501 解説 漱石は『猫』の一篇を、大天下にふぎ出す「屁のような気鏃た , と言 0 た。もともと『猫』によ つもり 、、ト莞家になろうとかいう心算は嗽石にはなかったのであるが、書き進むに って文壇に出ようとカ / = 一ⅱ 従 0 て、彼は始めて自在な自己表現の世界を発見することとな 0 たのた。時に漱石ははや四十歳に 近いのである。最終十一回になると、彼はおなじみの迷亭・寒月・東風・独仙・三平等をすべて苦 沙弥先生居に会せしめて、彼の言う「屁のような気餤」は最高潮に達する。ここで彼等は文明の進 歩を論じ、個人の自覚心の発達を論じ、自殺を論じ、自由を論じ、女性を論じて飽ぎることがない。 二十世紀の人間は個人の自覚心が強過ぎ 此勢で文明が進んで行った日には生きていられぬと言い すうせい るのが原因で大抵探偵のようになる傾向があると言い、世界向後の趨勢は自殺者が増加して、遂に は死と言えば自殺より他に存在しなくなると言い、五人の気餤は互いに混線して誰の説とも分ちが くろやなぎかいしゅう たくなる。もちろんその気餤は彼が畔柳芥舟〈の手紙に言うように、太平の逸民の勝手な熱であり、 真理たが一面の真理でしかなく、作者の人生観の全部ではない。たがこの巫山戯き 0 た会話の中に、 漱石の文明社会に対する暗い、絶望的な感慨が籠められていることも事実だろう。この「屁のよう な気」の中に、次第に溝が深ま 0 て行く社会に対する彼の深い哀感を、彼なりの「時代閉塞」の 実感を、読み取る人は読み取るであろう。 山本健吉 きえん
146 てもいいなんていばってる次第じゃない 誤解しちゃいかん、せんたって細君の来た時は迷亭君 いえ君が悪いのじゃない。細君も君のことをお世辞のな がいて妙なことばかり言うものだから それでさ本人が博士に い正直ないいかただとほめていたよ。全く迷亭君が悪かったんだろう。 めんぼく でもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目があると言うんだがね、どうだろう、 きんきん 近々の内水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びにはゆくまいか。 あに金田たけなら博士も学士もいらんのさ、たた世間というものがあるとね、そう手軽にもゆかん からな」 こう言われてみると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われてくる。 無理ではないように思われてくれば、鈴木君の依頼どおりにしてやりたくなる。主人を生かすのも 殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男た。 「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文を書くようにぼくから勧めてみよう。しかし当人が金 田の娘をもらうつもりかどうだか、それからまず間いただしてみなくちゃいかんからな」 「間いたたすなんて、君そんな角彊ったことをして物がまとまるものしゃない。やつばり普通の 談話の際にそれとなく気を引いてみるのがいちばん近道たよ . 。 「気を引いてみる ? 」 なに気を引かんでもね。話をしていると 「うん、気を引くというと語弊があるかもしれん。 自然わかるもんだよ 「君にやわかるかもしれんが、ぼくにや判然と聞かんごとはわからんー 「わからなけりや、まあいいさ。しかし迷亭みたようによけいな茶々を人れてぶちこわすのはよ
変、生者必減の理をのみ込ませようと少しせぎ込んたものたから ( つい細君の英語を知らないとい うことを忘れて、なんの気もっかずに使 0 てしま 0 たわけさ。考えるとこれはぼくが悪い、全く手 落ちであ ( - た。この失敗で悪寒はますます強くなる、目はいよいよぐらぐらする。細君は命、せられ たんす たとおり風呂〈行 0 て両既を脱いでお化をして、簟笥から着物を出して着換える。もういつで も出かけられますというふぜいで待ち構えている。ぼくは気が気でない。早く甘木君が来てくれれ 『そろそろ出かけまし 、、しいがと思って時計を見るともう三時た。四時にはもう一時間しかない。 , うかと細君が書斎の開き戸をあけて顔を出す。自分のをほめるのはおかしいようであるが ぼくはこの時ほど細君を美しいと思ったことはなか「た。両腿を脱いで石鹸でみがき上げた皮膚が びかついて黒縮緬の羽織と反峡している。その顏が石鹸と摂津大掾を聞こうという希望との二つで、、 有形無形の両方面から輝いて見える。どうしてもその希望を満足させて出かけてやろうという気に なる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぶくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注 ~ い「た。が容俶を話すと、甘木先生はぼくの舌をながめて、手を握 0 て、胸をたたいて 立へどおりーこ すがいこっ 背をなでて、Ⅱ縁を引「くり返して、頭蓋骨をさす 0 て、しばらく考え込んでいる。『どうも少し るけんのんのような気がしまして』とぼくが言うと、先生は落ち付いて、『いえ格別のこともございま・ ですまい』と言う。『あのちょ 0 とぐらい外出いたしてもさしつかえはございますまいね』と細君が 聞く。『さよう』と先生はまた考え込む。『御気分さえお悪くなければ : : : 』『気分は悪いですよ』 とんぶくすいやく 吾とぼくが言う。『じゃともかくも頓服と水薬をあげますから』「へえどうか、なんだかちと、あぶな いようになりそうですな』『いやけ「して御心配になるほどの一、とじやございません、神経をお起 こしになるといけませんよ』と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳・ せつけん
いやね。昼飯を食ってストしフの前でバ丿ー・ ペーンの滑稽物を読んでいるところへ静岡の母から 手紙が来たから見ると、年寄りだけにいつまでもぼくを子供のように思ってね。寒中は夜間外出を するなとか、冷水浴もいいがストーブをたいて室を暖かにしてやらないと風邪をひくとかいろいろ 。しかないと、のんきな の注意があるのさ。なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうよ、 ぼくもその時たけは大いに感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていてはも ? たいない。 何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷 亭先生あるを知らしめたいという気になった。それからなお読んでゆくとお前なんぞはじつにしあ わせ者だ。ロシアと戦争が始まって若い人たちはたいへんな辛苦をしてみ国のために働いているの ぼくはこれでも母の田いってる に節季師圭でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。 ように遊んじゃいないやねーーーそのあとへもってきて、ぼくの小学校時代の朋友で今度の戦争に卩 て死んだり負傷した者の名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時にはなんたか世の中が あじきなくなって人間もつまらないという気が起こったよ。いちばんしまいにね。わたしも取る年 そうら まつはる : なんたか心細いことが書いてあるんで、なおの に候えば初春のお雑煮を祝い候も今度限りかと : いと思ったが、先生どうしても来ない。そのう こと気がくさくさしてしまって早く東風が来ればい ちとうとう飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二、三行書いた。母の手紙 は六尺以もあるのだがぼくにはとてもそんな芸はできんから、いつでも十行内外で御免こうむる ことにきめてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来 いつになく たら待たせておけという気になって、郵便を入れながら散歩に出かけたと思いたまえ。 どてさんばんちょう しみちょう 岳士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し こつけいもの
には及びません。どうです月に十円ぐらいじゃ、なんなら月に五円でもかまいませんとぼくがごく かのうほうげん きさくに言うんた。それからぼくと客の間に二、 三の間答があって、とどぼくが狩野法限元信の幅 を六百円たたし月賦十円払い込みのことで売り渡す」 「タイムスの百科全書みたようですね」 「タイムスはたしかだが、。 ほくのはすこぶる不たしかだよ。これからがいよいよ巧妙なる詐欺に 取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済になると思う、寒月君」 「むろん五年でしよう」 「むろん五年。で五年の歳月は長いと思うか短いと思うか、独仙君」 「一念万年、万年一念。短くもあり、短くもなしだ」 どうか 「なんたそりや道歌か、常識のない道歌たね。そこで五年のあいた毎月十円すっ払うのたから、 つまり先方では六十回払えばいいのた。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じこと を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。 六十二回、六十三回、回を重ねるに従ってどうしても期日がくれば十円払わなくては気がすまない あようになる。人間は利ロのようたが、習慣に迷って、根本を忘れるという大弱点がある。その弱点 猫に乗じてほくが何度でも十円すっ毎月得をするのさ」 ノノハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしようと寒月君が笑うと、主人はいささ かまじめで、 「いやそういうことは全くあるよ。ぼくは大学の貸費を毎月々々勘定せすに遼して、しまいに向 こうから断わられたことがある」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。 ばんねん たいび
「なるほどこりやむずかしかろう」 「でぼくはその時間をまあ十時ごろと見積もったね。それで今から十時ごろまでどこかで暮らさ なければならない。 うちへ帰って出直すのはたいへんだ。友たちのうちへ話に行くのはなんたか気 がとがめるようでおもしろくなし、しかたがないから相当の時間が来るまで市中を散歩することに いつのまにかたってしま した。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶみ歩いているうちに、 せんしゅう うのだがその夜に限って、時間のたつのがおそいのなんのって、 千秋の思いとはあんなことを 言うのだろうと、しみじみ感じました」とさも感じたらしいふうをしてわざと迷亭先生の方を向く。 おきごたっー 「古人も待っ身につらぎ置炬燵と言われたことがあるからね、また待たるる身より待っ身はつら たんてい いともあって軒につられたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、 まごっいている君はなおさらつらいだろう。累々として喪家の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気 の毒なものはしっさいないよー 「犬は残酷ですね。犬に比較されたことはこれでもまだありませんよ」 「ぼくはなんだか君の話を聞くと、昔の芸術家の伝を読むような気持ちがして同情の念に堪えな る あ 。犬に比較したのは先生の冗談だから気にかけすに話を進行したまえ」と東風君はした。慰 猫藉されなくても寒月君はむろん話をつづけるつもりである。 たかじようまち おかちまち ひやっきまち りようがえち、う 「それから徒町から百驕町を通って、両替町から鷹匠町へ出て、県庁の前で枯れ柳の数を勘定し こんやま ~ まきタ′コ ひ て病院の横で窓の灯を計算して、紺屋の上で巻煙草を二本ふかして、そうして時計を見た。 「十時になったかい」 「階しいことにならないね。 紺屋橋を渡り切って川ぞいに東へ上って行くと、按摩に三人あ るいるい
190 ぐ向こう側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろ と穴のロまで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顏を出すものはない。戸一枚向こうに現在敵が 暴行をたくましくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならんすいぶん気の長い りよじゅんわん 1 話だ。鼠は旅順椀の中で盛んに舞踏会を催している。せめて吾輩のはいれるたけおさんがこの戸を あけておけばいいのに、気のきかぬ山出した。 今度はヘつついの影で吾輩の鮑貝がことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足 で近寄ると手桶の間からしつぼがちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風 呂場でうがい茶わんが金たらいにかちりと当たる。今度は後ろだとふりむくとたんに、五寸近くあ る大きなやつがひらりと歯みがきの袋を落として縁の下へ駆け込む。逃がすものかと続いて飛びお りたらもう影も姿も見えぬ。鼠をとるのは思ったよりなすかしいものである。吾輩は先天的鼠をと る能力がないのかしらん。 吾輩が風呂場へ回ると、敵は戸棚から駆け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上がり、台所の 〔きよう こしやく まん中にがんばっていると三方面とも少々ずつ騒ぎ立てる。小癪といおうか、卑怯といおうかとう てい彼らは君子の敵でない。吾輩は十五、六回はあちら、こちらと気をつからし心をつからして奔 しようじん そう 走努力してみたがついに一度も成功しない。残念ではあるがかかる小人を敵にしてはいかなる東郷 てきがいしん 大将も施すべき策がない。初めは勇気もあり敵愾心もあり悲壮という崇高な美感さえあったがつい にはめんどうとばかげているのと眠いのとっかれたので台所のまん中へすわったなり動かないこと になった。しかし動かんでも八方にらみをきめこんでいれば敵は小人たからたいしたことはできん のである。目ざす敵と思ったやつが、存外けちなやろうだと、戦争が名誉たというじが消えてに あわびがい
438 「それみたまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へとんた影響が及んでくるよ。少し しつかりして、珠を「 ( がいてくれたまえ」 「へへへへいろいろ御心配をかけてすみませんが、もう博士にはならないでもいいのです」 「なせ」 「なせって、 ( 私にはもうれつきとした女房があるんです」 「いや、こりやえらし 、。いつのまに秘密結婚をやったのかね。ゆだんのならない世の中だ。苦沙 さんたた今お聞き及びのとおり寒月君はすでに妻子があるんだとさー 「子供はまたですよ。そう結婚してひと月もたたないうちに子供が生まれちゃことでさあ」 「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事みたような質間をかける。 「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。きよう先生の所へ持って来た、 かっし この鰹節は結婚祝いに親類からもらったんです」 「たった三本祝うのはけちだな」 「なにたくさんのうちを三本たけ持って来たのです」 「じゃお国の女たね。やつばり色が黒いんだね、 「ええ、まっ黒です。ちょうど私には相当です」 「それで金田のほうはどうする気たい」 「どうする気でもありません」 「そりや少し薹理が悪かろう。ねえ迷亭」
169 吾輩は猫である てラン。フにかざして火をつける。うまそうに深く吸って吐き出した煙が、乳色のホヤをめぐってま だ消えぬ間に、陰士の足音は縁側を次第に遠のいて聞こえなくなった。主人夫婦は依然、一して熟睡 うかっ している。人間も存外迂闊なものである。 ざんじ 吾輩はまた暫時の休養を要する。のべつにしゃべっていてはからだが続かない。 ぐっと寝込んで やよい 目がさめた時は弥生の空が朗らかに晴れ渡って勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であっ 「それでは、ここからはいって寝室の方へ回ったんですな。あなたがたは睡眠中でいっこう気が つかなかったのですな」 「ええ」と主人は少しきまりが悪そうである。 「それで盗難にかかったのは何時ごろですか」と巡査は無理なことを聞く。時間がわかるくらい ならなにも盗まれる必要はないのである。それに気がっかぬ主人夫婦はしきりにこの質間に対して 相談をしている。 「何時ごろかな」 「そうですね、と細君は考える。考えればわかると思っているらしい。 「あなたはゆうべ何時にお休みになったんですか」 「おれの寝たのはお前よりあとた」 「ええ私のふせったのは、あなたより前です」 「目がさめたのは何時だったかな」 「七時半でしたろう」 こ 0
ま「用り . ま」」こ : ↓ナいが、殺してまで見る気はないので黙っている。「とってやらんとんでしまう、早・ くとってやれ」と主人は再び下女を顧みる。おさんはごちそうを半分食べかげて夢から起こされた 時のように、気のない顏をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君じゃないが前歯がみんな折れるか と思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容もなく引っぱ るのたからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからす」という第四の真理を 経験して、けろけろとあたりを見回した時には、家人はすでに奥座敷へはいってしまっておった。 こんな失敗をした時には内にいておさんなん ( てに顔を見られるのもなんとなくばつが悪い。、 第 : 」みけこ そのこと気をかえて新道の二弦琴のお師匠さんの所の三毛子でも訪間しようと台所から裏へ出た。 ~ 5 一な - つか 三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。 はうゆう うちで主人の苦い顔を見たり、おさんのけんつくを食って気分がすぐれん時は必す一、の異性の朋友 のもとを訪間していろいろな話をする。すると、 いつのまにか心がせいせいして今までの心新も苦 労も何もかも忘れて、生まれ変わったような心持ちになる。女性の影響というものはじつに莫大な すきかンさ ものだ。杉垣のすきから、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして る行儀よく縁側にすわっている。その背中の丸さかげんがいうにいわれんほど美しい。曲線の美を尽 でくしている。しつぼの曲がりかげん、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振るけしきなども とうてい形容ができん。ことによく日の当たる所に暖かそうに、品よく控えているものだから、か 五〔らたは静粛端正の態度を有するにもかかわらず、ビロ 1 ドを欺くほどのなめらかな満身の毛は春の こうこっ 光を反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚としてながめて 、たが「やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」と言いながら前足で招いた。 ものう っ