下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が心太を踏みつぶすよりも容易である。この時吾 輩は我ながら、わが力量に感服して、これもふだんだいじにするしつぼのおかげだなと気がついて うんちょうきう だいみようしんらいは みるとたたおかれない。吾輩の尊敬するしつぼ大明神を礼拝してニャン道長久を析らばやと、ちょ っと低頭してみたが、どうも少し見当が違うようである。なるべくしつぼの方を見て三拝しなけれ ばならん。しつぼの方を見ようとからたを回すとしっぽも自然と回る。追いっこうと思って ~ 目をね てんちんこうさんすんり じると、しつぼも同じ間編をとって、・先へ駆け出す。なるほど天地玄黄を三寸裏に収め・るほどの霊 物だけあって、とうてい吾輩の手に合わない、しつぼをめぐること七たび半にしてくたびれたから やめにした。少々目がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角がわからなくなる。かまうものかと めちゃくちゃに歩き回る。障子のうちで鼻子の声がする。ここだと立ち止まって、左右の耳をはす に切って、息を凝らす。「貧乏教師のくせに生意気じゃありませんか」と例の金切り声を捩り立て る。「うん、生意気なやった、ちと懲らしめのためにいじめてやろう。あの学校にや国の者もいる すけふくち からな」「だれがいるの ? 」「津木。ヒン助や福地キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう しよう′こく 吾輩は金田君の生国はわからんが、妙な名前の人間ばかりそろった所たと少々驚いた。金田君はな あお語をついで、「あいつは英語の教師かいーと聞く。「はあ、車屋のかみさんの話では英語のリード 猫ルか何か専門に教えるんたっ・て言います」「どうせろくな教師じゃあるめえ」あるめえにもすくな からす感心した。「このあいた。ヒン助に会ったら、わたしの学校にや妙なやつがおります。生徒か ら先生番茶は英語でなんと言いますと聞かれて、番茶は savage tea であるとましめに答えたんで 教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかの者の、迷惑になって困りま すと言ったが、おおかたあいつのことだ、せ」「あいつにきまっていまさあ、そんなことを言いそうな におうさまところてん
、刀 ら一方には自分の勢力が示したく 0 て、しかもそんなに人に害を与えたくないという場合には、 らかうのがいちばんお恰好である。多少人をつけなければ自己のえらいことは事実の上に証拠だ てられない。事実になって出てこないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。 人間は自己をたのむものである。否たのみがたい場合でもたのみたいものである。それたから自己 , - これだけたのめる者た、これなら安心だということを、人に対して実地に応用してみないと気が すまない。しかも理窟のわからない俗物や、あまり自己がたのみになりそうもなくて落ち付きのな い者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使いが時々人を投けてみたくな るのと同じことである。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱いやつに、ただの一ペんでいいカ ら出会「てみたい、素人でもかまわないから投げてみたいとしごく危険な了見をいだいて町内を歩 くのも一、れがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから愁することにい かっふしひとおり いつでも教えてやる。以上に説くとこ たす。聞きたければ鰹節の一折も持って習いに来るがいい おくやま 1 さる ろを参考して推論してみると、吾輩の考えでは奥山の猿と、学校の教師がからかうにはいちばん手 猿に対してもったい ごろである。学校の教師をもって、・奥山の猿に比較してはもったいない。 あないのではない、教師に対しても 0 たいないのである。しかしよく似ているからしかたがない、御 で 承知のとおり奥山の猿は鎖でつながれておる。いくら歯をむき出しても、きや 0 きや 0 駈いでも引 かかれる気づかいはない。教師は鎖でつながれておらない代わりに月給で縛られている。いくら からか「た 0 て大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐることはない。辞職をする勇気のあるような者な 簡ら最初から教師などをして生徒のお守りは勤めないはすである。主人は教師である。落雲館の教師 ではないが、やはり教師に相違ない。からかうにはしごく適当で、しごく安直で、しごく無事な男
140 ろう」 「十年たつうちにはだいぶ違うもんだな」と主人は鈴木君を見上けたり見おろしたりしていを。 ~ りかざ 鈴木君は頭をきれいに分けて、英国仕立てのツィ 1 ドを着て、はでな襟飾りをして、胸に金鎖さえ 。ヒカつかせている体裁、どうしても苦沙弥君の旧友とは思えない。 「うん、一、んな物までぶらさげなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖を気 にしてみせる。 「そりや本ものかい」と主人は無作法な質間をかける。 「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君もたいぶ年を取ったね。たしか子供があるは ずだったが一人かいー 「まだあるのか、じや三人か」 「うん三人ある。この先幾人できるかわからん」 「相変わらす気楽なことを言ってるぜ。いちばん大きいのはいくつになるかね。もうよっぽどだ 「うん、いくつかよく知らんがおおかた六つか、七つかだろう」 「 ( ( ( 教師はのんきでいいな。ぼくも教員にでもなればよかった」 「なってみろ、三日でいやになるから」 「そうかな、なんだか上品で、気楽で、暇があって、すきな勉強ができて、よさそうじゃないか。
「君はなんにも知らんからそうでもなかろうなどとすまし返 0 て、例になく言葉すくなに上品に 控え込むが、せんた 0 てあの鼻の主が来た時の様子を見たらいかに実業家びいきの尊公でも辟易す るにきまってるよ、ねえ苦沙弥君、君大いに奮闘したじゃないか」 「それでも君よりぼくのほうが評判がいいそうだ」 ( ( ( なかなか自信が強い男た。それでなくてはサヴ = ジ・チーなんて生徒や教師にからか われてすまして学校へ出ちゃいられんわけだ。ぼくも意志はけ 0 して人に劣らんつもりだが、そん なに図太くはできん敬服の至りだ」 「生徒や教師が少々ぐずぐす言 0 た 0 て何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家 であるがパリ大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応するため外出の際必す匕 首を袖の下に持 0 て防禦の具となしたことがある。ブルヌチ = ルがやはりパリの大学でヴラの小説 を攻撃した時は : : : 」 「だって君や大学の教師でもなんでもないじゃない、。こ : 、 カリードルの先生でそんな大家を例 にリくのは雑魚が鯨をも 0 てみすからたとえるようなもんだ、そんなことを言うとなおからかわれ あるぜ」 で 「黙 0 ていろ。サントブーヴた 0 ておれだって同じくらいな学者だ」 「たいへんな見識だな。しかし剣を持 0 て歩くたけはあぶないからまねないほうがいしょ 学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀ぐらいなところだな。しかしそれにしても刃物はけ んのんたから仲見世〈行 0 ておもちゃの空気銃を買 0 て来てしょ 0 て歩くがよかろう。愛嬌があ 0 ねえ鈴木君、と言うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほ 0 と一息つきながら
128 ていである。 ひつぎよう いや、まことに言語道断で、ああいうのは畢竟世間見すのわがままから起こるのだから、ちっ と懲らしめのためにいじめてやるがよかろうと思って、少し当たってやったよ」 「なるほどそれではたいぶこたえましたろう、全く本人のためにもなることですから」とお客さ んはいかなる当たり方か承らぬ先からすでに金田君に同意している。 すすき ふくち 「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしよう。学校へ出ても福地さんや、津木さんに はロもきかないんだそうです。恐れ入 0 て黙 0 ているのかと思 0 たらこのあいだは罪もない、宅の 書生をステッキを持 0 て追 0 かけた 0 てんですー、・ー・三十面さげて、よく、まあ、そんなばかなまね ができたもんじゃありませんか、全くやけで少し気が変になってるんですよ」 「へえどうしてまたそんな乱暴なことをやったんで : : : 」とこれには、さすがのお客さんも少し 不審を起こしたとみえる。 「なあに、たたあの男の前をなんとか言って通ったんだそうです、すると、 いきなり、ステッキ を持 0 てはたしで飛び出して来たんだそうです。よしんば、ち 0 とやそ「と、何か言 0 た 0 て子供 ひげづら じゃありませんか、髯面の大僧のくせにしかも教師じゃありませんか」 「さよう教師ですからな」とお客さんが言うと、金田君も「教師だからな」と言う。教師たる以 ーいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの三人の期せすし て一致した論点とみえる。 十いき : うにみ 「それに、・あの迷 0 て男はよ 0 ぽどな酔興人ですね。役にも立たないうそ八百を並べ立てて。 わたしゃあんな変てこな人にやはじめて会いましたよ
0 たからいいかげんにその場をごまかして家〈帰「た。この時から吾輩はけ 0 して鼠をとるまいと 決心した。しかし黒の子分にな 0 て鼠以外のごちそうをあさ 0 て歩くこともしなか 0 た。ごち一てう うち を金うよりも寝ていたほうが気楽で いい。教師の家にいると猫も教師のような性質になるとみえる。、 用心しないと今に胃弱になるかもしれない。 教師といえば吾輩の主人も近ごろに至 0 てはとうてい水彩画において望みのないことを悟 0 たも のとみえて十二月一日の日記にこんなことを書きつけた。 〇〇という人にきようの会ではじめて出会 0 た。あの人はたいぶ放蕩をした人たというがなる ほど通人らしい風采をしている。こういうたちの人は女に好かれるものだから〇〇が放蕩をした というよりも放蕩をするべく会儀なくせられたというのが適当であろう。あの人の細君は芸者た そうた、うらやましいことである。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のない者 が多い。また放蕩家をも 0 て自任する連中のうちにも、放蕩する資格のない者が多い。 これらは 会鬱なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水彩画におけるがごときもの でとうてい卒業する気づかいはない。しかるにも関せす、自分たけは通人だと思 0 てすましてい る。料理屋の酒を飲んだり待〈〔〈はいるから通人となりうるという論が立つなら、吾輩もひとか どの水彩画家になりうる理窟だ。吾輩の水彩画のごときはかか . / しー よ、一まうがましであると同じよう おおぼ に、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮のほうがはるかに上等だ。 しこう 通人論はちょ 0 と ~ 目肯しかねる。また芸者の細君をうらやましいなどというところは教師として はロにすべからざる愚劣の考えであるが、自己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。主 人はかくのごとく自知の明あるにも関せすその自惚なはなかなか抜けない。中二日おいて十二月四 .
れは偶然の暗合であ 0 て、指擂されるまで漱石はそのことを知らなか 0 たのである。だがより本質 的な類似を求めるなら、むしろモンテスキウの『ベルシャ人の手紙』を挙げるべぎではなかろう か。われわれの気づかない慣習や風俗や感情の奇怪さや不条理を摘出し、それを嘲笑の対象とし得 るためには、そのような社会の慣習や感情から自由である異邦人をその社会に投げ込んでみるのが いのである。ベルシャ人はそのような人物としてパリの社交場裡に現れた。同じく「猫」はその ような者として苦少強先生宅を栖として選んたのである。「猫」によって笑われるものは、あらゆ る人間の愚劣さである。人間社会のコンヴ = ンションに対するその無智が、この場合最上の武器と なる。われわれがその中に住んでいるがゆえに不条理とも奇異とも疉劣とも感じていない、或は感 じるこどが出来ないあらゆる習俗が、「猫」に取っては無智ゆえにその不条理さ、愚劣さが拡大され てに映るのた。人々が日常考えたり行なったりしているあらゆる些事に素朴に驚くことによって、 逆にわれわれを驚かす。「猫」によって、書生も、おさんも、教師も、その細君も、その小供も、 金満家も、太平の逸民も、泥棒も、すべて愚弄され、嘲笑される。ことにも 0 とも笑われているの は、からかうに一番手頃の例として「奥山の猿」 - とともに挙げられている学校教師である苦沙弥先 生である。作者はそのような笑いの場所を、「猫」によって設定したのである。 説苦沙弘先生を始め、迷亭・寒月・東風・独仙等はすべて「太平の逸民」であると言われている。 苦沙弥先生は中学の英語教師であり、迷亭は美学者であり、寒月は科学者であり、東風は新体詩人 解 であり、独仙は哲学者である。たが彼等はすべて世事にかかわらす、実行力のない「余計者」であ この作 る点に於いて一致している。彼等が苦沙弥宅に集 0 て他愛ない気餤をあげる会話の応酬に、 このような人種を、漱石は後の滑稽的ならぬ作品 品の面白さの大半は費されていると言ってよい。 きえん
のだ。人間と生まれたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでもできぬこと はないと。それでも主人に言わせると教師ほどっらいものはないそうで彼は友だちが来るたびにな んとかかんとか不平を鳴らしている。 吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外の者にははなはだ不人望であ 0 た。どこへ行 0 ても ちんちょう はねつけられて相手にしてくれ手がなか 0 た。いかに珍重されなか 0 たかは、今日に至るまで名前 さえつけてくれないのでもわかる。 吾輩はしかたがないから、できう る限り吾輩を人れてくれた主人の そばにいることをつとめた。朝主 人が新聞を読む時は必す彼のひざ の上に乗る。彼が昼寝をする時は 必すその背中に乗る。これはあな がち主人が好きというわけではな いがべつにかまい手がなかったか らやむをえんのである。その後い ろいろ経験の上、朝は飯櫃の上、 こたっ 夜は炬燵の上、天気のよい昼は縁 、【 = 」・【′第【 - をを , 、ー第第ーに仰へ寝ることとした。しかしいち ばん心持ちのいいのは夜に入って 第 めしびつ
ひざがしら 先生が煙管で膝頭をたたく。吾輩はけんのんになったから少しそばを離れる。「その朗読会さ。せ んだってトチメイホーをごちそうした時にね。その話が出たよ。なんでも第二回には知名の文士を 招して大会をやるつもりだから、先生にも、せひ御臨席を願いたいって。それからぼくが今度も近 こんじきやしゃ せわもの 松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はすっと新しいものを選んで金色夜叉にしまし し」ら : ′ノ みや たと言うから、君にゃなんの役が当たってるかと聞いたら私はお宮ですと言ったのさ。 . 東風のお宮 かっさい はおもしろかろう。ぼくはぜひ出席して喝采しようと思ってるよ」「おもしろいでしよう」と嶼月 君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないからいい。迷亭な どとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀の舌とトチメンポーの復讎を一度にと ぎようとくまないた 1 る。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせぼくなどは行徳の俎という格たからなあ」と竺 ~ う。「ま すそんなところだろう」と主人が言う。じつは行徳の俎という語を主人は解さないのであるが、さ すが長年教師をしてごまかしつけているものたから、こんな時には教場の経験を社交上に応用する しんそっ のである。「行徳の俎というのはなんのことですか」と寒月が真率に聞く。主人は床の方を見て「あ の水仙は暮れにぼくが風呂の帰りがけに買って来てさしたのたが、よくもつじゃないか」と行徳の る俎を無理にねじ伏せる。「暮れといえば、去年の暮れにぼくはじつに不思議な経験をしたよ」と迷 で亭が煙管を大神楽の ) 、とく指の先で回す。「どんな経験か、聞かしたまえ」と主人は行徳・の俎を遠 く後ろに見捨てた気で、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと左のごとくで 吾ある。 とうふう 「たしか暮れの二十七日と記憶しているがね。例の東風から参堂の上せひ文芸上の御高話を伺い たいから御在宿を願うという先ぶれがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来な すいせん おおかぐら
302 とうとう 一、のあばたはけっして軽蔑の意をもって見るべきものでない。滔々たる流俗に抗する万古不磨の穴 の集合体であって、大いに吾人の尊敬に値するでこぼこといってもよろしい。たたきたならしいの が欠点である。 うしごめやまぶしちょうあさだそうよく びようか 主人の子供の時に牛込の山伏町に浅田宗信という漢方の名医があったが、この老人が病家を見舞 一 ) を寸には必すかこ冫 こ乗ってそろりそろりと参られたそうた。ところが宗伯老がなくなられてその養 じんりきーや 子の代になったら、かごがたちまち人力車に変した。たから養子が死んでそのまた養子が跡をつい かっこんル一う だら葛根湯がアンチ。ヒリンに化けるかもしれない。かごに乗って東京市中を練り歩くのは宗伯老の 当時ですらあまりみつともいいものではなかった。こんなまねをしてすましていたものは旧弊な亡 者と、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。 主人のあばたもそのふるわざることにおいては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒な まくる くらいだが、漢方医にも劣らざる頑固な主人は依然として孤城落日のあばたを天下に露しつつ毎 冂登校リードルを教えている。 かくのごとき前世紀の記念を満面に刻して教壇に立っ彼は、その生徒に対して授業以外に大なる 》 11 る 訓戒をたれつつあるに相違ない。彼は「猿が手を持つ」を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす 影響、という大間題を造作もなく解釈して、不言の間にその答案を生徒に与えつつある。もし主人 のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼ら生徒はこの間題を研究するために図書館も ほうふつ しくは博物館へ駆けつけて、吾人がミイラによってエジ。フト人を髣髴すると同程度の労力を費やさ ねばならぬ。この点からみると主人のあばたも冥々のうちに妙な功徳を施している。 ほ・つ ; て′ノ これでも実は種え もっとも主人はこの功徳を施すために顔一面に疱瘡を種えつけたのではない。 ばんこふま