夢幻境 113 燃ゆる水の上を走り來るにそありける。 らうをう その漸く近づくを候へば、靜かに艫を搖すものは一人の老翁なり。の一たび水を打つごとに 1 さうび をなご 〔うづくま〕 波は薔薇花紅を染め出せり。舟の舳に一人の蹲れるあり。その形女子に似たり。舟は慚く近づ おぎな けども、二人はロに一語を發せず、その動かざること石人の如く、動くものは唯だ翁が手中の わが のみ。忽ち聲ありて、一の長大息の如く、我耳に入り來りぬ。その聲は曾て一たび聞けるものの 如くなりき。 〔わ〕【ゑが〕 〔ほとり〕こ 舟は岸に近づきて圈を劃き、我が起ちて望める邊に漕ぎ寄せられたり。翁が手はを放てり。女 〔あはれ〕 子はこの時もろ手高くさし上げて、哀に悲しげなる聲を揚げ、訷の母よ、我を見棄て給ふな、我 おはせかしこ は仰を畏みてここに來たりと云へり。われは此聲を聞きて一聲ララと叫べり。舟中の女子は彼ペ ほとり こちょ スッム古祠の畔なる腎女なりしなり。 しぼ くわうみやう ララは我に對ひて起ち、聲振り絞りて、我に光明を授け給へ、我に訷の造り給ひし世界の美しさ たと 〔こわね〕〔よのつね〕 を見ることを得させたまへと祈願したり。その聲音は尋常ならず、譬へば泉下の人の假に形を現 こんと》けう をとめ して物言ふが如くなりき。我印興詩は漫りに混沁の竅を穿ちて、少女に宇宙の美を敎へき。今や 少女は期せずして我前に來り、我に眼を開かんことを請へり。われは少女の聲の我心魂に徹する あた を覺えて、口一語を出すこと能はず、只だ手を少女のにさし伸べたるのみ。少女は再び身を起 たちま 〔むか〕 〔うかが〕 た ろ 〔へさき〕 〔た〕 う・こか た この ひと かっ せんか てつ
194 あと のど ちと 士。この喉には些の修行の痕あるに似たれど、氣の毒なるは聲に力なきことなり。われ。 ( 騒ぐ をとめ ほまれは ロオマナポリ しづ 胸を押し鎭めて ) さきには羅馬、拿破里に譽を馳せたる西班牙生れの少女ありしが、この女優は あた 偶、、其名を同じうして、色も聲もこれに似ること能はざりしよ。紳士、否、この女優こそはその はて 名譽あるアヌンチャタがなれる果なれ。盛名一時に騒ぎしは七八年前のことなるべし。當時は年 〔わざ〕 〔はくお〕 もまだ若くて、聲はマリブランの如くなりきとそ。されど今はしも薄落ちたり。こはかかる伎も まど ちゅう て名を馳せし人の常なり。暫くは日の天に中するが如き位にありて、世の人の讚歎の聲に心惑ひ、 あた はかり・こと さと じじこくこくくだ おのが伎の時々刻々降りゆくを曉らず、若し此時に當り早く謀をなさざるときは、公衆先づ共 ならひ をなご 演奏の前に殊なるところあるを覺ゅべし。かかるなりはひする女子の習として、財を獲ること多 らくはく すみやか しといへども、隨ひて得れば隨ひて散じ、暮年の計をおもはねば、その落魄もいと速なり。君の この女優を見給ひぬといふは、羅馬にての事にゃありけん。われ。然り。其頃面を見ること二三 よ工よ・こ カカ うよさ 度なりき。紳士。さらば變化窈しきを覺え給ふならん。人のには、四五年前に重き病に罹り せうし てより、聲はたとつぶれぬといふ。その人の爲めにはいと笑止なる事ながら、聽衆の過去の美音 かっさい を喝采せざるをば、奈ともすべからず。いざ、昔のよしみに拍手し給〈。われも應援すべしと はげたなぞこ て、先づ激しく掌を打ち鳴しつ。平土間なる客二三人、何とかおもひけん、これに和したるに、 はうび しっしつ 叱々と呼びて、この過當の褒美にあらがふもの少からず。女王はこの毀譽を心に介せざる如く、 たまたまその 気ルテエル〕 この しか ころ
わが此裝置を一瞥し畢りし時、彼のベルナルドオに省たる男はこなたに向ひて足の運び輕げに歩 るき ひそ 〔おもて〕〔ゑみ〕たた あづまや いとま み來たり。われは思慮を費すに遑あらすして、近き亭の内に潛みしに、男は面に笑を湛へて閾上 あたかわがかた〔まむき〕 に立ち留まりぬ。その面は恰も我方へ眞向になりたるが、われはそのまがふ方なきベルナルドオ チワノ〕 かれ なることを認め得たり。渠は隣なる亭に歩み入り、長椅に身を投げ掛けて、微かにロ笛を鳴し居・ かれしせき をうき むねのうち たり。我胸裏には萬感叢起せり。ベルナルドオここに在り。我と他と咫尺す。われはかく思ふと くわき〔かをり〕かす ことごと〔ふる〕 共に、身うちの悉く震ひわななくを覺えて、カなく亭内なる長椅の上に坐したり、花卉の薰、幽 いざな やはらか かなる樂聲、暗き燈火、軟なる長椅は我を夢の世界に誘ひ去らんとす。現に夢の世界ならでは、 をとめ 〔さき〕 ここち 〔しばし〕 めぐりあひ この人に邂逅すべくもあらぬ心地そする。少焉ありて前のアヌンチャタに似たる少女は此室に入・ 、將に進みて我が居る亭に入らんとす。われは心にいたく驚きて、身内の血の湧き立つを覺え たちま き。その時ベルナルドオは忽ち聲朗かに歌ひはじめたり。少女は聲をしるべに隣の亭に入りぬ。 ああ むね〔こが〕〔たたら〕 〔きぬ〕そよ 衣の戦ぎと共に接吻の聲我耳を襲へり。此聲は我心を焦し爛かせり。鳴呼アヌンチャタは我を そのくちび しか いくとき 去りて此輕薄男子に就きしなり。この男子アヌンチャタを獲てより幾時をか經し。而るに其脣 家 や えうき は早く既にこの淤泥もて捏ね成したる妖姫の身に觸るるなり。われは此室を地せ廿で、此家を馳 わづか いかりかなしみ せ出でたり。我胸は怒と悲とのために裂けんとす。此夜は曉近うして纔にまどろむことを得た 1 . り′ . 0 この まさ いちべつをは こ かす へや
さき ひとむら しき人影のその前にゆらめくを。これ我等に前だてる旅客の一群なり。我等は手足を動して熔岩 いんえい しんこく まっ 〔くまぐま〕 の塊を避けつつ進めり。色褪せたる月の光と松明の火とは、岩の隈々に濃き陰翳を形りて、深谷 ゃうや の看をなせり。忽ち又例の雷聲を聞きて、火柱は再び立てり。手もて探りて漸く進むに、石土の とうじゃう へいくわっ 熱きを覺ゆるに至りぬ。巖罅よりは白き蒸氣騰上せり。既にして平滑なる地を見る。こは二日前 なは に流れ出でたる熔岩なり。風に觸るる表層こそは黒く凝りたれ、底は紅火なり。この一帶の このくわかくふ かなた 彼方には又常の石原ありて、一群の旅客はその上に立てり。導者は我等一行を引きて此火殼を踐 あと あ ましめたるに、足跡炙ぶるが如く、我等の靴の黒き地に赤き痕を印するさま、橋上の霜を踏むに ぎようそく だんもん すか 似たり。處々に斷文ありて、底なる火を透し見るべし。我等は凝息して行くほどに、一英人の導 かれなんち 者と共に歸り來るに逢ひぬ。渠、汝等の間に英人ありやと問ふに、われ、無しと答ふれば、一聲 畜生と叫びて過ぎぬ。 かの むれ 我等は彼旅客の群に近づきて、これと同じく一大石の上に登りぬ。此石の前には新しき熔岩流れ ようろ その ひろ おは 下れり。譬へばの熔爐より聞づる如し。共幅は極めて濶し。蒸氣の此流を被へるものは火に映 あんこう ゅわう じて殷紅なり。四圍は暗黒にして、空氣には硫黄の氣滿ちたり。われは地底の雷聲と天半の火柱 むなさき 〔みきき〕 と此流とを見聞して、心中の弱處病處の一時に滅盡するを覺えたり。われは胸前に合掌して、神 てらのうち よ、詩人も亦汝の預言者なり、その聲は寺裏に法を説く曾侶より大なるべし、我に力あらせ給へ、 かたまり たと たちま がんか あ ら おほい しゅそく かたど
186 ほとん ぎよをう すなは を落す兒童とこれを拾ひて高く擎ぐる漁翁とに及べり。我は殆ど歌ふところのものの印ち神の御 くわうざ せき 聲にして、我身の唯だ此聲を發する器具に過ぎざるを覺えき。時に廣座の間寂として人なきが如 くわふ あはれ ばうをく く、處々に巾もて涙を拭ふものあるを見る。われはこれより茅屋のうちなる寡婦孤兒の憐むべき しんじゅっ その 生活を敍し、賑恤の必要と其效果とに及べり。われは人間の快さは取るに在らずして與ふるに在 わが み たれまこと り、與ふる快さは印ち神の御心にして、此心あるものは誰か眞の詩人たらざらんと云へり。我聲 よ もろひと ふくゐん の威力、その幅員は曲の末解に至りて強さと大さとを加へき。我曲は能く衆人を感動せしめき。 かっさい いへ〔ゆるが〕 我が卓上の物を取りてポッジョに交付し、これに救助の事を托せしときは、喝采の聲屋を撼した うるは びとみ ひざまづ 〔そのとき〕いっ り。爾時一の年わかき婦人ありて、我前に來り跪き、我手を握り、その涙に潤へる黑き瞳もて我 かっ むく、 面を見上げ、神の母の報に君が上にあれと呼びたり。われは婦人の黒き瞳を見て、曾て夢中に相 ことば おもひ わづか 〔のり〕 逢ひたる如き念をなし、深くこれに動されぬ。婦人は此言をなし畢りて、纔におのれの擧動の矩 さと 〔かは〕 を踰えたるを曉れりとお・ほしく、臉に火の如き紅を上して席をすべり出でぬ。 かたへつど 座客は皆我傍に集ひて、わが博愛の心を稱へ、わが即興の作を讚む。ポッジョは我を擁して、幸 ある友よ、人の仰ぎ視ることをたに敢てせざる美人は、膝を君が前に屈せしにあらずやとささや 飛デスタめひ けり。われ。渠は何人なりしか。ポッジョ。ュネチア第一の美人なり。市長の姪なり。一の老婦 ことわり ひと もはや 人ありて我に歩み近づきて、君は最早我を忘れ給ひしか、そは理なきにあらず、唯だ一たび相見 こゑ〕 わが き かれ た この ささ あへ おほい 〔のぼ〕 ひざ をは あ あひ さち
たひら うなばらこ 波平かなる海原を漕ぎ出で、かの怪しき島國の方に隱れぬ。黒雲空を蔽ひて、海面には暗綠なる ま てうすゐたうりつ しゅゅ をさ ひとすち 大波を起し、潮水倒立して一條の巨柱を成せり。須臾にして雲斂まり月淸く、海面復た平かにな かのぎよふ かっさい りぬ。されど小舟は見えざりき。彼漁父の子も亦あらずなりぬ。歌ひ畢るとき、喝采の聲前に倍 きようくわい し、我力は漸く大に、我興會は漸く高し。 ひと ーすなは 第三曲の題はタッソオなりき。われは一たびタッソオたりしことあり。レオノオレは即ちアスン ら な びとやく むねのうち チャタなり。我等はフェルララ宮中に相見たり。われは囹圄の苦を嘗め、懷裡に死を藏して又自 * かしは 〔ナポリ〕 由の身となり、波立てる海を隔ててソルレントオより拿破里を望み、また聖オノフリイ寺の懈樹 たいくわん その の下に坐し、戴冠式の鐘聲カビトリウム街頭に起るを聞けり。されど冥使早く至りて其冠をわれ しんて ) に授けつ。是れ不死不減の冠なりき。思想の急流は我を漂し去りて、我心跳は常に倍せり。 しっと 最後の一曲はサッフォオの死を題とす。嫉妬の苦も亦我が自ら味ひたるところなり。アヌンチャ 〔てお〕 タが痍負ひたるべルナルドオに吝まざりし接吻は、今憶ふも猶胸焦がる。サッフォオの美はアヌ はた , かれん かじんおはをは ンチャタに似て、その戀情の苦は我に似たり。波濤はこの可憐なる佳人を覆ひ了んぬ。 ( 十六世 イタリア ことごと 紀の伊太利詩人タッソオと前七世紀の希臘女詩人サッフォオとの傳は今煩を憚アて悉く註せず。 ) きゃうらんどたう お 看客は皆泣けり。拍手の聲は狂瀾怒濤の如く、幕一たび墮ちて後、われは二たび幕の外に呼び既 されぬ。 わが をし ャリシア かた おは をは はんよば、 ふた
帳を取りて歸り給へ、我は窓を鎖すべきに。ジェンナロ。我はおん身の手を握らでは歸らず。お ん身のけふ我に惜みて、彼馬鹿者に與へ給ひし接吻を取り返さでは歸らず。新婦は周章の間に一 ゑみもら 聲の笑を洩せり。否々。君は人の與へざる所のものを奪はんとし給ふにや。君張ひて奪はんとし あは 給はば、われまた誓ひて與へざるべしといふ。ジェンナロは哀れげなる聲していふやう。我等の あひ 相見るはこれを限なるを思ひ給へ。われは再び此地に來るものにあらず。さるを君は我が手を握 らんといふをだに聽き納れたまはず。我胸には君に言ふべき事さはなれど、君が手を握らんの願 あへ あひ の外は、われ敢て口に出さじ。聖母は我等に何とか敎へ給ふそ。人は兄弟姉妹の如く相愛せよと 〔のたま〕 こがね あで わか こそ宣給へ。われはおん身の兄弟なり。我黄金をおん身と分ちて、おん身の艷やかなる姿を飾 たふと る料となさんとこそ願へ。貴き飾を身に着け給はば、おん身の美しさ幾倍なるべきそ。おん身の うらや 友どちは皆おん身を羨むべし。されど我とおんみとの中をば世に一人として知るものなからん。 期く云ひも果てず、ジェンナロは一躍して窓より入りぬ。新婦は高く聖母の名を呻べり。 ガラス そのとびら 襲われは表の窓に走り寄りて、力を極めて其扉を打ちたり。硝子はからからと鳴りたり。我は目に 〔えもの〕 〔かた 0 ふだうたな 見えぬ威力に驅らるるものの如く、走りて裏口に至り、得物もがなと見廻す傍の、葡萄架の横木 夜 〔つくり・こゑ〕 引きちぎりつ。女はニコオロにやと叫べり。さなり、我なりと、われは假聲して答へたり。室内 ともしび をど ぐわいたう の燈消ゆると共に、ジ〒ンナロは窓より跳り出で、いち足出して逃げて行く。其外套は風に翻 たね かの さ マドンナ きは わが ら この し ら
しばわが たる女主人は間ひぬ。我は一聲アヌンチャタと叫べり。暫し我面を打まもりし主人は、再びあな なにびと やといひもあへず、もろ手もて顏を掩ひつ。何人にもあらず、昔の友の一人なり、むかしおん身 しあはせ の惠にて、あまたの樂しき時を過し、あまたの幸福ある日を送りしものなり、何の爲めにか來べ あひ までふる き、唯だ今一たび相見んの願ありて來つるのみといふ我聲は恥かしき迄震ひぬ。アスンチャタは かうべあ 靜に手を垂れて頭を擧げたり。肉落ちて血色なく、死人の如き面なれど、これのみは年も病もえ ひとみ わたつみ 奪はざりけん、暗黑にして、渡津海のそこひなきにも譬へつべき瞳は、磁石の鐵を吸ふ如く、我 おんみ 面に注がれたり。アントニオ、かくて御身と相見んとは、つやつや思ひ掛けざりき。同じ憂き世 の山路なれど、おん身はそを登る人、われはそを降る身なれば、相見て又何をかいふべき。疾く ほは 〔まぶた〕 行き給へと口には言へど、つれなき涙は睚に餘りて、頬の上に墮ち來りぬ。われ。そは餘りに情 〔こと〕〔せりふ〕 〔おもいれ〕 なし。われはおん身の今不幸なるを知りぬ。むかし一言の白、一目の介もて、萬人に幸幅を與へ びばう しおん身なるを。アヌンチャタ。幸輻は妙齡と美貌とに件ふものにて、才と情との如きは、その願 〔まこと〕 みるところにあらざるを奈何せん。われ。おん身は病に臥し給ひきとは實か。アヌンチャタ。病 この はいと重く、一とせの久しきにわたりしかど、死せしは我容色と我音聲とのみなりき。公衆は此 ふた かばねあは くすし 二つの屍を併せ藏せる我身を棄てたり。醫師はこの死を假死なりとなし、我身は果敢なくもこれ たくはヘ を信じたりき。我身は舊に依りて衣食を要するに、平生の蓄をば病の爲めに用ゐ盡しぬれば、彼 あるじ ひと おは たと ひとり 〔と〕 かの
すゐ 剛ら推し給へといひぬ。 にヘづくゑ われはマリアと贄卓の前に手を握りぬ。おほよそ市長の家にゆきかふものは、皆歡喜の聲を發し とも その おは つれど、其聲の最も大いなるはポッジョなりき。越ゆること二日にして、我等はロオザと供に ゐなかべっしょ 田舍の別墅に移りぬ。こはアンジェロが遺産もて買ひしものなりき。ポッジョは一書を我別墅に ふみ へうん 寄せて、飄然としてヱネチアを去りぬ。その書には、唯だ左の數句あるのみなりき。日く、我は あら あはれ まことか そなたと 〔か〕 汝と賭して贏ちたり、されど實に贏ちしは我に非ざりきと。憐むべし、ポッジョが意中の人は すなはちまたわが 卩亦我意中の人なりしなり。 フアビアニ公子とフランチェスカ夫人とは、わが好き妻を得しを喜び、かの腹黑きハッパス・ 〔しるひと〕わづか ダアダアさへ皺ある面に笑を湛へて、我新婚を祝したり。わが昔の知人の僅に生き殘れるは、 かうじん 〔ススニアとう〕 西班牙磴の下なるべッポのをちのみにて、その「ポンジョォルノ」 ( 好日 ) の語は猶久しく行人 の耳に響くなるべし。 琅洞 千八百三十四年三月六日の事なりき。旅人あまたカ。フリ島なるバガニイが客舍の一室に集ひぬ。 らうかんどう しわ 〔ゑみ〕たた ボデスタ よ た ら ひとへやつど なは わが
たちま しんもく ひつぎ きたう すみれ オザの祈薦の聲を聞き、マリアの菫花もて飾れる棺は明かに心目の前にあらはれぬ。忽ち我は病〕 ふしど た わがそばあ の既に去りてカの既に復せるを感じ、蹶体として臥床より起ち、人の我側に在らざるに乘じて、 ぐわいた ) まと 壁に懸けたる外套を纏ひ、岸邊なる小舟を招きて、「ディ・フラアリイ」の寺に往かんことを命 かつひと ボデスタるゐせい じつ。こは市長が累世の墓ある處にして、われは曾て一たび其窟墓を窺ひしことありき。夜は暗 とびら くして、「アヱマリア」の鐘と共に閉されたる門の前には人影早や絶えたり。われは扉をほと じどう ほとと敲きしに、寺僮は我が爲めに門を開きつ。そは曾てわが市長に伴はれて來ぬる時、我に じどう 〔はかソ ゅびさ チャノとカノワとの墓を指し敎へしことあれば、猶我面を見知り居たりしなり。寺僮は我心を計 き にヘづくゑ り得て、君はを見に來給ひしならん、今は猶贄卓の前に置かれたれど、あすは龕に藏めらる、 しよくとも 〔かぎ〕 べしとて、燭を點して我を導き、鑰匙取り出でて側なる小き戸を開きつ。寺僮と我との足音は、 ゅびさ ひつぎ ぎゅうりゅう〔あひた〕さび 穹窿の間に寂しき反響を喚起せり。寺僮の柩はかしこにと指して、立ち留まるがままに、我は せきじんおぼろげ、 マドゾナみえい かす ひとり長廊を進めり。聖母の御影の前に、一燈微かに燃え、カノワが棺のめぐりなる石人は朧氣 ともしび すみれ りんくわくゑが 身なる輪廓を晝けり。贄卓に近づけば、卓前に三つの燈の點ぜられたるを見る。菫花のかをり高き わが うち うづ かばね 〔たけ〕 うづたか 〔ほとリ〕おほ 疾 邊、覆はざる柩の裏に、堆き花瓣の紫に埋もれたる屍こそあれ。長なる黑髮を額に綰ねて、これ わむび「あひだ〕 めいもく にも一東の菫花を拇めり。是れ瞑目せるマリアなりき。我が夢寐の間に忘るることなかりしララ そそ ちすち なりき。われは一聲、ララ、など我を棄てて去れると叫び、千行の涙を屍の上に灑ぎ、又聲ふり・ たた こ こ け なほ そのくつぼ ひつぎ き 〔がん〕をさ