それにしてももしも大氣の壓力が我々の肉體からとりさられたとしたら、我々の肉體は破裂 してしまうに違いないように、もしも困窮とか辛苦とか災難とか努力の挫折とかの壓力が人間の 生活からとりさられたとしたら、人間の傲慢はふくれあがってしまって、たとい破裂するまでに はいかないにしても、奔放極まる調子はずれの現象否狂亂の現象さえも呈するにいたるであろう 9 誰でもが、しつかりとまっすぐに進むことができるためには、恰船が底荷を必要とするよ うに、或る程度の心勞乃至苦痛乃至困窮が必要なのである。 勞働と心勞と困苦と困窮とは、たしかに、その全生涯を通じて、殆んど一切の人間の運命であ る。けれども、もしかりに一切の願望はそれが生するや否やもう既に充たされてしまうものだと したら、その場合人間の生活は一體何によって埋められ、時間は何によって費されることになる 。そこでは萬物 のであろうか。かりに人間というこの種屬を極樂島にでも移してみられたらいい は自ら成り出で、鳩の群は焼肉となってとびまわっている。またなんびとも自分の愛人を容易に 見出し、何の苦勞なしに彼女と暮していける。 だがそうなったら、人間の或る者は退屈の 餘り死んだり首をくくったりすることであろうし、また或る者は互いに攻めあったり首を絞めあ ったり殺しあったりして、結局今日自然が人間に課している以上の苦惱を人間が自分で惹き起す 但し、時間によって退屈の手に引渡された人間だけは、遉いかけられない。
てこの兩者の相互浸透せるものが因果性である。一我々がこれらの制約のもとに知覺するとこ ろのもの凡ては單なる現象でしかない。だバ我々は物をそれがそれ自置においてあるがままには、、 印ち物が我々の知覺を離れてあるであろうようには、認識できないのである。、これがもともとカ ゾト哲學の核心である。哲學が金錢ずくの山師の痴呆化作用のおかげでドイツから追放された時 期もそろそろ終りに近づいた今日となっては、このカソト哲學とその内容とに思いをいたすこと は言いつくせぬほど大切なことであろう。ちなみに上述の哲學追放には、月給と謝禮が何よりも 大事で眞理や精禪などはそれこそ全くどうでもいいといった迚中が心から喜んで一役買ったこと を言い添えておこう。 三の補遺 時間という認識形式のために、人間 ( 印ち生きんとする意志の肯定の最高の客観化の段階 ) は、、 絶えず新たに生れてはやがてまた死んでゆく人間の種屬印ち人類として現われてくるのである。 個體の死に際して局外者のままでいるところのかの現存在は、時間・間の形式をもってはい ない。だが我々にとって現實的である凡てのものは、これらの形式のなかに現われてくる。それ だからして死に我みにとっては破減のように見えてくるのである。
「世界はわが表象である」という私の第一命題からして、差しあたり次の歸結が出てくる、 「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ。」思うにひとはこのことを、死を破減と 混同することに對抗する解毒劑として堅持しておくべきであろう。 誰でもが、自分の最内奧の核心は現在を含み且つもちまわっているところの或るものである、 と考えるべきである。 よし我々が如何なる時に生きているにしろ、いつでも我々は我々の意識とともに時間の中心に 立っているのであって、決してその末端にあるのではない。そこからして、誰でもが無限な時間 全體の不動の中心を自分自身のうちに擔っているものであることが、推量せられえよう。これが また結局は、人間が絶えざる死の恐怖なしにその日その日をすごしておられるような信賴を人間 に與えてくれる所以のものなのである。さて、囘想と想像の力に惠まれているために、自分自身 の生涯の遙かなる過去を本當にまざまざと眼前に想い浮べることのできるような人は、一切の時 間をつらぬく今の同一性を、ほかの人達よりも一暦明瞭に意議していることであろう。おそらく この命題は、それをさかさまにしたら却てその眞理性をますことになるか知れない。それはと もかくとして、一切の今の同一性をそういう風にほかの人逹よりも明瞭に意識しているというこ とが、哲學的天分にとってのひとつの本質的な要素なのである。この意識あるが故に、我々は何 にもまして過ぎ去り易い今を唯一の持績者として把握しているのだ。さてそのような直観的な仕 方で、現在ーー・これこそが、最狹義における、一切の實在性の唯一の形式であるーーーはその源泉
面せしめるにたるものがある。それにまたいま云った希望と期待の喜びでさえも、我々は代償な しにこれを味わっているわけではない。ち我々が或る滿足を希望し期待することを通じて豫め 享樂している部分は、その満足の現實的享樂から先取されたものとして、後にその現實的享樂に 際してそれだけ差引かれるのであるから、事柄それ自體の與える滿足はそれだけ少なくなるので ある。ところが動物はその反對に、享樂の先取からもしたがってまた享樂のかかる天引きからも 解放されているのであるから、現實的な現在それ自身をそっくりそのまま餘すところなく享樂し ている。同様にまた災厄も動物の上には實際の正味の重みでのしかかってくるだけなのであるが、 我々の場合には恐怖と豫見、印ち所謂災厄の豫見隷 p 。ミミにミ 3 にのためにこの重みが 往々にして十倍ぐらいにも感じられるのである。 動物に特有な現在への全面的沒人という丁度このことが、我々が我々の家畜からえている喜び の相當大きな部分をかたちづくっている。動物は現在の權化である、そしてそれは我々に煩らい から解放された澄み切った時間というものの價値を或る程度まで感じさしてくれるのである、 我々は大抵我々の思考のためにこういう時間を通り過ごしてなおざりにしているのであるが。 ところが、動物の方が我々以上に單なる現存在のうちに滿足を見出しているという前述の特性が、 利己的で冷血な人間によって濫用されて、往々にして動物には單なる空虚な現存在以外には何も のをも、徹頭徹尾何ものをも與えないという程度にまで搾りつくされている。印ち人間は、地球 の半分までもとびまわれるような素質をもった鳥を、一立方呎の察間のなかにおしこめるのであ
6 間の心情はあのようにも強烈な激情と情熱と感動とにさらされ、それらの跡は拭いえない刻印と なって人間の顏面に刻みこまれて誰にも讀まれうるようになっている。ところが結局のところ、 その實質たるや、動物が人間とは比較にならぬほど少量の激情と苦悩を費して獲得しているもの と全く同じ内容のことを間題にしているにすぎないのだ。しかるに以上凡てのことの結果として 人間においては苦痛の量が快樂の量を遙かに上まわるようになってきている。さらにこの苦痛の 量は、人間が現實に死のことを知っているという特殊の事情によっていちじるしく增大されてい る。ところが動物は單に本能的に死を避けるだけであって、本當の意味では死を知ってはいない、 したがってまた動物は未だ曾て人間のように死を現實に凝視することもなかった、 人間は祀 えず死を眼前に見ているのである。そこで、たとい自然の死を遂げるのは極く少數の動物だけな ので、大抵の動物はおのが種屬を繁殲させるに足る丁度それだけの時間を與えられるだけであり、 それが濟むと もしそれ以前でないとしたらーーー或る他の動物の餌食になってしまうのだとし ても、またそれに反して人間たけがおのが種屬において所謂自然死が原則となるまでに漕ぎつけ えたのだ 尤もその例外も相當なものであるが としても、依然として、上述の理由からし て、動物の方がなお惠まれているのである。それにまた人間がおのが生命の本當に自然な終末に まで到逹することは、動物と同じくらいに稀である。それというのも、人間の反自然的な生活様 式や、人間の諸の焦慮と激情、さらにはこれら凡てのものの結果として生じてきたところの人 類の墮落などのために、人間は滅多に自然の終末にまで到逹しえないようになってしまっている
四 ひとびとはどうして、或る人間の死を目撃した場合に、 ここでひとつの物自體が無に歸したと 一切の現象 いう風にのみ思いこみうるのであろうか。むしろここでその終末を見たのは時間 のかの形式ーー・のうちなる或る現象だけなので、物自體がそれによって何らかの影響を蒙ったと いうわけのものではないということは、誰でもが直接に直観的に感づいているところなのてある 9 それだからひとびとはそのことを凡ゆる時代に、實に種々多様な形の表現ーー・尤も一」れらの表現 は凡て現象から借り來ったもので、その本來の意味はこの現象たけに關係しているのだがーーを 通じて言い現わそうと努力してきたのである。誰でもが、自分は曾て或る他者によって無から創 られたようなものとは一寸う、という風に感じている。そこからして彼のうちに、死は自分の 生命の終りではあるかも知れぬが、しかし自分の現存在が死によってとどめをさされるというこ ) とはありえない、 という確信が生れてくるのである。 四の補遺 動物でもそうである。自分の 人間は生命を賦與された無とは些か違った或るものである、 現存在は自分の現在の生命に限られていると思っている人は、自分を生命を賦與された無たと耆 えているのである、 三十年前には自分は無であった、三十年後には自分はまた無になる、と
この無性は現存在 Dasein の形式全體のうちに表現せられている。印ち、時間と穴一間のなか。 なる個體の有限性に對照されゑ時間と間の無限性のうちに。現實性の唯一の現存在樣式とし ての、持續のない現在のうちに。一切の事物の依存性と相對性のうちに。存在をもたぬ絶えざる 生成のうちに。滿足を知らぬ絶えざる願望のうちに。努力が絶えず障碍に出會うということのう 亠つに 0 この障碍が克服せられるその日がくるまでは、人生はかかる障碍から成り立っている のである。時間と、時間のうちなるまた時間のゆえの菖物の果敢なさとは、それによって、生き んとする意志ーーこれは物自體として不減のものであるーーーに對してその努力の虚無性があらわ にせられる所以の、形式にほかならない。 時間とは、それの故に萬物が瞬間毎に我々の手も とからすべりぬけて無に歸せしめられる所以の當のものである、 かくして萬物は一切の眞實 の價値を喪うことになる。 曾てあったところのものは、はや現にあるものなのではない。それは丁度、未だ曾てあった ことのないものが、現にないのと同じことである。ところで、現にあ . る一切のものは、すぐスの
我々の現象のうちに提示されている物自體、に對しては沒落の概念もさらにはまた存續の概念も 適用せられえないのである。何故ならこれらの概念は時間に由來するものなのであるが、時間は 單に現象の形式にすぎないからである。 ところが我々には我々の現象のかの核心の不減性な るものも、その核心の一種の存績として以外には考えられえない。それに本當はその存續も、 諸 ~ の形態の一切の流轉を越えて時間のなかで持繽しているところの物質をひながたにして考え られているのである。 さてその核心からそうい、う存績がはぎとられるとすると、我々は我々 の時間的な終末を一種の滅亡であると考えることになる。これは時間という形式をひながたにし てものを考えているためなのであって、この形式たるや、それの基盤となっている物質がそれか ら奪い去られる場合には、無に歸するものなのである。ところで以上二つの場合はいすれも、見 當述いの領域に足をふみいれる誤謬新ミ c 、 c 2 。 rsvoc を冒しているのである、印ち 現象の諸形式を誤って物自體の上に滴用しようとしているのである。それにしても、何らの存 でもないであろうような不減性などというものは、それについてただの抽象的概念をかたちづく ることさえも我々には殆んど不可能であろう。それは、そういう概念の裏づけとなるような一切 の直が我々には缺けているせいなのである。 だが本當は、新しい存在の絶えざる生成と現存せるものの沒落とは、磨きだされた二つの眼鏡 ( 腦の作用 ) の裝置によって生み出された幻影と看做さるべきものである。我々はこの二つの眼 鏡を通してのみ物を見ることができるのであり、それは空間並びに時間と呼はれている。そうし
の生活と現存在それ自身とを観察してみられたらどうであろう。そこに見出されるものは、苦痛 のない生存がほんの暫らく續いたかと思うと、その上にすぐに退屈が襲いかかり、この退屈がま たじきに新しい困窮のために追い出される、といったようなことである。 困窮がやむとすぐに退屈が現われる。ー・。動物でさえ少し利ロなものは退屈に襲われるーーーと いうことは、人生は何ら眞實の純粹な内容をもってはいないので、ただ欲求と幻影によって動か されているだけだということからの、ひとつの歸結である。だからこの動きが止まったら最後、 ナぐに現存在の味氣なさと虚さが表に現われてくるのである。 世の成行に關する壯大な考察から、特にはまた人類諸族のめまぐるしい交替とそれの儚ない假 , 象的現存在とから眼を轉じて、謂わば喜劇のなかに現われてくるような人間生活の部に注目し てみたらどうであろう。いまここで與えられる印象は、滴虫類のうごめいている一滴の雫や、乃 至は普通肉眼では見えない乾酪虫の一群を、太陽顯微鏡で覗いてみたときに與えられる光景と似 オか。これらの虫けらどもの大眞面目な活動と格鬪が我々を笑わせるの ・通ったものがありはしよ、 てある。というのは、一方こんなにも狹い間のなかでの、他方またあんなに短かい時間のな かでの、大袈裟で大眞面目な活動は喜劇的な印象を與えるものだからである。 もしそ 未だ曾て、現在のなかで、自分は本當に幸禳だと感じた人間は一人もいなかった、 んなのがいたとしたら、多分醉つばらってでもいたのだろう。
心靈であり不減なものだといらわけだが、それな彼は見當違いの主張で證明している。部ち、信しみと愛は心靈に屬してい るのではなしに、それの器官たる可死的な部分に屬している、とい - つのだ ! さて、出産と死とを通じて、印ち意志と知性とによる個體の顯わな組成とそれにつぐ個體の解 體とを通じて、物質的なものがどんなに異樣なまたいかがわしい勢力をふるうにしても、物質的 なものの根柢に存している形而上的なものはもともとそれとは全く異質的なものなのであって、 これはそのことによって何ら煩わされることのないものなのである以上、我々は安んじていて然 るべきであろう。 それ故に我々はどのような人間をも二つの相反する觀點からして考察することができる。一方 からいえば、彼は時間のうちに始まり且っ終るところの果敢なく過ぎ去りゆく個體であり、謂わ ば「影の夢」身ミ。。ド一。である。それにまた彼は諸の過誤と諸 ~ の苦という重い荷を背負 わされている。他方からいえは、彼は一切の現存在のうちに自己を客観化するところの不滅の根 源的存在なのであり、そのようなものとして彼はサイスにあるイシスの像とともに、「我はあり しところのもの、あるところのもの、あるであろうところのもの、の凡てである」と語りうるの である。ーーー疑いなくこのような存在にとっては、我々のようなこの世界のなかで自己を現象 化するなどということは餘り氣のきいたことではない。 というのはこれは有限性と苦惱と死との 世界なのである。この世のなかにあるもの、この世から出てきたもの、は終らねばならぬしまた 死なねばならない。たた、この世ののでないものまたこの世のものであろうとしないところの