きょ 渡り、古の帝王の住みつる城址に踞して、羅馬の市を見おろしたり。テ = = ル河の黄なる水は昔 ながらに流れたり。されどホラヂウス・ = クレスが戦ひし處には、今に薪と油とを積みてオス * えんくわ〔のんど〕 チアに輸るを見る。されどクルチウスが炎火の喉に身を投ぜし處には、今牧牛の高草の裡に眠れ なんち みやうじ るを見る。アウグスッスよ。チッスよ。汝が雄大なる名字も、今は破れたる寺、れたる門の稱 に過ぎず。羅馬の鷲、 = 。ヒテル・の猛き鳥は死して集の中にあり。あはれ羅馬よ。汝が不死不滅は たちまかがや エウロッ いづれの處にか在る。鷲の眼は忽ち耀きて、その光は全歐羅巴を射したり。既に倒れたる帝座は、 又起ちてベトルスの椅子 ( 法皇座 ) となり、天下の王者は徒跣してここに來り、その下に羅せり。 おほよそ手の觸るべきもの、目の視るべきもの、 いづれか死減せざらん。されどベトルスの刀い いきほひ かでか鑽を生ずべき。寺院の勢いかでか墮つる期あるべき。縱ひ有るまじきことある世とならん むきゅう も、羅馬は猶その古き諸神の像と共に、その無窮なる美術と共に、世界のに崇められん。東よ りも西よりも、又天寒き北よりも、美を敬ふ人はここに來て、羅馬よ、汝が威力は不死不波なり かっさい のといはん。この段の畢るや、喝采の聲は座に滿ちたり。獨りアヌンチャタは靜座して我面を見た 喚るが、其姿はアフ。ヂテの像の如く、其眸には優しさこもれり。我情はき詩句となりて、脣 うつ より流れ出でたり。詩境は廣き世界より狹き舞臺に遷れり。ここに伎倆すぐれたる俳優あり。そ しよさ の所作、その唱歌は萬客の心を奪〈り。歌ひてここに至りたるとき、姫は頭を低れたり。そは我 いにしへ さび なほ ひと
はすでにこしらへ置きぬ。豆も烹えたるべし。ベネデットオもそなたも食卓に就け。マリウチア しんちゅうかぎ 〔てて〕 はともに來ざりしか。奪き爺 ( 法皇 ) を拜まざりしか。豚をば忘れざりしならん。眞鍮の鉤をも 9 もの マドンナ まで もはや 新しき聖母の像をも。舊きをば最早形見えわかぬ迄接吻したり。ベネデットオよ。おん身ほど物 好き人はあらじ。わがかはゆきベネデットオよ。かく語りつづけて、き一《雌に伴ひ入りぬ。 後にはこの一間、わがためには「ワチカアノ」 ( 法皇の宮 ) の廣間の如く思はれぬ。おもふに我詩 や 才を産み出ししは、此ひとっ家ならんか。 おもきお 若ぎ棕櫚は重を負ふこといよいよ大にして、長ずることいよいよ早しといふ。我空想も亦この狹 いにしへ き處にとち込められて、却りて、大に發達せしならん。古の墳墓の常とて、此家には中央なる魔 あまた ひろたな 〔がん〕 間あり。そのめぐりには、許多の小龕並びたり。又二重の幅濶き棚あり。處々色かはりたる石 つぼはち くりや を甃みて紋を成せり。一つの龕をば食堂とし、一つには壺鉢などを藏し、一つをば廚となして豆 を煮たり。 きたう つくゑっ をは 老夫婦は祈薦して卓に就けり。食畢りて媼は我を牽きて梳を登り、二階なる二龕にいたりぬ。是 らみたり ( ねべや〕 れわれ等三人の臥房なり。わが龕は戸口の向ひにて、戸口よりは最も遠きところにあり。臥床の そば その きれ ふたすち 〔くひちが〕 側には、二條の木を交叉はせて、其間に布を張り、これにをさな子一人寐せたり。マリウチアが 〔とかげ〕わ 子なるべし。媼が我に「アユマリア」唱へしむるとき、美しき色澤ある蜥蝪我が側を走り過ぎ に しゅろ ふる かへ に おほい をが おうな 〔ラカン〕 よし・こ いろつや このや ふしど わが
さち 限なき幸なさを覺えき。フランチェスカは我頬を撫でて、我が餘りに心弱きを諫め、かくては世 あるじ かうべ に立たんをり、いと便なかるべしと氣づかひ給ひぬ。この時主人の君は、曾て我頭の上に月桂冠 ともひとま を載せたるフアビアニといふ士官と供に一間に歩み入り給ひぬ。 まれ うはさあゆふペ ポルゲエゼの別墅に婚あり。世に罕なるべき儀式を見よ。この風説は或るタカムパニアなるド メニカがあばら屋にさへ洩れ聞えぬ。フランチェスカの君はかの士官の妻になるべき約を定めて、 ロオマ しゃうゑんうつ 遠からずフィレンチェなるフアビアニ家の莊園に遷らんとす。儀式あるべき處は、羅馬附近の別 かつら そら とっくにびと 墅なり。槲いとすぎ桂など生ひ茂りて、四時綠なる天を戴けり。昔も今も、羅馬人と外國人と、 つね がてう 恆に來り遊ぶ處なり。麗しく飾りたる馬車は、綠しげき槲の並木の道を走り、白き鵝鳥は、柳の をとめ かさ ほとばし 〔しかけのいづみ〕 影うつれる靜けき湖を泳ぎ、機泉は積み累ねたるの上に迸り落つ。道傍には、農家の少女あ さま つづみ ちぶさ りて、鼓を打ちて舞へり。胸 ( 乳房 ) ゆたかなる羅馬の女子は、耀く眼にこの様を見下して、車を かげ 驅れり。我もドメニカに引かれて、恩人のけふの祝に、蔭ながら與らばやと、カムパニアを立出一 も ともしび その で、別墅の苑の外に來ぬ。燈の光は窓々より洩れたり。フランチェスカとフアビアニとは、彼處 さじきあたり はなび . しばふ にて禮を卒へつるなり。家の内より、樂の聲響き來ぬ。苑の芝生に設けたる棧敷の邊より、烟火 ひらめ うしろ かけ 空に閃き、魚の形したる火は靑天を翔りゆく。偶、、とある高窓の背後に、男女の影うつれり。あ めをと ささや れこそ夫婦の君なれと、ドメニカ耳語きぬ。二人の影は相依りて、接吻する如くなりき。ドメ一一 〔かしは〕 を べっしょ 〔びん〕 お わがほはな たまたま 、よほ をな・こ よ かがや あづか みちばた かっ おろ
君は小なる王者たることを得べし。而してその危さは決して世間の王位より甚しからず。酒は酌 あざむ ちょう ーい・、 4 ~ り なりはひ めども盡きざるべし。女は君を欺きし一人の代りに、幾人をも寵し給へ。同じく是れ生活なり、 よれきな まんわん 餘瀝を嘗むると、滿椀を引くと、唯だ君が選み給ふに任すと云ひき。 たよりわ ひと ベルナルドオは死せず。我は人を殺さず。この信は我がために起死の薬に侔しかりき。獨りアヌ うれび ンチャタを失ひつる憂に至りては、終に排するに由なきなり。われは猶豫することなく答へき。 ただら かっ をしへ〔げん〕いだ 〔けん〕 〔とりこ〕 我身は只君等の處置するに任すべし。されどわが嘗て受けし敎と、現に懷ける見とは、俘囚たる たちま〔おごそか ) にあらずして、君等が間に伍すべきゃうなし。これを聞きて、我を伴ひ來し男の顏は、忽ち嚴 たてぎん なる色を見せたり。盾銀六百枚は定まりたる身のしろなり。そを六日間に拂ひ給はば、君は自由 の身なるべく、さらずば君が身は、生きながらか、殺してか、我物とせではおかじ。こは此處の おきて 〔くわんか〕えにし 掟なれば、君が紅顏も我丹心も、寬假の縁とはならぬなるべし。六百枚なくば、我等の義兄弟と かれゐど あひょ , なりて生きんとも、彼處なる枯井の底にて、相擁して永く眠れる人々の義兄弟となりて終らんと ふみ かのうため 書も、二つに一つと思はれよ。身のしろ求むる書をば、友達に寄せ給はんか、又彼歌女に寄せ給は なかだち あか んか。おん身の一撃媒となりて、二人はその心を明しあひつれば、さばかりの報恩をば、喜び 血 まらうど 〔やす〕 てなすなるべし。期く語りつつ、男は又からからと笑ひて云ふ。廉き價なり。この宿の客人に、 〔かんぢゃう〕 までやす ためし 〔はたご〕 還錢のかく迄廉きことは、その例少からん。都よりの馬のしろ、六日の旅籠を思ひ給へ。われ。 205 わがみ かしこ くみ しかう つひ こ はなはだ ひと
まこと 〔すなほ〕 なにゆゑさ より直にて、我に眞を打ち明け、 ( イ ( ス・ダアグアが事をさへ語り出でぬ。何故に覺めたる後 なんち ( ひめごと〕 には我を隔てんとする。我は汝が祕事を人に告ぐるものにあらず。汝が禁を犯したるは、汝が身 ほまれ に取りて譽とすべき事なり。我は久しく汝が上にかかることあらんを望みき。されど彼書をば、 も〔はヤ〕 汝何處にてか獲つる。我も一部を藏したれば、汝若し蚤く我に求めば、我は汝に借ししならん。 ののし 我は ( ツバス・ダアダアがダンテを罵りしを聞きしより、その良き書なるを推し得て、汝に先た ふたまき ちて買ひ來りぬ。われは長く机に倚ることを好まず。神曲の大いなる二巻には、我ほとほと厭み しが、これそ ( イ ( ス・ダアダアが禁ずるところとおもひおもひ、勇を鼓して讀みとほしつ。後 にはかのふみ我にさへ面白くなりて、今は早や三たび閲しつ、その地獄のめでたさよ。汝は ( ッ 。 ( ス・ダアダアの墮つべきを何處とか思へる。火のかたなるべきか、冰のかたなるべきか。 あば 子わが祕事は訐かれたり。されどベルナルドオはこれを人に語るべくもあらず。ベルナルドオとわ まじはり 〔ひときは〕みつ かたへ るれとの交は、この時より一際密になりぬ。旁に人なき時は、われ等の物語は必ず訷曲の事にうつ 友りぬ。わがこれを讀みて感したるところをば、必ずべルナルドオに語り聞かせたり。この間にわ はじめて その 乢が文字を知りてよりの初の詩は成りぬ。その題はダンテと其神曲となりき。 〔はじめ〕 わが買ひ得たる訷曲の首には、ダンテが傳を刻したりき。そはいたく省略したるものなりしかど ' なは 尚わが詩材とするに堪へたれば、われはこれに據りて、此詩人の生涯を歌ひき。べアトリチ = と けみ この おほ をか
〔かくし〕うち には、身に附けたるものなし。されど財布をこそ人にやりつれ、さきに兜兄の裡に入れ置きし なはあ 〔えり〕 「スクヂイ」二つ角在らば、人々に取らせんものをと、かい探ぐるにあらず。馬夫には領なる絹 ら 〔てふき〕と の紛蛻解きて與へ、牧者等と握手して、ひとり徑を下りゆきぬ。 たいたく 大澤、地中海、忙しき旅人 〔たいたく〕 世の人はポンチネの大澤 ( パルウヂ・ポンチネ ) といふ名を聞きて、見わたす限りの曠野に泥まじ な りの死水をたたへたる間を、族客の心細くもたどり行くらんやうにおもひ做すなるべし。そはい イタリア なほまさ たく違へり。その土地の盟腆なることは、北伊太利ロム・ハルヂアに比べて優りたりとも謂ふべ たひら いきはひ〔さかん〕 、茂りあふ草は莖肥えて勢旺なり。廣く平なる街道ありてこれを横斷せり。 ( 耶蘇紀元前三 * きづ 言十二年ア。ヒウス・クラウヂウスの築く所にして、今猶ア。ヒウス街道の名あり。 ) 車にて行かば坐 みちばた〔たかがや〕 おだやか ぽだいじゅなみきうっさう 常めて安なるべく、菩提樹の街は鬱蒼として日を遮ぎり、人に暑さを忘れしむ。路儚は高萱 いだ こうきよくあふ 〔よど〕 と水草と、かはるがはる濃淡の綠を染め出せり。水は井字の溝洫に溢れて、處々の澱みには、丈高 そび 〔あし〕 ひろ〔ひつじぐさ〕 き蘆葦、葉濶き睡蓮 ( ニュムフェア ) を長ず。羅馬の方より行けば左に山岳の空に聳ゆるあり。そ じゃうくわく の半腹なる村落の白壁は、鼠いろなる岩石の間に亂點して、城郭かとあやまたる。左は海に向へ せは こみち ばふ あらの
母上は隣家の女子の前にて、わがいかに罪なき子なるかを繰り返して語り給ひぬ。われはこれを さき 聞きしが、この物語はいたくわが心に協ひたり。わが罪なきことは固よりこれがために前には及 ざうくわ こころ ばずなりぬ。人の意を迎へて自ら喜ぶ性の種は、この時始めて日光を吸ひ込みたりしなり。造化 は我におとなしく軟なる心を授けたりき。さるを母上はつねに我がこころのおとなしきを我に告 げ、わがまことに持てる長處と母上のわが持てりと思ひ給へる長處とを我にさし示して、小兒の けもの 罪なさはかの醜き「、、ハジリスコ」の獸におなじきをおもひ給はざりき。かれもこれもおのが姿を 見るときは死なでかなはぬ者なるを。 かの〔カップチョオ〕 彼尖帽宗の寺の僧にフラア・マルチノといへるあり。こは母上の懺悔を聞く人なりき。かの信に よ いのり 母上はわがおとなしさを告げ給ひき。祈のこころをばわれ知らざりしかど、祈の詞をばわれ善く も そらん 諳じて洩らすことなかりき。は我をかはゆきものにおもひて、あるとき我に一枚の圖をおくり 〔マドンナ〕 界しことあり。圖の中なる聖母のこぼし給ふおほいなる涙の露は地獄の餤の上におちかかれり。亡 境 したた の者は爭ひてかの露の滴りおつるを承けむとせり。曾は又一たびわれを伴ひてその信舍にかへりぬ。 ばれいしよばたけ 〔けた〕 當時わが目にとまりしは、方なる形に作りたる圓柱の廊なりき。廊に圍まれたるは小き馬鈴藷圃 〔リモネ〕 にて、そこにはいとすぎ ( チ。フレッソオ ) の木二株、檸檬の木一株立てりき。開け放ちたる廊には 世を逝りし信どもの像をならべ懸けたり。部屋といふ部屋の戸には獻身者の傳記より撰び出した をな・こ やはらか さが ざんげ ほのは 〔あ〕
ちょうらう 〔また〕ひややか ( らく」 落したる如き重廊の上に立てり。ここは暗くして且冷なり。われは二あし三あし進み入りぬ。 みたり しづかあルみ 〔こだま〕 されど谺響にひびく足音おそろしければ、徐に歩を運びたり。先の方には焚火する人あり。三人 ふ さび あきらか の形明に見ゅ。寂しきカムパニアの野邊を夜史けては過ぎじとて、ここに宿りし農夫にゃあら うちもの ぬすびと ん。さらずばここを戍る兵士にや。はた盜にや。さおもへば打物の石に觸るる音も聞ゆる如し。 〔こすゑ〕ったかづら 〔あとしざり〕 われは卸歩して、高き圓柱の上に、木梢と蔦蘿とのおほひをなしたるところに出でぬ。石がきの わづかかカ きりいしまさおち ところどころぬ ゅぎき 面をばあやしき影往來す。處々に抽け出でたる截石の將に墜んとして僅に懸りたるさま、唯だ蔓 くさ 草にのみ支へられたるかと疑はる。 このこせき 上の方なる中の廊を行く人あり。旅人の此古跡の月を見んとて來ぬるなるべし。その一群のうち 〔ついまっ〕 には白き衣着たる婦人あり。案内者に續松とらせて行きつつ、柱しげき間に、忽ちれ忽ち隱る ここち ありさま る光景今も見ゆらん心地す。 おほ あんべぎ 暗碧なる夜は大地を覆ひ來たり、高低さまざまなる木は天鵝絨の如き色に見ゅ。一葉ごとに夜氣 れ を吐けり。旅人のかへり行くあとを見送りて、ついまつの赤き光さへ見えずなりぬる時、あたり し きづくゑ はとして物音絶えたり。この遺址のうちには、耶蘇敎徒が立てたる木卓あまたあり。その一つ わが の片かげに、柱頭ありて草に埋もれたれば、われはこれに腰掛けつ。石は氷の如く冷なるに、我 むかしがたり かうべ 5 頭の熱さは熱を病むが如くなりき。寐られぬままに思ひ出づるは、この「コリゼ工オ」の昔語な きぬ ささ びろおど き かた たきび たちまあらは びややか ひとむら つる
ひも ぎや , き 〔こわっぱ〕 たり。小童の絹の紐もて飾りて牽き往きしに、經を聽かせ水を灌せられぬれば、今年中はいかな しゃうげ まぬか る惡魔の障碍をも免るるならん。 ほそみち そらしら のりて 〔つれ〕 岩間の細徑に踏み入る頃、東の天は白みわたりぬ。連なる騎者馬さし寄せて、夜は明けんとす、 まらうど ( めやみ〕 おほい くび きれかうべき 客人の目疾せられぬ用心に、涼傘ささせ申さんと、大なる布を頭より被せ、頸のまはりに結びた わきま 〔もろて〕 わが〔みのうへ〕 〔さつを〕え れば、それより方角だに辨へられず。諸手をば縛められたり。我身上は今や獵夫に獲られたる獣 うれひくら にも劣れり。されど憂に心昧みたる上なれば、苦しとも思はでせくぐまり居たり。馬の前足は大 ここら かた こすゑしき 方仰ぐのみなれど、ともすれば又暫し阪道を降る心地す。茂りあひたる梢は頻りに我頬を拊てり。 おにつか 道なき處をや騎り行くらん覺東なし。 久しき後馬より卸して、我を推して進ましむ。かれこれ復た隻語を交〈ず。きを過ぎて梯を わきま きは 〔みちのり〕 はなは 降りぬ。心訷定まらず、送迎忙はしき際の事とて、方角道程よくも辨へねど、山に入ること太だ いづ 深きにはあらずと思はれぬ。わがその何れの地なるを知りしは、年あまた過ぎての事なり。後 とっくにびとたづ のぼ たけ には外國人も尋ね入り、畫工の筆にも上りぬ。ここは古のツスクルムの地なり。栗の林、丈高き ラウレオむらたち うしろ 月桂の村立ある丘陵にて、今フラスカアチと呼ばるる處の背後にそ、この古跡はあなる。「クラ のばら お たふれつ いしだんおほ テエグス」、野薔薇などの枝生ひ茂りて、重圈をなせる榻列の石級を覆へり。山のところどころ ほらあな きゅうりゅう くさむらおは がた には深き洞穴あり、石の穹窿あり。皆草叢に掩はれて、迫り視るにあらでは知れ難かるべし。谷 の 〔ひがさ〕 いにしへ 〔あび〕 こせき おほ
218 道に沿ひて處々に郵亭を設けたり。その造りざま、小きながら三層四層ならぬはなし。こは瘴氣 のきばまで いしずゑ 〔かび〕すきま を恐るればなり。亭は皆白壁なれど、礎より簷端迄、綠いろなる黴隙間なく生ひたり。人も家も、 あたたか あひい あたり 渾べて腐朽の色をあらはして、日暖に草綠なる四邊の景と相容れざるものの如し。わが病める 心はこれを見て、つくづく人生の賴みがたきを感じたり。 ひととき たくち 「アヱマリア」の鐘響くに先だっこと一時ばかりにして、澤地のはづれにでぬ。山脈の黄な いはほゃうや まち たちまわが みかふしゅ る巖は漸く迫り近づきて、南國の風光に富めるアルラチナの市は、忽ち我前に橫屮ぬ。三株の棕 ろのき かたへ るゐるゐ くだものばたけ はんもん 櫚樹高く道の房に立てるが、その實は累々として葉の間に垂れたり。山腹の果圃は黄なる斑紋 あをかも 〔リモネ〕かうじ ある靑氈に似たり。その斑紋は檸檬・柑子などの枝たわむ程みのりたるなり。一農家の前に熟し うろたか よそ 落ちたる檸檬を堆く積みたるを見るに、餘所にて栗など搖りおとして掃き寄するさまと殊なるこ ~ 〔まんねんらふ〕 〔あらせいとう〕 〔の桜〕 となし。岩山のはざまよりは、靑き迷迭香 ( ロスマリヌス ) 、赤き紫羅鶯花など生ひ上りたるが、 いただき なはぎぎ しの その巓にはチウダレイクスが發城の殘壁ありて、巍々として雲を凌けり。 ( 譯者云。東「ゴト イタリア ネス」族の王なり。西暦四百八十九年東羅馬帝の命を奉じて敵を破り、伊太利を領す。 ) 我心は景色に撲たれて夢みるが如くなりぬ。忽ち海の我前に橫はるに逢ひぬ。われは始て海を見 そらつらな たうしよきふ つるなり、始て地中海を見つるなり。水は天に連りて一色の琉璃をなせり。島嶼の碁布したるは、 ひとすちけふり 空に漂ふ雲に似たり。地平線に近きところに、一條の烟立ちのぼれるは、ヱズヰオの山 ( モンテ・ しゃうき