イギリス人 - みる会図書館


検索対象: 悪人が歴史をつくる
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1. 悪人が歴史をつくる

イギリスはあんまり居心地のいいところではなかったろう。対フランス戦に熱中したのは、うさ 昔らしだったのかもしれない。 ウィリアムとメアリには子がなく、ウィリアムの死 ( 一七〇二年 ) とともにステュアート“オレ ンジ家がたえたため、メアリの妹、つまりジ = ームズ二世の次女アンが跡目を相続した。 このように三人の女王を一暼してから、いよいよアン登場の段どりになる。アン女王時代にか んする最良の文献は、なんといってもトレヴ = リアンの『アン女王治下のイングランド』である。 三巻千五百ページの大著ということは、この時代がイギリス史上で特別に重要視されるからでは なかろうか。 四人目の女王の誕生 かってメアリ一世がイギリス宗教改革の動揺期に、エリザ・ヘス一世が複雑な国際情勢のうちに、 そして姉メアリがイギリス市民革命の混乱期に身をおいたように、アンもイギリス史の転換期に 後半生をすごした。しかしこの転換期は、イギリスが海のものとも山のものともわからぬ不安な そう 2 しよう 未来へはいってゆこうとする、そういう意味での転換期ではない。ステ = アート朝時代の騒擾に 王終止符をうって安定にむかおうとする、上向きの転換期だったのである。 ンそういう時期に女王をいただいたのは、イギリス国民にとって仕合わせだった。政情が安定し ア ようとする矢さき、チャールズ一世やジ = ームズ二世のような王がでて勝手なまねをした日には、

2. 悪人が歴史をつくる

ビューリタンの禁欲が古い陽気なイギリスに降りしいた」と歴史家はしばしば形容する。 クロムウエル伝をかいたブラウヴェルトは、クロムウエルを「独裁者の悲劇」といっているが あんたん 晩年は暗澹たるものだった。長老派その他の反抗、王党の陰謀、ビューリタニズムにたいする国 民の面従腹背は、たえす彼をいらだたせ、身心をすりへらした。一六五八年の夏、最愛の娘エリ ザベスがガンで死ぬと精神的痛手をうけ、たまたまインフルエンザにおかされ、九月三日に他界 した ( 五十九歳 ) 。カーライルがいったように、死にいたるまで闘争と労苦との一生であった。ク ロムウエルこそビューリタニズムの化身というべきであろう。 。ヒューリタニズムについて個人的見解をのべることはひかえたい。しいて問われるなら、性に ごうまっ 合わない、とたけ答えておこう。まじめさについては毫末の疑いもない。だがこのまじめさは、 ぼくねんじん もののあわれを解しない朴念仁に通じる。ビューリタンというとき、世人はいくらか揶揄的な意 こうふん 味をこめていたのである。厳格な道徳家にはちがいないけれど、偽善的ロ吻が感じられる。彼が 議会でくり返しのべた、イギリス人は神の選民だという信念にしても、いささか手前勝手だ。神 工 ウ の選民である以上、イギリス人はおくれた民族をみちびく使命をおびているという確信にいたっ ム クては思いあがりもはなはだしい。しかしあらゆる批評をこえて、クロムウエルはイギリス史上ま れにみる強烈な個性だった、といえよう。彼が大逆人だったか、イギリス史を進展させたかどう ヴ かは、読者のご判断にまとう。 159

3. 悪人が歴史をつくる

〇三年 ) 。そのあとをついだのが、スコットランドからきたステ = アート家である。スコットラン ドとイギリスはもともとシックリゆかなかったところへ、ジェームズ一世 ( 在位一六〇三ー二五年 ) 、 チャールズ一世 ( 在位一六二五ー四九年 ) の父子は、イギリス人には虫が好かない王である。イギ ようかし うと リスの国民性や政情に疎い。王権は神に由来するゆえに絶対神聖であって人民は容喙すべからず、 とうそぶく。貴族や特権商人の利益をはかる一方、ジェントリや中産階級がすでに中心勢力をな していた議会など眼中におかない。こうしたステ = アート家の絶対主義が議会と衝突しないはず がない。事ごとに王と対立し、ついにエリザベスの繁栄期が終わって半世紀とたたないうちに、 イギリスは内乱と革命の渦中に投ぜられた ( 一六四二年 ) 。この内乱は、政治上では王党と議会党 との対立、経済上では王の庇護をうけた商業資本家と新興の産業資本家との争いが主因である。 もうひとっ宗教上で、アングリカニズムにたいするピューリタニズムの対立がある。 ビューリタンはカルヴァンの流れをくな新教徒だが、ヘンリ八世の宗教改革いらい、新旧教を こきまぜたえたいのしれぬイギリス国教主義は、教会の清純をもとめる彼らには我慢できなかっ こ。トレヴェリアンのように、 この内乱を政治上・宗教上の理念のたたかい ( 『イギリス社会史』 ) とみる向きもある。、 しったい、天性の商人民族、実利一点ばりとみえるイギリス人が、宗教上の 理念のためにたたかうというようなことが、ありうるのだろうか。とくにカルヴァンの教えに血 が、教祖カルヴァンの合理的禁欲主義をおもいだすと、腑に落ちる。この点 道をあげるとは , は、。ヒューリタニズムとクロムウエルの性情をとらえるためにもたいせつだから、手短にのべて 巧 0

4. 悪人が歴史をつくる

孤独でひょわな少年 よくいえば慎重、わるくいえば臆病な日和見、平和と恐怖のあいだを往きっ戻りつしたひとり の男のはなしをしよう。 スペイン無敵艦隊の来襲のうわさに、イギリス人が生きたそらもなかった一五八八年四月のこ と。西イングランドのマームズベリ近在のウ = ストボートで、ある田舎牧師の妻がショックのあ まり、五日の明け方に男子を早産した。うまれた子は、父と同じくトマス・ホッブズと名づけら れた。晩年にこの十七世紀イギリスの大政治思想家は、ラテン韻文の自叙伝において「母は恐怖 と私の双生児をうんだ」といし 、自分が祖国の敵をにくみ、平和と学芸と安楽な交際を愛したの はそのためだ、と述懐している。じじつ、九十一年の長い生涯は、平和をもとめての漂泊であり 苦闘だった。無敵艦隊の撃滅で外からの脅威は去ったものの、イギリスの内部は荒れに荒れた。 トマス・ホッブズ ひょりみ

5. 悪人が歴史をつくる

英国史上の女王たち イギリスは現在までに六人の女王を君主にいただいた。列記すると、テ、ーダー家のメアリ一 世 ( 在位一五五三ー五八年 ) と = リザベス一世 ( 在位一五五八ー一六〇三年 ) 、ステ、アート家のメア リ二世 ( 在位一六八九ー九四年 ) とアン ( 在位一七〇二ー一四年 ) 、 ( ノーヴァー家のヴィクトリア ( 在位一八三七ー一九〇一年 ) 、それにウインザー家の現女王エリザベス二世 ( 在位一九五二年ー ) で ある。 縁起をかつぐわけでもあるまいが、イギリスでは、女王を立てると国運が隆盛にむかったり、 王時代を画する出来事がおこってイギリス史が新たな展開をとげる。前者のいちじるしい例が = リ ンザベス一世やヴィクトリア、後者の例がメアリ二世やアンである。 アン女王は、人間的魅力にかけては = リザベスの比でなく、政治的才幹にかけてはヴィクトリ アン女王

6. 悪人が歴史をつくる

か。もっとも、毒にも薬にもならぬからこそ、いまもって通用しているのだろうが。 ーコン随筆集』はイギリス文学史家ご自慢の作品であって、手もとにあるモーリ編のものに も「べ ーコンの随筆集は、われわれに稀有な知力の人による生活の助言をうち明けてくれる」と、 まるで鬼の首でもとったような喜びようだ。 最初の十篇は一五九七年にでたから、モンテーニュの『エセー』 ( 一五八〇年 ) をまねたのは明 らかだが、率直にいって、いまひとっという感じがする。とはいえ、ゆたかな人生経験も要約す れば簡単になる、ちょうどさまざまな絵具をぬってゆくと黒灰色ひと色になるように。見かけが 単純だからといって、著者まで単純素朴ときめつけることができるだろうか。とつおいっかんが えていると、疑問がつぎつぎに浮かび、べーコンという人物がにわかになそめいてくる。『随筆 コンという人よ、、 ーコンだけれど、べー ドをしつかな本心を見せよう 集』の著者はまぎれもなくべ A 」よしよ、。 きよほうへん なそめくといったが、べ ーコンくらい毀誉褒貶あい半ばする人物はまれだろう。学問研究では いまさらいうまでもない。文 断然、当代の第一人者である。イギリス経験論の祖であることは、 人としても一流であって、「べーコンⅡシェイクスビア」説をとなえる学者が跡をたたない。彼 のすぐれた知性は、イギリス人のみならず、多くの批評家が声をそろえていっている。 ひるがえって、こうしたべ ーコン神話のヴェールをはぎとるのは、とてつもない浪費癖、過大 な政治的野心、目にあまる猟官運動、忘恩の振舞いといった、道徳的欠陥だ。彼の天才をもって

7. 悪人が歴史をつくる

アン女王 とよばれて評判がよくない。根っからのカトリック信者である彼女が、即位してからプロテスタ ントを大勢殺したからである。が、この評判、メアリひとりを悪者扱いにした嫌いがある。イギ リスにおいても、十六、七世紀の人びとは宗教的狂気のとりこになっていた。のちに新教国とな ったイギリスが、カトリック的メアリを非難したのも宗教的偏見に根ざす。おまけに、十歳も年 下のスペイン皇太子 ( のち、フ = リ。〈二世 ) と結婚してイギリス国民の信頼をうしなった。さらに スペイン・フランス戦争の巻きそえをくい、イギリス最後のフランス領地までうばわれた。勃興 の途についていたイギリスの国民感情を逆なでした。彼女が悪しざまにいわれるのは、こうした 政治的事情が伏在している。 このメアリのあとをついだのが異母妹エリザベスだ。エリザベスについては天下周知だから、 省かせてもらう。何はともあれ、女王が国内 の宗教紛争にケリをつけ、スペイン無敵艦隊 の撃減 ( 一五八八年 ) によって一挙にイギリス けんらん 王の国際的地位をたかめ、絢爛たるエリザベス ン 朝文化をうみーー要するに近代イギリスの繁 ア 栄をきずいた、とだけいっておこう。二十五 ー当歳で即位して七十歳で永眠するまで、一日と して政務をおろそかにしなかった。おどろく

8. 悪人が歴史をつくる

ウォルポール かけ引きや事務処理、べっして財政に長けていたからで、『十八世紀のイギリス』をかいたプラ ムは、ウォルポールは全人格を事務に没入させる能力をもっていたから細部に通暁した、とりわ け財政の細部についてはグラッドストンまでのいかなる首相よりも明るかった、とのべている。 当時、イギリスには責任内閣制度が確立しようとし、トーリーとホイッグの政争がはげしく、 他方、経済界では貿易産業が飛躍的発展をとげつつあった。それゆえ事務処理と計数に明るいこ とは、政治家に不可欠の条件だった。いざ人をもとめるとなると、容易にえられない。それだけ うぞうむぞう でも、ウォルポールは有象無象のホイッグ党員から一頭地をぬく素質をそなえていたのだ。 はたせるかな、みるみる頭角をあらわし、一七〇八年には陸軍長官に任じられ、海軍財務長官 をかねた ( スペイン継承戦争のまっさい中だ ) 。ところがアン女王はトーリ ーびいきでホイッグの優 勢を好まない。 一七一〇年にホイッグ党のサンダランドやゴドルフィンを内閣から追い、ウォル 党によって下 ポールも辞任する。それのみか、一七一二年には公金私消の非難をうけて 院を放逐され、ロンドン塔にいれられた ( すぐ釈放されたが ) 。 内閣制度の確立 とかくするうち、一七一四年に女王アンが逝去し、王位継承法のさだめにしたがってドイツの ハノーヴァー家がきて、ジョージ一世と称した。すでに五十の坂をこえ、イギリス風にきりかえ るには日常坐臥にあまりにもドイツ風がしみこんでいる。イギリスの政情にうといことはもちろ

9. 悪人が歴史をつくる

ん、どだい英語を解さない。ために王は、ドイツ語をしらぬ大臣たちとラテン語 ( ほんとうはフ ランス語 ) で会話をした、という笑いばなしがったえられている。しぜん、政治の実権が内閣に 移る。アンの凡庸が幸いしたように、いやそれ以上に、ドイツ的君主の君臨が幸いしたのだ。 ジョージの擁立にはホイッグ党があずかって力があったため、王のもとでホイッグ党が内閣を 組織することになったのは自然の数だろう。彼らはポリングプルックやオックスフォード伯 ( リといっこ、ト ーの大物を追放して勢力をそぎ、さかんに選挙人の買収を行ない、下院にお けるホイッグの地位をかためる。こうして成立したホイッグ党内閣は、タウンゼンドを首班とし ウォルポールはこの内閣において陸海軍支払長官、大蔵大臣、国庫長官を歴任する。タウンゼ けいばっ ンドが二度目の結婚でウォルポールの姉妹をめとったから、閨閥で要職についたとみる向きもあ る。しかしそれだけではあるまい。議会操縦と財政事務で群をぬいていたからこそだろう。勃興 しつつあった産業資本家や地主階級が声援したのは、ウォルポールの財政的手腕を見こんだから でなければならぬ。 タウンセンド内よ、ど : 、 ナカカならずしも安泰ではなかった。ジ = ームズ二世の子で、名誉革命 せんしよう のときフランスにのがれ、父王の死後イギリス王を僭称したジェームズ・ステュアートが、あろ うことか王位を要求して、イギリスの同志 ( なかにはトーリ ー党員もいた ) と気脈を通じて策動し た。ジ = ームズは一七一五年イギリスにわた 0 て兵をあげたものの、敗れてフランスににげかえ こ 0 すう

10. 悪人が歴史をつくる

ハンセン病やベストにはおそけをふるう。風邪をひくのをおそれて旅行をやめる。睡眠はとくに 重大だった。いちど目をさましたが最後、もう二度とねむりにつけないから。 節制、清潔、すんだ空気、暑すぎても寒すぎてもいけない適度な気温ーーーが、彼の身体の、 や精神の衛生に必要であった。そんなきやしゃなからだで、よくもあれだけ住所をかえーーーイギ リス ( 一四九九年 ) からイタリア ( 一五〇六年 ) へ、ふたたびイギリス ( 一五〇九年 ) 、大陸諸国 ( 一 五一五年 ) やスイス ( 一五二一年 ) へ・ー・・・・・旅の難渋に耐えられたものである。 住所不定の暮らしのなかにあってエラスムスは、しかし古典および神学の研究に孜々としては げむ。明敏な頭脳と類いまれな巧妙なレトリックは、ついに彼を「北方ヒューマニズムの王者」 におしあける。一五一七年前後は名声の絶頂に立ったときである。ドイツ皇帝、イギリス王、諸 侯、大学が辞を低うしてまねく。だがいっさい応じない。自由をしばられるのをおそれたからで ある。意気投合して終生の交わりをむすんだのは、イギリスのトマス・モーア エラスムスは 友情の記念に『痴愚神礼讃』をささげたーー、晩年をすごしたスイス 2 ハーゼルの出版業者フロ せぎがく べン、ぐらいなものだった。しかも一代の碩学とあおがれ、彼のことばは西ヨーロツ。、 / の知識 人に啓示のようにひびいた。古典研究にかんしては、イタリアにおける古典研究の第一人者ベト ラルカ以後の、もっとも偉大な学者である。ギリシア・ラテンの古典の翻訳や覆刻、『聖書』の 翻訳や校訂などで大きな功績をのこしているのである。神学にかんしては、神学的合理主義の開 祖だ。だからもしエラスムスが学究にとどまっていたら、悲劇的な最期をとけずにすんだであろ たぐ