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検索対象: 自殺について 他四篇
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1. 自殺について 他四篇

は、僕は、僕は生きたいのだ ! これこそは僕 0 切なる願望た。理窟で以て漸くそれは僕のも のたという風に納得させられねはならぬような現存在などは、僕にはどうでもいいのだ。 フィラレ 1 トスだがねえ、ようく考えて見給えよ ! 「僕は、僕は、僕は生きたい」と君は叫 ぶけれども、そんな風に叫んでいるのはなにも君だけではないのだ。むしろ凡てのものが、意識 のほんのかすかな影だけでももちあわしているものであれば、文字通りに凡てのものが、そう叫 んでいるのだ。だからしてそのような願望は、これこそ個人的なものなのではなしに、何らの差 別なしに萬有に共通のものだということになる。それは個性から生れてくるものなのではなく、 現存在一般から生れてくるものであり、現に存在している凡てのものの本質をなしているのだ。 ・否、それはそれあるが故に萬物が存在している所以のそのものなのだ。だからまたそのような願 望は現存在一般によって滿足させられるものたので、それはこの現存在一般たけにかかわりあっ ているものだということにもなる。それは何か或る特定の個體的存在だけによって滿足させられ るものなのではない。もともとそれはそのような個體的存在などには全然關心をもってはいない ものなのた。尤もそれは恰もそのような個體的存在に關心をもっているかのように絶えず見せか けてはいる。それというのも、そのような願望が意識化せられうるためには何らかの個體的存在 を通する以外に路がないからなので、そのためにそれは恰もかかる僴體的存在だけを間題として なるほど 芻いるかのように絶えす見せかけているのだ。しかしそれは單なる假象にすぎない、

2. 自殺について 他四篇

この存在は、自分がどこから來たのかも、また何故に自分、 つの新しい存在が出現してくる、 が現にあるような丁度そのようなものであるのかも、知ることなしにいまや存在へと歩み出てく るのである。これが再生 Pa1ingenesie の禪祕である、 ーー・私の主著の第二卷の第四十一章はこ の禪祕の解明と看做されえよう。このようにして、この瞬間に生きている凡ての存在は既に將來 生れてくるであろうところの几てのものの本來の核心を含んでいるのであり、後者は、したがっ て、或る意味においては今日既にそこに存在しているのだということが、我々に明らかになって くる。さらにまた生氣漫刺としてそこいらに立っている動物のどれもが、我々にこう呼びかけて いるよ、つに思われる、 「どうして貴方は生ある者が過ぎ去り易いからといって歎いておられ るのか。もしも私の前に生きていた私の同類の凡てが死んでしまわなかったとしたら、どうして こういうわけであるから、世界 私はこうして生きていることができたでありまし上うか。」 の舞臺の上でどんなに脚本や假面が變るにしても、結局俳優逹は凡ての點で同一なのである。我 我は一緒に坐って、語りあい、互に心をゆすぶりあっている、眼は輝き聲は昻まってくる、 千年前も丁度こんな風にほかの人逹が坐っていた、それは全く同じ風であり同じ人逹であった。 千年後にも矢張り同じ光景が繰返されることであろう。この事實を我々に氣づかせないようにし・ ている仕掛が、時間なのである。 思、つに我々は輪廻 Metempsychose と再生 PaIingenesie とを區別して次のよ、つに定義し、つる であろう。輪廻とは所謂靈魂がそっくりそのまま或る別の肉體のなかに移りゆくことである。し

3. 自殺について 他四篇

このような考察を通じて、我々の救濟のためには大抵の場合困窮と苦悩とがどのように必要な ものであるかとい、つことを、まざま、さと想い浮べる人であるならば、我々は他人の幸をではな く、むしろその不幸をこそむべきのである、と悟ることであろう。 また、同様の理由からして、運命に反抗するところのストア主義的な氣質は、なるほど人生の 苦惱に對抗する優れた甲胄であって現在をより良く耐え忍ぶために役立つものではぢるが、しか し眞實の救濟には妨げとなるものなのである。何故ならそれは心をかたくなにするからである。 もしも心が固い外皮に蔽われていて苦惱を感受しないとしたら、どうしてこ、ついう心が苦惱を通 じ - てより良くせられ、つる筈があろうか。 それにまた ( 或る程度のこういうストア主義は決し て稀なものではない。往々にしてそれは衒いにすぎない場合もあって、所謂「負けかかっている 勝負に偸快な顏つきをみせる」類いに墮しているのである。しまたそれが本物であるとしても、 大抵の場合それは單なる鈍感さから、或いはまた精力。活氣。感受性・想像力ーーーこれらは心が 深刻に惱み、つるためにも必要なものであるー ! の缺如から生れてきているのである。粘液質で鈍 重な獨逸人は、こ、ついう種類のストア主義が特にお好きである。 不正な行爲乃至惡意ある行爲は、それを爲す人間についていえば、その人間における生きんと する意志の肯定の強さの指標である。したがってそれは、眞實の救濟が、生きんとする意志の否

4. 自殺について 他四篇

する意志の肯定に信賴しきっている。他方は、苦惱と死の象徴を通じて、生きんとする意志の否 定と、死と悪の支配する世界からの救濟とを示している。ーー・・、希臘Ⅱ羅馬の異世界の精禪と 基督教の精禪との間の對立は、本來的には、生きんとする意志の肯定と否定との間の對立である、 そして結局のところ基督教の方が根本においては正しいのである。 歐羅巴の哲學の凡ての倫理學と私の倫理學との關係は、恰も舊約と新約との關・ーーこの兩者 の關係が敎會によって理解されているような意味においてーーのようなものである。印ち舊約は 人間を律法の支記のもとにおくのであるが、しかし律法によっては人間は救濟へと導かれえない。 これに反して新約は律法を充全ならざるものと宣言している、否、律法から人間を解放している のである ( たとえば、ロマ書、第七章、ガラテャ書、第二章と第三章 ) 。新約は律法に對して恩寵 の國を證く、そして人間は信仰と隣人愛と全面的自己否定とによってこの恩寵の國に到逹するも のとせられている、 これが印ち悪とこの世からの救濟への道であるということになっている。 一體、一切の新敎的日合理主義的歪曲にも拘らず、何といっても禁慾主義的精こそが全く本來 的に新約の魂なのである。ところで、この禁慾主義的精禪たるや生きんとする意志の否定にほか ならない。そして、舊約から新約への、律法の支配から信仰の支への、行いによって義とせら れることから仲保者による救いへの、罪と死の支配から基督における永遠の生命への、かの移行

5. 自殺について 他四篇

てこの兩者の相互浸透せるものが因果性である。一我々がこれらの制約のもとに知覺するとこ ろのもの凡ては單なる現象でしかない。だバ我々は物をそれがそれ自置においてあるがままには、、 印ち物が我々の知覺を離れてあるであろうようには、認識できないのである。、これがもともとカ ゾト哲學の核心である。哲學が金錢ずくの山師の痴呆化作用のおかげでドイツから追放された時 期もそろそろ終りに近づいた今日となっては、このカソト哲學とその内容とに思いをいたすこと は言いつくせぬほど大切なことであろう。ちなみに上述の哲學追放には、月給と謝禮が何よりも 大事で眞理や精禪などはそれこそ全くどうでもいいといった迚中が心から喜んで一役買ったこと を言い添えておこう。 三の補遺 時間という認識形式のために、人間 ( 印ち生きんとする意志の肯定の最高の客観化の段階 ) は、、 絶えず新たに生れてはやがてまた死んでゆく人間の種屬印ち人類として現われてくるのである。 個體の死に際して局外者のままでいるところのかの現存在は、時間・間の形式をもってはい ない。だが我々にとって現實的である凡てのものは、これらの形式のなかに現われてくる。それ だからして死に我みにとっては破減のように見えてくるのである。

6. 自殺について 他四篇

8 1 れる場合には、勿體振ったこの世界の凡ゆる詐欺ーー、世界は言葉につくせぬほどに無限に袴大に あんなにも多くのものを約東しておきながら、さてその與えるところのものはまるで可哀そうな ぐらいに僅かなのであるーーーの精華となるものであるということ。 生殖に際しての女子の役割は、或る意味においては、男子のそれに比して罪が輕い。印ち男子 は生れてくる者に對して意志を賦與するのであるが、この意志たるや原罪なのであり、したがっ てまた一切の害悪と災禍の根源なのである。これに對して女子の賦與するものは認識なのであり、 これは救濟への道を開いてくれる。生殖行爲は世界の結節であゑそれは「生きんとする意志が 新たに自己を肯定した」ことを意味している。羅門敎の美しい成句の一つに次のような歎きが リンガはヨ 「禍なるかな、禍なるかな ! きかれるのは、この意味においてなのである、 ニに入る」。これに反して懷胎と姙娠とは、「意志に對して再び認識の光が賦與された」ことを意 この光によって意志は再びおのが脱出路を見出しうるのであり、したがってま 味している。 た救濟への可能性が新たに出現してきたことになるわけなのである。 ここからして注目に價いする次の現象の解明がえられるであろう。どの婦人も、生殖行爲に際 しては驚かされ、恥ずかしさに淌えいるばかりの思いをさせられるのであるが、ところが姙娠し たとなると、羞恥のかげも見せず、否一種の誇りをさえまじえて、見せびらかして歩く。一體ほ かのどのような場合でも、間違いのないたしかな證據はその證據によって示されている事柄それ 自身と同意義のものと考えられるのであり、したがってまたなしとげられた交合のどのような證

7. 自殺について 他四篇

よー とめどもなく新しい人間を作り出されては現に生きている者どを減ぼしたりなさるのでしよう か。それよりは、も、つこれつきり、いま生きている者どもで間にあわされて、これを未來永劫に わたって生かしておかれたら如何なものでしよう。」 多分彼はこう答えることであろう、 「いや、彼らが自分でいつでも新しい人間を作りたが 0 ているのだ。だからわしとしても場所の心配をしてやらねばならぬのだよ。いや全く、もしそ んなでなかったらなあ ! 尤も、ここだけの話だが、ただ生きるという以外に何の目的もなしに いつまでも生き續けどこまでも生を績けていく種屬というものは、客観的には滑稽だし、主観的 には退屈なものだろうさ、 それは君の想像以上だよ。試みに自分で腦裡に描き出して見粭 そこで私はこう答える、 「いや、それは迚中が凡ゆる仕方で自分で實演してみせてくれる ことでしよう。」 八餘興としての小對話篇 トラシ、マコス要するにだね、僕が死んたら僕はどうなるんだろう、 , ーー簡單明際に賴む フィラレ 1 トス一切にして無だ。 トラシ = マコスさあ困「た ! 問題の解答は矛盾だときている。ごまかそうた 0 て駄目だよ。

8. 自殺について 他四篇

た次のよ、つに答えてもよかろ、つと臥う、 「君の死後たとい君がどうなるにしてもーー、よし無 になるにしても 、そのときの状態は、君にと 0 ては、恰も現在の君の個體的・有機的現存第 が君にとってそうであるのと全く同じように、自然で似つかわしいものであるだろう。だからも し怖ろしいということがあるとすれば、せいぜいのところ移りゆきの瞬間だけなのだ。それに、 我々のこの現存在などよりはむしろ全くの無の方がまだましだくらいだということは、事態を充 分に考察しさえすればきっとわかることなのだから、我々の存在の終末とか乃至は我々がそこで ははや存在していないであろう時間とかいうような観念は、丁度我々がもしも全然生れてこな いのだったとしたらというような觀念と同じことで、理性的に考えさえすれば、なにも我々をお びやかすほどのこともないのだ。一こ、ついう現存在というものは本質的には個人的なものなの だから、そこからしてもそ、ついう個人生活の終末などを損失だなどと考えるべきではあるまい。」 さてもし、客観的・經驗的な方法で唯物論の尤もらしい糸を手懸りにして生きてきたような人 間が、いまや死による徹底的破壞・ー , ーこれが彼をじっと凝視しているーーの恐怖にかられて我み の門をたたくことでもあるとしたら、それこそ最も簡單な且つは彼の經驗的見解にふさわしい仕 方で彼の心をしずめてやることができるだろう。我々は彼に物質とその物質を一時的に占有して いる終始形而上學的な力との區別を明瞭に指摘してみせるのだ。たとえば鳥の卵であるが、その 卵の全く同質的な無形の流動體は、それにふさわしい氣温が出現するや否や、その卵が屬してい る丁度その種類の鳥の實に複雜な且っ歳密に規定されている形體をとることになるのである。と

9. 自殺について 他四篇

で、何かしら憧れていたものを手にいれることは、それを空しいと覺ることである。こ、つして我 我はいつもより良いものを待ち望んで生きている。そうかと思うと我々はまた、屡 ~ 過ぎさった ものへの悔いをまじえた憧れのうちに生きている。ところが眼前にあるものについては、たた一 寸の間それを我慢するといったような風で、それに對しては目標に逹するための道程というたけ の意味しか與えられていない。こういう次第であるから、大抵の人逹は、晩年に及んでおのが生 涯をふりかえってみた場合、自分は自分の全生涯を全くゆきあたりばったりに生きてきてしまっ たのだという風に感ずるようになるであろう。そうして、自分があんなにも無雜作に味わいもせ ずに通りすごしたものこそ、實は自分の生命だったのであり、それこそ自分がそれを待ち望んで 生きてきた當のものにほかならなかったことを知って、怪しみ訝かることであろう。このように して、通例、人間の生涯とは、希望に欺かれて死のかいなにとびこむ、というこのことにほかな らないのである。 それにまた、個體的意志は飽くことを知らない、という事情が加わってくる。そのことの故に ' 几ゆる滿足はまた別の新しい願望を生み出してくるのであり、意志の欲求は永遠に充たされない まま果しなくいてゆく ところでもともとそのことは、意志が、それ自體において、世界の 主であるという事情にもとづいているのである。有が意 ( のものなのであってみれは、それの 何たな部分意志を満足せしアな筈はないの・で、ただ全體のみがそれをなしうるのであるが、 芻この全體たるや無限である。 それにしても、世界の主たるこの意志が、それの個體的な現象

10. 自殺について 他四篇

いま世界の現象を生み出しているそのものは、そうしないでいることも、印ち靜寂のままにと、 どま 0 ていることもできるに違いないということ、ーー・、換一一一「すれば、現在の擴張ミ。には アプリオリ 收縮 き。ということもなければならない筈だということは、或る意味では先天的に洞察せ られ、つることである、わかり易くいえば、これは自明のことである。さて前者は生きんとする意 志の現象である。そこで後者は生きんとする意志の否定の現象であるということになろう。後者 はまた、本質的には、吠陀の敎にいう大熟氓位 magnum sakhepat ( 一 1 第 ) 、佛敎徒の 涅槃、新プラトン派の彼岸。鳶者 2 と同一のものである。 或る種の愚かしい異論をさしはさむ者もあるであろうから、豫め斷わ 0 ておきたいのであるが、 生きんとする意志の否定ということは決して或る實體の絶減を意味するものなのではない。それ は單に意慾しないというだけの行爲なのである、 印ち、これまで意慾してきたその同じもの が、最早や意慾しなくなるということなのである。ところで我々はこの本質、印ち物自體として の意志を、單に意慾という行爲においてのみまたそれを通じてのみ知「ているのであるから、そ れがこの行爲を放棄してしま 0 たあとで、なおさらにそれが何であるのか乃至はまた何をや 0 て いるのであるかということについては、我々には語ることも理解することもできない。だからし、