232 場にされたために一部は破壊されて今日に及んでいる。 話 6 古の混堂の址ーーローマ時代の公衆浴場の遺蹟。ここでは両人の足どりからみて、サン・セ・ハスティ アノ門の近くにあり、アッビア街道に面したカラカラ浴場を指すものと思われる。二〇六年セプテイミ ウス・セウエルス帝によって着工され、二一六年カラカラ帝の治世に完成された。ローマ時代の公衆浴 場としては最大の規模をもつ。 ″ 9 女神エジェリアの洞ーーサン・セ・ハスティアノ門外にあり、前を流れるアルモ川の水の精 ( ニンフ ) 工 ジェリアを祭った遣蹟。エジェリアはローマ伝説中の七人の王の一人ヌマの愛人であり、かれの祭儀と 政治の相談役であった。ヌマの死を悲しんで涙を流し、この泉に化したと伝えられる。 カラブリア州ーー・南イタリアにある州の名称。 カタコン・ハ ローマ郊外、アッビア街道を南下した所の聖セ・ハスティアノ教会からドミネ・クオ・ ヴァディス教会の付近に残る地下墓地のこと。初期キリスト教徒が墓地にし、秘密の集会をした場所で ある。壁画、彫刻、石棺の類が見られる。聖ドミティリア、聖カリスト、聖セ・ハスティアノ等の名が冠 せられているが、ここで二人が入ったのは聖カリストのカタコン・ハと思われる。 一一五 1 聖セ・ハスチャノ寺ーー・サン・セ・ ( スティアノ門外、アツ。ヒア街道に沿う。一六一二年再建、ローマの 七本山 ( 一六九ページの「羅馬の七寺」 ) の一つ。聖セ・ハスティアノのカタコイハの入口になっている。 方聖ャヌアリウスの「カタコン・ハ」 ナポリ市の北部の丘陵地にあり、サン・ジェンナロ ( ャヌアリ ウスのイタリア語形 ) 教会が入口になっている。聖ャヌアリウスは三〇五年、ディオクレティアヌス帝
第六章一一 l) の意。インプロペリア ( 咎めの交誦 ) といわれ、十字架にかけられたキリストの人民に対する 非難を表わす。パレストリーナ ( 一五二五頃ー九四 ) の一五六〇年代の作曲。聖週間 ( 復活祭前の一週間〉 の水曜日から金曜日まで歌われる。 四 5 アレエグリィーーーグレゴリオ・アレエグリイ ( 一五八二ー一六五一 1)0 イタリアの作曲家。システィナ . 聖歌隊に入り、かれが作曲した九声のミゼレーレは、現在でも聖金曜日にシスティナ礼拝堂で歌われる ? ( ) 内は訳注。 ″「ラ・トラップ」派・ーー・トラ。ヒスト。厳律シトー会修道士の総称。十七世紀の半ばにフランスのラ・ト ラップ修道院から起こった改革が他の同会修道院にも及び、トラビストはシトー会の代名詞になった。 荘厳な典礼、全修道士の労働、肉食の禁止、沈黙の励行、個室を廃した共同生活等きびしい戒律を守る。 一七七 4 木曜の祭日ーー聖木曜日すなわち聖週間の木曜日のこと。キリストが最後の晩餐の時に使徒の足を洗 い ( 「ヨハネ伝」第十三章一ー二〇 ) 、聖体の秘蹟を制定したこと ( 「マタイ伝」第二六章一一六ー二九 ) を記 念する。洗足の木曜日といわれ、このページの九ー十行目の ( ) 内の原注のような儀式が行われる。 〃 6 天使橋ーーーサン・タンジェ」ロ橋。ティベル川の左岸とヴァティカン地区を結ぶ最も重要な橋。現在ロ ーマに残るローマ時代の橋の一つである。すなわち一三六年ハドリアヌス帝が架設し、アエリウス橋と ーニの意匠による十体の天使像で飾られた。右岸のたもとにサン・タ 名づけられ、一六八八年、ベルニ ンジェロ城 ( 天使城、後出一八九。ヘージ ) がある。 一天 2 , 聖ビエトロの墓。ー、ビエトロ ( ベトロ ) は十二使徒の一人。ガリラヤの漁夫の子。本名シモン。キリス
260 ( 現在は。ヒオ・クレメンティノ美術館 ) 、ベルヴェデレのトルソー ( 既出、一一七ページ ) と同じように呼 ばれていた有名な彫像。ギリシア古典末期 ( 前四世紀中期 ) の作。十五世紀末に発見された。 六 7 アリアドネ , ・ーークレタ島の王ミノスの娘。テセウスがこの島に来た時、かれに恋し、妻になる約東で、 かれのミノタウロス退治を助け、ともに島を抜け出したがナクソスの島に置き去りにされた。そこへデ イオニュソス ( ・ハッカス、一五一ページ「狂女」の注参照 ) が来てかの女に恋し結婚したという。 一六七 5 精進日・ - ーー四旬節のこと。一五八ページ「断食日」の注参照。 寺楽・ーーシスティナ礼拝堂で行われるアレエグリイ ( 後出、一七四ページ ) の「ミゼレーレ」のこと。 一充 6 ロヂイ 北イタリア、ミラノ東南の地方都市。 羅馬の七寺・ーーサン・。ヒエトロ、サンタ・マリア・マジョーレ、サン・ロレンツオ、サン・セパステ ィアン、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ、サンタ・クローチェ、サン・。 ( オロの七寺。いずれも 四世紀の建立と伝えられる。初期キリスト教時代からの七大本山で中世期には各国から巡礼が集った。 ローマの市民は聖週間 ( 四旬節の最後の一週間 ) の特に聖金曜日 ( キリストの十字架上の死を記念する日 ) にこの七寺を巡礼する。 死火の痕ーー四旬節の第一日火の水曜日に、人間の最後と痛悔の必要を想起させるために信者の額に 聖灰 ( 前年度の枝の祝日に用いたしゅろの枝を燃し、その天を火の水曜日のミサに先立ち祝別したもの ) を塗る習慣がある。ここでは折からアントニオの顔色のすぐれないのを言っているのであろう。 一七 0 2 精進の最後週ーー・聖週間。四旬節の最後すなわち復活祭前の一週間。キリストの受難の記念がこの週
244 公 2 スキビオ・大アフリカーヌス ( 大スキビオ ) ( 前二三六ー一八四 ) は、第二次ポエニ戦役においてハンニ・ハ ルの根拠地イス。ハニアを平定し、さらにザマにハンニ・ハルと戦って大勝 ( 前一一〇一 l) 、翌年カルタゴを屈 服させた。また、かれの長子プ・フリウスの養子であるスキ。ヒオ・アエミリアヌス・小アフリカーヌス 示スキビオ ) ( 一八五《八四 ) ー一二九 ) は、第三次ポエニ戦役でカルタゴを減・ほした ( 前一四六 ) 。 ^ 七 7 アレツツォ。ーーフィレンツェの東南の一都市。ベトラルカの生家といわれる家がある。本文のこの行 以下五行は原注。 ″ 8 アヰニョン , ・ーーアヴィニョン。南フランス、ローヌ川下流にある都市。 ″〃ラウラ ベトラルカによれば、かれは一三二七年四月六日の聖金曜日にアヴィニョンの聖キアラ聖 堂ではじめてラウラに会い、二十一年後の一三四八年四月六日にかの女は没した。かれの抒情詩「カ / ツオニエレ」はラウラを主題にし、かの女をかれの永遠の女性とする作品三六九篇を収める。 ・ハビロン塔、ーー「創世記」第十一章一ー九にある伝説。ノアの子孫たちは洪水ののちシナルの地に町 を作り、天まで届く塔を建てようとした。工ホ・ハはそれを怒り、その時まで一つであった人間のことば を混乱させてたがいに通じないようにし、かれらを地上一面に散らしたため町も塔も作れなくなった。 その後この地は・ハベル ( みだれ ) と呼ばれる。この伝説から「ハビロン」 C ハベル ) の塔といえば、実現性 のない計画、混乱したことば、乱雑な文章などを意味する。 〃 4 俚言ーーーダンテが「神曲」を書く際、当時の公用語、標準語であるラテン語でなく、俗語とされてい たイタリア語を用いたことを指す。
261 の基調になる。枝の主日、聖火曜、聖水曜、聖金曜にそれそれマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音 書の受難の箇所を朗読する。 ジョワンニ門 ここから新アツ・ヒア街道が始まる。ポポロ門がローマの北の入口であるのに対して、 これは南の入口である。 〃 3 シクスッス堂ーーーシスティナ礼拝堂。一四七三年教皇シクストウス四世が教皇専用の礼拝堂としてサ ン・。ヒエトロ聖堂の北側に建て、建築は一四八一年に完成した。その後、ポッテイチェルリ、ギルラン グイヨ、ベルジーノ、コシモ・ロッセリ等が壁画を描いたが、特にミケランジェロの旧約聖書に題材を とった天井画 ( 一五一二年完成 ) と祭壇画「最後の審判」 ( 一五四一年完成 ) が有名である。前者は一七一 べージ八行目ー一七二ページ九行目に、後者は一七二ページ十行目以後に描かれている。 8 ミケランジェロ ( 一四七五ー一五六四 ) 、フィレンツェの生まれ。イタリア・ルネッサンス最大の 芸術家の一人であり、教皇ュリウス二世とパウルス三世とに重く用いられた。同時に故郷フィレンツェ の自由と独立のためにつくした。「モーゼー「ダビデ」等の彫刻、システィナ礼拝堂の天井画と祭壇画 「最後の審判」、メディチ家礼拝堂、サン・。ヒエトロの円屋根、カピトリノ丘上の広場等多くの偉大な 作品を遺している。 工ワーー人類最初の女性。天地創造の第六日目にアダム ( 既出、九二ペ 1 ジ ) の肋骨から作られてかれ の妻になった。エデンの楽園に住んでいたが、蛇に誘惑され、アダムをそそのかして知恵の木の実を喰 べたために楽園を追放された。 ( 旧約聖書「創世記」第二ー三章。 )
234 その後落雷で炎上したのを ハドリアヌス帝が再築した。ローマ時代の建築では最もよく保存されたもの であり、独創的な技術と均整のとれた形態により口ーマ建築の名作とされる。六〇九年教皇ポニフアテ イウス四世によって教会に転用され、はじめ殉教者の聖マリア教会と呼ばれた。今日では国家的霊廟と してラファエルその他の有名人、近代のイタリア諸王が葬られている。 三六 5 「コルソオ」の大道ーーイル・コルソオ。公式にはコルソオ・ウムペルト・プリモ。ローマ市内の北 部ビアツツア・デル・ポポロ ( 五四ペーシ ) から南へ約一キロ半、ヴェネッィア広場に通じる繁華な街路 である。この道路で後に書かれる謝肉祭が行われる。本文七五ページ二ー九行目参照。 ″ 6 。ヒアツツア・ヂ・トレキイーー・トレヴィの広場。前のページの「サンタ・マリア・デルラ・ロツン ダ」から「コルソオ」を横切って東に行った所にある広場。中央に一七六二年完成の公共水汲場フォン ターナ・ディ・トレヴィがあり、プラッチイ ( 一七〇〇ー七一一 l) 作の「オケアノスの群象」が立つ。ロー マに別れを惜しむ旅人は、この泉に手をひたし、あるいは銭を投じて願うと再遊の望みがかなうという。 キタルラ ( イタリア語 ) 、ギタ 三七 5 聖。ヒエトロの寺の塔ーーローマのヴァティカンにある聖ピエトロ大聖堂のこと。使徒ペテロの墓の上 に立ち、ローマ・カトリック教の本山である。一四五二年教皇ニコラウス五世が着工、一たん中絶の後、 最初の設計者プラマンテからラファエル、ミケランジェロ、マデルナ等が引き継いで一六二六年ウル ' ハ ノ八世の時に完成した。初期ルネッサンス式の代表的建築とされる。中央の大ドームはミケランジェロ の設計である。また正面の広場と円柱回廊はベルニーニの設計で一六六七年に完成した。
なほ きゅうりゆ , びて、石もて塞がれたるなり。當時存したるは、聖セパスチャノ寺の内なる穹窿の墓穴よりの ら 入口と、わが言へる一軒家よりの入口とのみなりき。さてわれ等はかの一軒家のうちなる入口よ り進み入りしが、おもふに最後に此道を通りたるはわれ等一一人なりしなるべし。いかにといふに 此入口はわれ等が危き目に逢ひたる後、いまだ幾もあらぬに塞がれて、後には寺の内なる入口の み殘りぬ。かしこには今も僣一人居りて、旅人を導きて穴に入らしむ。 やはらか 深きところには、軟なる土に掘りこみたる道のゆきちがひたるあり。その枝の多き、その様の相 をさなごころ 似たる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心に何ともおもはす。畫工 たくは きぬ あらかしその はまた豫め其心して、我を件ひ入りぬ。先づ蠑燭一つ點し、一をば衣のかくしの中に貯へおき、 ( ひと寸き〕 一省の絲の端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ 立ちて歩まるるところあり、忽ち又岐路の出づるところ廣がりて方形をなし、見上ぐるばかりな よぎ いしづくゑす る穹窿をなしたるあり。われ等は中央に小き石卓を据ゑたる圓堂を過りぬ。ここは始て基督敎に 歸依したる人々の、異敎の民に逐はるるごとに、ひそかに集りてに仕へまつりしところなりと そ。フェデリゴはここにて、この壁中に葬られたる法皇十四人、その外數千の獻身者の事を物語 かざり せぎがん 〔ともしび〕 りぬ。われ等は石龕のわれ目に燭火さしつけて、中なる白骨を見き。 ( ここの墓には何の飾もな 〔ナ求リ〕 し。拿破里に近き聖ャヌアリウスの「カタコン・ハ」には聖像をも文字をも彫りつけたるあれど、 ふさ お この らふそく たちま ャリスト
265 れる。 ダナエーーギリシア神話のアルゴス王アクリシオスの娘。孫に殺されるという神託を恐れてかの女を 銅の塔に閉じこめたが、ゼウスが黄金の雨になってかの女を訪れ、。ヘルセウスが生まれた。父王アクリ シオスは母子を箱に入れて海に流したが、二人はセリポスの島に漂着し、その島の王弟ディクテュスに 救われた。 ″ 4 チエウスーーーギリシア神話の最高神。ゼウス。ローマ名ュビテル。 一会 5 シドオニィー・ ( 一五五九ー一六一五 ) 。イタリアの画家 ( 大畑注による ) 。その他および「シャリア」宮、 ともに未詳。 〃 8 ェットエゴオインアルカヂア 「われもまたアルカディアにありき」の意。アルカディアは 古代ギリシアのペロポネソス中部の山地の地方名。後世この地方は理想化され、牧歌的な平和境を意味 するようになった。このことから、このことばは死の警告として詩歌や絵画にしばしば取りあげられて きた。 一兊 4 神使の丘ーー・聖アンジェロ城のこと。もとハドリアヌス帝 ( 在位一一七ー一三八 ) が自分のために建て た霊廟であり、かれやアントニヌス・ビウス、マルクス・アウレリウス ( 既出、一四二。ヘージ ) の三帝そ の他が葬られ、中世には城砦や牢獄として用いられた。六世紀末のベスト流行の折、教皇グレゴリウス 一世はこの建物の上に天使長ミカエルがベストの終結を告げる幻を見たという。その伝説から聖天使城 ( カステル・サン・タンジェロ ) と呼ばれ、教皇の見た天使をかたどる銅像がおかれている。またここは
250 テの「神曲」をはじめヨーロッパの文学に多くの影響を与え、この「即興詩人」でも「神曲」とともに 重要な役割を演じている。 六 6 六の巻ー・ー「アエネーイス」第六巻。アエネーイスは、デイドの恋を振り切ってカルタゴを去り、イ タリアのクマエ ( キュメ工 ) に達した。ここでアポロンとへカテ ( 冥府の女神 ) に仕える巫女 ( シビルラ ) デ 1 イボべーをたずね、自己の運命を知るためにその手引で冥府に下り、亡父アンキーセスに逢ってロー マの未来の偉大を予言された。クマエはナポリ湾西方ガエタ湾に臨む都市。イタリアにおける最初のギ リシア植民地として前五世紀ごろに最も栄え、広大なアポロンの神殿があった。アポロンに仕えてその 神託を告げる巫女はシビルラと呼ばれたが、その中でもクマエに住むシビルラは有名であった。 〃 9 ワチカアノの画廊ーー・ワチカアノは既出 ( 六六。〈ージ ) 。教皇庁付属の有名な美術館。ヴァティカン宮 殿の大部分が美術品その他文化財の展示場にされているが、公開のコレクションには、十四、五世紀ル ネッサンス、イタリアの名画を集めた。ヒナコテカ、ギリシア、ローマの彫刻を集めたビオ・クレメンテ イの美術館 ( クレメンテ十四世、ピオ六世の創設 ) 、エトルリア美術館、その他ラファェロのスタンツア、 ラファェロの廊、ベルヴェデーレの中庭、システィナ礼拝堂等がある。 〃Ⅱ長き廊ーーヴァティカン宮殿の一角にある「ラファェロの廊」 (Logge di Raffaello) のこと。ラファ ェロのデザインでかれが監督した化粧漆喰と絵画で飾られ、特に聖画に取材した天井画は「ラファェロ の聖画」と呼ばれて有名である。 七 2 ラオコオンの群、ーーラオコンは、トロヤのポセイドン神の司祭。ギリシア軍の残した木馬を怪しみ、
233 注 のキリスト教迫害の際に殉教した。ナポリの保護聖人として信奉される。 き 1 カルヂナアレ ローマ教皇のカトリック教会全体への行政上の最高顧間。定員七十名。教皇庁に居 住するものと、英独仏伊米濠など各国に居住するものとがある。教皇死去の際はシスティナ礼拝堂 ( 後 出、「精進日、寺楽」 ) に集って教皇の選挙をする。枢機卿。 〃聖ミケルーーー十五行目の ( ) 内は原注。大天使の一人。叛逆の天使ルシフェルとの戦いの際に天使軍 の長となった。ここから教会やキリスト教の軍勢の守護者とされる。絵画の題材として神の戦士、地獄 の屯を負かす天使に描かれる。ラファェロ、ルーベンス等の作が有名である。 三一 3 万聖祭ーー・正しくは諸聖人の祝日。十一月一日。カトリック教の祝日の一つ。すべての聖人を祭り、 神に感謝を捧ける。 ″ 7 ミゼレエレーー次の ( ) 内は訳注。「ミゼレエレメイドミネ」ではじまる懺悔の祈り。「詩篇」第 五十一篇。 三一一 9 聖誕祭ーークリスマス。正しくは降誕祭の聖節。 ″「サンタ・マリア・アラチェリ」の寺ー・ー・カビトルの丘の北にある。天の祭壇教会の意。ここでアウ グストウス帝にキリストの誕生が予言されたという伝説がある。ここに書かれている行事はクリスマス の日から一月九日まで、毎日三時から四時に、五歳から十歳の子供によって行われる。 五材サンタ・マリア・デルラ・ロツンダ 1 ー教会の名前。この建物は、ローマ時代にウエヌスやマルスと 古代の神々を祭った。ハンテオンの遺跡である。紀元前一三年マルクス・アグリッパによって創建され、 アーラ・チェーリ