たんけい チェーザレは波瀾にとむ生涯、端倪すべからざる性格ーー・彼は大芸術家レオナルド・ダ・ヴィ ンチの庇護者た において、ルネサンス末期の悪虐政治家のなかで群をぬく。マキャヴェリが 『君主論』において、チェーザレを現実主義的君主の手本として高く評価したのは周知だろう。 むろん、私人としてのチェーザレをほめているのではない。イタリアの混乱を救う行為的人間と さてつ して、だ。ニ】チェが『アンティ・キリスト者』でチェーザレの蹉跌をくやしがっている。チェ ーザレのような男がキリスト教会の本拠でいまひと息でキリスト教を除去するところだったのに、 それができなかった。かえってドイツの修道士ルターが、ルネサンスに反抗して宗教改革なんか おこしたものだから駄目になってしまったのだ、と。 ききよう 奇矯にきこえようが、ニーチェのいう「病者の光学」の伝でいうなら、チェーザレとかアレキ サンデルのような悪業をとおしてルネサンスの実態が照らしだされる。もしそうなら、これも悪 業の一得であろうか。 軍人教皇ュリウス ところで、歴史上にはしばしば宿命のライバルがあらわれる。国王や政治家や芸術家のばあい だけではない。おどろいたことに、ロ 1 マ教皇においてもしかりである。いや、おどろくことは ローマ教皇位が当時はまぎれもなく権力であった以上、争いが生ずるのはとうぜんなので ある。ローマ教皇アレキサンデル六世は、すでにみたようにスペイン人であった。一四九二年の
ーニンまで』宮田光雄監訳、創文社刊 ) 。諸家の観相学的判断はおおむね一致している。野放図では 練達な事務家になれないではないか。 もちろん、マキャヴェリは机にへばりついていたわけではない。外交・軍事の責任者として怱 忙の日を送った。そのころ、フィレンツェは隣邦。ヒサと干戈をまじえて一進一退だったが、その 、何度も何度も前線を視察している。フランスやドイツにも再三使いした。その結果、フィレ ンツェやイタリアの政治をヨーロッパ的視野のもとで考察することを会得した。格段のちがいな りようけん のである、他の外交官がせまい料簡しかもてなかったのとくらべて。とりわけ深刻な感化をうけ たのは、一五〇二年にチェーザレ・ポルジアとの交渉のためにウルビーノに派遣されたことだっ た。先刻ご承知のように、チェーザレはルネサンス政治界の暗部をしめした残忍酷薄な政治家だ。 このチェーザレの宮廷に滞在ちゅう、マキャヴェリは、政治の現実がどういうものか、政治家が 生きのこる条件とはなにか、をジックリ教わった。他方で国民軍の創設という、いまだなんびと も企てたことがない仕事に没頭している。 はんさ ふつうの事務家なら、熕瑣な仕事に埋没してしまうのが落ちだろう。ところがマキャヴェリは、 つねに個々の経験なりデータから原則的なものをつかみだす。並はずれた知的俊敏を証明するも のだ。行動をともなわぬ観察が机上の空論なら、観察をともなわぬ行動は猪突猛進になりやすい マキャヴェリはこの理をよく承知する。が、どちらかといえば観察のほうに重点をおく。だから 行動としてのマキャヴェリズム、べっして絶対主義時代以後における肥大化したマキャヴェリズ ぼう かんか ー 22
恐れいった次第ではないか。 アレキサンデルの庶子チェーザレ・ポルジアは、父のひいきで十七歳ではやばやと枢機卿にな げんぞく る ( 一四九三年 ) 。弟殺しの疑いで枢機卿をやめ、還俗して教皇使節となってフランスにゆき、国 王ルイ十二世の信頼をえた。ルイの媒酌で国王のいとこのナヴァール王妹と結婚して帰国する。 フランス国王と教皇アレキサンデルとの勢威を笠にき、一四九九年から一五〇二年にかけてロマ ニヤ地方の小君主を片つばしから征服し、さらに魔手をのばして中部イタリアのベルジア、シェ ナ、ウルビーノなどの小国を攻略して教皇領を拡大した。功によってロマニヤ公ーー・妻が婚資と してフランスのヴァレンティーノ公領をもってきたので、ヴァレンティ とな ーノ《ハと , もいう る。 チェーザレは父に輪をかけた悪人であって、人倫五常の道にそむくあらゆることをやった。兄 あや 弟だろうと親戚だろうと、不都合が生ずるやいなや、殺めてしまう。実の妹さえ、政略の具にす さつりく る。敵国人の大量殺戮は冷酷無残をきわめ、イタリア全土をふるえあがらせた。夜な夜なローマ の町を人殺しのためにうろっき、人びとから悪鬼のようにおそれられた。白刃をふるわないとき は毒殺という手を用いる。「ポルジア家の毒薬」ときけば、泣く子もだまる。味のよい白い粉で、 これを料理や飲みものにまぜる。ジワジワとききめをあらわす。この手で何人の人間を冥土へ送 ったことだろうか。 異常としかいし 、ようのないこのチェーザレは、しかし筋骨たくましい美青年であって、礼儀正
両国を調停した ( 一四九三年 ) なども、政治的手腕の一端をのぞかせる。教皇境界線とよばれ、大 西洋中のヴ = ルデ岬諸島西方の子午線をもって両国の勢力範囲ときめたのである。思いがけない ところでアレキサンデルは世界史の以後の発展に一役買っていたのである。 行為的人間 勝手放題したあげく、アレキサンデルは急死する ( 一五〇三年八月十八日 ) 。一説によると、ある 日、ぶどう園に数人の枢機卿を招待した。彼らをおそろしい「ポルジア家の毒薬」でなき者にす るために。死ねば遺産がころがりこむし、空いた枢機卿のポストを売ることができる。一石二鳥 ではないか。二本のぶどう酒が用意された。一本はアレキサンデル父子のため、もう一本は招待 世客用だ。それとはしらぬ召使いがまちがって毒入りのほうを父子の杯についだから、たまらない。 ウその夜、アレキサンデルは七転八倒ののちに絶命、チェーザレは危うく一命をとりとめた。じっ = はマラリヤにかかり、高熱が老人のいのちをうばったのだが、こんなうわさがまことしやかにつ AJ 紲たわるほど、ふだんの素行がよくなかったのである。 カ父の急死はチ = ーザレの運命を狂わせた。アレキサンデルのあとに立 0 た新教皇 = リウス二世 ナは、病床にふすチェーザレをとらえ、ローマのサン・タンジェロ牢獄にとじこめ、それからスペ レインに送る。チ = ーザレの命運もっきたと思いきや、ナヴァールに逃走し、反乱軍にたいして王 軍の指揮をとるうち戦死した ( 一五〇七年三月十二日、三十一歳 ) 。
アレキサンデル六世とユリウス二世 教皇選挙で圧倒的勝利をえたのだったが、ただひとり、イタリアうまれの枢機卿が反対票を投じ た。誰あろう、ユリウス二世そのひとだ。 一四四三年十二月五日、サヴ ュリウス二世は本名をジュリアーノ・デラ・ローヴェレと、、、 オナ付近のアルビノーナの貧家にうまれる。伯父が教皇シクストウス四世となったために幼少の ころローマへで、二十七歳で枢機卿になる。身持ちの悪さではアレキサンデル六世と甲乙がない。 ローマでたくさんの情人をつくり、そのひとりに三人の子をうませた。わかいころから乗馬、弓 術、狩猟、水泳、なんでもこなしたが、痛風が持病で一生なやまされた。 教皇の選出ではアレキサンデルに先をこされたけれど、アレキサンデルの没後に立った。ヒウス 三世が一カ月たたぬうちに病死し、やっとお鉢 がまわってきた。チェーザレ・ポルジアは遠く ま【 = 一に厄介ばらいしたし、もはやおそれるにたるも 世のはいない。新教皇になったときは六十歳。肖 いかめしい顔つきをした 、、、《 , 〕を像画にみえるとおり、 」堂々とした人物だった。く・ほんだ目、張ったえ らは、意志のつよい酷薄な人柄をしめしている。 アレキサンデルは閥族政治を鉄面皮に行なった が、ユリウス二世も劣らなかった。即位して数
ムなどは、マキャヴェリ本人とは縁がない、ということになろう。君主・政治家は、自分のこと は棚にあげて、いっさいの責任をマキャヴェリに転嫁しているのである。 最大の頌辞 とかくするうち、一五一二年に異変がおこる。放逐されていたメディチ家が勢力をもりかえし、 ロレンツオの三男ジュリアーノがフィレンツェに戻ってきた。そこでソデリーニ共和政府がたお れんべい れ、腹心のマキャヴェリは連袂辞職するのやむなきにいたった。それのみか、反メディチ家の陰 謀が発覚し、これに加担していたという疑いをうけ、しばらく獄に投じられる ( 一五一三年二月ー ひっそく 四月 ) 。もう政界に返り咲く見こみはない。 フィレンツェ近在のあばらやに妻子とともに逼塞する。 友人にあてた手紙がのこっていて、当時の手持ち無沙汰な様子をつたえている。一介の外交使節 とはいえ、かってはフランス国王、ドイツ皇帝、ローマ教皇、チェーザレ・ポルジアと堂々わた り合ったほどの男が、毎日、きこりと時をすごしたり、 いなかのうす汚い居酒屋でうさを晴らす ア 一ほかに能がないとは ! 四十四歳という脂ののりきったときに、政変のために無為の生活に追い A 」 やられたのである。屈託がないどころか、無念の涙をのんだことだろう。 工 ヴ しかしこうした不遇時代に、『君主論』や『ローマ史論』その他の重要な作品をかいたのであ キる ( 一五一三年ごろ ) 。世の中はままならない。以後の十四年間は、ときに生活の前途に光明がさ 3 したかと思うと、たちまち闇に消える。長年にわたる無理、貧困、落胆がついに生きる力をうば
日のうちに、一家一門に聖職禄や高い地位を大盤ぶるまいした。 ュリウスの絶倫の精力と強固な意志はいろいろな方面に発現したけれど、いまはふたつの面に かぎることにしよう。「軍人教皇」という異名をとったように、ユリウスはのべつまくなしに戦 争した。アレキサンデル六世はチェーザレ・ポルジアの手をかりて教皇領を拡大し、教会の世俗 権力を増大した。これに反してユリウス二世は自分で陣頭指揮をとる。教皇領内の、取ったり取 られたりの戦争ごっこにつき合う暇はない。ふたつの大きなものにし・ほると、カン・フレー同盟 ( 一五〇八年 ) と神聖同盟 ( 一五一一年 ) だ。 畏るべき人 十六世紀初頭のイタリア諸国が衰運にあったなかで、「アドリア海の女王ーヴェネッィアだけ どうはら は繁盛していた。ュリウスにはそれが業腹で、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア小国を抱 きこんでヴェネッィアにあたる。ヴェネッィア軍は同盟軍を迎えうったが、一五〇九年五月にフ ランス軍主力とぶつかり敗北した。この間にユリウスはずいぶん策略を用いたものだ。すると、 こんどはヴェネッィアをやぶったフランスが北イタリアに勢力をのばす。ュリウスは「蛮族を追 いはらえ ! 」と大号令を発し、ほこ先をフランスにむける。きのうの敵ヴ = ネッィアとスペイン、 のちにはドイツが、反フランスの神聖同盟に加わる。フランス軍は北イタリアを放棄して退却の やむなきにいたる。ュリウスの外交手腕、三軍を叱咤する軍人気質、愛国的熱情は、ユリウスの
ミケランジェロとの対照 一五〇一年 ( 四十九歳 ) 、フィレンツ = にいるあいだに有名な『聖アンナと聖母子』画稿ができ た。ヴァザーリによば、「それはあらゆる美術家たちを感嘆させたばかりでなく、下図が完成 したときには、それを見るために老若男女がまるで祭礼に出かけるように二日つづけて部屋にや 0 てきた」。フィレン = がうんだ不世出の芸術家の名は、もうイタリアじゅうに喧伝されてい たのである。だが、、つものくせで『聖アンナ』をおっぽりだして幾何学に熱中する。 一五〇二年七月にに、チ = ーザレ・ポルジアに軍事顧問としてまねかれ、要塞構築、軍事地図 作製、運河事業などをおこなう。権謀術数の見本チェーザレと、政治にまったく無関心なレオナ ~ ドとの半年司の交」ま、それだけでも一篇のトーリーにならないだろうか。チ = ーザ」が没 落したので、翌年フ亠レンツ = にかえる。そこで彼は政庁内の大会議室に壁画『アンギアリの戦 い』をかき、ミケラ、ジェロの『カッシーナの戦い』と競作する。この画稿は紛失し、いまは幻 チ ンの名画になっている。 と ~ 、めい ヴ この第二フィレンツェ時代 ( 一五〇〇ー〇六年前半 ) に、匿名の伝記作者がこんなはなしをつた ダ えている。ある日、オナルドが聖トリニタ寺の付近を歩いていると、数人の市民がダンテにつ いて議論のまっさい ゅうだった。レオナルドはダンテ通とみられていたので、市民が不明の個 ナ オ所をたすねた。たまナまミケランジ = 口がそばをとおりかかった。レオナルドは「ミケランジ = 0 君が説明してくれ「でし = う」とい 0 たところ、。、ケラジ = 0 はなにを勘ちが」した 0 か自