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検索対象: 自殺について 他四篇
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1. 自殺について 他四篇

この無性は現存在 Dasein の形式全體のうちに表現せられている。印ち、時間と穴一間のなか。 なる個體の有限性に對照されゑ時間と間の無限性のうちに。現實性の唯一の現存在樣式とし ての、持續のない現在のうちに。一切の事物の依存性と相對性のうちに。存在をもたぬ絶えざる 生成のうちに。滿足を知らぬ絶えざる願望のうちに。努力が絶えず障碍に出會うということのう 亠つに 0 この障碍が克服せられるその日がくるまでは、人生はかかる障碍から成り立っている のである。時間と、時間のうちなるまた時間のゆえの菖物の果敢なさとは、それによって、生き んとする意志ーーこれは物自體として不減のものであるーーーに對してその努力の虚無性があらわ にせられる所以の、形式にほかならない。 時間とは、それの故に萬物が瞬間毎に我々の手も とからすべりぬけて無に歸せしめられる所以の當のものである、 かくして萬物は一切の眞實 の價値を喪うことになる。 曾てあったところのものは、はや現にあるものなのではない。それは丁度、未だ曾てあった ことのないものが、現にないのと同じことである。ところで、現にあ . る一切のものは、すぐスの

2. 自殺について 他四篇

を我々のうちにもっているもので、したがってそれは外からではなしに内から湧き出てくるもの であるということに氣づいているような人であるならば、彼自身の本質の不減性に疑いをさしは さむなどということはありえない。むしろ彼は、彼の死にともなってなるほど客観的世界は、そ の世界の展開の媒體である知性と一緖に、彼から消減してしまうで略あろうが、しかし彼の現存 在はそのために何らの影響をも蒙るのではないことを理解していることであろう、ーーー何故な ら、内には、外なる實在性に丁度匹敵するだけの實在性が、存しているからである。彼は完全な る理解を以て、こう叫ぶことであろう、 「我はありしところのもの、あるところのもの、あ フローリレギウム るであろうところのもの、の凡てである。」 ( 0 = 。第一一卷、 = 〇一只弩【 凡てこれらのことを認めまいとするような人は、それと反對のことを主張して次のように言わ なければならないであろう、 「時間は純粹に客観的で實在的な或るものであり、それは私と は全然獨立に存在している。私はただ偶然にそのなかに投げこまれて、それの小さな部分を占有 ることになり、、 カくして或る過ぎ去り易い實在性にまで到逹しただけのことなのである。私の 前の數多くのほかの人達もそんな風であった。これらの人逹は今はもはや存在していないのであ るが、私も亦じきに無に歸することであろう。これに反して時間は、これこそは實在的なるもの である、 それは私がいなくなってもさらに前進を繽けるのである。」思うに、 このような見 解における根本的な誤謬否背理は、その表現の餘りにも斷々乎としていることによってみ看取せ られうるであろ、つ。

3. 自殺について 他四篇

ることは自明である。またその苦痛が認識の程度に戀じて塘大してゆくことも、容易に知られえ よう。このことは上にも述べておいたし、また私の主著のなかでも翁 ~ 一第 ) 證明濟みである。 そこで我々はこれら凡ての關係を比喩的に次のように表現することができよう。、意志は絃で あり、意志の斷乃至障碍はその絃の振動であり、認識は共鳴器であり、苦痛が音である。 さて以上のことからして、ただ單に非有機的なものだけではなく、植物もまた何らの苦痛をも たとい意志がこの兩者のなかでどのように多くの抑壓を蒙っていようとも 感じえない いうことは明らかである。これに反して、動物は凡て、滴蟲でさえも、苦痛に對する感受性をも っている。何故なら認議ーーーよしそれがどんなに不完全なものであるにしても , ーーが動物の動物 たる所以の眞實の性格だからである。動物の段階に應じて、認識が歸まるにつれて、それだけま た苦痛壻大してゆく。したがってこの苦痛は最低の動物のもとにあってはなお極めて輕微であ る。そこでたとえば昆虫などが、もぎとられて僅かに腸でつながっているような腹部をひきずり ながら、なお貪りくっているというようなことも起りうるのである。しかし最高級の動物の場 合で略、概念と思考が缺如しているのである以上、その苦痛は人間のそれに遙かに及ばない。そ れにまた苦痛への感受性は、理性とその熟慮の力によって同時にまた意志否定の可能性が出現し きたるに及んで、始めてその頂點に逹しうるのである。というのは、もしもそ、ついう可能性がな かったとしたら、苦痛へのかかる感受性は目的のない慘酷さだということになるであろうからで 7 ある。

4. 自殺について 他四篇

「世界はわが表象である」という私の第一命題からして、差しあたり次の歸結が出てくる、 「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ。」思うにひとはこのことを、死を破減と 混同することに對抗する解毒劑として堅持しておくべきであろう。 誰でもが、自分の最内奧の核心は現在を含み且つもちまわっているところの或るものである、 と考えるべきである。 よし我々が如何なる時に生きているにしろ、いつでも我々は我々の意識とともに時間の中心に 立っているのであって、決してその末端にあるのではない。そこからして、誰でもが無限な時間 全體の不動の中心を自分自身のうちに擔っているものであることが、推量せられえよう。これが また結局は、人間が絶えざる死の恐怖なしにその日その日をすごしておられるような信賴を人間 に與えてくれる所以のものなのである。さて、囘想と想像の力に惠まれているために、自分自身 の生涯の遙かなる過去を本當にまざまざと眼前に想い浮べることのできるような人は、一切の時 間をつらぬく今の同一性を、ほかの人達よりも一暦明瞭に意議していることであろう。おそらく この命題は、それをさかさまにしたら却てその眞理性をますことになるか知れない。それはと もかくとして、一切の今の同一性をそういう風にほかの人逹よりも明瞭に意識しているというこ とが、哲學的天分にとってのひとつの本質的な要素なのである。この意識あるが故に、我々は何 にもまして過ぎ去り易い今を唯一の持績者として把握しているのだ。さてそのような直観的な仕 方で、現在ーー・これこそが、最狹義における、一切の實在性の唯一の形式であるーーーはその源泉

5. 自殺について 他四篇

對して内在的認識というのは、經驗の可能性の限界の内部にとどまっているもので、だからして またそれは單に現象について語りうるにすぎないのだ。 君は、個體としては、君の死ととも に終るのさ。けれども個體というのは、君の眞實の究極の本質なのではなくて、むしろその本質 の單なる現象にすぎない。個體は物自體そのものではなくて、それの現象にすぎないのだ。この 現象たるや、時間という形式のなかで展開されるのだから、したがってそれには始めもあれば終 りもあるというわけなのだよ。それに反して君の本質はそれ自體においては何らの時間をも知ら ない。始まりをも終りをも知らない、更には或る與えられた個性の制限をも知らない。だからそ れは如何なる個性からも排除せられえないものな 0 だ。むしろそれは各自一切のうちに現存して いる。こんなわけだから、第一の意味においては、君に君の死によって無に歸することになるた ろうが、第二の意味においては、君はあくまでも一切なのだ。君が死んだら、君は一切にして無 であるであろう、と僕が云ったのは、そういう意味なのさ。君の質間に、簡單にだね、しかもこ れ以上正確に答えようとしても、それは無理だよ。無論この解答のなかには矛盾が含まれてはい る。しかしそれは君の生涯は時間のうちにありながら、君の不減性は永遠のうちにある、という ことのためにほかならないのだ。 だからして、この不減性はまた存續のない不減性だとも呼 ばれえよ、つ、 そうするとまたここにひとっ矛盾が出てくることになる。しかし超越的なもの を内在的認識のなかにもちこもうとすれば、、 しきおいこうならざるをえないのだ。この際我々は この内在的認識に一櫛の暴力を加えることになる。もともとこの認識はかの超越的なもののため

6. 自殺について 他四篇

間には、もう曾てあったものなのである。こういうわけなのだから、極めて無意味な現在と雖 も、現實性という點にかけては、極めて有意味な過去よりも、たちまさっている。印ち、前者の 後者に對する關係は、若干の無に對する關係のようなものだ。 我々は、幾萬年幾億年を通じて未だ曾てあったことがなかったというのに、まことに不思議な ことには、いまや突如としてここにある。そしてまたっかのまの時を經れば、我々は再び同じよ 、つに永劫になくなってしまうのである。 そんな馬鹿なことのありえよう筈はない、と我々の 心は聶く。そこで如何に粗野な悟性の持主でさえも、このような種類の考察を重ねていくうちに は、時間の觀念性に關する豫感に目覺め始めるに違いないのだ。ところで、時間の観念性という このことが、間のそれをも含めて、一切の眞實の形而上學の鍵なのである。というのは、それ によって、自然の秩序とは全く異なるところの事物の秩序のために場所が聞かれることになるの である。カソトがあのようにも偉大である所以はここにあるのだ。 我々の人生の凡ゆる出來事にはただ一憐間だけ「ある」ということが歸屬している。それから は永久に「あった」だ。黄皆の訪れる毎に我々は一日だけ貧乏になっていく。我々の短かい生涯 もしも、 のこの疾過を眼のあたり見るとき、おそらく我々は狂氣にかられることでもあろう、 我々には永遠性の斷じて枯渇することのない源泉が藏されていて、そこからして生命の時間が絶 えず更新せられうるのだ、というひそやかな意識が、我々の本質の最深の根柢にひそんでいなか 9 ったとするならば。

7. 自殺について 他四篇

一切の事物の果敢なさと虚無性と夢のような性質とを愈明瞭に意識している人であれはある はど、それだけまた明瞭にその人は自分自身の内なる本質の永遠性をも意識することであろう。 何故というに、もともとこの内なる本質との對照においてのみ、事物のかの性質は眞實に認議せ られるにいたるからである。恰も自分の乘っている船がどんなに速く走っているかということは、 動かない岸を見やる場合にのみそれと氣づかれるので、船そのものを見たのではわからないのと 同じことである。 現在は兩面をもっている、ーーー客観的な面と主観的な面である。客観的な現在だけが時間の直 觀を形式としてもっているのであり、それ故にそれはとどまることなく進展してゆく。それに反 して主観的な現在は不動のままにとどまっているのであり、それ故にそれはいつも同一である。 ここからして、とうに過ぎ去ったものについての我々の生々した囘想も生れてくるのであり、我 我が我々の現存在のはかなさを知っているにも拘らず我々の不減性についての意識をもっている のも亦このためである。 いうわけである。

8. 自殺について 他四篇

しいではないか ! , ーー希臘人にとっては世界と禪々・は或るはかり難い必然性の創作である、 「ついう思想も當座の要求を充たす間に合せのものとしては我慢ができよう。 ォルムズドは アフリマソとの絶えざる戰鬪のうちに生きている、 これも一考に價いする。 ところが 工ホバとかいう禪が、自分の心をたのしませるために困窮と悲慘のこの世界を創り出しておいて、 さておまけに「凡て甚だ善し」隷 3 ミ 2 ミになどと自分一人で拍手喝采したというにいた っては、もう我慢がならない。そこで、こ、ついう點からして、ユグャ敎というものは文明國民の 諸萋の宗敎のなかで最下位を占めるものであることがわかるのだが、宗教のなかで靈魂不減の敎 理を全然もっていない否それの何らかの痕跡さえも含んでいない唯一の宗敎がこのユダヤ敎たと いうことも、最下位の宗敎としてはまことにさもあるべきことである ( 本書一卷一一。 凡ゆる可能な世界のなかで、この世界は何と云っても最上の世界である、というライプ一一ツツ の證明がたとい正しいとしても、それだけではまだ何の辯溿論にもならない。 というのは、創造 者は單に世界だけではなく、同時にまた可能性それ自身を創ったのである以上、もっと善い世 界が可能となるような風にその可能性を創設すべきであったからである。 ところで、この世界が全知全能にして大慈大悲にまします禪の傑作だなどという見解に對して は、一方においてこの世界に充ち充ちている悲慘が、また他方において誰の眼にも明らかな不完 全性が、なかんすく世界の諸現象中の完璧たるべき人間の滑稽なまでに醜惡な状態が、おしなべ て高に反駁の叫びをあげている。ここには解消しえられない不協和が存している。ところで我

9. 自殺について 他四篇

いうに、そのよ、つな屬性のもとにある存在者からして我々は一體何を期待しうるのであろうか。 そうだ、このような観點からすれば、人間同志の呼びかけの言葉なども、ムシュウ on を eur とかサー Sir とかではなしに、「苦惱の友よ」 Leidensgefährte, Soci ma101 ・ um, compagn- on de misöres, my fellow-sufferer とでも云った方が本當に適切なのではないかというような 考え浮んでこよう。この言葉がどのように奇妙な響きを帶びていようとも、しかしこの言葉こ そは事態に印應しているのであり、他人の上に最も適切な光を投げかけるのであり、また何より も大切なこと印ち寬容。忍耐・同情。隣人愛を想い起さしてくれる、 これらは誰もが必要と しているものであり、したがってまた誰もがこれらについての義務を負うているのである。 九の補遺 この世界の事物の特質、殊にもまた人間の世界の特質は、既に屡 ~ 語られてきたように不完全 性ということにあるとい、つよりは、むしろ歪曲性ということにある、ーー・・、倫理的にも、知的にも、 肉體的にも、凡ゆる領域においてそうである。 多くの罪惡に關して屡 ~ 「何とい 0 てもこれは人間の本性なのだから」という辯解がきかれた ものだが、こういう辯解は決して充分とはいえない。それに對しては我々はむしろこう答えるべ きであろう、 「それが惡であるという丁度その理由からして、それは人間の本性なのであり このことを それが人間の本性であるという丁度その理由からして、それは惡なのである」。

10. 自殺について 他四篇

現存在の虚無性に關する敎説に よせる補遺