プラトン - みる会図書館


検索対象: 自殺について 他四篇
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1. 自殺について 他四篇

いま世界の現象を生み出しているそのものは、そうしないでいることも、印ち靜寂のままにと、 どま 0 ていることもできるに違いないということ、ーー・、換一一一「すれば、現在の擴張ミ。には アプリオリ 收縮 き。ということもなければならない筈だということは、或る意味では先天的に洞察せ られ、つることである、わかり易くいえば、これは自明のことである。さて前者は生きんとする意 志の現象である。そこで後者は生きんとする意志の否定の現象であるということになろう。後者 はまた、本質的には、吠陀の敎にいう大熟氓位 magnum sakhepat ( 一 1 第 ) 、佛敎徒の 涅槃、新プラトン派の彼岸。鳶者 2 と同一のものである。 或る種の愚かしい異論をさしはさむ者もあるであろうから、豫め斷わ 0 ておきたいのであるが、 生きんとする意志の否定ということは決して或る實體の絶減を意味するものなのではない。それ は單に意慾しないというだけの行爲なのである、 印ち、これまで意慾してきたその同じもの が、最早や意慾しなくなるということなのである。ところで我々はこの本質、印ち物自體として の意志を、單に意慾という行爲においてのみまたそれを通じてのみ知「ているのであるから、そ れがこの行爲を放棄してしま 0 たあとで、なおさらにそれが何であるのか乃至はまた何をや 0 て いるのであるかということについては、我々には語ることも理解することもできない。だからし、

2. 自殺について 他四篇

我なものの存在は、物質の絶えざる新陳代謝によってのみ可能とせられている。そうしてこの新陳 代謝のためには、不斷の流入が、したがってまた外からの補給が、 必要なのである。してみれば、 既にそれ自身において、有機的生命なるものは、手上に均衡を保っために絶えす動かされていな ければならない竿のようなものであろう。だからしてそれは絶えざる欲求なのであり、とめども なく繰りかえされる缺乏なのであり、果て知らぬ困窮なのである。しかるに意識なるものは、か かる有機的生命を媒介として始めて可能とせられるのである。 こういう次第であるから、こ れら凡ては有限的現存在でおる。そこでそれに對立する無限的現存在なるものは、外からの侵害 にさらされることも外からの補給を必要とすることもともにないものとして考えられなけれはな らない。したがってそれは、いつもそのよ、つにあるもの。 4 。きミをであり、永遠の安靜 の、っちにあるものであり、成りいでることも過ぎさりゆく、こともないもの 0 ~ の : に 0 桑に 0 に き戔にであり、流轉をもたず、時間をもたず、多樣性も差異性ももたぬものなので ある、 かかる無限者の否定的認識がプラトン哲學の基調をなしている。生きんとする意志の 否定がそこへと道を拓く所以のそのものは、まさにかくの如きものでなければならない。 四 我々の人生の場景は粗いモザイックの繪に似ている。この繪を美しいと見るためには、それか ら遠く離れている必要があるので、間近にいてはそれは何の印象を略與えない。それと同じ道理

3. 自殺について 他四篇

旋囘と流轉のなかに捲きこまれているようなこの世界、一切がいそぎゅき、とびさり、かたとき も歩みと動きとをやめないことによってのみ綱の上に辛うじて身を保っておれるようなこの世界 1 こういう世界のなかでは幸禳などということは考えることさえできない。幸一猫は、プラトン の所謂「恆存なき不斷の生成」のみが現ぜられている所には、住むことができないのである。早 い話が、幸禧な人間は誰もいない。ただ誰もが自分の思いこんだ幸禧を目指して生涯努力し績け るのであるが、それに到達することはである。よしまた到逹するとしても、味わうものは幻減 . だけである。普通は、誰もが結局は難破し、マストをうち碎かれて、港のなかにはいっていく。 もしそうだとすれば、要するに持絏のない現在だけから成り立っていたこの人生、そうしていま や終りをつげたこの人生において、自分が一體幸語であったかそれとも不幸であったかなどとい うことは、結局どうでもいいことなのではないか。 それにしても、動物と人僴の世界にかくも大袈裟で複雜で休みのない運動を惹き起し且つはそ れを廻轉し績けている所以のものが、飢餓と性慾という二つの單純なばね仕掛であろうとは、ま ことに驚嘆のほかはない。尤もほかになお退屈というやつが少しばかりこの二者のお手傳いをし ているのではあるが、いずれにしてもこれらのものが、多彩な人形芝居を操るかくも精巧な機械 プリムーム・モピレ の原動力の提供者として結構間にあっているという次第なのだ。 ところで事態をいま少しく詳細に考察してみるならば、ます第一に非有機的なものの存在は、 化學的な諸力によって刻々侵害され、ついには蝕盡されていることが知られる。他方また有機的

4. 自殺について 他四篇

して系列全體においても個々のものにおいても、いつも變らすにいるのは形相ばかりで、内容は 絶えす變っている點に着目せられるならば、我々は單に假象的現存在を有しているにすぎないこ とが氣づかれるであろう。かかる見解は、イデャだけが眞實の存在なのでそれに對應している 諸 ~ の事物は影のような性質ののにすぎないとするところのプラトンの敎理の根柢にもまた存 しているのである。 我々は物自體に對立する單なる現象にすぎないということは、榮養として絶えす繰返し要求さ れてくるどころの物質の不斷の新陳代謝が、我々の現存在の不可缺條件であるという事實によっ て、置明され例示され直観化されている。この點では我々は煙や焔や噴水など小ら出てくる現象 これらの現象は補給が途絶えたら最後、すぐに色褪せたり止まったりするので に似ている、 ある。 生きんとする意志は、全く無になってしまうような現象 またこうも云、つことができよ、つ、 のなかだけに現われてくる。ところがこの無も現象もともに生きんとする意志の内部にあって、 その基礎の上に立っているのである。無論このことは明るみに出てはこない。 。そうすれば、迫り來 人間世界の全體を一眸のもとに眺めわたすように努めてみられたらいい るところの且つは瞬時毎に出會われるところの凡ゆる種類の危險と害惡に對抗して、生活と現存 在のために、肉體と精禪の一切の力をふるい起して戦っ . ているところの休みない戰鬪と激烈な格 さてその上で、これら一切の努力に對する褒賞として 闘が到る處に見うけられるであろう。

5. 自殺について 他四篇

山くる。さらにまた我々は非意慾の主體についても、何も語ることできない、 ーー我々はこの主 體を單にそれと正反對の行爲である意慾に印して、部ちそれの現象世界の物自體であるという意 味において、積極的に認識していたにすぎないのだから。 希臘人の倫理と印度人の倫理との間には著しい對立がある。前者 ( 尤もプラトンは例外である が ) の目的とするところは、我々をして幸語な生活、祝禧された生活 vita beata をるにふさ わしい人間たらしめるにあった。これに反して後者の目指すところは、たとえば數論頌 Sankh- Karika の冒頭で直截に表明されているように、人生一般からの解放と救濟にあったのである。 これと類似した對照が、直観によってさらに際立たせられて、古代の石棺と基督敎の柩との間 。その浮 に見られるであろう。フロ 1 レンスの晝廊にある美しい古代の石棺を眺められるがいい 彫には婚禮の儀式の全系列が、最初の求婚から始まって、婚禮の禪ヒュメ 1 ゾの松明が新婦の臥 床を照らすところまで、描き出されている。さてそのかたわらに、悲哀の象徴である黒暮に蔽わ れ、その上に十字架のおかれてある基督敎の柩を想い浮べて見られよ。この對照は極めて意味深 いものである。いずれも死の慰めをえようとしているのであるが、それは正反對の仕方にいて なのであり、そしてどちらも正しいのである。一方は生きんとする意志の肯定を示している、 生命は、よしその外形がどのように速やかに流轉しようとも、凡ゆる時を通じて、生きんと

6. 自殺について 他四篇

幻る このよ、つにして人類はこの絶えることのない存在を續けているのである。さてもしそう とすれば、誰でもが父から受けついだ部分と母から受けついだ部分とをもっていることになろう。 そうしてこの兩者は出産によって結びつけられるとともに、死によって解體せしめられる、 かくして死は個體の終末なのである。ほかならぬこの個體の死を、我々は個體が全く失われてし まったという感情のもとにかくも歎いているのであるが、もともと個體は單なる結びつきにすぎ なかったのであるから、それはとりかえす術もなしに過ぎ去ってゆくものなのである。 ども我々はこの際、母からの知性の相續は父からの意志のそれのように決定的で絶對的なもので はないということを忘れてはならない。印ち知性は二次的なそしてまた單に肉體的な性質のもの にすぎないのであって、徹頭徹尾身體に依存しているのである。それも單に腦髓に關してたけで はなしに、その他の點においてもそうなのである。このことについては前掲の章のなかで詳論し ておいた。 ついでにここでのことを述べておこう。プラトンも彼の所謂心靈に關して可死 的な部分と不減的な部分とを區別しており、その限りにおいては私は彼と一致している。但し、 彼が私以前の凡ての哲學者逹のように、知性を不減のものとなし、それに反して諸 ~ の慾望と情 熱の座である意志を可死的な部分と看做している , ーーこれはティマイオス篇 ( ピポント版、三八六真、 によってうかがわれる , ーーその點においては、彼は私並びに眞理と正反對の立場にたっているの である。アリストテレスの立場もプラトソのそれと同じことである。 デアニマ * 彼は『心靈論』 ( 一の四、四〇八頁 ) のじき始めのところでゆきすりに本普も洩らしている。部ちヌース「知性〕が本當の