例によって金田邸へ忍び込む。 例によってとは今さら解釈する必要もない、しばしばを自乗したほどの度合を示す言葉である。・ 一度やったことは二度やりたいもので、二度試みたことは三度試みたいのは人間にのみ限らるる好 、 ) 苗と、えどもこの心理的特権を有してこの世界に生まれいでたものと認定していた 奇むではなし彳し だかねばならぬ。三度以上繰り返す時はじめて習慣なる語を冠せられて、一、の行為が生活上の必要 と進化するのもまた人間と相違はない。なんのために、かくまで足しげく金田邸へ通うのかと不審 あを起こすならその前にちょっと人間に反間したいことがある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻 とどん 猫から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥すかしげもなく吐呑し わがはい しゆっにゆう 物てはばからざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声でとがめたてをしてもらいた くない。金田邸は吾輩の煙草である。 まおとこ どろ・ほう 忍び込むというと語弊がある、なんだか泥棒か間男・のようで聞き苦しい。吾が金田邸へ行くの けいれんてき しようだい は、招待こそ受けないが、けっして鰹の切り身をちょろまかしたり、目鼻が顔の中心に痙攣的に密一 けきりん 「ワ、 サヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだーと口々にののしる。主人は大いに逆鱗のー ていで突然立ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を打って「おもしろい、やれやれ」 と言う。寒月は羽織のひもをひねってにやにやする。吾輩は主人のあとをつけて垣のくすれから住 来へ出てみたら、まん中に主人が手持ちふさたにステッキを突いて立っている。人通りは一人もな きつね ちょっと狐につままれたていである。 かつお
偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫たけれど、 = 。ヒクテタスを読んで机の上へ うちき、、くう ちびようぐびよう せんこと Ⅱたたきつけるくらいな学者の家に寄寓する猫で、世間一般の癡猫、愚猫とは少しく撰を異にしてい ぎきようしん る。この冒険をあえてするくらいの義陜心はもとよりし 0 ぼの先にたたみこんである。なにも嶼月 けつきそうきようさた 君に恩になったというわけもないが、一、れはたたに個人のためにする血気躁狂の沙汰ではない。大 あすま きくいえば公平を好み中庸を愛する天意を現実にするあ 0 ばれな美挙だ。人の許諾を経すして吾妻 とくと ) 、 橋事件などを至るところに振り回す以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として会う ふいちょう あんま 人に吹聴する以上は、車夫、馬丁、無頼漢 : 一、ろっき書生、日雇いばばあ、産婆、妖迷、按摩、頓 馬に至るまでを使用して国家有用の材にを及ぼして顧みざる以上は , ーー猫にも覚悟がある。幸い しもど どろ 天気もい、霜解けは少々閉ロするが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥がついて、縁側へ梅 の花の印を押すぐらいなことは、たたおさんの迷惑にはなるかしれんが、吾輩の苦痛とは申されな ゅうもうしようじん 。あすともいわすこれから出かけようと勇猛精進の大決心を起こして台所まで飛んで出たが「待 てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならす、脳力の発達においてはあえ て中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉の構造たけはどこまでも猫なので人間 しゅび の言語がしゃべれない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、十分敵の情勢を見届けたところで、肝 どちゅう 心の寒月君に教えてやるわけにゆかない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば上中 ちょうふつ にあるダイヤモンドの日を受けて光らぬと同じことで、せつかくの知識も無用の長物となる。 ぐち は愚た、やめようかしらんと上がり口でたたずんでみた。 ~ 、ろくも しかし一度思い立 0 たことを中途でやめるのは、タ立が来るかと待 0 ている時黒雲とも隣国へ通 り過ぎたように、なんとなく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別たが、いわゆる霻義のた ていさっ
いやこれはだめだと思ったから目をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのには どうしても我慢ができん。吾輩は再びおさんのすきを見て台所へはい上がった。するとまもなくま た投げ出された。吾輩は投げ出されてははい上がり、はい上がっては投げ出され、なんでも同じこ とを四、五へん繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。 このあいだおさんのさんまを盗んでこの返報をしてやってから、やっと胸のつかえがおりた。吾輩 が最後につまみ出されようとした時に、この家の主人が騒々しいなんたと言いながら出て来た。下 やど 女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出してもお台所へ上が って来て困りますと言う。主人は鼻の下の黒い毛、をひねりながら吾輩の顏をしばらくながめておっ たが、やがてそんなら内へ置いてやれと言ったまま奥へはいってしまった。主人はあまり口をきか うち ぬ人とみえた。下女はくやしそうに吾輩を台所へほうり出した。かくして吾輩はついに一、 . の家を自 分の住み家ときめることにしたのである。 吾輩の主人はめったに吾輩と顔を合わせることがない。職業は教師たそうだ。学校から帰ると終 日書斎にはいったぎりほとんど出て来ることがない。家の者はたいへんな勉強家たと思っている。 当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際は家の者がいうような勤勉家ではない。吾 輩は時々忍び足に彼の書斎をのぞいてみるが、彼はよく昼寝をしていることがある。時々読みかけ たんこうしよく てある本の上によだれをたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な 徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食ったあとでタカジャスターゼを飲な。飲 んだあとで書物をひろげる。二、 三ページ読むと眠くなる。よたれを本の上へたらす。これが彼の 毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考えることがある。教師というものはじつに楽なも
はこの先どこまで増長するかわからない。 わがままもこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道 を耳にしたことがある。 とつぼ 吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないがさ 0 ばりとした心持ちよく日の当たる所 だ。うちの子供があまり騒いで楽々昼寝のできない時や、あまり退屈で腹かけんのよくないおりな どは、吾輩はいつでもここ〈出て浩然の気を養うのが例である。ある小の穏やかな日の一一時ごろ であ 0 たが、吾輩は飯後快く一睡したのち、運動かたがたこの茶園〈と歩を運ばした。茶の木の 根を一本々々かぎながら、西側の杉垣のそばまで来ると、枯れを押し倒してその上に大きな猫が 前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのもい 0 こう心づかざるごとく、また心づくも無頓着なる ごとく、大きないびきをして長々とからだを横たえて眠 0 ている。ひとの庭内に忍び入りたる者が かくまで平気に眠られるものかと、吾輩はひそかにその大胆なる度胸に驚かざるをえなか 0 た。彼 は純粋の黒猫である。わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に投げかけて、 きらきらする和毛のあいたより目に見えぬ炎でも燃えいずるように思われた。彼は猫中の大王とも いうべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の 心に前後を忘れて彼の前に伊立して余念もなくながめていると、静かなる小春の風が、杉垣の上か ら出たる梧桐の枝を軽く誘 0 てばらばらと二、三枚の葉が枯れ菊の茂みに落ちた。大王はか 0 とそ のまん丸の目を開いた。今でも記憶している。その目は人間の珍重する琥玳というものよりもはる かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双搾の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上 にあつめて、おめえはい 0 たいなんだと言 0 た。大王にしては少々言葉がいやしいと思 0 たがなに
せきばく 三毛子は死ぬ、黒は相手にならす、いささか寂寞の感はあるが、幸い人間に知己ができたのでさ →「ほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人のもとへ吾の写真を送 0 てくれと手紙で依頼した男があ きびだんご をる。一、のあいだは岡山の名産吉備団子をわざわざ吾輩の名あてで届けてくれた人がある。だんたん 人間から同情を寄せらるるに従 0 て、おのれが猫であることはようやく忘却してくる。猫よりは、 きゅう」」う 吾つのまにか人間のほうへ接近して来たような心持ちになって、同族を料合して二本足の先生と雌雄 を決しようなどという了見は昨今のところもうとうない。それのみかおりおりは吾輩もまた人間界 けいべっ の一人たと思うおりさえあるくらいに化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑する次第ではな が月桂寺さんから軽少な御回向を受けているだろう。 ぶしようねこ 近ごろは外出する勇気もない。なんたか世間がものうく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無精猫 となった。主人が書斎にのみ閉しこもっているのを人が失恋た失恋たと評するのも無理はないと思 、つよ、つに , なっ亠」 0 わすみ 鼠はまたとったことがないので、一時はおさんから放逐論さえ呈出されたこともあったが、主人 は吾輩の普通一般の猫でないということを知っているものたから吾輩はやはりのらくらしてこの家 に起臥している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活に対して敬服の意を ちゅうちょ 表するに躊躇しないつもりである。おさんが吾輩を知らすして虐待をするのはべつに腹も立たない。 ひだりじんごろう 今に左甚五郎が出て来て、吾輩の肖像を楼門の柱に刻み、印本のスタンランが好んで吾輩の似顔を どんかっかん 2 カンヴァスの上に描くようになったら、彼ら鈍瞎漢ははじめて自己の不明を恥するであろう。
19 吾輩は描である しろその声の底に犬をもひしぐべき力がこもっているので書輩は少なからす恐れをいたいた。しか あいさっ し挨拶をしないとけんのんたと思ったから「吾輩は猫である。名前はまたない」となるべく平気を 装って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりもはけしく鼓動しておった。彼 けいべっ は大いに軽蔑せる調子で「なに、猫だ ? 猫が閣いてあきれらあ。せんてえどこに住んでるんだ」 ぼうじゃくふじん ずいぶん傍若無人である。「吾輩はここの教師の家にいるのた」「どうせそんなことだろうと思った。 いやにやせてるじゃねえか」と大王たけに気炎を吹ぎかける。言葉っきから察するとどうも良家の 猫とも思われない。しかしそのあぶらぎって肥満しているところを見るとごちそうを食っ匸るらし 豊かに暮らしているらしい。吾輩は「そういう君はいったいだれだい」と日かざるをえなかっ くろ こうゼん た。「おれあ車屋の黒よ」勗然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。し かし車屋たけに強いばかりでちっとも教育がないからあまりたれも交際しない。同盟敬遠主義の的 になっているやつだ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起こすと同時に、一方では少 少軽侮の念も生じたのである。吾輩はます彼がどのくらい無学であるかをためしてみようと思って 左の間答をしてみた。 「いったい車屋と教師とはどっちがえらいたろう」 「車屋のほうが強いにきまっていらあな。おめえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりた 「君も車屋の猫たけにたいぶ強そうた。車屋にいるとごらそうが食えるとみえるね」 「なあにおれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自山はしねえつもりた。おめえなんかも 茶畑ばかりぐるぐる回っていねえで、ちっとおれのあとへくつついて来てみねえ。ひと月とたたね
くいという念だけ残る。にくいという念を通り過ごすと張り合いが抜けてぼーとする。ぼーとした あとはかってにしろ、どうせ気のぎいたことはでぎないのたからと軽蔑の極眠たくなる。吾輩は以 上の径路をたどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在っても必要である。 ひとかたま ひさし 横向きに庇を向いて開いた引き窓から、また花ふぶきを一塊りなげこんで、はげしき風の我をめ ぐると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出したものが、避くる間もあらばこそ、風を切って く。一、れに続く黒い影は後ろに回るかと思うまもなく吾輩のしつぼへぶらさ 吾輩の左の耳へ食いっ がる。またたくまの出来事である。吾輩はなんの目的もなく器械的にはね上がる。満身の力を毛穴 に込めてこの物を振り落とそうとする。耳に食い下がったのは中心を失ってだらりとわが横顔に かかる。ゴム管のごとき柔らかぎしっぽの先が思いがけなく吾輩のロにはいる。屈強の手がかりに、 砕けよとばかり尾をくわえながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った 壁に当たって、揚げ板の上にはね返る。起き上がるところをすきまなくのしかかれば、毬をけたる ごとく、吾輩の鼻づらをかすめて釣り段の縁に足を縮めて立つ。彼は棚の上から吾輩を見おろす、 吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光が、大幅の帯を空に張るごとく横に あさしこむ。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足たけは ~ 目尾 猫よく棚の縁にかかったがあと足は宙にもがいている。しっぽには最前の黒いものが、死とも高る 、。前足を掛けかえて足がかりを深くしようとする。 まし、き勢いで食い下がっている。吾輩は危う 掛けかえるたびにしつぼの重みで浅くなる。二、三分すべれば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危 1 うい。棚板を爪でかきなしる音ががりがりと聞こえる。これではならぬと左の前足を抜きかえる拍 子に、爪をみごとに掛け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶらさがった。自分としつぼに食い けいべっ 一り
340 かわからなくなった」 以上は主人が当夜煢々たる孤燈のもとで沈思熟慮した時の心的作用をありのままに描き出したも のである。彼の頭脳の不透明なることはここにも著しくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字 髯をたくわうるにもかかわらす狂人と常人の差別さえなしえぬくらいのぼんくらである。のみなら ず彼はせつかくこの間題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついになんらの結論に達せすして やめてしまった。何事によらす彼は徹底的に考える悩力のない男である。彼の結論の茫漠として、 へいしゆっ 彼の孔から迸出する朝日の煙のことく、揄捉しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記 憶すべき事実である。 吾輩は猫である。猫のくせにどうして主人の心中をかく精密に記述しうるかと疑う者があるかも しれんが、このくらいなことは猫にとってなんでもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いっ ともかくも心得ている。人間のひざの上に 心得たなんて、そんなよけいなことは聞かんでもいい。 けい」ろも 乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔らかな毛衣をそっと人間の腹にこすりつける。すると一 しんがん 道の電気が起こって彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心に映する。せんたってなど は主人がやさしく吾輩の頭をなで回しながら、突然この猫の皮をはいでちゃんちゃんにしたらさそ あたたかでよかろうととんでもない了見をならむらと起こしたのを即座に気取って覚えすひやっと したことさえある。こわいことた。当夜主人の頭の中に起こった以上の思想もそんなわけあいで幸 いにも諸君に御報道することができるように相成ったのは吾輩の大いに栄誉とするところである。 ただし主人は「何がなんだかわからなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったので ある。あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違いない。向後もし主人が気違い
いるのをいた。 「どうもうまくかけないものだね。びとのを見るとなんでもないようだがみずから筆をとってみ じゅっかい ると今さらのようにむすかしく感する」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのないところ じようす きんぶち だ。彼の友は金縁のめがね越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室 内の想像ばかりで絵がかけるわけのものではない。昔イタリアの大家アンドレア・デル・サルトが 言ったことがある。絵をかくならなんでも自然そのものを写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛 いつぶく ぶに鳥あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。ど うだ君も絵らしい絵をかこうと思うならちと写生をしたら」 「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことを言ったことがあるかい。ちっとも知らなかった。 なるほどこりやもっともた。じつにそのとおりた」と主人はむやみに感心している。金縁の裏には あざけるような笑いが見えた。 その翌日吾輩は例のごとく縁側に出て心持ちよく昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出 て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっておる。ふと目がさめて何をしているかと一分ばかり細目に 目をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サをトをきめこんでいる。吾輩はこのあり さまを見て覚えす失笑するのを禁じえなかった。彼は彼の友に椰揄せられたる結果としてます手初 めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。あくびがしたくてたまらない。しか と しんぼう しせつかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒たと思うて、じっと辛抱しておった。 彼は今吾輩の輪郭をかきあげて顏のあたりを色どっている。吾輩は自白する。吾輩は猫としてけっ じようじよう して上乗のできではない。背といい毛並みといい顔の造作といいあえて他の猫にまさるとはけっし かんあ せいしん
三毛子は「あら先生 , と縁をおりる。赤い ~ 目輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になっ たら鈴までつけたな、どうもいい音たと感心している間に、吾輩のそばに来て「あら先生、おめで とう」と尾を左へ振る。われら猫属間でお互いに挨拶をする時には尾を棒のごとく立てて、それを 左へぐるりと回すのである。町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。吾輩・ うち は前回断わったとおりまた名はないのであるが、教師の家にいるものたから三毛子だけは尊敬して 先生々々と言ってくれる。吾輩も先生と言われてまんざら悪い心持ちもしないから、はいはいと爆 けしよう 事をしている。「やあおめでとう、たいそう立派にお化粧ができましたね」「ええ去年の暮れお師匠 いでしよう」とちゃらちゃら鳴らしてみせる。「なるほどいい音で さんに買っていたたいたの、 すな、吾輩などは生まれてから、そんな立派なものは見たことがないですよー「あらいやた、みんな あたしうれしいわ」とちゃらち・ ぶらさげるのよーとまたちゃらちゃら鳴らす。「いし 、音でしよう、 やらちゃらちゃらつづけざまに鳴らす。「あなたのうちのお師匠さんはたいへんあなたをかあいか あんきんせん っているとみえますね」とわが身に引きくらべて暗に欣まの意をもらす。三毛子は無邪気なもので ある。「ほんとよ、まるで自分の子供のようよ」とあどけなく笑う。猫たって笑わないとは限らな 人間は自分よりほかに笑える者がないように田 5 っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻 のどまとけ のあなを三角にして咽喉仏を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはすである。「いったいあ なたのとこの御主人 . はなんですか」「あら御主人たって、妙なのね。お師匠さんたわ。二弦琴のお 師匠さんよー「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔は立派なかた なんでしような」「ええ一 ひめこまっ 君を待っ間の姫小松 : あいさっ