第十 - みる会図書館


検索対象: 歎異抄
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1. 歎異抄

信 じ て 力、 の 土 に し て さ と り を ら く と な ら び あ は に さ ふ ら ふ や 淨 土 具 ンパ に は へ 生 に レア レ 0 0 か く の ご と く し る を さ と る と は い び ぎ ら カ ) す へ へ か ら す 0 し か れ ば な が 生 死 を だ て ふ ら ふ ぞ か 抄 に ひ と た び 攝 月文 し て す た は ハ 道 に 崘 廻 異 生 死 を へ た て け る と は さ ら は・ 信 心、 の さ だ る と き だ ま る と き を ま ち え て ぞ 彌 の 心 光 攝 護 し て な が く た心 照を し攝 な佛 の 光 の ま う し さ ふ ら 0 和 讚 に い は 金 剛 堅 固 の 信 の さ に剛 出 づ固 々 親 い の 高 旧 さ ふ ら ふ に や 0 こ れ を こ そ 拿 生 に さ と り を び ら 本 と も 現 じ 十 相 八 十 隨 形 を も 具 た し . て 冫去 利 なそれは一一 れり三 和にと十十 な基い二 いづひ種相 」、い、の て八大八 立十丈十 て第夫第 ら形の形 れ第好好 たとき 新は相 件更其身 的をこはに さ ふ ら ふ る . ひ は 釋 の ご と く 種 々 の の 身 身 の に し

2. 歎異抄

抄異歎 4 に、「大切の證文」は『血脈文集』なるべしといふ一説を立ててゐる。それは斯鈔の 一本の卷末に、承元の法難に遭 ( る師弟の人名が記してあるところから著眼せるも のである。併し斯鈔の前部と後部との對應は、近時特に近角常觀氏に依りて唱道せ られてあるが如く明かなことであるから、「大切の證文」を他に求むるにも及ばぬこ とであらう。第一章と第十一章、第一一章と第十二章、第三章と第十三章との對應の 如き、特に適切に感ぜらる、ことである 9 然るに親鸞の語録、隨て唯圓の歎異を貫通する思想の大要となるものは、第一章 である。期鈔一部の内睿は、所詮第一章に盡されてゐるというてよい。そこに現は れてゐるものは、籾鸞の全著作を貫ぬく信仰である。「敎行信證』といへども、それ 已外にないことは、彼の總序の文と此の第一章の言葉を對照して、その如何に歸を 一にするかを見ることに依りても知らるゝであらう。されば第一一章巳下の言葉は、 畢竟第一章の信仰が、或は機縁に觸れ、或は實際の間題に接して現はれたものに外

3. 歎異抄

ねて法を聞けるものに相違がない。それは本文第十章に、「そも / 、、かの御在生のむ かし、おなじこゝろざしにして、あゆみを遼述の洛陽にはげまし」とあることに依 りて明かである。これに依りて思ふに第一一章に、「おの / 、十徐ケ國のさかひをこえ て、身命をかへりみすして、たづねきたらしめたまふ御こ、ろざし」といってある、 歎その人々の中にも斯鈔の作者があったに違ひがない。而して斯鈔中の親鸞の語は、 多くその時に深い感銘を以て記録されたものであらう。その事からまた斯鈔の作者 ー、一こありし頃の門弟であるとしても、長老格のものではなく、晩年 は、親鸞の國ー 洛後の親鸞に親しみの多かった人であらうことが想像せらる、のである ) 唯圓はさういふ直弟の一人である。而してその唯圓の名は斯鈔に二囘あらはれて 、日可ても唯同その人が自記せるものの如く しかもその親鸞との對話の書き振りは汝 ( ー である。印ち第章の「念佛まうしさふらへども、踊躍歡喜のこゝろおろそかにさ ふらこと、またいそぎ淨土へまいりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふら

4. 歎異抄

例一一口 一、本書の底本は、異本のところで説明せる永正本に依れるものであるが、誤 或は特に不安當と思はるところは慧察本・眞宗法要・假名聖敎に依り訂正し、そ の訂正せる部分は註解と共に下欟に記人した。 一、原本の片假名は平假名に改め、濁音と思はる、ところは濁音に改めたるも、 假名遣には何等手を入れす、そのま、にしておいた。 一、第十章は原本では一章全部一段に書き下してあるが、今は「そもど \ かの御 在生のむかし」で行を改めて親鸞の言葉と作者の言葉を分け、また原本では第上 章中の「またあるとき、唯圓房は」で行を改めてゐるが、今は改めすに組んた 9

5. 歎異抄

とに於て響的となる。これに依りて誓名別信計の者は、自然に學間を重んすること となる。如來の本願こそ絶對の眞理であるといふことから、絶對の眞理を諡き顯は したものが如來の本願であるといふやうに轉じてくるのである。それが更に一歩を 進むれば淨土往生といふことも未來を待たす、眞に自然の大道たる如來の本願を信 . 歡知すれは、この世印ち淨土であり、この身に於て印ち證を開くといふこととなる朝 誓名別信計の者には、遂にかゝる主張も生じたのであらう。而してこの奧義を知ら ざる念佛信の者は、眞に淨土に徃生することなく、結局は流轉を免れぬと唱道せる のである。それ故に斯鈔の第十一章では、先づ誓名別信のいはれなきを説き、次に . 第十一一章には、學間を本とする意を批判し、更に第十五章には「熕惱具足の身をも て、すでにさとりをびらくといふこと」のりを正し、徒後に第十七章には、念 信を貶して「つひには地獄におつべしといふ」論の不當なるを明かにするのである。 これに反して専修賢善計は、一種の修道的氣分を以て専修念佛するのである。如

6. 歎異抄

題 に善惡を簡ばざる本願であっても、これを行信するものは、佛法者らしく後世者 らしく振舞はればならぬといふのである。隨て念佛の道場を設けて入場者の資格を 規定し、念佛の多少に依りて減罪の多少ありとし、日常の悪しざまなる行業に就て は常に廻心すべしと唱導するのである。この思想に對する唯圓の批判は、第十三章・ 解第十四章。第十六章に現はれてゐるのであるが、吾等はそこに唯圓が如何に強く、 罪惡深重の衆生をたすけんが爲の願を高調し、一念の減罪と、たゞ一度の廻心とを 説いて宗敎の超道德的意義を顯はしてゐるかを見せしめらる、のである。而して最 後の「施入物の多少にしたがびて大小佛になるべしといふこと」は、或は兩計の外 なるものであるかも知れぬ。併し専修賢善計も敎團的組織を有たうとする時には、 兎もすれは陷らんとする思想として、また専修賢善計に屬すべきものであらうか・ 唯圓が兩計に對する批判は、畢竟響と行とに對する信の高唱である。この點に於

7. 歎異抄

5 ろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけ てこそ、いよ / 、大悲大願はたのもしく、往生は決定と 存じさふらへ。踊躍歡喜のこ、ろもあり、いそぎ淨土へ もまいりたくさふらはんには、熕惱のなきやらんと、あ やしくさふらびなましと、云々。 一念佛には、焦をもて義とす。不可稱。不可詭 不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。 そも / 、、かの御在生のむかし、おなじこ、ろざしにし「御在生」盟名本、永正本「在生」 「遼逮の濬陽」偽東より京都をさ て、・あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をびとつにして、 していふ ( 第一一及び解題冬照 ) 心を當來の報土にかけしともがらは、同時に襯意趣をう「富來」未來の意 けたまはりしかども、そのびとム ( \ にともなひて念佛ま 十

8. 歎異抄

る・勿論そこにも親鷺その人の面冂は全現してゐる。併しそこに見らるゝ親鸞は如 來の本願海中の人であり、く十方衆生を代表するものである。それは近く人倫關 係の中にあり、親縁ある同友の間に交る親鸞ではない。然るに『末燈鈔』『御消息集』 に至りては、そこに現實の人としての親鸞の面口が現はれてゐるが、それは『歎異 解鈔』の物語に於て一脣明かに感ぜらる & のである。想念の中に於て十方衆生に語る のでなく、 現前の人に對して所信を語らんとする親鷺の面目は、たゞこの鈔に於て のみ知ることを得るのである。 これに依りて吾等は、第一に親鸞が人に對して法を語らんとする時の熊度を、斯 鈔から看取せんと思ふ。これに就て先づ注意せらる、ことは、第六章に出づる「親 鸞は弟子一人ももたすさふらふ」といふことである。それは言ふまでもなく常識的 意味での調遜ではない。釋迦もまたその弟子達を法の友と呼ばれたことであるか ら、第一義の意味に於ては師弟も一味の法友たるべきものであらう。併し親鸞が

9. 歎異抄

は 一ち に も く し て 願 の む ね を し る き な り 0 要 な る べ き や 0 ま こ と に こ の こ と は り に ま よ へ ら ん び と を ま う さ ば 佛 に な る そ カ】 な に の 學 間 か は 往 の 實 の む ね を あ か せ る も ろ の 聖 敎 は 願 を 信 じ へ 抄 こ と こ の 條 す こ ぶ る 不 た の 義 と い び つ し 0 他 カ 具 異 経 釋 を よ み 學 ざ る と も が ら 往 定 0 ) よ し の 歎 は 願 不 田 議 の ゆ な れ た ゞ び と つ る べ し 9 に 報 に 生 す る は 號 不 田 さ義 の ち か ら な り 0 こ . な 懈 城 胎 に 往 生 し て 果 遂 の 願 の ゆ に っ ゐ 號 0 り 田 議 も ま た ぜ ざ る 0 信 ぜ ざ れ ど 邊 地 に心心 出にた果 づ曾離遂 る入しの 第せざ願 ニしる 十め衆念 ん生 のとたし 意のしな 大ら 大を自 のカ 境拘の宮る慢たれ一 1 地泥意は、はいも邊 をしに華と執ふ自地 知ててにこ心、、カ・ らそ、つろの邊の懈 ざれそ、、牢地彳予↑曼 るをれま疑固と者・ た超られ城たはの疑 意えはてはら淨生城 味た總生疑ざ土る・ するべれひるのゝ胎 眞てたのも片方宮 宗る城の端便 惡宮、の、化い のに殿胎生懈半づ う 9 こ ろ 自 行 す な り こ と 名 行 の 行 0

10. 歎異抄

難行上根のっとめ、觀念成就のさとりなり朝來生の開覺 「六根淨」『法華經』によるに無 量の功德を以て眼・耳・鼻・舌・身・ 意の六枳の淸淨なること、例へば は、他カ淨土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。こ 肉眼淸淨なるときは世界の一切の 事象を見ることをらるが如きをい れまた易行下根のっとめ、不簡善惡の法なり。おほよそ 「四安樂の行」身ロ意善行と慈 悲行とをいふ ( この四行は皆な能 く危きを離れ安きをえ、遠く樂果 今生にをいては、煩惡障を斷ぜんこと、きはめてあり な感する敵に安樂行といふ。六根 淸淨はこの四安樂行によって得ら るゝなり がたきあびだ、眞言法華を行する淨侶、なをもて順次生 「観念」事狎を鼬察して正念に住 , すること、第言ならま阿字、法 異のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行慧解ともにな華なれに一心三観の如きこと 「來生の開覺」次の世にて覺た開 くこと しといへども、彌陀の願船に乘じて生死の苦海をわたり、 「不簡善惡」彌陀の本願は善惡の 人たえらげす ( 第一章央新 ) 報土のきしにつきぬるものならば、熕惱の黒雲はやくは 「我行解」戒律を身に行ひ、智 を以て心に解を得ること れ、法性の覺月すみやかにあらはれて、盡十方の無礙の 光明に一味にして、一切の衆生を利谷せんときにこそ、 さとりにてはさふらへ。この身をもて、さとりをひらく