サンタのわれに優しきことは昔に變らず。されど人なき處にてこれと相見んことの影護たくて、 若しフェデリゴの共に往かざるときは、必ず人の先づ集ひたらん頃を待ちて、始ておとなふこと 〔と〕 〔げ〕 となしつ。現にあやしきものは人の心なり。曾て心にだに留めざりし人と、ゆくりなく浮名立て らるるときは、その人はそもいかなる人にかと疑ふより、これに心付くるやうになり、心付けて お また 見るに隨ひて、美しくもおもはれ慕はしくもおもはるることありと聞く。我が夫人に於けるも亦 〔ゆたか〕はだへ 〔さぎ〕 これに似たるなるべし。前の事ありしより、我が夫人を見る目は昔に同じからで、その盟なる肌 1 こび ふるまひむなさわぎ 媚ある振舞の胸騒の種となりそめしそうたてき。 ふたっき 我がナポリに來てより早や二月とはなりぬ。次の日曜日はわが「サン・カルロ」の大劇場に出づ わが その 〔とこや〕 〔まっせつ〕 べき期なり。其日の興行はセヰルラの剃手にて、その末折の終りてより、我印興詩は始まるべし おき 〔まこと〕めうじ 〔ばんづけ〕 さすが とそ掟てられし。番付には流石にわが實の苗字をしるさんことの恥かしくて、假にチェンチイと しきり 〔なの〕 名告りたり。この運命の定まるべき日の、切に待たるると共に、あるときは其成功の覺東なき ここち 心地せられて、熱病な人の如くなることあり。けふも博士の家をおとづれたれど、われは人々の は かっ ま〔つど〕 あひ その 〔うしろめ〕 おぼっか
さいはひ わざはひのこ 故そ。おん身は世の人に福を授け給ふこと多かるべけれど、又禍を遺し給ふことも少からざる 〔やがて〕 おの ならん。われ。否、詩人の人を歌ふは隨印祚を歌ふなり。神は己れの德を表さんとて、人をば造 のたま うべな 〔あか〕 り給ひしなり。姫。おん身の宣給ふところには、わが諾ひ難き節あれど、われは我心を明すべき ことば 〔ゅびさ〕 詞を求め得ず。人の心にも世のたたずまひにも、げに神の御心は顯れたるべし。さればそを指し むね 示して、世の人をして神の懷に歸り入らしめんこそ、詩人の務とはいふべけれ。さるを却りて世 よ きゃうがいお どんい の人を驅りて、おそろしき香噬爭奪の境界に墮ちしめんとする如くなるは、好しとはおもはれず 9 と そは兎まれ角まれ、おん身はいかにして印興の詩を歌ひ給ふか。われ。題を得るときは思想は招 その かずして至るものなり。姫。さなり。其思想は訷の賜ふ所なること人皆知る。されどそを句とし 章とし、それに美しき姿しらべを賦し給ふは斜。われ。君は尼寺に居給ふとき、「プサルモス」 いにしへひじり の歌を聽き、又古の聖の上を綴りたる韻語を學び給ひしならん。さてある時端なく一の思想の ともかっ 浮び出づるに逢ひて、これと與に曾て聞ける歌、曾て聞ける韻語を憶ひ得給ひしことはあらずや。 公 憾むらくは、おん身はかかる機會を逸し給ひて、筆とりて其思想を寫さんことを試み給はざりし も トなり。おん身若しそを試み給ひしならば、思想の全き形の心頭に顯れたるものは凝りて散ぜず、 句は句を生じ章は章を生じ、詩は無意識の間になりしならん。こは唯だ我一人の經驗ながら、詩 人の製作といふものはかくあらんとおもふなり。われは詩を作るごとに、我詩の前世の記億の如 145 ゅゑ つづ また たま あらは た おも わが かへ
181 颶風 あた もたやすく近づくこと能はざるを奈礒せん。われは必ずしもかの人心より此の如しと設かず。そ ふるまむすめ は人にめづらしがられんとてかく振舞ふ女も少からねばなり。そが上に彼人の身上には明白なら ボデスタ をん・こく ざる處なきにしもあらず。わが聞くところに依れば、市長に二人の妹ありて、皆久しく遠國に住 とっ めりき。その最も少き方の妹は希臘人に嫁ぎたりしに、その夫婦の間に彼の奇しき少女はまうけ られぬといふ。今一人の妹は猶處子なり、しかも老いたる處子なり。四とせ前の頃彼の少女を伴 ひて歸り來りしは、此の老處子に他ならざりき。 あんこく 夜の如き闇黒は急に酒亭を襲ひて、ポッジョが話の腰を折りたり。あなやと驚く隙もあらせず、 かくぜん ら おほいふる かうべた 赫然たる電光は身邊を繞り、次いで雷聲大に震ひ、我等二人をして覺えず首を低れて、十字を空 に晝かしめつ。 あるじ いできたさふら リドすぐ 酒亭の女主人色を變じて馳せ來りて云ふやう。氣の毒なることこそ出來り候ひぬれ。岸區の優れ ふなびとむたり なかんづくあはれ いったり たる舟人六人未だ海より歸らずして、就中憐むべきアニエ工ゼは子供五人と共に岸に坐して待て た マドンナ にか〔すべ〕 たちまかしよう 。いかになり行くことならん。只だ聖母の御惠を祈らんより外術なしといひぬ。忽ち歌頌の聲 たうりつ ひとむらをなご はわれ等の耳に入れり。戸を出でて覗へば、彼の激浪倒立すること十丈なる岸頭に、一群の女子 むれ わか 小兒の立てるあり。小兒等は十字架を捧けて持てり。群のうちに一人の年少き女の、地に坐して ぎようし ひざまくら 海上を凝視せるあり。この女は赤子に乳房を銜ませたるに、別に年稍長ぜる一兄の膝に枕した 〔わか〕かた なは ギリシア ささ ちぶさふく よ かの ひま をとめ
136 ゅゑ のたま て、中にもかかる味なき事を可笑しとするは何故ならんなどいふ人さへあり。われ。しか宣給へ とじんし ひとくちばなし ど、今語りしは近頃流行の一口話にて、都人士のをかしとするところなるを奈何せん。夫人。否、 〔かけことば〕たぐひ もてあそ おん身の話は掛詞の類のいと卑しきをさげとせり。人の腦髓のかくまで淺はかなる事を弄ぶこと かく を嫌はざるは、げに怪しき限ならずや。嗚呼、我とても爭でかことさらに此の如き事のために、 我腦髓を役せんや。我は唯だ世の人の多く語るところにして、我が爲めにもをかしとおもはるる まで いっさん たね ものなるからに、人々の一粲を博する料にもとおもひし迄なり。 とっくにびと けんせき 日暮れて客あり。數人の外國人さへ雜りたり。われは晝間の譴責に懲りて、室の片隅に隱れ避け、 つど 一語をだに出ださざりき。人々は圈の形をなして、ペリイニイといふもののめぐりに集へり。こ とんち よはひは さはや 〔いと〕たくみ の人は齢略ぼ我と同じくして、その家は貴族なり。心爽かにして頓智あり、會話も甚巧なれば、 いっせい 人皆その言ふところを樂み聽けり。忽ち人々の一齊に笑ふ聲して、老公の聲の特さらに高く聞え ければ、われは何事ならんとおもひつつ、少しく歩み近づきたり。外るに我は何事をか聞きし。 とが 晝間我が語りて人々の咎に逢ひし、彼一口話は今ペリイニイのロより出でて人々に喝采せらるる くちふり 〔ちと〕 なりき。ペリイニイは一句を添へず又一句を削らず、そのロ吻態度些の我に殊なることなくして、 たなぞこぶ そば 人々は此の如く笑ひしなり。語り畢る時、老公は掌を撫して、側に立ちて笑ひ居たる姫に向ひ、 〔びる〕 いかにをかしき話ならずやと宣給へり。姫、まことに仰せの如くに侍り、けふ午の食卓にて、ア トが たのしき た 〔わ〕 をは たちま の た し へや 〔こと〕 すみ かっさい
読書子に寄す 岩波文庫発刊に際して 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かっては民を愚昧なら しめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつね に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の 書を少数者の書斉と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の 流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。 千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はた してその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。この ときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前 より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東四にわたっ て文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわ めて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。 この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択すること ができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従 来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の 事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさ しめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の 熟望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その 達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。 昭和二年七月 岩波茂雄
116 給ひしより、人々は早や我等の生きて邏らざるべきを思ひ給ひぬ。搜索の爲めに聞し遣られし一「 さう もど 艘の舟は、一はこなたより漕ぎ往き、一はかなたより漕ぎ戻りて、末遂に一つところに落ち合 そうせき ゃうに掟てられしに、その舟皆歸り來て、舟も人もその踪跡を見ずといふ。フランチェスカの君 おと ふなびと は我がために涙を墮し給ひ、又ジェンナロと舟人との上をも惜み給ひぬと聞えぬ。 のたま なほ その時公子の宣給ふやう。かくて思ひ棄てんは、猶そのてだてを盡したりといふべからず。若し 、よま ある 舟中の人にして、或は浪に打ち揚げられ、或は自ら泅ぎ着きて、はざまなどにあらんには、 きかっ〔くげん〕 みづかゆ 人に知られで飢渇の苦艱を受けもやせん。いでわれ親ら往いて求めんとて、朝まだきに力強き 〔こぎて〕よたりやと どうくっ みなと〔ふなで〕 なごり 漕手四人を倩ひ、湊を舟出して、ここかしこの洞窟より巖のはざままで、名殘なく尋ね給ひぬ。 し お されど彼窟といふところには、舟人辭みて行かじといふを、公子強ひて設き勸め、草木生ひた たふふ おぼ りと見ゆる岸邊をさして漕ぎ近づかせしに、程近くなるに從ひて、人の僵れ臥したりと覺しきを くわんにく わがきぬ 認め、さてこそ我を救ひ取り給ひしなれ。われは綠なる灌木の間に横はり、我衣は濱風に火かれ ぐわいたう さ、さ一 て半ば乾きたりしなり。公子は舟人して我を舟にけ載せしめ、おのれの外套もて被ひ、手の尖 〔す〕あたた 胸のあたりなど擦り温めつつ、早く我呼吸の米だ絶え果てぬを見給ひぬといふ。われはかくてこ くすし こに件はれ、醫師の治療を受けつるなり。 さればジェンナロと二人の舟人とは魚腹に葬られて、われのみ一人再び天日を見ることとなりし かわ の おき ら およ よこた つひ てんじっ おは
わたくし 〔ひとり〕 萬の人をか喜ばせ樂ませ給ふらん。ゅめ一人の人になその奪き身を私せしめ給ひそ。世の中の人、 〔かたくな〕 。し力なる頑なる人の心をも挫きつべ 誰かおん身を戀ひ慕はざらん。おん身の才、おん身の藝よ、、、 こと ! その〔・チワノ〕ふち〔こしか〕 し。期く云ひつつ、夫人は我を引きて、其長椅の縁に坐けさせ、さて詞を綴ぎて云ふやう。猶改 〔さぎ〕 めておん身に語るべき事こそあれ。疇昔の日おん身が物思はしげに打沈みてのみ居給ひしとき、 拙き身のそを慰め參らせばやとおもひしことあり。その時より今日までは、まだしみじみとおん 物語せしことなし。いかに申し解きらんか。おん身は妾が心を解き誤り給ひしにはあらずやと あるひ〔なさけ〕 思はれ侍りといふ。嗚呼、此詞は深く我を動したり、我もしばしば或は情厚き夫人の詞、夫人の・ ふるまび 〔げ〕 振舞を誤り解したるにはあらずやと、自ら疑ひ自ら責めしことあり。われは唯だ、御身が情は餘 しゅはい わが りに厚し、我身はそを受くるにふさはしからずと答へて、夫人の手背に接吻し、自ら勵まし自ら 戒めて、淨き心、淨き目もて夫人の面を仰ぎ親たり。夫人の美しく截れたる目の深黑なる瞳は、 らふたり 極めて靜かに極めて重く、我面を俯親す。若し人ありて、此時我等二人を窺ひたらんには、われ しゃうじゃうむ いづれことば その何の辭もてこれを評すべきを知らず。されどわれは聖母に誓ふことを得べし。我心は淸淨無 〔わ〕 垢にして、譬へば姉と弟との心を談じ情を話するが如くなりしなり。さるを夫人の目には常なら 〔おも〕 ちぶさ ぬ光ありて、その乳房のあたりは高く波立てり。われはその自ら感動するを以爲へり。夫人は呼 〔えり〕 吸の安からざるを覺えけん、領のめぐりなる紐一つ解きたり。夫人は、おん身にふさはしからざ ったな たのし この ひも 〔わらは〕 マドンナ うカカ ひとみ なは
さふら ぞんじまゐらせそろ な 故なき人の上に施し給ひしには候はずと存參候。君の此文を見給はん時は、私は世に亡き人 ま , しあけさふら さふら なるべければ、今は憚ることなく申上候はん。君は我戀人にておはしまし候ひぬ。我戀人は、昔 たえ はか 世の人にもてはやされし日より、今またく世の人に棄て果てられたる日まで、君より外には絶 ひと げんせ て無かりしを、聖母は、現世にて君と我との一つにならんを許し給はで、二人を遠ざけ給ひし そる ゅふべたま きすっ にて候。君の我身を愛し給ふをば、彼の不幸なる日のタに、彈丸のベルナルドオを傷けし時、君 あ さとを が打明け給ひしに先だちて、私は疾く曉り居り候ひぬ。さるを君と我とを遠ざくべき大いなる たちま 不幸の、忽ち目前に現れたるを見て、我胸は塞がり我舌は結・ほれ、私は面を手負の衣に懸しし そのち 隙に、君は見えずなり給ひぬ。ベルナルドオの痍は命を隕すに及ばざりしかば、私は其治不治 しゅゅ おも そば 生不生の君が身の上なるべきをおもひて、須臾もベルナルドオの側を離れ候はざりき。億ふに、・ さふら 此時のわが振舞は君に疑はれまゐらせしことのもとにや候ふべき。私は久しく君の行方を知ら ひと ず、人に間へども能く答ふるもの候はざりき。數日の後、怪しきおうな尋ね來て、一ひらの紙 ナポリ したた しゅせき 路を我手にわたすを見れば、まがふ方なき君の手跡にて、拿破里に往くと認めあり、御名をさへ 書添へ給へれば、おうなの云ふに任せて、旅行券と路用の金とをわたし候ひぬ。旅行券はべ 末 セナトオレ ナルドオに仔細を語りて、をちなる議官に求めさせしものに候。ベルナルドオは事のむづかし おもむき 」」とば きを知りながら、我言を納れて、強ひてをち君を設き動しし趣に候。幾もあらぬに、ベルナル 207 ゅゑ ひま この ふるまひ にどこ マドンナ よ と かた し ふさ きす わが この おと ておひきぬ おは
208 きすなごり おんうへ あ ぎづかひゐ 日ガ・が痍は名殘なく癒え候ひぬ。彼人も君の御上をは ・、いたく氣遣居たれば必ず惡しき人と御 な そろ わが 思ひ做しなさるまじく候。ベルナルドオは痍の痊えし後、我身を愛する由聞え候ひしかど、私 いつはり 〔さと〕 さふら ロオマ はその僞ならぬを覺りながら、君をおもふ心よりうべなひ候はざりき。ベルナルドオは羅馬を ナポリ たびだち にはか 去り候ひぬ。私は直ちに拿破里をさして旅立候ひしに、君も知らせ給ひし友なるおうなの俄に た 病み臥しし爲め、モラ・ヂ・ガエタに留まること一月ばかりに候ひき。かくて拿破里に着きて 聞けば、私の着せし前日の夜、チェンチイといふ少年の印興詩人ありて、舞臺に出でたりと まうすうはさ たださふら 申噂に候。こは必ず君なるべしとおもひて、人に問ひ糺し候へば、果してまがふかたなき我 戀人にておはしましき。友なるおうなは消息して君を招き候ひぬ。こなたの名をばわざとしる すゐ さで、旅店の名をのみしるししは、情ある君の何人の文なるをば推し給ふべしと信じ居たるが つかひ 故に候ひき。おうなは再び文をおくり候ひぬ。されど君は來給はざりき、使の人の文をば讀み あまっさ にはか かへ 給ひぬといふに、君は來給はざりき。剩へ君は遽に物におそるる如きさまして、羅馬に還り給 さふら ひぬと聞き候ひぬ。當時君が振舞をば、何とか判じ候ふべき。私は君の誠ありげなる戀のいち けうまん 早くさめ果てしに驚き候ひしのみ。私とても、世の人のめでくつがヘるが儘に、多少驕慢の心 ひと をも生じ居たる事とて、思ひ切られぬ君を思ひ切りて、獨り胸をのみ傷め候ひぬ。さる程に友 はらから けいえいあひてう なるおうなみまかり、その同胞も續きてあらずなり、私は形影相弔すとも申すべき身となり候 ふ さふら ふるまひ かの なにびとふみ
わ 乘るところの此舟は、印ちヱネチアの舟にして、翼ある獅子の旗は早く我が頭上に翻れり。帆は たちまそとうみ〔はし〕 〔ふないた〕 らんべき きふくながる 風にきて、舟は忽ち外海に駛り出で、我は艙板の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たる りえ ) さち かたへ うづくま その に、傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを あけくちびる たれそなた〔あす〕なあ 言へり。ここに大概を意譯せんか。其辭にいはく。朱の脣に觸れよ、誰か汝の明日角在るを知らん。 むね わか 戀せよ、汝の心の少く、汝の血の熱き間に。白髮は死の花にして、そのくや心の火は消え、 かのけいか ふたり ( おほひ〕 血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人 をとめ の來り覗ふことを許さざらん。少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、 また っ 波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝 た の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は びとふし〔うた〕 至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。少年は一節を唱ふごとに、其友の群を うなづ 顧みて、互に相頷けり。友の群は劇場の舞群の如くこれに和せり。まことに此歌は其辭卑猥にし はうしよう ばんか て其意放縱なり。さるを我はこれを聞きて輓歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壯の火 かうゆ た くつがヘ は消えなんとす。我は奪き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を發せしむるに及 らんよう わざはひ そむ まぬか つひ ばざりき。こは濫用して人に禍せしならねど、遂に徒費して天に背きしことを免れず。そもそも ゅゑわポ うんゐ 我は誓約の良心を縛するあるにあらず、責任の云爲を妨ぐるあるにあらずして、何故に我前に湧 あ この たふと 〔ホロス〕 た ふさ