の第の、 , をプ 当広島駅 日旧 OS 印 MA わたし広島 って初めて 朝から蒸し 暑いのね えー 東子ちゃん 修学旅行でも 来てないの ? 人知 . 64
あとがき 「広島の話を描いてみない」と言われたのは、一昨年の夏、編集さんに連載の原稿を渡して、帰省 したとかしないとか他愛のない話をしていた時のことでした。やっ た、思う存分広島弁が使える ! と一瞬喜んだけれど、編集さんの「広島」が「ヒロシマ」という意味であることに気が付いて、すぐ しまったと思いました。というのもわたしは学生時代、なんどか平和資料館や原爆の記録映像で倒れ かけては周りに迷惑をかけておりまして、「原爆」にかんするものは避け続けてきたのです。 でもやつばり描いてみようと決めたのは、そういう問題と全く無縁でいたし 、や無縁でいようとし ていた自分を、不自然で無責任だと心のどこかでずっと感していたからなのでしよう。わたしは広島 市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません。被爆体験を語ってくれる親戚も ありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。 怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思って きた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないの だという事にも、たんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく と直すべきで 知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一 ( 数少ない、 すね「劣化ウラン弾、を含めて ) の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人 しオし力と思いました。遠慮している場合ではない、 として感じていた不自然さより、もっと強いのでまよ、 ) 原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝え 1 02
おもな参考資料 「タ凪の街と人と」「屍の街」大田洋子 = = 書房 ( 大田洋子集 ) 「原爆に生きて」山代巴ほか編日本図書センター ( 日本の原爆記録・ = l) 「原爆の絵ーヒロシマの記憶」広島放送局編出版 「ヒロシマ・ノート」大江健三郎岩波新書 「黒い雨」井伏鱒一一新潮文庫※これは映画も良かったです。 「黒い雨にうたれて」「はだしのゲン」中沢啓治ほるぶ出版 ( 中沢啓治平和マンガ作品集 ) 「ヒロシマの記録・被爆五〇年写真集」中国新聞社 「写真記録ヒロシマ一一五年」佐々木雄一郎朝日新聞社 「岩波写真文庫七ニ廣島・戦争と都市」岩波書店 「絵で読む広島の原爆」那須正幹・西村繁男福音館 「惨禍の傷跡」「継続する悲劇」日本図書センター ( ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成一一・ lll) 「被爆五十周年図説戦後広島市史街と暮らしの五十年」広島市 「橋の上の男」ギュンター・アンデルス朝日新聞社 「原爆と差別」中条一雄朝日新聞社 「中国新聞」 ( 昭和三〇年八月発行分 ) 中国新聞社 「昭和・一一万日の全記録第十巻」講談社 「決定版・昭和史第十四巻」毎日新聞社
刀牛兇 角 = = ロ 原水爆禁止世界大会昭和三〇年に、日本であった大きな事柄のうちの一つです。八月六日に第一回大会が広島で開かれました。 o-o お富さん唄・春日八郎。昭和一一九年の陽気な流行歌。ちなみに皆実が裸足で通勤しているのは、以前読んだ父の蔵書の中の、春日八郎の自伝にあった貧乏時代の奥さんの挿 話からいただきました。 タ凪の街「タ凪の街」の舞台は、昭和三〇年 ( 一九五五年 ) の広島市です。皆実らの暮らすのは、原爆ドームの北側にあった「相生通り」 ( 現在の相生通りとは別物 ) という集落です。「原爆スラム」とも呼ばれ、原爆やその後の復興計画で、家や土地を失った人々が多く住んでおりました。その後、この集落は昭和五一一年に消減し、現在は a-R のような緑地になっています。 いずれも広島カープの選手。三〇年、金山次郎選手は九月に通算四百盗塁、長谷川良平投手は八月に通算百勝を、それぞれ達成する事となります。皆実や打越 金山、長谷川 が特別野球ファンというわけではなくて、広島人は今も昔も、誰でもこのくらいカープを身近に感じ、愛しています。しかし当時はテレビやラジオでの野球中継は今ほどなくて、 大抵は翌日の新聞で試合結果を知ったようで、それでもファンは熱狂したのだから、当時の人の想像力は素晴らしいものですね。 a-2 マリリン・モンロー昭和ニ九年、夫婦で広島に来てくれました。野球選手の夫のディマジオは、カープに指導もしてくれました。 歌謡ゲーム正確には「明色歌謡ゲーム」。金曜夜の人気民放ラジオ番組でした。 力道山三〇年八月一九日、県営総合グランドでプロレスの試合がありました。この日は東富士、遠藤幸吉、オルテガ、カーチス、オートンらも参加しています。 2 ・幻平和大橋・西平和大橋日系米人、イサムノグチの設計で昭和ニ六年、平和公園の南端に架けられました。後で知りましたが、平和大橋に「生きる ( 旧名つくる ) 」西平 和大橋に「死ぬ ( 旧名ゆく ) 」という題がついているそうです。姿がハイカラすぎて、当時はあまり評判が良くなかったみたいです。 a- 新大橋というわけで西平和大橋の前身。本当はもっと大きな橋です。 原爆ドームこのまんがを描くにあたって気付いたのは、被爆直後からの写真を追うにつれ、原爆ドームが崩れ、小さくなっていた事でした。あの日の惨状を思い出すので壊 して欲しい、という声も多かったのですが、結局、核兵器の惨禍を後世に伝えるという使命を帯びて保存される事が、昭和四一年に決まりました。皆実の時代には、まだただの 廃墟でしかなかったのだけれど、保存を決めた多くの被爆者の葛藤の末の勇気の象徴として、この建物は描きました。 æ8 月がとっても青いから唄・菅原都々子。昭和三〇年五月の流行歌。歌詞は打越の歌っているのが一番、皆実の歌う部分から三番です o-3 放射能被害について原爆症は、被爆後数年経って発症する事が珍しくありません。こんな結末を迎えねばならなかったのは、皆実が十年前に原爆を受けたからにほかなりま せん。説明不足でしたので補足させて頂きます。ちなみに水戸から広島に来る場合、特急列車で伯母さんと弟君が到着するのは朝で、タ凪が終わるのは夜なんですが、皆実は目 も見えないし夜と思ったのでしょ - っ : 水の塔「桜の国 ( 一 ) 」は、昭和六ニ年 ( 一九八七年 ) の東京都中野区が舞台です。背景にあるのは「水の塔」と呼ばれる給水タンクで、昭和初期に建てられたそうです。 そしてこの陸橋は「片山橋」。桜並木の中野通りに架けられています。 o-8 プロ野球「桜の国 ( 一 l) 」は、平成一六年 ( ニ〇〇四年 ) の夏のお話です。一リーグ制への移行の話が突然出て、けっこうもめているところです。ちなみに広島カープは、こ こ数年、あまり成績はよくありません : お墓広島でちょっと注意して見ると、「昭和一一十年八月六日」の文字の並んだお墓はいくつもあります。そして、その数か月以内の日付で並べて彫られている名前も多くて、 心が痛みます。 1 00
一のつご あっ 東子ちゃん ここたよね ど - つも ありがとうン、 : ごめん 七波ちゃん も - っちょっと つき合ってもいい ? 次はあらい やくしまえー : そりや 構わないけど 東亨駅 , 。。 ; 3 Tök ソ 0 station dR 山手のりかえロ 広島駅 の () は " 広、駅 帰ろ おカネもないし
広島のある日本のあるこの世界を 愛するすべての人へ
レんア , , 新井師前駅 / / / 遅ーあ 刻時 し間 まほ すど 1 すみません ですか ? ポケてるって すぐ思われる からだよ ・ : 年寄りって のは不便だな は あ わたしと凪生に 気を遣ってるつもりなの ばか一一 = ロえ わかっ たよ″【 言やああれや これや買い物 頼まれて覚えて らんねえし ポケてる からじゃ ないそ″ 父さんこそなんで 黙って広島に 行ったりすんの ? 5 ラい 0 / な 96
ⅢⅣ盟 - っちもこっちに住ん どった叔母が原爆で 亡くなっとってのう ばあちゃんも広島の子に 何かしてあげとうて 草履編んだんじゃ うん : そうじゃないか 思うた ほ一つね・ なんか体の 力が抜けて しも - った 平野さん そして それきり 力は抜けっ ばなし だった 一〕ロ京
でもここに 来られてよかった 今度は 両親と来るわ 来れば父も母も きっと広島を 好きになると 田つから おばあちゃんが ねたよね。八十で死んだ時は 原爆のせいなんて言う 人はもういなかったよ : 母さんが 三十八で死んだのが 原爆のせいかどうかニ 誰も教えてはくれ なかったよ わたしが なのに 凪生もわたしも いっ原爆のせいで 死んでもおかしく ない人間とか 決めつけられたり してんだろうか
6 うちの母さんに ちょっと似てる よねあの子 利根東子と 一緒だったのよ ああ : ・前の 家のお隣の そ一つか ? 凪生と東子ちゃん 結婚するかもよ ねえ 父さん 7 き一一 = 一一三当 = = 三 I)LI こ望 七波 凪生よかお前が 心配だよ ニ十八にも なって 週末に予定 もない : 」くのは こっちょ そっちに似た からでしょ″ 父さんが広島で 何をしてたか わかるか ? 4 、い