222 一なさけ〕つるくさお て、縱ひ優しき情の蔓草の生ひまつはれて、これを掩ふことあらんも、能く全くこれを填むるこ おも 〔ほ〕あたりうるほ となし。漸くにして、ベルナルドオとアヌンチャタとの上に想ひ及ぶとき、われは頬の邊の沾ふ・ あた を覺えき。涙にゃありし、又窓の下なる石垣に中りし波の碎け散りて面に濺ぎたるにゃあり し。 あくるひ あ 翌日は夜のまだ明けぬに、車に乘りてテルラチナを立ちぬ。領分境に至りて、手形改めあるべし お よはひ とて、人々車を下りぬ。この時始めて同行の人を熟視したるに、齡三十あまりと覺しく、髮の色一 〔あか〕〔ひとみ〕 明く瞳子靑き男我目にとまれり。何處にてか見たりけん、心にお・ほえある顏なり。その詞を聞け とっくにおん ば外國音なり。 も したた ふるさと はなはだ 手形は多く外國文もて認めたるに、境守る兵士は故里の語だによくは知らねば、檢閲は甚しく手 とり、 てふ 間取りたり。瞳子靑き男は帖一つ取卦でて、あたりの景色を寫せり。げに街道に据ゑたる關の、 とが いただ そば にらあな こうぐわれう 上に一一三の尖れる塔を戴きたる、その側なる天然の洞穴、遠景たるべき山腹の村落、皆好晝料と ぞ思はるる。 うしろ のそ むれ わが背後よりさし覗きし時、畫工はわれを顧みて、あの大なる洞の中なる山羊の群のおもしろき をは 〔たばねわら〕 を見給へと指ざし示せり。その詞未だ畢らざるに、洞の前に橫へたる東藁は取り除けられたり。 どうじ 〔しんがり〕 山羊は二頭づつの列をなして洞より出で、山の上に登りゆけり。殿には一人の童子あり。尖りた たと ゃうャ とっくにふみ わが おほ おはい よこた ほら また そそ おぼ
160 * ゑが その目は人を親る如し。あらず。人の心の底を觀る如し。石像の背後には、チチアノの畫ける ヱヌスの油畫二幅を懸けたり。その色彩目を奪ふと、ここに寫し得たるは人間の美しさにして 1 彼石の現せるは天上の美しさなり。ラファェロがフォルナリイナ ( 作者意中の人 ) は心を動すに足 あた らざるにあらず。されどヱヌスの生けるをば、われあまたたび顧みざること能はす。否々、おほ つうそ よそ世に彫像多しと雖、いづれか彼ヱヌスの右にづべき。ラオコオンにてはまことに石の痛楚 のために泣くを見る。しかも独及ばざるところあり。獨り我ヱヌスと美を娩ふるは、君も知り給 へるワチカアノのアポルロみならん。その詩神を模したる力量は、彼ヱヌスに於きてやさしき美・ せぎかう の神を造れるなり。我答へて。君の愛で給ふ像を石膏に寫したるをば、我も見き。姫。否、われは 石膏の型ばかり整はざるものはなしとおもへり。石膏の顏は死顏なり。大理石には命あり靈あり。 きにく 石はやがて肌肉となり、血は其下を行くに似たり。フィレンチェまで共に行き給はずや。さらば われ君が案内すべし。我は姫が志の厚きを謝して、さていひけるは、さらば再生祭の後ならでは、 ともしびとも 〔ジランドラ〕 又相見んこと難かるべしといふ。姫こたへて。さなり。聖ビエトロ寺の燈を點し、烟火戲を上 ら ぐる折は、我等が相逢ふべき時ならん。それまでは君われを忘れ給ふな。我はまたフィレンチェ - の畫廊に往きて君とけふ物語れることを想ふべし。われは常に面白きことに逢ふごとに、我友の ふるさとしの たのしみわか その樂を分たざるを恨めり。これも旅人の故鄕を偲ぶたぐひなるべし。我は姫の手に接吻して、 かの あひ 〔かた あない かた ひとわが うしろ 〔くら〕 お
ぐわと る畫圖を貼り付けたり。當時わがこの圖を観し心は、後になりてラファェロ、アンドレア・デ ル・サルトオが作を觀る心におなじかりき。 たけわらは しびと 僧はそちは心猛き童なり、、・ して死人を見せむといひて、小き戸を開きつ。ここは廊より二三級低 ひ こと・ことされかうべ きところなりき。われは延かれて級を降りて見しに、ここも小き廊にて、四圍悉く髑髏なりき。 あまた〔せうがん〕 髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多の小龕に分れたり。おほいなる龕には かうべ そな 頭のみならで、胴をも手足をも其へたる骨あり。こは高位の信のみまかりたるなり。かかる骨に かちいろせんばう〔き〕 ひとまき 〔にヘ は褐色の尖帽を被せて、腹に繩を結び、手には一卷の經文若くは枯れたる花東を持たせたり。贄 づくゑ〕〔はながた〕 かざり〔かひ歩らぼね〕〔せのっちぼね〕 〔うきぼり〕 卓、花形の燭臺、そのほかの飾をば肩胛、脊椎などにて細工したり。人骨の浮彫あり。これの おもむき こと ! みならず忌まはしくも、又趣なきはここの拵へざまの全體なるべし。信は祈の詞を唱へつつ行 〔いっか〕 くに、われはひたと寄り添ひて從へり。僧は唱へ畢りていふやう。われも早晩ここに眠らむ。そ の時汝はわれを見舞ふべきかといふ。われは一語をも既すこと能はずして、僧と信のめぐりなる をさなご 氣味わるきものとを驚き胎たり。まことに我が如き穉子をかかるところに伴ひ入りしよ、、 ーしとお はなはだ ろかなる業なりき。われはかしこにて見しものに心を動かさるること甚しかりければ、歸りて信 こべや わづか こがねいろ 〔かうじ〕 の小房に入りしとき纔に生き返りたるやうなりき。この小房の窓には黄金色なる柑子のいと美し ほとんひとま マドンナ きありて、殆ど一間の中に垂れむとす。又聖母の晝あり。その姿は天使に擔ひ上げられて日光 そち わざ 〔み 1 た み をは にな だん
65 礦野 〔かたうで〕〔かたあし〕なほ たるなり。隻腕、隻脚は猶その形を存じたり。それさへ心を寒からしむるに、我栖はここより遠 からずとそいふなる。 〔あと〕 此家は古の墳墓の址なり。この類の穴ここらあれば、牧者となるもの大抵これに住みて、身を戍 るにも、又身を安んするにも、事足れりとおもへるなり。用なき窪をば填め、いらぬ罅をば塞ぎ、 上に草を葺けば、家すでに成れり。我牧者の家は丘の上にありて兩層あり。き戸口なる = リン トスがたの柱は、當初墳墓を築きしときの面影なるべし。石垣の間なる、幅廣き三條の柱は、後 とりで の修繕ならん。おもふに中古は砦にやしたりけん。戸口の上に穴あり。これ窓なるべし。屋根の なかば〔よしすだれ〕 半は葦簾に枯枝をまじへて葺き、半は又枝さしかはしたる古木をそのに用ゐたるが、その梢 〔にんどう〕 よりは忍冬 ( カプリフォリウム ) の蔓長く垂れて石垣にかかりたり。 みち ひとこと ここが家そ、と途すがら一言も物いはざりし、ベネデットオ告げぬ。われは怪しげなる家を望み、 ぬすびとかばね またかの盜人の屍をかへり見て、ここに住むことか、と間ひかへしつ。翁にドメ = 力、ドメ = カ 〔あらにヘ〕〔はだぎ〕 おうない と呼ばれて、荒﨔の汗衫ひとっ着たる媼出でぬ。手足をばことごとく露して髮をばふり亂した ことま 。媼は我を抱き寄せて、あまたたび接吻す。夫の訶少きとはうらうへにて、この媼はめづらし 〔 5 ・せつ〕 あざ奴お すなはら き饒舌なり。そなたは薊生ふる沙原より、われ等に授けられたるイス = ル・ ( 亞伯罕の子 ) なる 〔、てなし〕 そ。されどわが饗應には足らぬことあらせじ。天上なる聖母に代りて、われ汝を育つべし。臥床 このや いにしへ きづ 〔たぐひ〕 つる おもかげ
恥ち給へり。されど母上はしばしば我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのた も よそ をさ まひき。餘所の人の此世にありて求むるものをば、かの人の底に藏めて持ちたり。若し臨終に、 寺に納めだにせずば、そを讓り受くべき人、わが外にはあらぬを、母上は恃みたまひき。をちも したし そのそば 我に親むやうなるところありしが、我は其側にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てな おそれいだ ほんしゃう かりき。或る時、我はをちの振舞を見て、心に怖を懷きはじめき。こは、をちの本性をも見るに ゅ わが いしだん 〔めくら〕かたゐ 足りぬべき事なりき。例の石級の下に老いたる盲の乞兄ありて、往きかふ人の「・ハョッコ」 ( 我二 こづっ 錢許に當る銅貨 ) 一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鐵の小筒をさらさらと鳴らし居たり。我がをち ばうしふ は、面にやさしげなる色を見せて、帽を揮り動しなどすれど、人々その前をばいたづらに過ぎゅ しやく きて、かの盲人の何の會釋もせざるに、錢を與へき。三人かく過ぐるまでは、をち傍より見居た りしが、四人めの客かの盲人に小貨幤二つ三つ與へしとき、をちは毒蛇の身をひねりて行く如く、・ っゑ 石級を下りて、盲の乞兄の面を打ちしに、盲の乞兄は錢をも杖をも取りおとしつ。ペッ。ホの叫び ぬす〔やっ〕 〔かたは〕 けるやう。うぬは盜人なり。我錢を竊む奴なり。立派に發人といはるべき身にもあらで、ただ目・ てらがほ の見えぬを手柄顏に、わがロに入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。われはこ こまでは聞きつれど、ここまでは見てありつれど、この時買ひに出でたる、一「フォリエッタ」 しやく ( 一勺 ) の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。 あ ぬすびと このよ ふるまひ わが みたり たの かたへ
ちょうらう 〔また〕ひややか ( らく」 落したる如き重廊の上に立てり。ここは暗くして且冷なり。われは二あし三あし進み入りぬ。 みたり しづかあルみ 〔こだま〕 されど谺響にひびく足音おそろしければ、徐に歩を運びたり。先の方には焚火する人あり。三人 ふ さび あきらか の形明に見ゅ。寂しきカムパニアの野邊を夜史けては過ぎじとて、ここに宿りし農夫にゃあら うちもの ぬすびと ん。さらずばここを戍る兵士にや。はた盜にや。さおもへば打物の石に觸るる音も聞ゆる如し。 〔こすゑ〕ったかづら 〔あとしざり〕 われは卸歩して、高き圓柱の上に、木梢と蔦蘿とのおほひをなしたるところに出でぬ。石がきの わづかかカ きりいしまさおち ところどころぬ ゅぎき 面をばあやしき影往來す。處々に抽け出でたる截石の將に墜んとして僅に懸りたるさま、唯だ蔓 くさ 草にのみ支へられたるかと疑はる。 このこせき 上の方なる中の廊を行く人あり。旅人の此古跡の月を見んとて來ぬるなるべし。その一群のうち 〔ついまっ〕 には白き衣着たる婦人あり。案内者に續松とらせて行きつつ、柱しげき間に、忽ちれ忽ち隱る ここち ありさま る光景今も見ゆらん心地す。 おほ あんべぎ 暗碧なる夜は大地を覆ひ來たり、高低さまざまなる木は天鵝絨の如き色に見ゅ。一葉ごとに夜氣 れ を吐けり。旅人のかへり行くあとを見送りて、ついまつの赤き光さへ見えずなりぬる時、あたり し きづくゑ はとして物音絶えたり。この遺址のうちには、耶蘇敎徒が立てたる木卓あまたあり。その一つ わが の片かげに、柱頭ありて草に埋もれたれば、われはこれに腰掛けつ。石は氷の如く冷なるに、我 むかしがたり かうべ 5 頭の熱さは熱を病むが如くなりき。寐られぬままに思ひ出づるは、この「コリゼ工オ」の昔語な きぬ ささ びろおど き かた たきび たちまあらは びややか ひとむら つる
, しろ より市門まではいと近ければといふ。われは馭者に命じて、柱廊の背後を廻らしめ、幾ほどもな とど きゃうりゅう く市外に出でたり。丘の半腹なる酒店の前に車を停めて見るに、穹窿の火の美しさ、前に見つる おもむき ただよ とはまた趣を殊にして、正面の簷こそは懸れたれ、星を聯ねたる火輪の光の海に漂へるかとおも あたり はる。この景色は四邊のいと暗くして、大空なるまことの星の白かねの色をなして、高く隔たり ロオマそせいさい たる處に散布せるによりて、いよいよその美觀を添へ、人をして自然の大なるすら羅馬の蘇生祭 には歩を讓りたるを感ぜしむ。鐘の響、樂の聲はここまでも聞えたり。 ちと〔せうじ〕 せば せうがん われは車を下りて、些の稍事を買はばやと酒店の中に入りぬ。店の前には狹き廊ありて、小龕に き ともしびか マンナ〔いっ〕 かの たちま 聖母を崇きまつり、ささやかなる燈を懸けたり。わが店を出でんとて彼龕の前に來ぬるとき、忽 わが ふさ ちベルナルドオが吾前に立ち塞がりたるを見き。その面の色は、むかし「ジェスヰタ」派の學校 けいくわん いただ ものぐる 一のこころみの日に、桂冠を受け戴きしをりに殊ならず。眼は熱を病める如くかがやけり。物狂ほ 涯しく力を籠めて我臂を握り、あやしく抑〈劜めたる聲して、アント = オ、われは卑しき兇行者た さ おくびやう なんちいつはり 籾らんを嫌へり、然らずば直ちに此劍もて汝が僞多き胸を刺すならん、汝は臆病ものなればま と いさぎよ 籠むも知れねど、われは強ひて潔き決闘を汝に求む、共に來れといふ。われは把られたる臂を引き らだ 放さんとすまひつつ、ベルナルドオ、物にや狂へると問ふに、友は焦燥っ聲を抑へて、叫ばんと まで ならば叫べ、男らしく立ち向ふ心なくば、人をも呼べ、この兩腕の縛らるる迄には、汝が息の根 お し この のき ぎよしゃ おほい おさ
りしはそれにはあらず。君が目、君が黑髮なりき。人となり給へる今も、その俤は明に殘れり 始て君がデド・に扮し給〈るを見しとき、われは直ちにこの事をベルナルドオに語りぬ。さるを わがまよひ ベルナルドオはそを我迷そといひ消して、却りておのれが早く君を見きと覺ゆる由を語りぬ。姫、 ふる そは又いかにしてと問ひしが、その聲うち顫ふ如くなりき。われ。ベルナルドオが君を見きとい きゃうがし ふよ、いたく變りたる境界なり。惡しくな聞き給ひそ。ベルナルドオも後に誤れることを覺りぬ。 君が髮の色濃きなど、人にしか思はるる蝌となりしなるべし。君は、君はわが加特カ敎の民にあ はす らず、されば「アラチ = リ」の寺にて説敎のまねし給ふ筈なしとの事なりき。姫は媼の方を指ざ をしへ ただち して、さては我友とおなじ敎の民そといひしなるべしといふ。われは直にその手を取りて、わが ととば ほはゑ ユダヤをとめ 詞のなめしきを咎め給ふなと謝したり。姫微笑みて、君が友の我を太少女とおもひきとて、わ れ爭でか心に掛くべき、君は可笑しき人かなといひぬ。この話は我等のを一と深くしたるや ことごと うなりき。わが日頃の憂さは悉く散じたり。さてわが再び見じとの決心は、生怦にまた悉く消え き失せたり。 キリスト を 姫はふと基督再生祭前のこの頃閉館中なる羅馬の畫廊の事を思ひ廿でて、かかる時好き傳を得て ゅ〔み〕 ねがひ 往き看ば、いと面白かるべしといふに、姫の願としい〈ば何事をも協〈んとおもふわれ、に し たやす ルゲ = ゼの館の管守、門番など皆識りたれば、そは容易き事なりとて、あくる朝姫と媼とを伴ひ たち かへ 0
こころ されどわれは人の意を迎へて自ら喜ぶ性のここにもまぎれ人らむことを恐る。この性は早くもわ きゃう をさな が穉き時に、畠の中なる雜草の如く萌え出でて、やうやく聖經に見えたる芥子の如く高く空に向 かたみ ひて長じ、つひには一株の大木となりて、そが枝の間にわが七情は集食ひたり。わが最初の記念 もはや の一つは既にその芽生を見せたり。おもふにわれは最早六つになりし時の事ならむ。われはおの とびら しんちゅう 〔カップチノオ〕 * れより穉き子供二三人と向ひなる尖帽僧の寺の前にて遊びき。寺の扉には小き眞鍮の十字架を打 わづか ち付けたりき。その處はおほよそ扉の中程にてわれは僅に手をさし伸べてこれに逹することを得 き。母上は我を伴ひてかの扉の前を過ぐるごとに、必ずわれを掻き抱きてかの十字架に接吻せし ま【よ 。いかなれば耶蘇の穉 め給ひき。あるときわれ又子供と遊びたりしに、甚だ穉き一人がいふやう ら むれ 子は一たびもこの群に來て、われ等と共に遊ばざるといひき。われさかしく答ふるやう。むべな り、耶蘇の穉子は十字架にかかりたればといひき。さてわれ等は十字架の下にゆきぬ。かしこに は何物も見えざりしかど、われ等は猶母に敎へられし如く耶蘇に接吻せむとおもひき。さるを我 等がロはかしこに屆くべきならねば、我等はかはるがはる抱き上げて接吻せしめき。一人の子の くちびるとが さし上げられて僅に脣を尖らせたるを、抱いたる子力足らねば落しつ。この時母上通りかかり給 と そなた 〔のたま〕 へり。この遊のさまを見て立ち住まり、指組みあはせて宣ふやう。汝等はまことの天使なり。さ て汝はといひさして、母上はわれに接吻し給ひ、汝はわが天使なりといひ給ひき。 あそび はたけ 〔めばえ〕 なほ 〔さが〕 〔かいし〕
したる屋根 ) にて鎖されたり。庭ごとに石にて甃みたる井ありしが、家々の壁と井との間をば、 っぞ わづか 人ひとり僅に通らるるほどなれば、我は上より覗きて、二つの井の内を見るのみなりき。綠なる ほうらいしだ ( アヂアンツム ) 生ひ茂りて、深きところは唯た黒くのみぞ見えたる。俯してこれを 見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覺えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。かかる ガラスきょ っゑさき とき、母上は杖の尖にて窓硝子を淨め、なんち井に墜ちて溺れだにせずば、この窓に當りたる木 なんち 〔このみ〕 々の枝には、汝が食ふべき果おほく熟すべしとのたまひき。 すゐだう 隧道、ちご 我家に宿りたる畫工は、廓外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。畫を作る間は、われかれ をは をさな を妨ぐることなかりき。さて作り畢りたるとき、われ穉き物語して慰むるに、かれも今はわが國 ことば〔げ〕 ごの詞を解して、面白がりたり。われは既に一たび書一工に隨ひて、「クリア・ホスチリア」にゆき、 とりこしし いうぎ ゑしき 逾昔游戲の日まで猛獸を押し込めおきて、つねに無辜の俘囚を獅子、「イエナー獸なんどの餌とした ら ほら うち りと聞く、かの暗き洞の深き處まで入りしことあり。洞の裡なる暗き道に、我等を導きてくぐり あきらか 入り、燃ゆる松火を、絶えず石壁に振り當てたる僧、深き池の水の、鏡の如く明にて、目の前に わが さ お 〔たた〕 ゐど た