ヴェネッィア - みる会図書館


検索対象: 即興詩人 下巻
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1. 即興詩人 下巻

261 、注 〃ダンドロ ( 一一〇八ー一二〇五 ) 一一九二年ドージェに選ばれた。第四回十字軍 ( 一二〇一一ー四 ) を 指揮し、一二〇四年コンスタンティノープル ( 二三ページ「コンスタンチノボリス」 ) を占領、ビザンティ ン帝国の海岸や島の大部分を手中に収め、ヴェネッィア共和国の地中海の覇権を確立した。東方の美術 品を多くヴェネッィアに持ち帰っている。次の ( ) 内は訳注。一二〇三年とあるが、コンスタンティノ ープル侵入は一二〇四年である。 一八九 2 十字軍ーー中世において、西欧諸国が聖地パレスティナ、特にイエルサレムを回教徒の手から奪回す るために起こした遠征軍。一〇九六年から一二九一年まで七回にわたって派遣された。その目的を果す ことはできなかったが、ヴェネティア、ジェノア等の自由都市の隆盛をもたらし、またビザンティン文 化、回教文化が西欧に伝えられ、西欧近世文化の形成に影響を与えた。 一九一 4 聖ルカスーー市の中央にあるゴルドーニ劇場のこと。ゲーテの「イタリア紀行」にもこの名が見え、 かれはここで三回喜劇を見ている。 メルカダンテ ( 一七九五ー一八七〇 ) イタリアの作曲家。オペラ「ドンナ・カリテア」は一八一一六 年の作。 一九四 5 マリ・フラン ( 一八〇八ー三六 ) フランス ( スペイン生まれ ) の有名なオペラ女優。アルトからソプラ ノにわたる音域を持っていた。ここから以下、アヌンチャタのかっての全盛にひきかえおちぶれた姿が 描かれる。アヌンチャタのこうした姿は、アンデルセンの「自伝」 ( 大畑訳 ) によれば、かれが幼時に見 た芝居で評判の高かった女優が、後年おちぶれてオ 1 デンセの慈善院にいた姿の記億と、一八三四年に

2. 即興詩人 下巻

256 一六八 1 翼ある獅子ーー・翼のあるライオンが本を持っている形で、ヴェネッィアの守護聖者サン・マルコの秘 章であり、ヴェネッィア市の市章である。 一ど 2 古の大統領ーーーヴェネッィアは古くから商業と貿易によって栄えた。六九七年には初代ドージェを選 出し、共和国に成長、中世からルネッサンス期には隆盛を極めたが、十五世紀末から衰運に向い、一七九 七年フランスとオーストリアの間のカンポフォルミナ条約によってオーストリアに併合されて共和国は 亡び、一八六六年イタリア王国に合併された。その間一三一一年から一七八九年までドージェは、毎年キ・ リスト昇天祭 ( キリストの昇天を記念する祝日。復活祭後四十日目 ) の日に、貴族とともに・フチントロと いう豪華船でアドリア海に出、海中に金の指環を投じてヴェネッィアと海との結婚を宣言し、共和国の【 制海権を象徴した。この行事から、ヴェネッィアは「海の花嫁」 ( 一七三。へ 1 ジ「海の配偶」 ) と呼ばれる 9 貶ラグウナーーヴェネッィアの島々と陸との間の浅瀬。 ″マルクスの塔ーー聖マルコの広場の東南隅に立っ聖マルコの鐘楼。 一七一 3 フジナーーーヴェネッィアの対岸。プレンタ河の河口の町。 一七三 2 マルクスの広こうちーーサン・マルコ広場。サン・マルコ教会玄関の前にある長方形の広場。長さは 東西一七五メ 1 トル、幅は教会の前から西に向って南北八二メートルから五五メートルにせばまる。ヴ エネッィア共和国の政治、市民生活の中心であった。広場の三方は三階建ての建物で囲まれ、その中で 北側、教会に向って左側の建物 ( 十五世紀 ) には旧行政府があった。その向い側、すなわち広場の南側、 教会に向いて南側の建物 ( 十七世紀 ) には新行政府があった。大理石で舗装され、無数の鳩が群り、世界

3. 即興詩人 下巻

259 注 が投獄される時、また処刑の宣告を受けるために牢から出される時にこの橋を渡り、最後の青空を見た ? そのためにこの名がついたといわれる。 ド 1 ジ = の宮殿の前のビアゼッタの岸近く、ゴンドラの発着場に面して左右に円い石柱が建 ク石柱ーー っている ( 一一七四年 ) 。その海に面して左側の柱の頂上にヴェネッィアの象徴である獅子 ( 一六八ペ ジ「翼ある獅子の旗」の注参照 ) の像が載せられている。なおもう一つの柱の頂上には、わにの上に立 っ聖テオドルス ( ヴェネッィアのもともとの保護聖人 ) の像が載せられている。 リドーー - 、ヴェネッィアのラグーナ ( 一七〇ページ ) と外海との間に、南北に横たわる狭く細長い土地。 今日では海水浴場として、有名である。 七川ドン・ホアンーーードン・ファン。ス。〈インの伝説的な漁色家。スペインの劇作家ティルソ・デ・モリ・ ーナ ( 一五七一頃ー一六四八 ) がかれの戯曲「セ・ヒリヤの色事師」 ( 一六三〇 ) の主人公にして以来、ドン・ ファンを主題にした文学作品が無数に現われた。漁色家の代名詞になっている。 聖アントニウスーー上巻一九九ページ「聖アントニオ」。 一七八 5 フランツ帝ーー・当時のオーストリア皇帝フランツ一世 ( 在位一八〇四ー三五 ) のこと。 〃 7 カリアチデスーーギリシア建築において、支柱として用いられた女性の彫像をいう。ルネッサンス 後もしばしば用いられる。 一八 0 5 カノワーー・カノーヴァ ( 一七五七ー一八二一 l) 。イタリア新古典主義の代表的彫刻家。次の ( ) 内は訳】 注。

4. 即興詩人 下巻

ナポリのオペラで見たマリプランの姿が融け合ってできたという。 一 3 フィムストロエスーー・ウエルギリウスの「アエネーイス」において、アエネーイスがトロヤの陥落 を語る時のことばの一句 ( 第二巻三二五行 ) 。「我等トロ 1 ヤ人は曾て世にありき。ィーリウムとトロー ヤ人等の大なる名声は過去のものなり。」 ( 田中秀央・木村満三訳 ) 成句として過去の消え失せた栄光をな げく意味で用いられる。 き一 8 やどしつつーー・・やどしし ( 菊版本、縮刷本 ) 。 。、ドヴァ。ヴェネッィアの西方三十余キロ。ヨーロッパ最古の大学都市で、中世、ルネッ サンス期には人文学の一中心地であった。 〃〃トリエステーー・アドリア海をはさんでヴェネッィアの東にある港、工業都市。 一一 0 四加シル年オ・ペリコ ( 一七八九ー一八五四 ) イタリアの詩人。イタリアのオーストリアに対する独立 運動に加わって捕えられ、十五年の懲役刑を宣告され、その後釈放されて引退し神秘主義に帰依した。 「わが獄中記」 ( 一八三一 l) が有名である。 三七 5 プレンタ 川の名。ヴェネッィアのラグーナにそそぐ。 〃 6 聖アントニウス寺 パドヴァのアントニウス ( 一一九五ー一二三一 ) と呼ばれる聖者を埋葬した寺院。 七つの円屋根をいただき規模は大きいが芸術的価値は高くない。 一二三二年着工、一四二四年落成。 ″ヰチェンツアーー・・・ヴィチェンツア。パドヴァから西北に約三十キロ。べリチ山麓にある美しい古都。 ″〃パラヂオーー人一五一八ー八〇 ) イタリア・ルネッサンス期最大の建築家の一人、また古代史研究家。

5. 即興詩人 下巻

257 注 で最も美しい広場とされている。現在これらの建物の一階の広場をとり巻くアーケードには商店、カフ 工が軒を並べている。 〃 6 「マルクスー寺ーーサン・マルコ教会。サン・マルコ ( ヴェネッィアの守護聖者。マルコ伝福音書の著 者でアレキサンドリア最初の司教。その地で殉教したと推測される ) の遺体が、九世紀のはじめにヴェ ネッィアの二人の商人によってアレキサンドリアから持ち帰られ、その安置所として建てられた。のち 再建されて一〇九四年に完成し、現在に及んでいる。代表的なビザンティン様式の教会堂で、五つの円 屋根をいただき、内部は大理石とモザイクで飾られ、共和国隆盛の日の財力をしのばせる豪華なもので ある。また多くのビザンティン美術の宝物やティントレットの絵画を蔵している。 ″〃銅馬ーーサン・マルコ教会正面玄関の中央のアーチの上にある四頭の青銅の馬。キオス島出土の古代 ギリシア彫刻で、コンスタンティノー。フルに運び去られていたが、一二〇四年第四次十字軍の際ドージ 工のダンドロが戦利品として持ち帰った。 ″ 7 チュ。ヘルス : : : 赤檣ーーチュベルスはキ。フロス島 ( 上巻七五ページ「チプリイ」 ) 。カンヂアはクレタ 島北岸にある同島最大の港。モレアはギリシアのペロポネソス半島の中世における称呼。ヴェネッィア は、一二〇四年カンヂア、モレアを、一四八九年キプロスを獲得した。それを記念する三本の赤い旗ざ おが、サン・マルコ教会の前に建っている。 求食・・・ー初出 ( 「しがらみ草紙、巻の四十六 ) 、初版以来「」と一字のように印刷されているのを、「求 食」と二字に訂正した。

6. 即興詩人 下巻

260 ハリテスーーカリテス ( カリスの複数 ) 。ギリシア神話における美と優雅の女神。その数は古くは不定 であったが、普通はタレイア ( 花の盛り ) 、エウ。フロシュネー ( 喜び ) 、アグライアー ( 輝く女 ) の三人とさ れる。美しい若い娘の姿で表わされ、肉体と精神の両面に美と魅力を与える女神として崇拝される。 ″ 7 ポッサニョーー・ヴェネッィアの近くにある町。 ″ 8 サン・モセスの劇場ーーサン・マルコ広場の西にあり、聖モーゼ教会のそばにあったのでこの名がっ けられた。 一八三 5 その笑止なることなるかなーー・そは笑止なることなるかな ( 菊版本、縮刷本 ) 。 一公 4 オテルロ宮ーー・大運河の入口に近く、サン・マルコ広場よりにあるコンタリーニ・フアザン宮が、冫 工 1 クスビアの悲劇「オセロ」のデズデモーナの家であると一般に信じられている。オセロはアフリカ のムーアの黒人でヴェネッィアの勇猛な将軍。元老院議員の娘デズデモーナの愛を得て結婚する。しか しイアーゴの悪計におとしいれられ、嫉妬のあまり美しく可憐な新妻を殺し、悔恨のうちに自殺する。 ″ 6 武庫ーーーヴェネッィアの東端にある共和国時代の造船所の遺蹟のこと。一一〇四年の創設。内部の一・ 角は博物館になっており、種々の船の模型、兵器、レバントの戦 ( 一五七一 ) の際のトルコの旗等、共和 国隆盛時代の記念品が展示されている。 肥アルフィエリ ( 一七四九ー一八〇一一 l) イタリアの劇作家。主としてギリシア神話、ローマ史に取材 した悲劇を多く書き、イタリア悲劇を創始した。 ″〃ニコリイニィーーー ( 一七八二ー一八六一 ) イタリアの劇作家。 一八 0 6

7. 即興詩人 下巻

258 一七三 9 ポンテ・リアルトオーー・ヴ = ネッィア本島を東西に両分し、交通の幹線である大運河のほぼ中央にか けられた橋。アントニオ・ダ・ポンテによって一五九二年に完成された。一八五四年まで大運河にはこ の橋しかかけられていなかった。大理石造りの美しい橋で、橋上には屋根があり、商店がならぶ。ヴェ ネッィア名所の一つになっている。 一七四 7 恢復せられたるエルザレムーータッソ ( 一〇ページ「タッソオ」 ) の代表作。昔ヴェネッィアのゴンド ラの船頭はタッソやアリオストの作の一節を独特の節廻しで、船首と船尾で互に歌いかわしたといわれ る。ゲーテの「イタリア紀行」では、当時 ( 一七八六年 ) すでにすたれていたのを、あらかじめ注文して おいて聞いたことがしるされている。 一七五 7 大統領の館ーーパラツツオ・ドウカーレ。ドージ = の館であり、かっ共和国政府の所在場所であった 9 サン・マルコ教会の南側に隣接し、サン・マルコ広場の東南隅から大運河までの間の小広場 (). ヒアゼッ タ ) に面して建つ。イタリア・ゴシック様式の、大理石造、三階建ての華麗な建物である。完成された 年代は部分によって異なり、十四世紀半ばから十六世紀半ばに至っている。内部には「黄金の間」「元老 院の間」「大評議会の間」等多くの広間があり、それらは、ティッィアーノ、ティントレット ( 一五一八 ー九四 ) 、ヴェロネーゼ ( 一五二八ー八八 ) 等ヴェネッィア派の絵画によって飾られている。 ″ 8 鞠問所ーー未詳。テキストには「宗教裁判の部屋」とある。 ″ 9 歎息橋 ドージェ宮と、その東側に掘割をはさんで建つ牢獄 ( 主として政治犯を収容 ) との間にかけ られた橋。一六〇〇年ごろの建造。水面上約十メートルの高さにあり、壁と屋根に囲まれている。囚人

8. 即興詩人 下巻

263 注 ヴィチェンツアの生まれで、この町にラジオノ宮 ( 四七 ) 、・ハジリカ ( 四九ー一六一四 ) 、オリンビック劇 場 ( 八〇ー八四 ) 等を遺している。その作風は、・ハラディオ様式と呼ばれ、復古主義の先駆をなした。次 の ( ) 内は訳注。画師とあるのは不適当である。 一一一八 1 ュロナーーーヴェロナ。ヴィチェンツアから西に約五十キロ。アディジェ川にまたがる美しい古都であ る。ローマ時代は北イタリアの要地で、次の「石級のコリゼ工オに似たるあり」というように、ディオ クレティアヌス帝 ( 在位二八四ー三〇五 ) の時に建設され、約二万二千の観客を収容できる円形竸技場が 遣っており、十六世紀以来くり返し修復され保存がよい。十三世紀中ごろからはスカラ家、ついでヴィ スコンティ家の居城地であり、十五世紀にはヴェネッィア共和国に併合された。 ″ 5 ラジェネレントオラ ロッシーニ作曲 ( 一八一七 ) のオペラ。「シンデレラ」「天かぶり姫」。 〃 2 少年少女ーーモンテキイ家のロメオとカプレッティ家のジュリエット。 三九 6 「ラ・スカラ」座ーーヨーロッパ最大のオ。ヘラ劇場の一つである。 ″ 8 ドニチェッチィーードニツェッティ ( 一七九七ー一八四八 ) イタリアのオペラ作曲家。本国、ドイツ、 フランスを往復して約六十編のオペラを作曲した。ここで、テキストには「ドニツェッティのタッソ」 となっているのに、訳文では「主なる女優」の名にしているのは、朗外の誤訳か、さもなくば意識的な 改変であろう。 一三 0 3 名画晩餐式ーー・ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」のこと。ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラッ イエ教会の僧院の食堂の壁画である。

9. 即興詩人 下巻

265 注 ″ュングフラウーーーアルプスの一支脈ベルン・アルプスの高峰。海抜四一五八メートル。初登頂一八一 一年。なお「ユングフラウ」はドイツ語で「少女」の意味である。 一三五 7 デスデモナーー一八八ページ「オテルロ宮」注参照。 一三七 3 「ディ・フラアリイ」の寺・ーーサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂。一二五〇年建 立。その後ゴシック様式に再建された。ヴェネッィアの最も大きくりつばな教会の一つで上流階級の墓 所がある。ティッィアーノの祭壇画「聖母昇天」があり、またかれやカ / ーヴァ ( 一八〇ペ 1 ジ「カノ ワ」 ) の墓がある。 一三九 6 トビアスーー旧約聖書外典の「トビアス書ーの中の大トビアスの話。盲目の老人トビアスは天使の助 けによって目があき、息子の小トビアスとともに尊貴な老人として生き永らえた。 ″ 8 、 9 ロオザが兄ーー「ロオザ」と「兄」との関係は、一二一べージに「年長けたる姉」 ( se 一 ne 巴 ( es ( e Schwester) とあり、姉と弟が正しい ( 大畑訳によれば、デンマーク語の原文でもそうなっているように 思われる ) 。しかし外の訳文では、二人の関係が一定せず、左のようになっている。 一八七頁 3 行弟を訪ひ ( 全集ー底本 ) 兄 ( 菊版本、縮刷本 ) 一八七頁 4 行拿破里の弟 ( ″ ) 一八八頁 7 行 亡弟 ( ″ ) 二一五頁 2 行弟の手術 ( ″ ) 一三九頁 8 、 9 行口オザが兄 ( ″ )