一切の事物の果敢なさと虚無性と夢のような性質とを愈明瞭に意識している人であれはある はど、それだけまた明瞭にその人は自分自身の内なる本質の永遠性をも意識することであろう。 何故というに、もともとこの内なる本質との對照においてのみ、事物のかの性質は眞實に認議せ られるにいたるからである。恰も自分の乘っている船がどんなに速く走っているかということは、 動かない岸を見やる場合にのみそれと氣づかれるので、船そのものを見たのではわからないのと 同じことである。 現在は兩面をもっている、ーーー客観的な面と主観的な面である。客観的な現在だけが時間の直 觀を形式としてもっているのであり、それ故にそれはとどまることなく進展してゆく。それに反 して主観的な現在は不動のままにとどまっているのであり、それ故にそれはいつも同一である。 ここからして、とうに過ぎ去ったものについての我々の生々した囘想も生れてくるのであり、我 我が我々の現存在のはかなさを知っているにも拘らず我々の不減性についての意識をもっている のも亦このためである。 いうわけである。
ものは、恰も天に閃く稻妻のように、全能の力を以て電光石火この世をかすめさるのであり、そ れは時間をも死をも知らないのである。 これら凡ての對立を統一することが、本來哲學の主 題である。 七の補遺 人生は、シルレルの『視靈者』のように、續編の缺けている小説みたいなものだ、それにまた この小はスタ 1 ンの『センチメンタル・ジャー = 1 』のように、物語のただなかで途切れてし まうことがよくある、というような考えは、美學的にいっても倫理學的にいっても、まるで納得 のいかない考え方である。 我々にとっては死はどこまでも否定的なものである、 印ち生の終焉である。しかし死には また積極的な面もなければならない筈であるが、この面は我々には隱されたままになっている。 何故なら我々の知性にはこの面を把捉しうる能力が全然缺けているからである。それ故に我々は 死によって失うところのものはよく認識するのであるが、それによって獲るところののについ ては知らないのである。 もしも我々が我々の本來の本質を徹頭徹尾それの最内奥まで殘りなく認識したとしたら、個體 の不滅性を念願するなどは滑稽なことだということがわかるであろう。何故というに、そのこと はかの本質の數知れぬ現象ーー , 閃光ーーのたた一つのためにかの本質それ自身を棄てることを意
9 は豹が一匹もいないということをきいて、天國行をことわったのである。 そらなれば我々はこ * もしも死とともに知性が消減しないものとしたら、無論これほど慷快なことはまたとあるまい、 の世で學んだ希臘語をそっくりそのままあの世にたすさえていけるというわけである。 それにまた以上に述べられたことは凡て次のような前提の上に立っているのである、ーーー我々 は無意議でない状態というのを、認識的な状態としてしか、したがって一切の認識の根本形式 を、印ち主観と客観への分裂乃至は認識するものと認識されるものへの分裂を、含んでいるもの としてしか、表象しえられないものであるということ。しかしまた我々は次のことをも考慮して みなければならない 認識することと認識されることとのこの形式の全體は、單に我々の動 物的なしたがってまた極めて二義的で派生的な性質によって制約されているものにすぎないとい うこと、それ故にそれは一切の實體と一切の存在との根源的状態では決してないとい、つこと、し たがってこの根源的状態なるものは全く異質的なものではあるにしても、しかし無意識的ではな いものであるか知れないということ。我々自身の現在の本質にしても、それの核心にまで追求 せられうる限りにおいては、それは單なる意志なのであり、そうしてこの意志たるやそれ自體に おいては非認識的なるものなのである。さて我々が死によって知性を喪失する場合には、それに よって我々は單に根源的な非認識的な状態のなかに移されることになるにすぎない、しかしそれ はだからといって全くの無意識的な状態であるとも限らないのであって、むしろそれはかの形式 を越え出ているところの状態、印ちそこでは主觀と客観との對立が脱落しているような状態であ
正しく理解するためには我々は原罪の敎理の意味を認識していなければならない。 個々の人間を評價するに際しては、我々はつねに次のような観點を堅持していなければならな その人間の根柢をなしているものはもともと斷じてあるべきではなかったような何物か なのであり、何かしら罪あるもの、願倒せるもの、印ち原罪のもとに理解せられていたようなも の、そのためにこそ彼が死の手に委ねられるにいたったそのもの、なのであるということ。この ような根本的な悪の性質は、誰もが自分をみつめられることをいやがるという事實のうちにも、 まことに特徴的に現われている。そのような存在者からして我々は一體何を期待しうるのであろ うか。そこで我みがもしも以上のような観點からして出發するならば、個々の人間の評價に際し ての我々の態度ももっと思いやりのあるものとなるであろう。そしてたとい彼のうちにひそんで いる惡魘がいっか目覺めて顏をのぞかせるようなことがあるとしても、我々は特に驚きもしない であろうし、もしまたそれに拘らず知性の結果かその他何かのせいで善が彼のうちに見出され るようなことでもあれは、それをいままでよりも一層高く評價することができるようになるであ ろう。ーー次にまた我々は彼の境遇をよく考えてやらなければならない。印ち、人生は本質的に 困窮の状態乃至は往々にして悲慘の状態なのであり、各人は自分の生存のために悪戦苦鬪しなけ ればならないのであるから、そういつも愛想のいい顏つきはかりもしておられないのだというこ ところがもしもその反對で、凡ての樂天的な とをよく念頭においてやらなければならない。 宗敎や哲學が想定しようとしているように、人間は禪の作品否その權化でさえもあるというので
對して内在的認識というのは、經驗の可能性の限界の内部にとどまっているもので、だからして またそれは單に現象について語りうるにすぎないのだ。 君は、個體としては、君の死ととも に終るのさ。けれども個體というのは、君の眞實の究極の本質なのではなくて、むしろその本質 の單なる現象にすぎない。個體は物自體そのものではなくて、それの現象にすぎないのだ。この 現象たるや、時間という形式のなかで展開されるのだから、したがってそれには始めもあれば終 りもあるというわけなのだよ。それに反して君の本質はそれ自體においては何らの時間をも知ら ない。始まりをも終りをも知らない、更には或る與えられた個性の制限をも知らない。だからそ れは如何なる個性からも排除せられえないものな 0 だ。むしろそれは各自一切のうちに現存して いる。こんなわけだから、第一の意味においては、君に君の死によって無に歸することになるた ろうが、第二の意味においては、君はあくまでも一切なのだ。君が死んだら、君は一切にして無 であるであろう、と僕が云ったのは、そういう意味なのさ。君の質間に、簡單にだね、しかもこ れ以上正確に答えようとしても、それは無理だよ。無論この解答のなかには矛盾が含まれてはい る。しかしそれは君の生涯は時間のうちにありながら、君の不減性は永遠のうちにある、という ことのためにほかならないのだ。 だからして、この不減性はまた存續のない不減性だとも呼 ばれえよ、つ、 そうするとまたここにひとっ矛盾が出てくることになる。しかし超越的なもの を内在的認識のなかにもちこもうとすれば、、 しきおいこうならざるをえないのだ。この際我々は この内在的認識に一櫛の暴力を加えることになる。もともとこの認識はかの超越的なもののため
我々の眞實の本質は死によって破壞せられ えないものであるという敎 - 説によせて
た次のよ、つに答えてもよかろ、つと臥う、 「君の死後たとい君がどうなるにしてもーー、よし無 になるにしても 、そのときの状態は、君にと 0 ては、恰も現在の君の個體的・有機的現存第 が君にとってそうであるのと全く同じように、自然で似つかわしいものであるだろう。だからも し怖ろしいということがあるとすれば、せいぜいのところ移りゆきの瞬間だけなのだ。それに、 我々のこの現存在などよりはむしろ全くの無の方がまだましだくらいだということは、事態を充 分に考察しさえすればきっとわかることなのだから、我々の存在の終末とか乃至は我々がそこで ははや存在していないであろう時間とかいうような観念は、丁度我々がもしも全然生れてこな いのだったとしたらというような觀念と同じことで、理性的に考えさえすれば、なにも我々をお びやかすほどのこともないのだ。一こ、ついう現存在というものは本質的には個人的なものなの だから、そこからしてもそ、ついう個人生活の終末などを損失だなどと考えるべきではあるまい。」 さてもし、客観的・經驗的な方法で唯物論の尤もらしい糸を手懸りにして生きてきたような人 間が、いまや死による徹底的破壞・ー , ーこれが彼をじっと凝視しているーーの恐怖にかられて我み の門をたたくことでもあるとしたら、それこそ最も簡單な且つは彼の經驗的見解にふさわしい仕 方で彼の心をしずめてやることができるだろう。我々は彼に物質とその物質を一時的に占有して いる終始形而上學的な力との區別を明瞭に指摘してみせるのだ。たとえば鳥の卵であるが、その 卵の全く同質的な無形の流動體は、それにふさわしい氣温が出現するや否や、その卵が屬してい る丁度その種類の鳥の實に複雜な且っ歳密に規定されている形體をとることになるのである。と
まず以て、その人はおのが罪の結果としてのみ存在しているので、その人の生涯はその誕生の際 に背負わされてきた負目の辨償にほかならないのだ、という風に見ることになるのである。ほか ならぬこのことが、基督敎において人間の罪性と名づけられているものの本質をなしている。し たがってそれがまた、この世界において我々が我々の同類として出會う存在者の根柢なのである。 それにまたこういう事情もある、 ひとびとはこの世界の根本的性質の結果大抵の場合多かれ 少なかれ苦惱と不滿の状態のなかに自分を見出しているのであるが、こういう状態は彼らをして 同情的な愛情深い人間たらしめるに適したものとは云えない。最後にまた彼等の知性たるや殆ん ど例外なしにおのが意志への奉仕に辛うじて間にあう程度のものなのである。そこで我々は以上 述べたことに即してこの世のなかでの社交生活に對する我表の要求を加減しなければならない。 このような観點を堅持している人であれば、社交への衝動を一種有害な性向と名づけることでも あろう。 * 人生に耐えていこらとする者にとって、害惡と人間に泰然と耐えていこうとする者にとって、次のような佛敎の訓戒にも まさって有なものはまたとないであろう、 「これはサンサーラ ( 輪廻〕である、 部ちこれは色慾と貪慾の世界で あり、生老病死の世界である。云い換えればこれは本來在るべからざる世界なのだ。しかしてこの世界にあるもつはササ ーラの民である。しからば汝らはそこからより良き何物ん期待しえよらぞ」。私は凡ての人がこの言葉を日に四たびその意・ 味を玩味されながら反覆せられるよらにお災めしたい。 まことに世界は、したがってまた人間は、もとと在るべきではなかったところの何物かなの であるという確信は、相互に對する寬容の念を以て我々を充たしてくれるに充分である。何故と
いま世界の現象を生み出しているそのものは、そうしないでいることも、印ち靜寂のままにと、 どま 0 ていることもできるに違いないということ、ーー・、換一一一「すれば、現在の擴張ミ。には アプリオリ 收縮 き。ということもなければならない筈だということは、或る意味では先天的に洞察せ られ、つることである、わかり易くいえば、これは自明のことである。さて前者は生きんとする意 志の現象である。そこで後者は生きんとする意志の否定の現象であるということになろう。後者 はまた、本質的には、吠陀の敎にいう大熟氓位 magnum sakhepat ( 一 1 第 ) 、佛敎徒の 涅槃、新プラトン派の彼岸。鳶者 2 と同一のものである。 或る種の愚かしい異論をさしはさむ者もあるであろうから、豫め斷わ 0 ておきたいのであるが、 生きんとする意志の否定ということは決して或る實體の絶減を意味するものなのではない。それ は單に意慾しないというだけの行爲なのである、 印ち、これまで意慾してきたその同じもの が、最早や意慾しなくなるということなのである。ところで我々はこの本質、印ち物自體として の意志を、單に意慾という行爲においてのみまたそれを通じてのみ知「ているのであるから、そ れがこの行爲を放棄してしま 0 たあとで、なおさらにそれが何であるのか乃至はまた何をや 0 て いるのであるかということについては、我々には語ることも理解することもできない。だからし、
目次 我々の眞實の本質は死によって破壞せられえないもの であるという敎證によせて : 現存在の虚無性に關する敎説ぐ こよせる補遺 : 世界の苦惱に關する敎證によせる補遣 : 自殺について : 生きんとする意志の肯定と否定に關する敎證によせる補遣 : 譚者跋・ :