チャールズ - みる会図書館


検索対象: 悪人が歴史をつくる
15件見つかりました。

1. 悪人が歴史をつくる

らはホッブズの引立て役としてしか登場しないのだから。 先駆者の運命 さて、クロムウ = ルの没後に共和政がたおれ、王政復古 ( 一六六〇年 ) の結果、ウ = ルズ公がチ ャールズ二世として登極すると、ホッブズの身の上にも変化が生じたかに見えた。そのエ。ヒソー トをひとつ。チャールズがロンドンに到着したとき、路傍にパリ亡命時代の旧師ホッ・フズをみと め、帽子をとって親しげにあいさっした。そして宮廷に出仕するように命じた。伺候すると、チ ャールズは画家にホッ・フズの肖像画をかかせて書斎におき、百ポンドの年金を約東した。しかし 気まぐれな放言のためか手許不如意のためか、きちんと払われたためしがなかった。王はホッ。フ ズの顔をみるたびに「熊が小犬にいじめられにやってきたーとからかった。老いたる熊が宮廷内 の小犬にいじめられるとあっては、大哲学者もかたなしだ。 たまたま一六六五年にベストが流行し、翌年にはイギリス社会史上名高いロンドンの大火がお こった。縁起をかついだ政治家たちは、無神論のゆえにホッ・フズの『リヴァイアサン』を槍玉に ズ ・フ あげる。無神論的著作の禁圧はさすがに議会では通らなかったが、チャールズ二世はホッ・フズに 今後この書の印刷を禁じた。さいごの著作『ビヒモス、別名長期議会』 ( 一六六八年 ) も、まきそ ス マえをくって印刷することをゆるされなかった ( 公刊は一六八二年 ) 。ビヒモスとは、リヴァイアサ ンと同じく『旧約聖書』「ヨ・フ記」に見える怪獣で、革命を象徴したのである。八十歳の老人に

2. 悪人が歴史をつくる

て独立派は中産階級や自営農民が多いから民主的である。前者は王政にみれんをもち、ともすれ ば王と妥協しようとする。後者は非妥協的で、王党をたたきのめそうとする。国王が逮捕される におよんで両派の対立が鋭くなった。そこへ水平派と称する、独立派ちゅうの過激派がわりこみ、 三つどもえの争いをつづける。その隙にチャールズはイギリス海峡にあるワイト島に逃走し ( 一 六四七年十一月 ) 、スコットランドの長老派と気脈を通じて再挙する。一六四八年には至るところ に王党の反乱がおこる ( 第二次内乱 ) 。こうしてさいごの断をくだすはめとなったクロムウ = ルは、 ただちに王軍にむかって進撃し、八月十七日のプレストンの戦いで撃破し、チャールズをとらえ た。「この勝利は神のみわざです . と下院議長にあててかく。そして電光石火、議会内の長老派 を追い、兵士の要求にしたがって国王を裁判にかける。 裁判の結果、一六四九年一月三十日、チャールズ一世は「専制君主、反逆人、殺人、人民の公 敵」という罪状により、ホワイトホールの前庭の断頭台にの・ほった、衆人環視のなかで。その朝 ルは霜がおりてことのほか寒かった。チャールズは「この寒さではふるえてしまう。見物人に自分 ムが恐怖でふるえていると見えるにちがいない」と、厚着をした。チャールズはいまわのきわまで しようよう ク従容としていた。クロムウ = ルは、宮殿にはこばれたひつぎのそばで遺体を眺め茫然としていた , という。いまさらあげつらってみてもはじまらないが、なんとか他に方策がなかったのだろうか。 らくいんお これでクロムウ = ルは「国王殺し」の烙印を捺されることになった、たとえ『聖書』を楯にとっ 5 て正当化しようとも。 ぼう懸ん

3. 悪人が歴史をつくる

万事に落度のない伯は、ホッ・フズに年金八十ポンドをあたえるよう遺言していたから、さしずめ 暮らしに困らなかった。たまたまクリフトン卿から息子の家庭教師の申し出があったのを幸い いっしょに第二回ョ 1 ロッパの旅にで、およそ一年半パリに滞在した。この旅行ちゅうにユーク リッドの幾何学をしり、翻然として悟るところがあった。幾何学そのものより、その整然とした 方法にすっかり魅了され、幾何学的方法を政治学に応用しようとかんがえたのだ。 一六三一年 ( 四十三歳 ) のはじめに思いがけなくふたたびデヴォンシャ 1 家に招かれ、古巣に もどる。当時、同家にはデヴォンシャー伯のいとこにあたるニュ 1 カスル伯 ( ウィリアム・キャヴ = ンディッシ = ) とチャールズ・キャヴ = ンディッシ、の兄弟が寄寓していた。ニ = ーカスル伯は 「最後の騎士」とよばれ、十年後のビ = ーリタン革命において王軍をひきい、たびたび議会軍を ゃぶった将軍である。弟のチャールズは政治運動には加わらずに数学や自然科学に興味をもち、 すぐれた学者と交際していた。 このようなめぐまれた境遇でホッブズの思想はだんだん成熟してゆく。その機縁となったのは、 一六三四年の第三回ヨーロッパ旅行である。彼はパリにおいてデカルトの友人で有名な数学者の メルセンヌや、同じく数学者・物理学者として名声を博したガッサンディと知的サロンをつくっ た。イタリア滞在中には天文学者ガリレイをたずねた。「ガリレイの本はイタリアでルターやカ ルヴァンの本以上にカトリックをそこなうものといわれている」。一六三七年にイギリスにかえ ると、以後はわかいデヴォンシャー伯の相談役として家族同然となる。 ー 64

4. 悪人が歴史をつくる

イギリス王家系図 〔テューダー朝〕 ③ か継 い運 た足 ツリ 女浮 、位 私す 在位 1485 ー 1509 ヘンリ七世 ② ート朝〕 在位 1558 ー 1603 ⑤ 在位 1509 ー 47 ヘンリ八世 スコットランド王 マーガレットーージェームズ四世 ェドワード六世 〔ステュア 在位 1547 ー 53 スコットランド王 ④ ェリサベスー世メアリー世ジェームズ五世 在位 1553 ー 58 スコットランド女王 ヘンリーーメアリ・ステュアート ジェームズー世スコットランド王 ジェームズハ世 在位 1603 ー 25 チャールズー世 在位 1625 ー 49 ジェームズ二世 在位 1685 ー田 チャールズ二世 在位 1660 ー 85 在位 1702 ー 14 メアリ二世 = ウィリアム三世 在位 1689 ー 1702 在位 1689 ー 94 血プ な ' ア ぐ さデ メ ア リ 世 後 イは 世 メ く 要 が あ る 人 の 女 王 を 0 暼 見ま し て お て ま ず ア ン で の な の だ が 順 序 と し な 命 を し る す に す ぎ た ひ と り の 王 の 数 奇 歴 史 の 海 に 沈 み し に し な い 0 で は 承 法 な ど つ ま び ら 憲 法 の 地 と か 王 位 ギ リ ス に お け る 女 の 女 王 な の だ は イ ギ リ ス 史 上 わ れ ん ぬ 力、 つ け れ ど 近 代 イ ア の も と に も よ れ な 8

5. 悪人が歴史をつくる

ウォルポール たにすぎない。常識的だ。だからといって誰にでもできることではあるまい。買収にしたところ わいろ で、こういう常識とつながるのではないか。議会を操縦するために反対派議員に賄賂をおくり、 忠実な党員には官職をあたえて懐柔した。提出された議案がすんなりとおるわけだ。むろん、政 治のモラルからすれば弁護の余地はない。余地はないが、買収は王政復古のチャールズ二世のと きからもう公然の秘密になっていたのであって、ウォルポールが少々派手にやっただけだ。彼を 攻撃したものが政治のモラルを身につけていたわけでもないし、ウォルポールが引退したあとに 政界が浄化されたわけでもない。 あるとき、彼は「人間はみな値段をもっーと放言して世間のつまはじきとなった。これは、政 治家にむかって「諸君はみな値段をもっーといったのが誤伝されたのである。正直にいえば、人 間にはそれそれ値段がある。そういわないのは、世間体や自尊心や平等意識からではないか。い わんや、政治家がみな値段をもっといったのは、当時の政治家の実態をするどく衝いたものでは なかったか。ウォルポ 1 ルの人格が高潔だったとか、政治観が高尚だったというつもりは、毛頭 ない。ただ、彼の政治の根本に人間にたいする洞察があったことは疑えないだろう。もっとも高 洞察から出発するはずである。 い意味での常識家とは、まずそういう 安定の時代の終幕 さて、ウォルポール時代は坦々と大道をすすんだように見えるけれども、危機がまったくなか

6. 悪人が歴史をつくる

予定説は、人間の救いを神の恩寵にのみみとめたにかかわらず、他方で人間が自己の救いを確 かにするための根源にもなったという点にご注意ねがいたい。 カルヴィニズムが合理的禁欲主義 とよばれるゆえんであって、現世にいながら仕事に精をだすことが神のお・ほし召しにかない、救 いの保証になる、そうかんがえるのだ。けんめいにはたらけば、しぜん生産の面で財の獲得とな り、消費の面で贅沢や消費を抑えることによって財の蓄積となろうではないか。マックス・ヴェ パーがこういうカルヴィニズムの職業倫理を明快に論じたことは、ご承知のとおりである。 こうした職業倫理が近代資本主義の形成と緊密な関係をもつのかどうか、の検討は経済史家に まかせておこう。ここでは、カルヴァンの教えが中産階級と阿吽の呼吸が合ったことをしってお けばよい。イギリスの。ヒューリタニズムが好例であろう。ビューリタニズムは中産階級や独立自 ンリー 営農民のあいだにもっとも勇敢な信者をえた。議会に拠ったピューリタンがチャールズ一世の専 制支配に敢然と反抗したのが解せよう。そしてこの議会派を指導したのがクロムウエルだったの である。 聖者の進軍 一介の田舎紳士クロムウエルがどうして革命家こよっこ : 冫オナカイギリス史上、先にもあとにも、 っぺんだけの共和政がどうしてしかれたか、をのべようとすれば、内乱と革命の全経過をたどら ねばならず、とてもできない相談である。駆け足でみよう。 ぜいたく あうん ョウマ 152

7. 悪人が歴史をつくる

ぬ、醒めた精神なのだ。それでも故国の政変に注意をはらってはいた。 内乱の勃発、クロムウエル軍の勝利、チャールズ一世の処刑、共和政の成立、クロムウエルの 独裁と、猫の目のように変わる政治情勢は、ホッ・フズの政治観察にまたとない機会を提供したで あろう。むろん革命のまっ只中においてではない、 リの安全地帯からだ、アウトサイダーとし て。 十一年におよぶ亡命生活は、だいたいにおいて快適だった。フランスは宰相リシュリューのも えんそう とで発展をとけ 。、パリはヨーロツ。ハ文化の淵叢の観を呈していたから、学問研究に打ってつけで あった。メルセンヌやガッサンディと旧交をあたため、自由思想家とも交際する。もうそろそろ 自己の体系を構築していい年ごろに達している。一六四二年にラテン語でかいてデヴォンシャー 伯に献じた『市民論』は、そうした体系への序論であって、『法学要綱』から『リヴァイアサン』 への橋わたしをなすといわれる。 リ生活は、だが愉快なことばかりではなかった。たとえばデカルトとの論争がある。光学に ひょうせつ かんしてデカルトがホッブズを剽窃者よばわりすると、ホッブズは負けていず、自分のほうに 分があると主張する。英仏の代表的哲学者はたがいに一歩もゆずらない。アランふうにいえば 「時に剣をふるって敵をたおす剛胆な武人」でもあったデカルトと、小胆なホッブズとでは、議 言がかみ合わないではないか。 そのころから彼の身辺がざわっいてきた。イギリスの亡命者が大挙。ハリにくる。ニューカスル 新 6

8. 悪人が歴史をつくる

イギリスはあんまり居心地のいいところではなかったろう。対フランス戦に熱中したのは、うさ 昔らしだったのかもしれない。 ウィリアムとメアリには子がなく、ウィリアムの死 ( 一七〇二年 ) とともにステュアート“オレ ンジ家がたえたため、メアリの妹、つまりジ = ームズ二世の次女アンが跡目を相続した。 このように三人の女王を一暼してから、いよいよアン登場の段どりになる。アン女王時代にか んする最良の文献は、なんといってもトレヴ = リアンの『アン女王治下のイングランド』である。 三巻千五百ページの大著ということは、この時代がイギリス史上で特別に重要視されるからでは なかろうか。 四人目の女王の誕生 かってメアリ一世がイギリス宗教改革の動揺期に、エリザ・ヘス一世が複雑な国際情勢のうちに、 そして姉メアリがイギリス市民革命の混乱期に身をおいたように、アンもイギリス史の転換期に 後半生をすごした。しかしこの転換期は、イギリスが海のものとも山のものともわからぬ不安な そう 2 しよう 未来へはいってゆこうとする、そういう意味での転換期ではない。ステ = アート朝時代の騒擾に 王終止符をうって安定にむかおうとする、上向きの転換期だったのである。 ンそういう時期に女王をいただいたのは、イギリス国民にとって仕合わせだった。政情が安定し ア ようとする矢さき、チャールズ一世やジ = ームズ二世のような王がでて勝手なまねをした日には、

9. 悪人が歴史をつくる

る。この僭称者ジ = ームズが頭痛のたね ( 一七四六年にその子チャールズがまたもやイギリスを攻めて あっさり撃退された ) 。そこへもってきて、ホイッグ党内の確執がある。 がんらいホイッグ党内では、サンダランド伯日スタナップ伯と、タウンゼンドウォルポール あつれき とが対峙していた。軋轢が昻した末、タウンゼンドがサンダランドのはかりごとにひっかかって 職を辞する。ウォルポールもやめる。出処進退を明らかにすることが議会人のたしなみとすれば、 その点でウォルポールは水ぎわ立っていた。そういう習慣は彼によって下院議員に定着したとい えよう。権勢欲は人一倍強かったにかかわらず、買収で腐敗政治家の汚名をえたにかかわらず、 イギリス内閣制度を確立し、内閣をひきいる首相の地位を発展させ、なかんずく下院を政治の中 心としたのは彼の功績だ。トレヴ = リアンもいっているように、「ウィリアムやアンの治世には、 大臣はすべて上院議員だった。ウォルポールは下院から治めた最初の議員である」 最初のプライム・ミニスター 一七一七年に下野したさい、出処進退のみごとさがあらわれていたが、サンダランドスタナ ップの改造内閣が一七一九年に貴族法案を提出したとき、反対してこれを葬りさった態度にもそ ポれがあらわれた。このころ、ホイッグ党は下院では優勢だったとはいえ、上院ではそうでなかっ らんそう た。そこでサンダランドは上院においても優勢をうるために、かってアン女王が新貴族を濫造し ウ て上院においてホイッグを抑えた故知にまなび、新しい貴族をつくる国王の大権を制限しようと プリテンダー

10. 悪人が歴史をつくる

者だ、「聖者の進軍」だ。いまやクロムウエル軍は破竹の勢いである。べっして、一六四四年七 月、ヨーク市の西方マーストン・ムアで二万六千の議会軍と一万七千の王軍が激戦をまじえたさ クロムウエルが陣頭指揮した鉄騎隊は大勝利を博した。「戦闘の開始いらい、はじめてわれ らにあたえられたこの偉大な勝利において、主の大いなる恵みがイギリスと神の教会にもたらさ れた」と直後に手紙にかいている。クロムウエルは議員としてよりも軍人として頭角をあらわし た。それは時の要求に応じたものだった。百の説法よりも眼前の敵をたおす一事がかんじんだっ たのだから。のちにクロムウエルの秘書となった詩人 ミルトンは、彼を「もっとも勇敢なる将 軍ーとよんだ。しかし戦塵が収まれば、「もっとも勇敢なる将軍」は「もっとも敬虔なる。ヒュー リタン」に早がわりする。クロムウエルにおいて、宗教的であることと戦闘的であることはなん ら矛盾しなかった。 この戦勝で勢いをえたクロムウエルは、翌一六四五年二月に議会軍の統帥権をにぎり、鉄騎隊 にならって新模範軍を編成、同年六月ネーズビの戦いにおいて王軍を木っ端みじんにやぶる。 スコットランドに敗走したチャールズは、画策したものの、矢つき刀おれてとらえられ、一六 四七年一月、議会軍にひきわたされた。こうしたさいにはえてして悶着がおこる。内乱にどう片 をつけるかについて、意見がわかれる。じつは根が深い。かねてから議会の内部で長老派と独立 派とが争っていた。ともにビューリタンの分派であり、国教主義に反対する点では就を一にして いたけれど、長老派は貴族とか地主が多かったから、どうしたって貴族主義に傾く。これに反し 154