とでは特にこの缺點が、また他の人のもとでは別の缺點が、格別目立っているということはあり うる。乃至はまた一切の悪い性質の總量が或る人のもとでは他の人の場合よりも遙かに多いとい 、つようなことも、否定せられえない。何故なら個性間の相述ははかり知れぬほど大きなものてあ るから。
我々はまた我々の人生を、無という至の安靜を無意味に掻きたてるエピソ 1 声だという風に 解釋することもできよう。それはともかくとして、そのなかで聞にましな生活をった人でさえ 人生は全體として disap も、長く生きれば生きるだけ愈 ~ 明瞭に次のことを覺るであろう、 プレレライ pointment 〔失望〕否 cheat 〔瞞着〕であるということ、或いは獨逸語で云、つとすれば、詐欺とま ではいかなくとも、一種大がかりなンご「 st ミ cat ぎ凵〔惑わし〕の性格を帶びているということ。 もし二人の幼な友逹が、全生涯にわたる別離の後に互いに老人となって再會するとしたら、あり し日の追憶が結びつけられている各自の顏を眺めあってお互いの胸のなかに湧いてくる何よりの この人生は曾て少年の日の薔薇色の 感情は、人生全體に對する全くの失望の感情であろう、 曙光のなかであんなにも美しく彼等の前に横わり、あんなにも多くのものを約東していたのに、 その齎らしたものの何とみすぼらしいことか。二人の再會の瞬間、このような感情が餘りにも強 く彼らの胸を捉えるので、彼等はそのことを口に出して云おうとするような氣にさえもなれない、 二人はそのことをお互いに暗默のうちに諒解しあって、その前提のもとに話を進めるのである。 二代乃至はまた三代にもわたって人間の世代を生きてきたような人であれば、恰もお祭の日に 見世物小屋のなかに坐り纃けて、凡ゆる種類の手品師の演技を、それもその演技が二度も三度も ひきつづき繰返されるのを、見ていた人のような氣持にさせられることであろう、ーー , 師ち、手 . 品はたた一度たけ見て貰うように仕組まれているものなので、仕掛がわかり珍らしさが消えてし
讀書子に寄す ーー・岩波文庫發刊に際して 眞理は人によって求められることた自ら欲し、藝術は萬人によって愛されることを自ら望む。ては民た味ならし めるために學藝が最も狹き堂字に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とた權階級の占より奪ひ返すことはつねに 進取的なる民衆の切實なる要求である。岩波文庫は此要求に應じそれに勵まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を 少者の書齋と研究室とより解放して街頭に隈なく立たしめ民衆に伍せしめるであらう。近時大量生産豫約出版の流行な 見る。その賽告宣傳の狂態は始く措くも後代に始すと誇稱する全集が其編属に萬全の用意たなしたるか。千古の典籍の飜 譯企新に虔の態度を缺かざりしか。更に分賣を許さす讀者な繋縛して數十册を強ふるが如き、果して其揚言する藝解 放の所以なりや。吾人は天下の名士の聲に和して之を推するに嬲躇するものである。この秋にあたって岩波書店は自己 の責務の窓重大なるた思ひ、從來の方針の徹底を期するため既に十年以前より志して來た計置を眞重審議この際斷然實 行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西に亙って文哲社會科學自然科墨等類の如何を問 はす、蓊る萬人の必讀すべき眞に古典的價値ある書を極めて簡易なる形式に於て逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生 活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は豫約出版の方法を排したるが故に、讀者は自已の欲する 時に自己の欲する書物を各個に自由に選探することが出來る。携帶に便にして債格の低きを最主とするが故に、外観を顧 みざるも内容に至っては嚴選最る力を盡し從來の岩波出版物の特色な發揮せしめようとする。この計書たるや世間の一 時の投機的なるものと異り、永遠の事業として吾人は徴力を傾倒しあらゆる飄牲を思んで今後永久には續發展せしめ、も って文庫の使命た遺なく果さしめること期する。を術た愛し知識を求むる士の自ら進んで此擧に加し、希望と忠言 とたせられることは吾人の熱望するところである。その性質上經濟的には最も困難多き此事業に敢て富らんとする吾人 の志た諒として其達成のため世の讀書子とのらるはしき共同な期特する・ 昭和二年七月 波茂雄
110 幸輻な人生などというものは不可能である。人間の到逹しうる最高のものは、英雄的な生涯で ある。そのような英雄的生涯を逶る人というのは、何らかの仕方また何らかの事柄において、萬 人に何らかの意味で役立つようなことのために、異常な困難と戦い、そして最後に勝利をおさめ はするが、しかし酬いられるところは少ない乃至全然酬いられることのないような人である。彼 は恰もゴッチの『レコルヴォ』〔鳥王〕における王子のように、最後に石に化せられはするが、 しかしいつまでも高貴な姿勢と偉大な態度を保ち續けるのである。彼の逍憶は後世にとどまり、 英雄のそれとして崇められる。彼の意志は、勞苦と勞働により、感謝を知らぬ世界における失敗 により、その全生涯を通じて壞減せしめられ、やがて湟槃のうちに消減することになる。 ( カ 1 ラ イルが『英雄崇拜論』を書いたのは、こういう意昧においてなのである。 ) 十三 さて我々は以上のような考察を通じて、したがってまたひとつの極めて高い立場からして、人 類における苦惱の楚認せらるべき意味を洞察しうるであろう。しかしこの意味は動物にまでは及 動物の苦惱は、大部分人間の手で加えられるものではあるが、しかし人間の干渉な しにも ~ 起るものであり、その苦惱は決して輕いものではない。そこで次のような疑間が浮び 上ってくる、 思慮分別によって得られる救濟の自由もないというのに、一體何のために意志 重物 はかくも千種萬様の形態においてこのように苦しめられ惱まされているのであろうか。
がされて、ひとびと・はしりごみするのである。何故なら、肉體は生きんとする意志の現象にほか ならないのだから。 それにしても、一般的に云って、かの番兵との戦いは、遠くから我々にそう思われるかも知れ ないほどにそんなに困難なものではない。それというのは、精禪的苦惱と肉體的苦惱との對立と いうことがあるからである。たとえば、我々が肉體的に非常にひどく、或いは間斷なく、惱んで いるときには、ほかの一切の心配などはどうでもよくなってくる、ーーー健康の恢復ということが 我々の唯一の關心事となるのである。丁度それと同じように、深刻な精禪的苦惱は肉體的苦惱に 對して我々を無感覺にすゑーー我々は肉體的苦悩を輕蔑するのである。否、もしかして肉體的 苦惱が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそは我々にとっては一種心地好い氣保 養なのであり、精禪的苦惱の一種の休止である。ほかならぬこ、ついう事情が自殺を容易なものに している。印ち並みはずれて激烈な精禪的苦惱に責めさいなまれている人の眼には、自殺と結び つけられている肉體的苦痛などは全くもののかずでもないのである。このことが特に顯著に見ら れるのは、純粹に病的な深刻な憂愁によって自殺へと驅られる人逹の場合である。この人逹にと っては、自殺は全然何らの克己をも必要としない。彼らには自殺のための心構えすら全然必要で ないのである。彼らに附添うていた見張人がただの二分間で留守したら最後、彼らは直ちにお のが生命にとどめをさすことになるのである。
まず以て、その人はおのが罪の結果としてのみ存在しているので、その人の生涯はその誕生の際 に背負わされてきた負目の辨償にほかならないのだ、という風に見ることになるのである。ほか ならぬこのことが、基督敎において人間の罪性と名づけられているものの本質をなしている。し たがってそれがまた、この世界において我々が我々の同類として出會う存在者の根柢なのである。 それにまたこういう事情もある、 ひとびとはこの世界の根本的性質の結果大抵の場合多かれ 少なかれ苦惱と不滿の状態のなかに自分を見出しているのであるが、こういう状態は彼らをして 同情的な愛情深い人間たらしめるに適したものとは云えない。最後にまた彼等の知性たるや殆ん ど例外なしにおのが意志への奉仕に辛うじて間にあう程度のものなのである。そこで我々は以上 述べたことに即してこの世のなかでの社交生活に對する我表の要求を加減しなければならない。 このような観點を堅持している人であれば、社交への衝動を一種有害な性向と名づけることでも あろう。 * 人生に耐えていこらとする者にとって、害惡と人間に泰然と耐えていこうとする者にとって、次のような佛敎の訓戒にも まさって有なものはまたとないであろう、 「これはサンサーラ ( 輪廻〕である、 部ちこれは色慾と貪慾の世界で あり、生老病死の世界である。云い換えればこれは本來在るべからざる世界なのだ。しかしてこの世界にあるもつはササ ーラの民である。しからば汝らはそこからより良き何物ん期待しえよらぞ」。私は凡ての人がこの言葉を日に四たびその意・ 味を玩味されながら反覆せられるよらにお災めしたい。 まことに世界は、したがってまた人間は、もとと在るべきではなかったところの何物かなの であるという確信は、相互に對する寬容の念を以て我々を充たしてくれるに充分である。何故と
るかどうか、この點に關しては何よりもます倫理的感情に訴えて判定をくだされたらいいと私は 思う。試みに、知人が或る種の犯罪、たとえば殺人とか暴行とか詐欺とか竊盜とかの犯罪を犯し たという報道に接した場合に我々のうける印象と、知人が自發的な死を逡げたという報道に接し た場合のそれとを比較してみられるがいい。前の場合にはなまなましい憤激やこの上もない蝮立 たしさを覺え、處罰や復讐の念に驅られたりするのであるが、後の場合に呼び覺まされてくるも のは哀愁と同情とである。そしておそらくはそれに、惡行にともなうところの倫理的非認という よりはむしろ、彼の行爲に對する一種嘆賞の念が却て屡 ~ いれまじることであろう。自發的にこ そしてこ の世から去っていったような知人や友人や親戚をもっていない人がいるだろうか、 れらの人逵を一體誰もが犯罪者に對するような憎悪の念をもって囘想しているとでもいうのであ ろうか。否、斷じて否 ! むしろ私は、侶どもが一體如何なる權能によって、ーーー何らの聖書の 典據も提示しうることなく、否、何らか確かな哲學的論據すらもちあわしていることなしに 敎壇や著作を通じて、我々の敬愛する多くの人逹がなした行爲に對して犯罪の刻印をおしたり、 また自發的にこの世を去っていく人逹に封して名譽ある埋葬を担んだりするのであるか、この點 に關して何としても侶どに辯明を要求すべきである、という意見を有している。但しこの場 合はっきり斷わっておきたいことは、我々の要求しているのは論據なのであって、その代りに空 虚なたわごとや罵倒の言葉を頂戴することは御免蒙りたいということた。 さて刑法は罰則に 3 よって自殺を禁じているのであるが、これは敎會で通用しているのとは違った理由によるもので
いのだ。ところが禪は人間に對しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物とし て、自殺の能力を賦與してくれた。」マルセイユとケオス島では、死なねばならぬ尤もな理由を述 べることのできた者には、市當局者の手によって、なんと公然と毒人蔘の汁が提供されていた 。さらに古代においては如何に多くの英雄と賢者とがおのが生命を自發 . 第一一巻、第六章、六節と八節 ) 的な死によ 0 て結んたことであろうか ! 尤もアリストテレス町顰、 ) は、自殺は自分 自身に對する不正とは云えないとしても、國家に對する不正である、と云っているが、しかしス ト 1 バイオスは逍學派の倫理學に關する彼の薇述 ( = 霾心一気 = 卷、 ) のなかで、次のような言 葉を引用している、 「善人は不幸が度を超えたときに、惡人は幸輻が度を超えたときに、人 「この 生に訣別すべきである」。また三一二頁にも似たような趣旨の言葉が引かれている、 ようにして彼は結婚し、子供を生み、政治に參與することであろう。また全面的におのが知能を 啓發することによって生命の保持をはかるとともに、必要の迫るに及んでは、生命を放棄するこ とであろう」。さらにストア學派にいたっては、自殺が一種の高貴な英雄的行爲として賞讃され ているのを我々は見出すのである、 その證據となる典據は百を以て數えられるほどであるが、 そのうち最も有力なものはセネ力のそれである。また印度人のもとでは周知のように自殺は宗教 的行爲として出現してくる、 たとえば、寡婦焚死とか、ジャガンナ 1 トの禪車の轍の下に身 を投ずるとか、ガンジス河や寺院の聖池などの鰐に身を捧げるとかいった風のことである。人生 の鏡ともいうべき演劇においても、また同じようなことが見られる。そこでたとえば我々は支那
何にもあっていない人のようじゃ。 このことは次のようにして理解せられえよう。そのような人物は他人のうちにも亦自分自身の 本質を認識して、その人達の運命を自分のものとして共感しているのであるから、自分のまわり に、殆んどいつでも、自分自身のよりももっと苛酷な運命を目擎している。そこでそういう人は 自分自身の運命を歎くような氣にはなりえないのである。これに反して、自分だけを全實在だと 思いこんでいるような卑しい利己主義者は、他人のことなど假面か幻像位にしか考えず、他人の 運命などには全然同情をもたないで、自分の關心の凡てを自分自身の運命に向けているのである からして、その結果、非常に敏感になってしきりに嘆聲を洩らすということにもなるというわけ である。 自分以外の現象のうちにも自分自身を再認識するという丁度そのことからして、既に私が屡 ~ 立證してきたように、まず最初に正義と人間愛とが生れてくる。そして最後に、そこからして意 志の放棄へと導かれるのである。何故というに、意志がそこにおいて展開せられているこれら 諸 } の現象は、餘りにも決定的に苦惱の状態のなかに沈淪しているのである以上、おのが自己を それら凡ての現象の上に擴大して考えているようたんは最早やそういう自己を意慾することはで きなくなるからである。これは丁度、富籤を全部一手に買いしめるような人は、否應なしに非常 な損失を蒙らざるをえないようなものである。意志の肯定は自己意識をおのれ自身の個體の上に
を我々のうちにもっているもので、したがってそれは外からではなしに内から湧き出てくるもの であるということに氣づいているような人であるならば、彼自身の本質の不減性に疑いをさしは さむなどということはありえない。むしろ彼は、彼の死にともなってなるほど客観的世界は、そ の世界の展開の媒體である知性と一緖に、彼から消減してしまうで略あろうが、しかし彼の現存 在はそのために何らの影響をも蒙るのではないことを理解していることであろう、ーーー何故な ら、内には、外なる實在性に丁度匹敵するだけの實在性が、存しているからである。彼は完全な る理解を以て、こう叫ぶことであろう、 「我はありしところのもの、あるところのもの、あ フローリレギウム るであろうところのもの、の凡てである。」 ( 0 = 。第一一卷、 = 〇一只弩【 凡てこれらのことを認めまいとするような人は、それと反對のことを主張して次のように言わ なければならないであろう、 「時間は純粹に客観的で實在的な或るものであり、それは私と は全然獨立に存在している。私はただ偶然にそのなかに投げこまれて、それの小さな部分を占有 ることになり、、 カくして或る過ぎ去り易い實在性にまで到逹しただけのことなのである。私の 前の數多くのほかの人達もそんな風であった。これらの人逹は今はもはや存在していないのであ るが、私も亦じきに無に歸することであろう。これに反して時間は、これこそは實在的なるもの である、 それは私がいなくなってもさらに前進を繽けるのである。」思うに、 このような見 解における根本的な誤謬否背理は、その表現の餘りにも斷々乎としていることによってみ看取せ られうるであろ、つ。