の機會をつかんだとしても、一・體何がそれだけ餘計殘っているというのであろう。囘想のひから びたみいらである。さて、實際に我々に與えられた凡てのものについても、事情は同様である。 してみれば、時間という形式それ自身は、我々に地上一切の享樂の虚無性を敎えこむように定め られているところの手段にほかならない。 我の現存在も一切の動物のそれも何ら確固不動のものではない、それはまたせめて時間的に なりと持續的だというものでもない。むしろそれは一種の單なる流動的存在 e を s ( e ゴ tia コ uxa な・ のであり、ただ不斷の新陳代謝によって成立しているだけのものなので、調わば渦谷になぞら ええられよう。尤も肉體の形は暫らくの間は凡そ定まった存立を保ってはいる - が、それ古いも のを排泄して新しいものを攝取するという物質の不斷の新陳代謝を條件としているのである。そ こでまたかかる攝取に適した物質を絶えす得してくることが、前述の一切の存在の主な仕事と なってくる。同時にまた彼らは、そのような種類の彼らの現存在が前述のようにほんの暫らくし か保持しえられないものであることを、自覺している。そこで彼らは退場に際してそれを、自分 の代りになる或る他の者に讓り渡そうと努力する。この努力が性慾の形をとって自意識のなかに 現われてくるのである。またこれが他のものの意識のなかに、したがって客的な直観のなかに 現われてくる場合には、生殪器という形體をとる。我々はかかる性慾を眞珠の頸飾りのさし糸に なぞらえることができよう、そうすれはかの素早く交替してゆく諸の個體は頸飾りの一つ一つ ゞ、、、 0 そ の球に相當することになる。さて想像のなかでかかる交替の速度をはやめてみられるカ
るのかも知れないとム考えられるのである。何故というにここでは認識さるべきものが記議する のそれ自身と眞實に直接に一つになっていることであろうし、したがって一切の認議の根本條 件 ( ほかならぬかの對立 ) が缺けていることになるであろうからである。この點に關する解明と しては、『意志と現象としての世界』の第二卷、二七三頁気一嶺は ) を參照せられたい。その個所 とこことで述べられているのと同じ意味のことを、ジョルダ 1 ノ。プルーノの次の言葉は、もっ 「一切の差別を絶した絶對の同一性 と述った風に言い現わしているものと看做されえよう、 としての禪の心は、理解するところの、ものであるとともに理解されるところのものである。」の ナー編、第一 卷、二八七頁 おそらくは誰でが曾て心の奥の奥の方に、折りに觸れて、次のような意識が浮びあがってく このような云いようもなくみすぼらしい時間的な個體 るのを經驗したことがあるであろう、 的な存在、全くの慘めさばかりの存在、ではなしに、なにか全く違った種類の存在が何といって も本來私にふさわしいのであり、それこそが本當に私のものなのではあるまいか、と。そうして その際その人は、もしかしたら死が自分をそのような存在へとつれもどしてくれるのかも知れな 、と考えるのである。 に我々は、内へと向けられていた以上の考察の仕方から轉じて、再び眼を外に向けて我々に
この無性は現存在 Dasein の形式全體のうちに表現せられている。印ち、時間と穴一間のなか。 なる個體の有限性に對照されゑ時間と間の無限性のうちに。現實性の唯一の現存在樣式とし ての、持續のない現在のうちに。一切の事物の依存性と相對性のうちに。存在をもたぬ絶えざる 生成のうちに。滿足を知らぬ絶えざる願望のうちに。努力が絶えず障碍に出會うということのう 亠つに 0 この障碍が克服せられるその日がくるまでは、人生はかかる障碍から成り立っている のである。時間と、時間のうちなるまた時間のゆえの菖物の果敢なさとは、それによって、生き んとする意志ーーこれは物自體として不減のものであるーーーに對してその努力の虚無性があらわ にせられる所以の、形式にほかならない。 時間とは、それの故に萬物が瞬間毎に我々の手も とからすべりぬけて無に歸せしめられる所以の當のものである、 かくして萬物は一切の眞實 の價値を喪うことになる。 曾てあったところのものは、はや現にあるものなのではない。それは丁度、未だ曾てあった ことのないものが、現にないのと同じことである。ところで、現にあ . る一切のものは、すぐスの
いうこと、したがってまたこの現象の全存在と一切の努力とは結局は眼のあたり無に歸せしめら れることになるものであるということ、ー 1 ー要するに、生きんとするこの意志の一切の努力は本 質的に虚無的なものであるということ、これがいかなるときにも眞實で卒直な大自然の素朴な告 白である。もしもそれが何かしらそれ自身において價値豐かなもの、何かしら絶對的にあらねば ならぬようなものであるとしたら、それが非存在を目標にもっているなどということはありえな いであろう。 このような感情はゲーテのかの美わしい詩の根柢にもひそんでいる、 ものさびし城樓の上、高く、 英雄の氣高き亡靈は佇すむ。 死の必然性は、差しあたり、次のことからム演繹せられえよう。人間は單なる現象なのであっ て、如何なる物自體でも、したがってまた如何なる眞實在。ミをでもない、ということ。と いうのは、もし人間がこ、ついうものだとしたら、彼が滅し去るということはありえないであ ろうからである。ところで、このような種類の現象のうちにおいてのみ、その根柢に存する物自 體が自己を現わしうるのだということは、物自體の性質からくるひとつの歸結である。 それにしても、我々の發端と終末との間には何という懸隔の存することであろうか ! かの發 端は幻想的な欲情と恍惚たる偸樂のなかに包まれている。この終末は官一切の崩壞と死屍の
8 1 れる場合には、勿體振ったこの世界の凡ゆる詐欺ーー、世界は言葉につくせぬほどに無限に袴大に あんなにも多くのものを約東しておきながら、さてその與えるところのものはまるで可哀そうな ぐらいに僅かなのであるーーーの精華となるものであるということ。 生殖に際しての女子の役割は、或る意味においては、男子のそれに比して罪が輕い。印ち男子 は生れてくる者に對して意志を賦與するのであるが、この意志たるや原罪なのであり、したがっ てまた一切の害悪と災禍の根源なのである。これに對して女子の賦與するものは認識なのであり、 これは救濟への道を開いてくれる。生殖行爲は世界の結節であゑそれは「生きんとする意志が 新たに自己を肯定した」ことを意味している。羅門敎の美しい成句の一つに次のような歎きが リンガはヨ 「禍なるかな、禍なるかな ! きかれるのは、この意味においてなのである、 ニに入る」。これに反して懷胎と姙娠とは、「意志に對して再び認識の光が賦與された」ことを意 この光によって意志は再びおのが脱出路を見出しうるのであり、したがってま 味している。 た救濟への可能性が新たに出現してきたことになるわけなのである。 ここからして注目に價いする次の現象の解明がえられるであろう。どの婦人も、生殖行爲に際 しては驚かされ、恥ずかしさに淌えいるばかりの思いをさせられるのであるが、ところが姙娠し たとなると、羞恥のかげも見せず、否一種の誇りをさえまじえて、見せびらかして歩く。一體ほ かのどのような場合でも、間違いのないたしかな證據はその證據によって示されている事柄それ 自身と同意義のものと考えられるのであり、したがってまたなしとげられた交合のどのような證
「世界はわが表象である」という私の第一命題からして、差しあたり次の歸結が出てくる、 「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ。」思うにひとはこのことを、死を破減と 混同することに對抗する解毒劑として堅持しておくべきであろう。 誰でもが、自分の最内奧の核心は現在を含み且つもちまわっているところの或るものである、 と考えるべきである。 よし我々が如何なる時に生きているにしろ、いつでも我々は我々の意識とともに時間の中心に 立っているのであって、決してその末端にあるのではない。そこからして、誰でもが無限な時間 全體の不動の中心を自分自身のうちに擔っているものであることが、推量せられえよう。これが また結局は、人間が絶えざる死の恐怖なしにその日その日をすごしておられるような信賴を人間 に與えてくれる所以のものなのである。さて、囘想と想像の力に惠まれているために、自分自身 の生涯の遙かなる過去を本當にまざまざと眼前に想い浮べることのできるような人は、一切の時 間をつらぬく今の同一性を、ほかの人達よりも一暦明瞭に意議していることであろう。おそらく この命題は、それをさかさまにしたら却てその眞理性をますことになるか知れない。それはと もかくとして、一切の今の同一性をそういう風にほかの人逹よりも明瞭に意識しているというこ とが、哲學的天分にとってのひとつの本質的な要素なのである。この意識あるが故に、我々は何 にもまして過ぎ去り易い今を唯一の持績者として把握しているのだ。さてそのような直観的な仕 方で、現在ーー・これこそが、最狹義における、一切の實在性の唯一の形式であるーーーはその源泉
9 は豹が一匹もいないということをきいて、天國行をことわったのである。 そらなれば我々はこ * もしも死とともに知性が消減しないものとしたら、無論これほど慷快なことはまたとあるまい、 の世で學んだ希臘語をそっくりそのままあの世にたすさえていけるというわけである。 それにまた以上に述べられたことは凡て次のような前提の上に立っているのである、ーーー我々 は無意議でない状態というのを、認識的な状態としてしか、したがって一切の認識の根本形式 を、印ち主観と客観への分裂乃至は認識するものと認識されるものへの分裂を、含んでいるもの としてしか、表象しえられないものであるということ。しかしまた我々は次のことをも考慮して みなければならない 認識することと認識されることとのこの形式の全體は、單に我々の動 物的なしたがってまた極めて二義的で派生的な性質によって制約されているものにすぎないとい うこと、それ故にそれは一切の實體と一切の存在との根源的状態では決してないとい、つこと、し たがってこの根源的状態なるものは全く異質的なものではあるにしても、しかし無意識的ではな いものであるか知れないということ。我々自身の現在の本質にしても、それの核心にまで追求 せられうる限りにおいては、それは單なる意志なのであり、そうしてこの意志たるやそれ自體に おいては非認識的なるものなのである。さて我々が死によって知性を喪失する場合には、それに よって我々は單に根源的な非認識的な状態のなかに移されることになるにすぎない、しかしそれ はだからといって全くの無意識的な状態であるとも限らないのであって、むしろそれはかの形式 を越え出ているところの状態、印ちそこでは主觀と客観との對立が脱落しているような状態であ
對して内在的認識というのは、經驗の可能性の限界の内部にとどまっているもので、だからして またそれは單に現象について語りうるにすぎないのだ。 君は、個體としては、君の死ととも に終るのさ。けれども個體というのは、君の眞實の究極の本質なのではなくて、むしろその本質 の單なる現象にすぎない。個體は物自體そのものではなくて、それの現象にすぎないのだ。この 現象たるや、時間という形式のなかで展開されるのだから、したがってそれには始めもあれば終 りもあるというわけなのだよ。それに反して君の本質はそれ自體においては何らの時間をも知ら ない。始まりをも終りをも知らない、更には或る與えられた個性の制限をも知らない。だからそ れは如何なる個性からも排除せられえないものな 0 だ。むしろそれは各自一切のうちに現存して いる。こんなわけだから、第一の意味においては、君に君の死によって無に歸することになるた ろうが、第二の意味においては、君はあくまでも一切なのだ。君が死んだら、君は一切にして無 であるであろう、と僕が云ったのは、そういう意味なのさ。君の質間に、簡單にだね、しかもこ れ以上正確に答えようとしても、それは無理だよ。無論この解答のなかには矛盾が含まれてはい る。しかしそれは君の生涯は時間のうちにありながら、君の不減性は永遠のうちにある、という ことのためにほかならないのだ。 だからして、この不減性はまた存續のない不減性だとも呼 ばれえよ、つ、 そうするとまたここにひとっ矛盾が出てくることになる。しかし超越的なもの を内在的認識のなかにもちこもうとすれば、、 しきおいこうならざるをえないのだ。この際我々は この内在的認識に一櫛の暴力を加えることになる。もともとこの認識はかの超越的なもののため
恰も小河が何の障碍にも出會わない限りは渦をなさないように、我々も我々の意志通りに動い ている凡てのものには餘り氣もっかず注意もしない、 というのが人間並びに動物の本來の姿であ っていない る。もしも我々が何かに氣づくことがあるとすれば、それは印ち我々の意志通りにい ところが、我々 ことがある證據で、何らかの障碍につきあたっているに相違ないのである。 の意志に逆らい、それを妨害し、それに對抗しているような一切のもの、印ち不快で苦痛な一切 のものは、我々はこれを直接に印座にそして極めて明瞭に感ずる。丁度我々が身體全體の健康は 感じないで、靴すれのする小さな個所が氣になるといった其合に、我々はまた完全に旨くいって もしも苦惱が我々の人生の最も手近かな直接の目的でないとしたら、この世に我々の現存在ほ . ど目的に反しているものはまたとないであろう。というのは、人生にとって本質的な困窮のなか から湧き出てくる絶え間のない苦痛ーー・世界は到る處この苦痛に充ちているーーが目的のない純 粹に偶然的なものであるだろうなどと考えることは、實に馬鹿けたことだからである。それぞれ の個々の不幸は、なるほど、例外のように思われる。しかし不幸一般は、原則なのである。
5 ことになるであろ、つ。 してみれば、こういう種屬にとっては、矢張りいまのような舞臺、い まのような現存在が、一番柄にあっているということになるのだ。 苦痛の積極性に對照される安樂と幸輻の消極性ということをさきに一寸述べておいたが、もし そういうものだとしたら、或る與えられた生涯の幸は、その生涯での歡喜と悅樂によって量ら るべきものではなしに、積極的なものとしての苦惱の缺如ということではかられなければならな いということになろう。ところが、もしそうだとすると、動物の運命の方が人間のそれよりもま だしも忍び易いもののように思われてくる。我々はこの兩者を少しく詳細に考察してみることに しよ、つ。 人間の幸と不幸とは或いは追求或いは逃避へと人間を驅りたてるのであるが、人間のかかる 幸福と不幸とがそのもとで展開せられるその形態がたといどのように多様であるにしても、これ ら一切のものの物質的基盤は肉體的な快樂か肉體的な苦痛かである。この基盤たるや極めて幅の 狹いものである、 印ちそれは、健康を保ち、榮養をとり、濕寒を禦ぎ、性慾を滿足させるこ と、乃至は逆にこれらのことに缺之していること、である。したがって實際の物質的な快樂とい う點にかけては、人間は動物以上のものをもってはいない。尤も人間の場合、高度に發達してい る可經組織のおかけで、一切の快樂に對する感覺が歸まっているというだけの相違はあるが、し