いているのですよ」と言うと、さすがの暴君も納得したとみえて、それぎり当 分のあいだ沈黙した。 「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとうロを切った「昔ある辻のまん中に大きな 石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通るたいへんにぎやかな場所たも んたから邪魔になってしようがないんでね、町内の者がおお、せい寄って、相談をしてどうしてこの 石地蔵をすみの方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」 る あ 「そりやほんとうにあった話なの ? 」 で でみんながいろいろ相談をし 「どうですか、そんなことはなんともおっしやらなくってよ。 たら、その町内でいちばん強い男が、そりやわけはありません、わたしがきっと片づけてみせます って、一人でその辻へ行って、両をぬいで汗を流して引っぱったけれども、どうしても動かない んですって」 「よっぽど重い石地蔵なのね」
「いやな人ね、そんなもの見せびらかして。あのかたは寒月さんのとこへお嫁に行くつもりなん だから、そんなことが世間へ知れちゃ困るでしようにね」 「困るどころですか大得意よ。こんた寒月さんが来たら知らしてあけたらいいでしよう。、寒月さ んもまるで御存じないんでしよう」 「どうですか、あのかたは学校へ行って球ばかりみがいていらっしやるから、おおかた知らない でしよう」 「寒月さんはほんとにあのかたをおもらいになる気なんでしようかね。お気の毒たわねー しいじゃありませんか」 「なぜ ? お金があって、いざって時に力になって、 「叔母さんは、じきに金、金って品が悪いのね。金より愛のほうがたいじじゃありませんか。愛 がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」 「そう、それじゃ雪江さんは、どんな所へお嫁に行くの ? 」 「そんなこと知るもんですか、べつに何もないんですもの」 雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論をたくましくしていると、さっきから、わから あないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしもお嫁に行きたいな」と言いたした。こ 猫の無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大いに同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を 物抜かれたていであったが、細君のほうは比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑いながら聞 吾 いてみた。 すいどうばし 「わたしねえ、ほんとうはね、招魂社へお嫁に行きたいんたけれども、水道橋を渡るのがいやた から、どうしようかとってるの しようこんしゃ
代わりに・ ・ : 」「あの教師の所ののらが死ぬとおあつらえどおりにまいったんでございますがねえ」 おあつらえどおりになっては、ちと困る。死ぬということはどんなものか、また経験したことが ないから好きともきらいとも言えないが、先日あまり寒いので火消し壷の中へもぐり込んでいたら、 下女が吾輩がいるのも知らんで上からふたをしたことがあった。その時の苦しさは考えても恐ろし くなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子 の身代わりになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬことができないのなら、た れのためでも死にたくはない。 「しかし猫でも坊さんのお経を読んでもらったり、磁名をこしらえてもらったのだから心残りは あるまい」「そうでございますとも、全く果報者でございますよ。ただ欲を言うとあの坊さんのお 経があまり軽少だったようでございますね , 「少し短か過ぎたようだったから、たいへんお早うご げつけいじ ざいますねとお尋ねをしたら、月桂寺さんは、ええききめのあるところをちょいとやっておきまし た、なに猫たからあのくらいで十分浄土へゆかれますとおっしやったよー「あらまあ : : : しかしあ ののらなんかは : : : 」 吾輩は名前はないとしばしば断わっておくのに、 この下女はのらのらと吾輩を呼ぶ。失敬なやっ 「罪が深いんですから、いくらありがたいお経たって浮かばれることはございませんよ」 吾輩はその後のらが何百ペん繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き捨 てて、布団をすべり落ちて縁側から飛びおりた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度に立てて身震 いをした。その後二弦琴のお師匠さんの近所へは寄りついたことがない。今ごろはお師匠さん自身 かほうもの か、みよ・う
ではありませんからな。そのくらいなことよ , ーいかな苦沙弥でもむ得ているはすですが。いったいど うしたわけなんでしよう」 「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間がらであ ったそうだから御依頼するのたが、君当人に会ってな、よく利害をさとしてみてくれんか。何かお こっているかもしれんが、おこるのは向こうが悪いからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身 上の便宜も十分計ってやるし、気にさわるようなこともやめてやる。しかし向こうが向こうならこ っちもこっちという気になるからな つまりそんな我を張るのは一 ~ 「人の損たからな」 「ええ全くおっしやるとおり愚な抵抗をするのは本人の損になるばかりでなんの益もないことで すから、よく申し聞けましよう」 「それから娘はいろいろと申し込みもあることだから、必す水島にやるときめるわけにもいかん 。、、たんたん聞いてみると学間も人物も悪くもないようたから、もし当人が勉強して近いうちに博 士にでもなったらあるいはもらうことができるかもしれんぐらいはそれとなくほのめかしてもかま あ 「そう言ってやったら当人も励みになって勉強することでしよう。よろしゅうございます」 で 「それから、あの妙なことたが 水島にも似合わんことたと思うが、あの変物の苦沙弥を先生 物先生と言って苦沙弥の言うことはたいてい聞く様子だから困る。なにそりや何も水島に限るわけで はむろんないのたから苦沙弥がなんと言って邪をしようと、わしのにうはべつにさしつかえもせ んが : 「水島さんがかあいそうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「多々良さんせんたっては御親切にたくさんありがとう , 「どうです、食べてみなすったか、折れんように箱をあつらえて堅くつめてきたから、長いまま でありましたろう どろごう 「ところがせつかくくたすった山の芋をゆうべ泥棒に取られてしまって」 「ぬすとが ? ばかなやつですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか ? 」と三平君大いに 感心している。 「おかあさま、ゆうべ泥がはいったの ? 」と姉が尋ねる。 「ええ」と細君は軽く答える。 「泥棒がはいって , ー ! そうしてーー。泥蓐がはいってーー。。どんな顏をしてはいったの ? 」と今度は 妹が聞く。この奇間には細君もなんと答えてよいかわからんので 「こわい顔をしてはいりました」と返事をして多々良君の方を見る。 「こわい顔つて多々良さんみたような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。 「なんですね。そんな失礼なことを」 る , ( ( ( わたしの顔はそんなに一、わいですか。困ったな」と頭をかく。多々良君の頭の後部に で は直径一寸ばかりのはけがある。一か月前からできたして医者に見てもらったが、また容易になお 猫 このはげを第一番に見つけたのは姉のとん子である。 りそうもない。 「あら多々良さんの頭はおかあさまのように光ってよ」 「黙っていらっしゃいと一「ロうのに」 「おかあさまゆうべの泥棒の頭も光ってて」とこれは妹の質間である。細君と多々良君とは思わ
安心と腹のうちで思 0 ていると、とんと突いた箒がなんでも三尺ぐらいの距離に迫 0 ていたのには ちょ 0 と驚いた。のみならず第二の「またなんですか、あなた」が距離においても音量においても 前よりも店以上の勢いをも 0 て夜具の中まで聞こえたから、こいつはためだと覚悟をして、小さな 声「うんと返事をした。 早くなさらないと間に合いませんよ、 「九芋までにいらっしやるのでしよう。 そでぐち 「そんなに言わなくても今起きる」と夜着の袖口から答えたのは奇観である。細君はいつでもこ の手を食 0 て起ぎるかと思 0 て安心していると、また寝込まれつけているから、油断はできないと 「さあお起きなさい」とせめ立てる。起きるというのに、なお起きろと責めるのは気に食わんもん 、においてか主人は今まで頭からかぶってい だ。主人のごときわがまま者にはなお気に食わん。こ一 こ夜着を一度にはねのけた。見ると大きな目を二つともあいている。 「なんた々しい。起きるといえば起きるのた」 「起きるとお 0 しゃ 0 てもお起きなさらんじゃありませんか」 「たれがいつ、そんなうそをついた」 る 「いつでもですわー あ 「ばかをいえ」 と細君ぶんとして箒を突いて枕もとに立 0 ているところは 「どっちがばかたかわかりやしない と、、 \ っちゃんが急に大きな声をしてワーと位きたす。八つち 勇ましかった。この時裏の車屋の子ノ ゃんは主人がおこりだしさえすれば必す泣きたすべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。 こづかい ; 、、っちゃんこそ かみさんは主人がおこるたんびに八 0 ちゃんを泣かして小遣になるかしれんカ まくら
392 「わたし、いやよ」 「どうして、細君は少々驚いたていで、笑いをはたととめる。 「どうしてでも」と雪江さんはいやにすました顔を即席にこしらえて、そばにあ 0 た読売新聞の 上にのしかかるように目を落とした。細君はもう一応協商を始める。 「あら妙な人ね。寒月さんですよ。かまやしないわ , 「でもわたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から目を放さない。こんな時に一字も読める ものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣きたすたろう。 「ち 0 とも恥すかしいことはないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶わんを 読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪い」と新聞を茶わんの下から、抜こうとする拍 子に茶托こーっ 冫弖かか 0 て、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と 細君が言うと、雪江さんは「あらたいへんだ , と台所へ駆け出して行 0 た。ぞうきんでも持 0 てく る了見たろう。吾輩にはこの狂言がちょっとおもしろかった。 寒月君はそれとも知らす座敷で妙なことを話している。 「先生障子を張りかえましたね。だれが張ったんです」 「女が張ったんた。よく張れているたろう」 「ええなかなかうまい。あの時々おいでになるお嬢さんがお張りになったんですか」 「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると言 0 ていばってる 「へえ、なるほど」と言いながら寒月君障子を見つめている。
「いくらでも恐れ人るが , ( ( 日本堤分署というのはね、君ただの所じゃないよ。吉原だよ」 「なんた ? 」 「吉たよ」 「あの遊郭のある吉原か ? 」 「そうさ、吉原といやあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行 0 てみる気かい」と迷亭君また からかいかける。 し地んに一 4 人 主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡のていであ 0 たが、たちまち思い返して「吉原たろう ; 、遊たろうがい 0 たん行くと言 0 た以上はき 0 とゆく」といらざるところにカんでみせた。 愚人は得てこんなところに意地を張るものた。 迷亭君は「まあおもしろかろう、見て来たまえ」と言 0 たのみである。一瀾を生じた刑事事件 たべん・つう はこれでひとます落着を告けた。迷亭はそれから相変わらす駄弁を弄して日暮れ方、あまりおそく なると伯父におこられると言って帰って行った。 あ迷亭が帰 0 てから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎〈引き揚けた主人は再び拱手して下の 猫ように考え始めた。 「自分が感服して、大いに見習おうとした八木独仙君も迷亭の話によ 0 てみると、べったん見習 しようどう うにも及ばない人間のようである。のみならす彼の唱道するところの説はなんたか非常識で、迷亭 の言うとおり多少瘋新的糸統に属してもおりそうた。いわんや彼はれ 0 きとした二人の気違いの子 分を有している。はなはだ危険である。め 0 たに近よると同糸統内に引きずりこまれそうである。
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりのことに間い返す勇気もなく、どっと笑いくすれた時 に、次女のすん子がねえさんに向かってかような相談を持ちかけた。 「おねえ様も招魂社がすき ? わたしも大すき。いっしょに招魂社へお嫁に行きましよう。 いやならいいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」 「坊ばも行くの」とついに坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行くことになった。かように三人が顔を そろえて招魂社へ嫁に行けたら主人もさぞ楽であろう。 ところへ車の音ががらがらと、前にとまったと思ったら、たちまち威勢のいいお帰りと言う声が した。主人は日本堤分署からもどったとみえる。車夫がさし出す大きなふろしき包みを下女に受け ゅうぜん 取らして、主人は悠然と茶の間へはいって来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例 とっくり の有名なる長火鉢のそばへぽかりと手に携えた徳利ようのものをほうり出した。徳利ようというの は純然たる徳利ではむろんない 、といって花生けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、 やむをえすしばらくかように申したのである。 「妙な徳利ね、そんなものを警察からもらっていらしったのーと雪江さんが、倒れたやつを起こ ねっ - 」ら - しながら叔父さんに聞いてみる。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好たろ う」と自曼する。 「いい恰好なの ? それが ? あんまり・よかあないわ ? 油壷なんかなんで持っていらっしった 「油壷なものか。そんな趣味のないことを言うから困る」 「じゃ、なあに ? 」 ながひばち あぶらつに あ つ
478 「むっとして戻れば庭に柳かな」のもじり。作者大島蓼太は蕪村の弟子で江戸中期の俳人、「西の暁台、 東の蓼太」といわれた。 2 Telemachos 『オデュッセイア』の主人公。 トロイ戦争のギリシアの英雄オデュッセウスとその妻ペ ネロべ (Penelope) の子。 フィオイティオス 3 ともに英語読み。 Eumaios は豚飼いの男、 Ph ま三 9 は牛飼いの男の名。 horizontal ( 英 ) 水平な状態。 2 "Beowulf" イギリス文学最古の叙事詩。八世紀ごろの作。主人公ベオウルフが怪物や火竜を退治し た武勇物語。 3 Si 「 William Blackstone 0723 ー】 780 ) イギリスの法律家。 "Pie 「 , (the) Plowman = 十四世紀ごろのイギリスの寓意物語宗教詩。ラングランド (William Langland) の作と伝えられている。 1 ここでは本郷から湯島へ抜ける湯島切り通しのこと。 1 ここでは特に九段の靖国神社のこと。 中国隋代の仙人李洪水。餓死した乞食に魂を入れたため、ちんばで・ほろを着ている。 l()ll 1 stability ( 英 ) 安定態。安定度。 「こよい」の土佐方言。 2 お山踏み。山路を踏みわけて来る人。 『伝燈録』に「人の水を飲みて冷暖を自知するが如し」とある。人の助けをかりず自ら悟ること。 2 神・仏・恋・死など人事に関するすべてのこと。和歌の部分けでは、自然に対することばとして使わ れる。 市村座にあ 0 た芝居茶屋の屋号。当時、似た名まえの茶屋はほかの劇場にも多くみられた。