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検索対象: 歎異抄
78件見つかりました。

1. 歎異抄

難行上根のっとめ、觀念成就のさとりなり朝來生の開覺 「六根淨」『法華經』によるに無 量の功德を以て眼・耳・鼻・舌・身・ 意の六枳の淸淨なること、例へば は、他カ淨土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。こ 肉眼淸淨なるときは世界の一切の 事象を見ることをらるが如きをい れまた易行下根のっとめ、不簡善惡の法なり。おほよそ 「四安樂の行」身ロ意善行と慈 悲行とをいふ ( この四行は皆な能 く危きを離れ安きをえ、遠く樂果 今生にをいては、煩惡障を斷ぜんこと、きはめてあり な感する敵に安樂行といふ。六根 淸淨はこの四安樂行によって得ら るゝなり がたきあびだ、眞言法華を行する淨侶、なをもて順次生 「観念」事狎を鼬察して正念に住 , すること、第言ならま阿字、法 異のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行慧解ともにな華なれに一心三観の如きこと 「來生の開覺」次の世にて覺た開 くこと しといへども、彌陀の願船に乘じて生死の苦海をわたり、 「不簡善惡」彌陀の本願は善惡の 人たえらげす ( 第一章央新 ) 報土のきしにつきぬるものならば、熕惱の黒雲はやくは 「我行解」戒律を身に行ひ、智 を以て心に解を得ること れ、法性の覺月すみやかにあらはれて、盡十方の無礙の 光明に一味にして、一切の衆生を利谷せんときにこそ、 さとりにてはさふらへ。この身をもて、さとりをひらく

2. 歎異抄

である。併し信といふことも、單にその立場を理解して行と響とを批判するのであ れば、それは何の意味もないことである。それは依然一種の獨斷的響に過ぎぬであ らう。眞に行。響に對して信を顯はさんとするものは、それ自身「信」の意に浸っ てをらねばなられ。而して後ちその批判せらるゝ響・行も、信によりて開限せらる るであらう。それだけの感情内容を有っ異義批判の書は甚だ稀れである 0 吾等は今 その稀れなる一部として、『歎異鈔』を有つのである。 誓名別言とは、誓願不義を言することと、名號不義を一「ⅱすることとは別で 題あると主張するのである。印ちそれは稱名念佛によりて淨土に往生すると信するこ とと、如來の本願に依りて淨土に往生すると信することと別であるといふ意見であ る。而してかく別っ所以は、念佛信を以て物ほ自力心の離れざるものとし、本願信 こそ純粹他力であるといはんとするのである。かくの如き思想は、念佛を行ナるこ とに對して本願を信することを本意とするのであるが、その信は行を重んぜざる 0

3. 歎異抄

まびらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔 すべからすさふらふ。そのゆへは、自餘の行をはげみて をになるべかりける身が、念佛をまうして地獄にもおち てさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後海も さふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とて も地獄は一定すみかぞかし。彌陀の本願まことにおはし 抄まさば、釋奪の説敎、虚言なるべからす。佛説まことに おはしまさよ、ー 「善第」爾土教を大成せる支那唐 善導の御釋、虚言したまふべからす。善 代の高曾、日本淨上敎は主として この流を汲めるもの、特に法然は 導の御釋まことならば、法然のおほせそらごとならんや。敬慕して偏依導一師といひ、親 第また淨土気の七の一にふ 法然のおほせまことならば、親鷺がまうすむね、またも てむなしかるべからすさふらふ歟。詮するところ愚身の 「行ヲ」法要本、永正本「行モ」

4. 歎異抄

抄異歎 20 圓はにてき 兩義純のら 者 となにに 共にⅡる接轉 如すさ敎るて 來るれ感 本のるにれの 願でもよは歎 にあのり異異 相りはて義を せの見 せ専誓ら批る ざ修名れ判 る賢別てが こ の計計る傅、 とはとこ統に 専と的も し て行修で敎 、し一一にく あ權等 信を善るには のすと了るに 意るで詳理斯 義もあの響鈔 をのる研にに はあそにりて さるの依ての 。誓れせみ ん する別 の計鈔し 八章には、「念佛は行者のために非行。非善なり」といふ。行者に於て行とせられ善 とせられざるが散にこそ、眞にその人の行となり、その人の善となるのであるゞか くして眞宗の敎法は、人法融一の道となるのである。 四、唯圓の歎異に就て

5. 歎異抄

聖人は上佐國番田といふ所へ流罪罪 名藤井元彦男云々生年七十六歳なり 親鸞は越後國罪名藤井善信云々生年三 十五歳なり 淨圓房備後國澄酉光房伯者国 異好覺房伊豆國行空法本房佐渡國 幸西成覺房善恵房二人同 遠流にさたまるしかるに無動寺之 善題大价正これを中あづかると一々 述流之人々巳上八人なりと云々 被行死罪人々

6. 歎異抄

0 みたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念 佛まうさすしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。 また念佛のまうされんも、たゞいまさとりをびらかんす る期のちかづくにしたがびても、いよ / 、彌陀をたのみ、 御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを減せ 異んとおもはんは自力のこ、ろ ( 、臨終正念といのる「臨終正念」自力の行者は臨終に 佛菩の來迎をたずしては住生 するをえざる故、正念に仕するを 特ち望むないふ ヴ信心なきにてさふらふなり 9 びとの本意なれば、け 身をもて、すでにさとりをびらくとい ふこと、この條、もてのほかのことにさふらふ。印身成 佛は眞言祕敎の本意、三密行業の證果なり。六根清淨は また法華一乘の所説、 四安樂の行の感徳なり。これみな 十五 密のに身三 と三本に密三 挧巒印と密 態のを喫は行 せ行観を身業 んたす結ー と以るび・密 すてをロロ敎 る如いに密の 修東ふ眞・實 法身。言意踐 を口こを窰法 い意の誦のに ふの衆し意し 三生意、て 「罪業」假名本、永正本「態業」

7. 歎異抄

抄 を信することは理解でなく、念佛するといふことは必すしも所謂實行と同一なるも のではない。これを理解とし、これを贇行とするところに、兩者の眞實の信に達せ ざるものがあるのである。唯圓の歎異は、この點を批判しつ、自身の領解を開陳 しつゆくのである。 三、親鸞の語録に就て これを思想的に解すれば、語録も著作もその内容に於て變ることはない。されど 語録には著作の現はし得ざるあるものがある。それは特に直接にその人の現實の面 日に接し得ることである。『敎行信證』に於て親鸞は、廣く願生心中に領解せるとこ ろを開顯し、『和讚』に於ては、心ろ行くまで懺悔・讚仰の感情を表現してある。 等はこれに依りて如來の本願の深なるを思ひ、眞宗の敎法の旨趣を念ぜしめらる

8. 歎異抄

例一一口 一、本書の底本は、異本のところで説明せる永正本に依れるものであるが、誤 或は特に不安當と思はるところは慧察本・眞宗法要・假名聖敎に依り訂正し、そ の訂正せる部分は註解と共に下欟に記人した。 一、原本の片假名は平假名に改め、濁音と思はる、ところは濁音に改めたるも、 假名遣には何等手を入れす、そのま、にしておいた。 一、第十章は原本では一章全部一段に書き下してあるが、今は「そもど \ かの御 在生のむかし」で行を改めて親鸞の言葉と作者の言葉を分け、また原本では第上 章中の「またあるとき、唯圓房は」で行を改めてゐるが、今は改めすに組んた 9

9. 歎異抄

は 一ち に も く し て 願 の む ね を し る き な り 0 要 な る べ き や 0 ま こ と に こ の こ と は り に ま よ へ ら ん び と を ま う さ ば 佛 に な る そ カ】 な に の 學 間 か は 往 の 實 の む ね を あ か せ る も ろ の 聖 敎 は 願 を 信 じ へ 抄 こ と こ の 條 す こ ぶ る 不 た の 義 と い び つ し 0 他 カ 具 異 経 釋 を よ み 學 ざ る と も が ら 往 定 0 ) よ し の 歎 は 願 不 田 議 の ゆ な れ た ゞ び と つ る べ し 9 に 報 に 生 す る は 號 不 田 さ義 の ち か ら な り 0 こ . な 懈 城 胎 に 往 生 し て 果 遂 の 願 の ゆ に っ ゐ 號 0 り 田 議 も ま た ぜ ざ る 0 信 ぜ ざ れ ど 邊 地 に心心 出にた果 づ曾離遂 る入しの 第せざ願 ニしる 十め衆念 ん生 のとたし 意のしな 大ら 大を自 のカ 境拘の宮る慢たれ一 1 地泥意は、はいも邊 をしに華と執ふ自地 知ててにこ心、、カ・ らそ、つろの邊の懈 ざれそ、、牢地彳予↑曼 るをれま疑固と者・ た超られ城たはの疑 意えはてはら淨生城 味た總生疑ざ土る・ するべれひるのゝ胎 眞てたのも片方宮 宗る城の端便 惡宮、の、化い のに殿胎生懈半づ う 9 こ ろ 自 行 す な り こ と 名 行 の 行 0

10. 歎異抄

東京都千代田贏株式 發行所 祺田一ッ橋 = / 三會社 昭和二十五年一月設定☆一ッ參拾圓 昭和二十六年六男臨時☆一ッ四抬圓 昭和六年六月五日第一刷發行 臨時定價四拾圓 校訂者 金子 k 酥 中 東京都千代田區祺田一ッ橋二丁目三番地 發行者岩波雄二郎刷 東京都新宿區市ヶ谷加賀町一丁目十一一番地 印刷者村尾一雄大 岩波書店 落丁本・亂丁本は お取替いたします 歎異抄