も「とも幸福な時期であ 0 たことは明らかである。一五一七年九月、カルルは、スペインの王国 を統治するため、惜別の思いを抱きながらネーデルラントをあとにした」 スペイン王国を統治するため、とはいうものの、彼がスペインですごしたのは計十六年にみた なか 0 た。・・ = リオットは『スペイン帝国の興亡』において、カルルが長期にわた 0 てス べインをはなれなければならなか 0 たという事情が、スペインにきわめて重大なさまざまな問題、 たとえば当面だれがスペインを治めるかとい 0 た問題を提起した、とい 0 ている。ここではそう いう問題に立ちいる余裕はない。何はともあれ、カルルが散在する領土のゆえに東奔西走しなけ ればならなかった、としっておけま ( いいだろう。一五一七年から退位する一五五六年までに、ド ィッへ九回、スペインへ六回、イタリアへ五回、フランスへ四回、イギリスへ二回、北アフリカ へ二回いった。 どうして東奔西走せねばならなか「たのか。ラベールの説では、国民の忠誠心をつなぎとめる ためには、君主がそれそれの領土に滞在することが絶対に必要だ「た。だから少なくとも一度や 二度は、自分の支配する領土を訪問しなくてはならなか 0 たのである。当時、陸上および海上の いちばん速い手段は、馬と帆船であ「た。帆船のばあい、風向きがよければかなりスビードがて るが、良風をまつのに時間がかか「た。そんな時代に、信じられないくらい長途の旅をしたこと は、カレレ ノノがどんなに多くの仕事をもち、精励するあまりかえ 0 て失敗したか、を説明する。現 地にいないときの統治はどうするか。摂政、副王、顧問官、侯、将軍が代行する。こんな無責任
の妃となったのもこの条約による ) において、フランスははっきりスペインにたいして優位にたつ。 さらに多くの利益をえ、フランスの領土を拡張することが・フルポン家の基本路線だ。この路線に そうてルイ十四世は、ネーデルラント戦争 ( 一六六七ー六八年 ) 、オランダ戦争 ( 一六七二ー七八年 ) 、 プファルツ戦争 ( 一六八八ー九七年 ) 、スペイン継承戦争 ( 一七〇一ー一四年 ) などをつぎつぎにお こす。大義名分のない、言いがかりをつけた侵略戦争ばかりである。とくにスペイン継承戦争は 泥沼戦で、一七一三年のユトレヒト条約によってようやく終結した。フランスが将来スペインを 併合しないことを条件に、ルイの孫 ( フ = リペ五世 ) がスペイン国王につくことがみとめられた。 ここに・フルポン家の血筋はフランス、スペイン両国にまたがるにいたったのだから、ルイの得意 や、思うべしだ。 これらの戦争の勝利でフランスは大陸における覇権を確立し、ルイ十四世の軍事的栄光はヨー ロッパの空に燦然と輝くようにみえた。しかし他面、フランスの国際的優位をおびやかす逆効果 との戦争においてもイギリスが勢力均衡の建前から、他 を生じたことも、看過してはならない。・ 国をさそってフランスの行く手に立ちふさがったからである。傲岸なルイにそういう国際関係の 変動は目にはいらなかったけれど、フランスとイギリスとの対抗がその後のヨーロツ。ハ国際関係 を規定する。 いうまでもない。財務長官コルべールの経済 長期の戦争が国民に多大の犠牲を強いたことは、 政策でゆたかだったのが、しだいに赤字財政に転じた。なにせ、財政支出の半分は軍事費、五分 6
カルルにとってトルコとの戦いは、その脅威をうけているオス ートリアや神聖ローマ帝国の問 題にとどまらず、キリスト教世界全体にかかわる問題なのである。こうした問題を解決すべき使 命が皇帝である自分に託されている、カルルはそう信じて疑わない。げんに、オスマン・トルコ 帝国はつい先ごろコンスタンティノープルを陥落させ ( 一四五三年 ) 、小アジアやバルカン半島を 席捲し、ハンガリーの背後まで進出しつつあるではないか。カルルはこのような考えから、十字 軍精神をふるいおこしてヨーロッパ諸国によびかける。もっとも、これは水泡に帰したが。つま 騎士道とか十字軍精神だのがもう通らない世の中になっているのに、カルルはそれに気がっ かない。主権国家の確立とか国家的利益の追求が目下の急務となっている。だからこそ、フラン スは異教国トルコとむすぶことすら辞さなかったのだ。カルルの考えは、時代錯誤をまぬがれな カルルの理念と現実との矛盾はすでにカルルがもっとも頼りにしていたスペインにあらわれて いた。スペインでは、アラゴン、カスティリヤ両国が合併していくばくもたっていない。政治制 度も社会経済状態もちがう両国が、とけあって統一国家になるのはまだまださきのことだ。カル ルがスペイン統治に専念するならまだしも、スペインにきたかと思うと去る。去ると、待ってま したとばかりに反乱がおこる。多忙な身が一五二二年から二九年までスペインに滞在したのは、 いかに治安の維持が緊急事であったかを、証明する。カルルの不在ちゅうは王妃イサベルが代理 をつとめ、イサベルの死後にはわかい王子フェリべが摂政をつとめる。しかし若輩に何ほどのこ
くイベリア半島に蟠踞したムーア人を半島から追いだした。こうして十六世紀におけるスペイン 王国全盛の基礎をきずいた。 フェルナンド五世とイサベル一世とのあいだにできたのがファナだ。次女だったが、姉も兄も 死んだため、イサベル一世のあとにカスティリヤ王位についた。一四九六年に結婚したハプス・フ ルク家のオーストリア大公フィリップとカスティリヤを共同統治した。ところが美貌の夫が死ん だショックでファナは気が変になり、以後、四十六年間廃人生活をしいられた。ファナ・ラ・ロ カ ( 狂女王 ) とよばれたのは傷ましい。父フェルナンド五世が摂政となったけれど、フィリップ とファナとのあいだにできたカルルが、スペインをはじめ、スペインに属する広漠としたアメリ カ領土をゆずりうけることになったのである。 他方、カルルは父方の祖父、ハプス・フルク家 の神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世のあとを ついでカルル五世 ( 在位一五一九ー五六年 ) と称 五する。マクシミリアン一世は内治・外交で治績 をあげ、ハプス・フルク家を強大にした。妃のマ カ リーが・フルゴ 五 ーニュの相続者だった関係から、 ブルゴ ニュの領地がころがりこんた。このマ カ クシミリアン一世の子フィリップが、母の死後 ばんきょ
アン女王 とよばれて評判がよくない。根っからのカトリック信者である彼女が、即位してからプロテスタ ントを大勢殺したからである。が、この評判、メアリひとりを悪者扱いにした嫌いがある。イギ リスにおいても、十六、七世紀の人びとは宗教的狂気のとりこになっていた。のちに新教国とな ったイギリスが、カトリック的メアリを非難したのも宗教的偏見に根ざす。おまけに、十歳も年 下のスペイン皇太子 ( のち、フ = リ。〈二世 ) と結婚してイギリス国民の信頼をうしなった。さらに スペイン・フランス戦争の巻きそえをくい、イギリス最後のフランス領地までうばわれた。勃興 の途についていたイギリスの国民感情を逆なでした。彼女が悪しざまにいわれるのは、こうした 政治的事情が伏在している。 このメアリのあとをついだのが異母妹エリザベスだ。エリザベスについては天下周知だから、 省かせてもらう。何はともあれ、女王が国内 の宗教紛争にケリをつけ、スペイン無敵艦隊 の撃減 ( 一五八八年 ) によって一挙にイギリス けんらん 王の国際的地位をたかめ、絢爛たるエリザベス ン 朝文化をうみーー要するに近代イギリスの繁 ア 栄をきずいた、とだけいっておこう。二十五 ー当歳で即位して七十歳で永眠するまで、一日と して政務をおろそかにしなかった。おどろく
像』が記憶によみがえった。毛皮で縁どりした黒い外套に身をつつみ、肘かけ椅子にすわってい まな る。眼ざしは憂愁にみち、疲れた表情である。ティッィアーノがこれをえがいたのは、カルル・、 あんざい アウグスプルクに行在ちゅうの一五四八年のことで、シュマルカルデン同盟軍をやぶって意気あ がっていたはずなのに、ゆううっそうにみえるのは、なぜだろうか。健康がすぐれなかったから だ、と美術史家は推測している。晩年は手紙をひらくのさえ不自由なほど、痛風になやまされて いたのである。そのせいもあろうけれど、前途のけわしさと責任の重さに思いは千々にみだれて いたからにちがいない。 カルルの個人的境遇について付言すれば、一五二六年に二度めのスペイン滞在のとき、いとこ のポルトガル王女イサベルと結婚した。イサベルには政治的才能があり、カルルのスペイン不在 ちゅう代わって治めた。ふたりのあいだに王子フェリべと王女マリーアとファナがうまれた。王 ペ二世となり、「太陽の没することなし」と豪語した黄 子フェリべはのちにスペイン国王フェリ さんじよく 金時代をつくる。一五三九年五月にイサベルが産褥熱がもとで死に、カルルを深い悲しみにお としいれた。彼は二度と結婚しない。ただし、情人はつくって子をなした。 イタリア戦争 ところで右にのべたようなカルルの皇帝の夢が実現するには、現実はあまりにもかけはなれ、 苛烈だった。カルルがうまれた一五〇〇年前後は、ヨーロッパにおいてあたらしい国際政治や国
第三次戦争では、フランソア一世が異教徒トル「と同盟をむすんでカルル五世にあたるという意 外劇が演じられた。カトリック教徒とイスラム教徒との同盟なんて、中世ではかんがえられもし よい。目的をとげるためにはなりふり構わないのだ。 イタリア戦争は、一五四四年のクレピーの和約でいちおう終結した。その後、カルルが退位し て ( 。フスプルク家がドイツ ( カルルの弟のフ = ルディナント一世 ) とスペイン ( カルルの子のフ = リ 一一世 ) とにわかれ、係争の地イタリアのミラノはドイツが、ナポリはスペインが領有することで ケリがついた。イタリアにたいする要求を放棄した結果、フランスの国際的地位は低下した。し かし積年の恨みは、ヴァ。ア朝が終わ 0 てプルポン家が立「てから晴らされる。こうみてくると、 イタリア戦争は、たんにカルル五世とフランソア一世との個人的対立のようで、じつはふたつの 王家の対立、いやも 0 と広範囲な国際的対立だ 0 たことが、わかるであろう。 もっとも流浪した皇帝 : トレコと同盟した事件は、カルル五世の理念をしるうえで注目す ところで、フランソア一世カノ べきである。十一世紀末から二百年にわた「ておこなわれた十字軍遠征は、 = ー〔 , 。 ( の記憶か ーニュ宮廷の騎士道の 五らまだ消え去 0 てはいない。前言したように、カルルにおいては、ブルゴ こんん レコンキスタ 伝統、ドイツ皇帝の世界支配理念、スペインの国土回復運動などが、十字軍意識と渾然一体をな カ していた。
かつもく ている。そういう戦闘心がイ = ズス会においても発揮されたのである。とくに刮目すべきはイエ ズス会士の海外布教だ。教皇をまもるためには水火も辞さず、カトリック信仰をひろめるために はいかなる遠隔の地もいとわない。スペインおよびポルトガルの海外植民事業と一体となり、万 はとう 里の波濤をこえてアメリカ、アフリカ、アジアに伝道する。日本にキリスト教がったわったのは、 このときである。 イベリア半島におけるイスラム人のさいごの根拠地グラナダがスペイン人の手で陥落した一四 九二年に、スペイン王室の援助でコロンプスがアメリカを発見した。コロン・フスと前後して、ポ ルトガルの探険家ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達 ( 一四八六年 ) 、ヴァスコ・ダ・ガマは 喜望峰を迂回してインドのカリカットにつく ( 一四九八年 ) 。マゼラン一隊が世界一周をなしとげ ( 一五一九ー二二年 ) 、パルボアが太平洋を発見する ( 一五一三年 ) 。かそえると、四十年にみたない。 これら航海冒険者がなめた艱難辛苦のものがたりは、およそ人間が織りうる最大のドラマであろ ともあれ、半世紀たらずのあいだに地球の相貌は一変した。従来、海上活動をバルト海か地中 海にかぎられていたヨ 1 ロッパ人の = ネルギーが、突如として噴出する。ヨーロッパ人の世界的 膨脹の第一ページがここにひらかれる。本章の主人公シャヴィエルの東洋布教の壮挙も、こうし た大航海時代の幕あけがなければ不可能だったであろう。
シャヴィエル 反対宗教改革 ルターとカルヴァンの宗教改革の結果、中世いらいの、ローマ・カトリック教会によるヨーロ ツ。 ( の宗教的統一がやぶれた。そして北および西ヨーロツ。 ( はだいたい。フロテスタントの勢力範 囲となった。しかし南ヨーロッパでは、そうは問屋がおろさなかった。かえってカトリックを護 持するために決然として立ちあが「た。ローマ教会は粛清を断行して勢力の挽回につとめた。こ れを反対宗教改革といっている。この反対宗教改革で大きな成果をおさめたものにトリ = ントの 宗教会議、宗教裁判所やイ = ズス会などがある。イ = ズス会は、スペインの武士イグナテイウ ス・デ・ロヨラが創立した。純潔・質素・服従の精神と厳格な軍隊的規律をもって布教活動をお こなった。 イベリア半島におけるイスラム教徒との戦いで、スペイン人には熱狂的・戦闘的な血がたぎつ シャヴィエル
カルル五世 際関係が成立した時期である。中世末期からルネサンス時代にかけて、神聖ローマ皇帝を主軸と する中世的な普遍的帝国にかわって、それぞれの民族を単位とするあらたな主権国家が勃興した。 ここにヨーロッパの国家体系が生じ、国家と国家との関係すなわちインターナショナルな関係が 生じた。 そうした国際関係の紛糾は、ルネサンス時代末期における西欧諸国のイタリア侵入に、いち早 くあらわれた。イタリアは分裂して弱体ぶりを暴露していたから、西欧勢力はイタリアめがけて 殺到したわけである。先陣をうけたまわったのは、フランスのヴァロア家シャルル八世だった。 王はスペインのアラゴン家が領有したナポリをえようと北イタリアに侵入 ( 一四九四年 ) 、アラゴ ン家を追ってナポリ王となる。むろんスペインはこうしたフランスの侵略を黙視しえない。対仏 同盟をむすんでフランスにあたり、イタリアから撤退させる。ついでルイ十二世もシャルル八世 の志をつぎ、ヴェネッィア、ローマ教皇などと同盟して北イタリアに侵入。ナポリについてはス べインと協定のうえ、 いったんこれを占領した。しかし協定はたちまち破れ、けつきよく、フラ ンスは敗退してナポリ、シチリアはスペイン王国の所有に帰した ( 前々章、教皇ュリウス二世が音 頭をとった神聖同盟を思いだしていただきたい ) 。 こうしたイタリアにおける覇権をめぐる争いにおいて、当面、ハプス・フルク家ドイツとヴァロ ア家フランスとがもっともするどく対立した。この争いを一括してイタリア戦争とよんでいる ( 第一次一五二一 ー二六年、第二次一五二六ー二九年、第三次一五三六 ー三八年、第四次一五四二ー四四年 ) 。