フランス革命 - みる会図書館


検索対象: 悪人が歴史をつくる
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1. 悪人が歴史をつくる

リア、フランス ) で、メッテルニヒ体制の実行機関となった。これを利用してドイツとかイタリア の自由主義運動を抑圧したのである。だが、ラテン・アメリカ諸国の独立 ( 一八一〇ー一一〇年代 ) 、 トルコからのギリシアの独立 ( 一八二九年 ) 、フランスの七月革命 ( 一八三〇年 ) 、ベルギーの独立 ( 一八三九年 ) などがヴィーン会議の正統主義に打撃をあたえた。自由主義運動はとどまるところ をしらない。そしてついにフランスに二月革命 ( 一八四八年 ) がおこってメッテルニヒ体制は致命 傷を負う。ヴィーンに三月革命 ( 一八四八年三月十三日 ) がおこり、軍隊と市民が市街戦をおこす におよび、メッテルニヒも窮地に追いこまれ、辞職してロンドンに亡命する。 宮廷外交の終わり 人間にはツキというものがあるのではなかろうか。ヴィーン会議はメッテルニヒにツキがまわ った頂点だった。四十一歳の男ざかりではあり、山積した難問を何はともあれ処置できた。一八 二一年 ( 四十八歳 ) には名実ともにオーストリア帝国宰相となった。しかし前言したように、ヴ ィーン会議後には自由主義運動の対策に忙殺された。身からでたサビとはいえ、時の勢いはもう せきとめることができなかった。二月革命の前年の秋に彼はいっている。「われわれが大きな変 化に面しているのは明らかだ。ヨーロッパ史の現段階は、過去六十年間にかってなかった最大の ひん まやメッテルニヒを非難する 危険に瀕している」。そうして三月革命の勃発でツキはおちた。い ちまた 声が巻にあふれる。こうしたあいだにメッテルニヒ個人に不幸がつづいた。最初の妻エレオノー 226

2. 悪人が歴史をつくる

高の裁判官、最高の軍隊指揮者、最高の財務官、最高の大臣であるのは、国家を代表するという 意味ではなくて、それによって、みずからの義務をはたすためのものでなければならない。彼の 国家の第一の奉仕者にすぎず、誠実に、思慮深く無私無欲に、つねにその同胞にたいして自己の 統治について弁明する義務を負う」と重ねてかいている。 だとすれば、フリードリヒの考えは青年時代から晩年にいたるまで変わらなかったとみるべき だろう。ヴォルテールやモンテスキューなどのフランス啓蒙主義者の感化もあるとはいえ、この ような考えを政治実践のうえに活かそうと懸命に努力した。「フリードリヒ二世はたんに将軍で あるばかりでなく、同時にサン・スーシーの人道的哲学者たらんとした。カエサルではなくてマ ルクス・アウレリウスたらんとっとめた。前者と後者とをむすびつけようとする困難が、彼の生 涯の問題性、最内奥の秘密をなす」 ( リッター『ヨーロッパとドイツ問題』 ) しかしだからといって、フリー ドリヒがフランス啓蒙主義者の過激派ルソーがとなえる人民主 さたん 権説に左袒したなどと早合点してはならない。国家や人民のための奉仕者であるとは、支配者を やめることを意味しない。独裁君主であることに依然として変わりはない。彼のモットーは「す べてを人民のため、されど何事も人民にはよらず」だったではないか。前冫 こ「一定の限度内ーと いったのはそのためだ。つまりは時代の限界に帰する。人民主義を大胆にうちだしたフランス革 命は、まださきのことなのである。フリードリヒの改革はあくまでも「上からの改革」であって 「下からの革命」ではなかった。当時のドイツにおいて「下からの革命」をのそむのは、どだい 円 8

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ロ ( スビエーノレ がけて投げる。母親らは小さな子どもを高くかかげる。青年たちはサーベルをひきぬき、父親ら の祝福をうける。号砲がとどろく。腹の底にひびくその音は、人民の感動に和する」 ( ミシ = レ 『フランス革命史』桑原武夫編、中央公論社刊〈世界の名著〉『ミシ = レ』所収 ) 一七九四年六月八日、「最高存在の祭典」当日の光景を叙したくだりである。人民史家をもっ てみずから任じたミシ = レらしい語り口だ。ところで、フランス革命の混乱の背後に見えがくれ する革命家のなかで、ロベス。ヒエールは、「革命のあらゆる体験を、これほど充実して生きとお したもの、または革命のもろもろの第一原則をこれほど潔癖に尊重して生きとおしたものはほか ( トムソン『ロ・ヘスビエールとフランス革命』樋口謹一訳、岩波書店刊 ) 。まさに「彼の人格は フランス革命そのものと一心同体である」 ( マ ルク・・フウロワゾオ『ロベスビエール』遅塚忠躬訳、 白水社刊 ) 。 エートル・シュプレーム 7 では、「最高存在」とは何か。がんらいこ 。ヒのことばはカトリックでは神を意味する。が、 ペ最左翼のエベールなどは反カトリック的立場か ら神を否定し、「理性の崇拝」をはじめた。パ リのノートルダム寺院が理性の寺院に変わった。 3 ロベスビエールは、そうした理性の崇拝がカト

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リ亡命 ホッ・フズの最初の政治的著作『法学要綱』 ( 一六四〇年 ) は写本のかたちで世間に流布した。グ 1 チ ( 『イギリス政治思想』堀豊彦 / 升味準之輔訳、岩波書店刊 ) によると、第一部「人間性」と第二 部「政治体」から成り、明晰と簡潔でひときわ目だっている。 = = ーカスル伯が公刊をすすめた のは、君主制を擁護するホッブズの説が、てつきり王党派に歓迎されるものとおもったからだ。 しかし彼にしてみれば、「特殊な利害関係をまったく超越して、義務の認識と自然法の原理以外 のいかなる根拠からも語られなかった」以上、王党派に歓迎されるなんて、ありがた迷惑なので ある。議会派ににらまれたりしたら事ではないか。 ホッ・フズは『法学要綱』をかいて間もなくフランスに亡命する。亡命しなければならぬほど情 勢が切迫していたわけではなかった。ただ、・ テヴォンシャー家の保護をうけ、同家を介して王党 派とよしみを通じているホッブズが、王権を擁護したとなれば、一六四〇年の暮れに長期議会が ズひらかれ、チャールズ一世と議会との関係が日ましに険悪化している折柄、無事ではすみそうに , ない。臆病風に吹かれ、一目散にフランスへ逃亡したというわけなのである。 リ亡命は一六五一年までつづく ( 五十二ー六十三歳 ) 。・・カーの『浪漫的亡命者たち』 ス は亡命者文学を論じた秀作だが、ツアー専制下のロシアの亡命文学者におけるような、はげしい 革命的情熱とか抑圧への反抗をホッ・フズに期待したら、当てがはずれる。熱狂ということをしら

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こそクロムウエル論がおのずと熱気をおびたのだろう。近年のクロムウエル研究が、クロムウェ ルを英雄化したり彼の宗教的情熱を賛美するかわりに、ビューリタン革命の政治的・経済的背景 『ジェントリの の解明を重視するのは、時節柄あやしむにたらない ( ヒル『イギリス革命』、 勃興』など ) 。だが事件の背景を精察しても、かんじんのクロムウエルの性格描写においてカーラ まさ ーヴァード大学の・フリントンが、『革命の解剖』におい イルにどれほど優っているだろうか。ハ て、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア革命の類型的研究をおこなった。そういう試みもけ っこうだけれど、やはり類型論では、革命に全生命を燃焼した人間は宙に浮いてしまわないだろ 、 0 こう・はう オリヴァ・クロムウエルはエリザベス女王時代がさいごの光芒をはなった一五九九年四月二十 ート・クロムウエルは独立派のビ 五日、イングランド東部のハンティンドンにうまれた、父ロ、、、 ューリタンで、ジェントリ ( 郷紳 ) 階級に属した。みずから額に汗してはたらかねばならないほ ど貧しくはないが、勤勉ではだれにも負けない中産階級だ。当時、イギリス下院にはこのジェン ト丿出身者が多く、清新の気にみちていた。厳粛な。ヒューリタン的信仰と勤勉な中産階級の家庭 そうした環境がクロムウエルのわかいたましいに感化をあたえたことは、想像にかたくない。 コモソウエルス そうした環境こそ、後年クロムウエルに、イギリス政治史上破天荒な共和政をたてさせる原動 力となり、また、十年間にわたる共和政治がイギリス精神に徴妙なかげを落とすことになる。 クロムウエルは一六一六年 ( 十七歳 ) 、故郷から程遠からぬケンブリッジ大学に入学した。ケン 148

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にほかならない。もうひとつ。オーストリアは多民族国家であって、ハンガリー人、ポーランド 人、チェコ人、南スラヴ人などが混在している。万が一、彼らのあいだに独立の気運が生じでも 2 したら、ハ。フスプルク帝国は瓦解のうき目にあう。青少年時代の体験からメッテルニヒは、フラ ンス革命の自由平等思想やナショナリズムに嫌悪と恐怖を抱いていた。ナポレオンが、ほんとう はフランス革命の児として自由平等思想をある程度実現したにかかわらす、とりあえず革命の混 乱を収東したことを、メッテルニヒは高く評価した。 かといって、ナポレオンの勢力があまりにも強大になるのは危険だ。オーストリアとフランス との対等の地位が脅かされるからである。つぎに警戒を要するのはロシアだ。アレクサンドル 世は、ナポレオン打倒に執念をもやしている。けれどもロシアも、フランスをたおすほど強盛と なってはならない。やはりオーストリアとの勢力均衡がやぶれるから。ナポレオンのロシア遠征 しゅそ にさいしてロシアにもフランスにも味方せす、いわば首鼠両端を持したのは、右のようなオース トリアの内政外政をにらんだうえでの深謀遠慮からだった。強国の勢力均衡のうえにオーストリ アの地位を確保し、時をかせごうという魂胆である。してみればヴィーン会議の指導理念は一朝 一タにできたものではなかったのである。 ナポレオンのように戦争に憑かれるのも厄介なら、ヨーロッパの救世主気どりのアレクサンド ル一世もこまりものだ。ここに冷静な国家理性の所有者メッテルニヒの面目が躍如としている。 「彼は原理のひとだが、けっして狂信家ではなかった」 ( ( ルタウ ) 。彼はフランス大使および外相

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メッテルニヒ である」として奔放かっ精緻に政治勢力の均衡保持に策謀した政治的人間。四大国の足並みがそ ろわぬのに乗じて敗戦国フランスに有利な条件をとりつけた、煮ても焼いても食えない男である。 役者が勢そろいしたところへ、三つのすなわちワイン、ワルツ、女がからな。物語作家が食 といって、拙著は、ヴィーン会議や列強のかけ引きをしるそうと 指をうごかすのもなりがない。 ウィーン会議の主宰者の一代を、なるべく客観的にみようとするのである。 するものではない。・ 「党派的なめがねなしに歴史的なすがたをみる、つまりメッテルニヒの人格を偏見によって煩わ されずに叙述するのは骨が折れるーと ( ルタウもいっているが ( 『メッテル = ヒ』 ) 、じっさい彼く らい誤解にさらされた政治家はいないだろう。 手八丁ロ八丁の外交家 ・メッテルニヒは、ドイツのライン地方の名門貴族の家 クレメンス・ヴェンツェル・ロター に一七七三年五月十五日に出生した。今夏の旅でトリアーからモーゼル河下りをした。ライン河 と落ち合う地点がコブレンツ。すなわちメッテルニヒの生地だ。父はオーストリアの外交官であ アンシャン・レジーム った。旧制度下の爛熟した貴族生活のうちで成人し、一七八八年秋 ( 十五歳 ) にストラスプー ル大学に法学を学ぶ。翌年フランスに革命が勃発して地方にも波及する。彼はフランス革命から 、つこ。「革命は破壊するが創造しない」。父がオーストリア 9 深刻な印象をうけた。口癖のようにしナ 領ネーデルラントの総督になると、ストラス・フールからマインツ大学に移ったが、フランス軍が ワイプ

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メッテルニヒ体制の二大眼目は、正統主義と大国を中心とする勢力均衡である。正統主義とは、 フランス革命以前の王朝を復位させて革命前の領土を統治させる、という原則だ。メッテルニヒ 2 をはじめ各国君主は、革命に恐怖心を抱いた点では符節を合わせた。フランス革命を否定して旧 体制を復活しようとする以上、とうぜん復古調をおびる。だが、いったんおこった出来事をおこ ほうはい らなかったとすることはできない。じじつ、革命運動と民族主義運動が各国で澎湃としておこっ てくる。それらをカずくで抑えようとするのだから、反撃も強い。勢力均衡はヴィーン会議にお いてはじめてとられた原則ではない。しかしヴィーン会議では露骨にあらわれ、小国を犠牲にし て大国間の利害調停、勢力均衡がはかられたのであった。要するに、正統主義と勢力均衡は、ヨ 1 ロッパに秩序を回復し、ヨーロッパの平和を確保することをねらったものだ。 メッテルニヒ体制への批判 こういう次第だから、いや、だからこそ、メッテルニヒ体制はさまざまな批判を浴びた。まず その保守反動性である。十九世紀における自由主義や民族主義運動の高揚期において、これらを 弾圧した元凶とみなされた。革命家がメッテルニヒを目の仇にしたことは、マルクスおよびエン フラ メッテルニヒとギゾ ゲルスの『共産党宣言』 ( 一八四八年 ) のはじめに「教皇とツアー ンス急進派とドイツ官憲」と槍玉にあげられているのでもわかる。つぎに、メッテルニヒ体制が 未曾有の混乱状態を収拾して新しい国際秩序と平和をもたらしたとする点だ。じつのところ、大

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この貴族青年にあまり関心の的とならなかったようである。同年末、のちに妻となるカロリーネ ぎんしつ との交際がはじまり、彼女をとおしてシラーを識る。フンポルトとカロリーネは琴瑟あい和し、 交わした書簡集は十七巻に達する。翌一七九〇年五月にベルリン市裁判所の陪審判事に任命され たが、官僚主義にふつふつ嫌気がさして一年でやめる。カロリーネと結婚 ( 一七九一年 ) してから は、・フルク = ルナーの領地に住んで思索と著述生活を送る。ますます過激化したフランス革命に 注目し、政治学の処女作『フランス新憲法によって誘発された国家憲法』 ( 一七九二年 ) をかく。 一七九四年二月にイエーナに居をかまえ、その地にいたシラー シラーを介してヴァイマルの ゲーテと親しく交わる。シラーが創刊した『ホーレン』誌を援助し、たびたび古代史や美学の論 文を寄稿した。彼の名を政治思想史上不朽にした『国家活動の限界』は、シラーのすすめで印刷 に付したものだ。その後、一七九七年から一八〇一年にかけてフランスやスペインに旅をし、諸 民族の言語に興味をもつ。これが後年の言語研究の端緒になった。一八〇二年にプロイセン政府 の命で、。フロイセンのローマ駐在公使になる。これまでをフンポルトの精神的発展における第一 期とみなすことができる。 この期における彼の考えをしるには、処女作『フランス新憲法』と『国家活動の限界』をみる しようけい のが最捷径たろう。たとえば「政府は国民の物質的および道徳的な幸福や安寧について配慮せね ばならぬという原理は、不愉快きわまる、重苦しい専制主義だ。なぜというのに、 こうした抑圧 の手段はきわめて陰険、きわめて複雑だったゆえに、人間は、自分では自由と思いながら、しか 232

10. 悪人が歴史をつくる

迅速、峻厳、不屈なる正義であり、したがって徳の発現現象のひとつなのだ。恐怖政治はこうし て道徳的にも是認される。ダントンは悪徳にたいして寛容であった。だから死すべきだったので ある。だとすればロベス。ヒエールは冷酷な現実主義者であった以上に熱烈な理想主義者だった、 といえるだろう。 独裁の終わり ロベスビエールの独裁が、「最高存在の祭典」後あっという間に終わりをつげた理由について、 これまたフランス革命史家は甲論乙駁だ。いちばんわかりやすい説明はこうだ。「過度の大恐怖 政治を前にして、民衆の心をみたしている一種嫌悪の情を、ロベスビエールの敵どもは一致して 利用したが、この大恐怖政治の責任を、最後の大殺戮のときにはすでに公安委員会にはいなかっ たにもかかわらず、ロベスビエールのものとした」 ( ポール・ニコル『フランス革命』金沢誠訳、白水 社刊 ) 。敵どものなかには有産ブルジョアジーがいた。彼らは、革命がこれ以上ロ・ヘスビエールの 方向にすすむならば、私有財産制の否定になるのをおそれた。こういう革命の力学を、明敏な、 というより自己の原理に固執するロベス。ヒエールは看破することができなかったのである。同志 モソター - 一ユ 。ヒの山岳派には、フーシェやタリャンのような油断も隙もない人物がいる。もっとも頼りにした公 ス べ安委員会のなかでも、心をゆるせるのは、わかい闘士サンジュストやクートンぐらいしかいな ロベス。ヒエールは薄氷をふんでいたことになる。