ーコン - みる会図書館


検索対象: 悪人が歴史をつくる
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1. 悪人が歴史をつくる

か。もっとも、毒にも薬にもならぬからこそ、いまもって通用しているのだろうが。 ーコン随筆集』はイギリス文学史家ご自慢の作品であって、手もとにあるモーリ編のものに も「べ ーコンの随筆集は、われわれに稀有な知力の人による生活の助言をうち明けてくれる」と、 まるで鬼の首でもとったような喜びようだ。 最初の十篇は一五九七年にでたから、モンテーニュの『エセー』 ( 一五八〇年 ) をまねたのは明 らかだが、率直にいって、いまひとっという感じがする。とはいえ、ゆたかな人生経験も要約す れば簡単になる、ちょうどさまざまな絵具をぬってゆくと黒灰色ひと色になるように。見かけが 単純だからといって、著者まで単純素朴ときめつけることができるだろうか。とつおいっかんが えていると、疑問がつぎつぎに浮かび、べーコンという人物がにわかになそめいてくる。『随筆 コンという人よ、、 ーコンだけれど、べー ドをしつかな本心を見せよう 集』の著者はまぎれもなくべ A 」よしよ、。 きよほうへん なそめくといったが、べ ーコンくらい毀誉褒貶あい半ばする人物はまれだろう。学問研究では いまさらいうまでもない。文 断然、当代の第一人者である。イギリス経験論の祖であることは、 人としても一流であって、「べーコンⅡシェイクスビア」説をとなえる学者が跡をたたない。彼 のすぐれた知性は、イギリス人のみならず、多くの批評家が声をそろえていっている。 ひるがえって、こうしたべ ーコン神話のヴェールをはぎとるのは、とてつもない浪費癖、過大 な政治的野心、目にあまる猟官運動、忘恩の振舞いといった、道徳的欠陥だ。彼の天才をもって

2. 悪人が歴史をつくる

フランシス・のく一コン とんなに平凡な人生にも、他人のうかがいしれぬ しても、この道徳的欠陥を帳消しにできない。・ しんえん 深淵があろう。ましてべーコンのような人物においてをや。この点、リットン・ストレーチのべ さいり ーコン評はさすがに犀利である。 ーコンの驚嘆すべき精神には、人の目のとどかない淵があり、見せか ストレーチによれば、べ けの浅瀬があって、それらが奇妙なもつれ方をしながら、この上もなく後世の観察者の目をくら ーコンを描写するに、極善か極悪か、いずれかのどぎつい色をもってするが、 ます。しばしばべ 実際としてそのような方法は、きわめて異常な彼の場合にはあてはまらない ( 『 = リザベスとエセ ックス』片岡鉄兵訳、風書房刊 ) 。 ーコンのような人物は、学問的偉業のみに着眼してほめちぎることも、道徳的欠陥の けだしべ みに着眼して品性下劣とすることも、当をえ ない。全体として、時代の光のなかで照らし ン コてみなければならない。時代とは、エリザベ ベス朝のルネサンスだ。ひっきよう、エリザベ シス時代、この時代の人間の生きざま死にざま ーコンの人 を明らかにするのでなければ、べ フ と為りに断をくだすことはできないのではな , か〉つ、つ、か 0 ふち 5

3. 悪人が歴史をつくる

スコラ哲学に反撥 フランシス・べ ーコンは、シェイクスビアの出生三年前、エリザベス一世即位後二年の、一五 ー・ニコラス・べーコンは、エリザベス女王の 六一年一月二十二日、ロンドンにうまれた。父サ もとで国璽尚書とか枢密顧問官とかの要職についた、高名な政治家である。母アンは、かって先 しふ 王エドワード六世の師傅となった、サー・アントニー ・クックのむすめだ。ギリシア・ラテンの 古典の教養がゆたかで、篤信なカルヴァン教徒だった。姉がウィリアム・セシルの夫人である。 ここう セシルはエリザベスに四十年間も仕えた股肱の臣だ。したがってべーコンは、当時のイギリスに おいて望みうる最高の家柄、政治的環境、知的雰囲気のうちにそだったことになる。 べーコンの幼時についてはあまりしられていないけれど、たいへんな早熟児だったらしい。八 歳のとき、父につれられて女王に拝謁した。女王は彼をからかって「小さなロード・ さいづち ん」とよんだとったえられる。十一歳ごろの半身像をみると、才槌頭をし、目から鼻にぬけるよ うな顔だちた。エリザベスは何気なしにそうよんだのだろう。よもやべーコンがのちにロード・ ーをとびこえてロード・ チャンセラー ( 大法官 ) にまで栄達しようとは、見ぬけなかった えこじ にちがいないから。これから先、エリザベスが依怙地になってべーコンの出世をはばんだのは、 こわっぱ なにか油断のならぬものをこの小童にかぎつけたからとは、ありそうなことである。 ( 父ニコラスは前妻とのあいだに六人の子女をも コンは兄のアントニ 一五七三年 ( 十二歳 ) 、べー 6

4. 悪人が歴史をつくる

にかえる。父の急死はべ ーコンに手いたい打撃だった。もう少し長生きしてくれたら、親の七光 りで身のふり方がきまろうものを。もっと不都合なことに、父は遺言状をつくる間がないほど急 逝したため、べ コ ーコンには雀の涙ほどしか財産がゆすられなかった。うまれつき浪費家のべー ンに、そんなわずかな遺産ではどうにもならぬ。 徒食するわけにゆかないので、グレーズ・イン法学院にはいって法学を修め、一五八二年に弁 護士となる。そして八四年には下院議員にえらばれ、八六年、八八年にも改選された。八六年の ときは、下院においてメアリ・ステ = アートの処刑に賛成演説をおこなった。 一五八八年といえば、あの歴史的なスペイン無敵艦隊撃減の年だ。だが、下院議員ぐらいでは べ ーコンの功名心をみたすにたらない。もちっとましな官職につきたいし、それには有力なコネ もある。ここもとイギリス政界で羽振りがいし , ーリー卿ウィリアム・セシルは伯父ではないか とはいうものの、 ーがべ コンよりも、くる病の自子ロ。 ートのほうをひいきにするのも 親ごころたろう。べ ーコンがただの鼠でないとしるだけ、いっそう警戒心をおこす。こうして・ ( ー親子とべ ーコンとのあいたに確執が生する。く ー頼みがたしとみて、あらたなパトロ ンを物色する。打った網にかかったのが、エセックス伯ロ・ ( ト・一アウレーミ」っこ。 眉目秀麗の = セックス伯が = リザベスの寵愛をほしいままにし、一五九一年にべ ーコンが伯の 顧問となってからというもの、エセックスは智謀の将をえてめきめき勢いをまし、 しのがんばかりになる。べ コンの腹の内は、エセックス伯を、、ハ ーの当て馬に仕立てつつ、 8

5. 悪人が歴史をつくる

ーコンは女王の顧問に任命 けれど、心中はおだやかでなかったろう。『随筆集』がでたあと、べ されたが、とるにたらぬ官職で給与もない。鬱憤の晴らしようもないうちに、ドラマは進行する。 君寵をあつめていた一セックスがエリザベスの寵をうしない、ついに一六〇一年二月に斬首され るにいたナ この一件、かならすしも青天の霹靂ではなかった。べーコンはかねがね危険のきざしをみとめ カエセックスが反逆罪に問われると、多年の友情と恩顧を てエセックスに忠告していたのだ。・、、 弊履のごとくにすて、エリザベスの命によってエセックスを告発する。べーコンは名うての雄弁 きすう 家ときている。そういう彼が、あらんかぎりの知恵をし・ほってさばくのだもの、帰趨は明らかで ーコンがののしられるのは、こうした恩を仇でかえす仕打ちのためだ。友情や恩義は あろう。べ 私情、国法で反逆人をさばくのは公的義務、とわりきったのだろうが、このさい、女王のご機嫌 を直しておこうという魂胆がなかったといったら、ウソになる。が、目算ははずれた。エリザベ スから報酬はもらったが、それ以上とくべつに目をかけられない。べーコンとはよくよく肌が合 わなかったようである。 成功と失脚 このような愛憎劇は、しかし一六〇三年三月に、女王の崩御で幕をひく。ということは、ペー コンは、 コンの生活の転機を意味する。じじつ、エリザベス在世ちゅうには芽がでなかったべー へぎれぎ 叫 0

6. 悪人が歴史をつくる

ーコンは伝記資料に事欠かない。断簡零墨とまではゆかないにせよ、主要著作はもち べると、べ ろん、演説や書簡もたくさんのこっている。 ーコン全集』にあたってみた。ちかごろ 先日、大学の書庫にでかけ、スペディング編集の『べ ーコンをよむひとはいないらしく、ほこりをかぶっていた。全集は、一ー十巻が哲学的著作、 十一ー十三巻が文学的著作、十四ー十五巻が職業的著作というふうになっていて、十六世紀の哲 学者にしてはめすらしく完備している。伝記的研究もそのおかげを蒙っているのだろう。だがべ ーコン哲学を論じることは筆者の柄でないし、その要もない。 べ ーコンは直接にイギリス史を動かした人びとに属さないけれど、彼の業績は近世西洋哲学史 上画期的な意義をもっから、『ノヴム・オルガヌム』第一巻ちゅうの一句をあげることは、最小 限必要であろう。 いったい中世人は、自然というものを詩の対象とこそすれ、科学の対象とはしなかった。いや、 できなかった。教会がきびしく禁じていたからだ。ルネサンスは人間を宗教から解放したように、 コ自然をも解放しはじめた。宗教的な先入見や教会の禁令を排して、自然をあくまで客観的に考察 べしようとしたのである。ところで近代的な自然研究の特色は、観察と実験にある。この両者を学 コンにほかならない。 シ問研究の根本原理としたのがべー ン ラ彼は『ノヴム・オルガヌム』において「知はカである」といった。なぜ、知はカなのか。・ヘー コンにとって、知識はけっして自己目的ではない。それは力をうるための、いちばん有効な手段 叫 3

7. 悪人が歴史をつくる

なのである。人は多くしればしるほど、なしうることも大きくなる。けだし、物事は理解してこ そ支配することができるのだから。十分に腑に落ちてから着手するのでなければ、失敗するのは 理のとうぜんである。 こうしてべーコンは、実生活と関係のない学問、すなわち机上の空論や書斎の学問を攻撃して やまない。学問は、実生活へはいりこんではじめて、学問のほんとうの使命である活動性を発揮 するのだ。期せすしてイギリス人の実際的精神をいいあらわしたものだが、これを安手な実用主 義とみてはならない。べ ーコンは学問とむすびつけることが本意なのではなかった。背後でもっ と広闊な文化全体の進歩発展をかんがえていたにちがいない。力としての知識を利用するのは、 自然を征服して人間の意のままに支配するという大目的をとげるためにほかならない。それでこ そはじめて、人間を苦しめてきた自然の災厄からまぬがれることができるのではないか。浅薄な 実用主義者・功利主義者ではなかった、べ コンは 0 このように観察と実験を近代科学の原理とみなしたとはいえ、ペ ーコンは数学は苦手だったし、 当時の発明・発見にもかくべっ注意をはらわなかった。経験論の祖とすることに疑問を抱く哲学 史家もいるかもしれない。だからといって、べ ーコンの偉大さを否定するひとはいないであろう。 哲学者ヴィンデル、、ハントがうま い比喩をのべている。「こんにちの自然科学者に、べ コンが たてた諸規則が陳腐におもわれ、あたかもとっくの昔にき古された子供の靴のように見えるの は、驚くにあたらない。だが、こうした陳腐なことが当時の苦心の所得であり、方法論上の一大 こうかっ

8. 悪人が歴史をつくる

ステュアート家のジェームズ一世が即位するにおよんで急にツキがまわってきた。その次第を一 しやせんり 瀉千里にしるすと、こうだ。 ジェームズ即位後、ほどなくしてナイトに叙せられる。一六〇六年、ロンドン商人のむすめ、 アリス つも目のうえのたんこぶになっ ーナムと結婚する ( 四十五歳 ) 。一六一二年五月に、い ていたロバ ート・セシルが死去した。べ ーコンは王に「陛下は偉大な臣下を失われました」など と、殊勝なことをいっているが、こんな皮肉もつけ加える。「彼はものごとを悪い方へ変えるの から守るには適任でしたが、より良い方へむけるには不適任でした」 こうして一六一三年には検事総長となり、二十年来の念願をはたす。ジェームズ一世は「もっ とも賢明なる愚者」と称された王である。べ ーコンとどうウマが合ったのか、昇進はなおつづく。 一六一七年三月には父ニコラスと同じく国璽尚書、一八年一月にはついに大法官に任じられ、ヴ エルラム男爵をたまわり、二一年一月にはセント・オル・ハンス子爵に昇叙される ( 六十歳 ) 。いま くらい や、位人臣をきわめた。何事もおこらなかったら、円満に政界を引退できただろう。 ン しゅうわい さいおう コ だが、人間万事塞翁が馬だ。数日後、下院大法官法廷審判委員会において収賄の疑いで訴えら はくだっ れる。有罪の宣告をうけ、すべての公職を剥奪されたうえ、ロンドン塔に送られる。大法官トマ けきりん シス・モーアはヘンリ八世の逆鱗にふれて首をはねられた。けれどもモーアは、「わが命つきると ン ラも」節をまげない高潔の士であって、・ヘ ーコンと同日の談ではない。 チャーチは「べーコンの唐突な予期しない失脚は、なお不完全にしか理解されていない、当時 141

9. 悪人が歴史をつくる

値ある目的と希望を達したときに洩らす〈今コソ神ハ我ヲ往カシム〉ということばであるーと。 三十年後、とうとうどたん場にきた。 ていねん しかしべーコンは、静かな諦念のうちに瞑目したであろうか。まだまだこの世に執念をもやし ていた、そう想像するほうが、知識欲のかたまりみたいな人物、生涯アクの強かった人物に、ふ さわしいようにおもわれる。べーコンはつづけてかく。「なお死には、善い名声の門をひらき、 せんぼう 羨望嫉妬を打ちきるという利点がある。〈同ジ人モ死後ニハ愛セラルペシ〉である」 私感をいわせてもらえば、べ ーコンの偉大さを承認しながら、この一筋縄でゆかなかった人物 に、どうしてもなじめないのである。 - ようじ ストレーチは「瞑想的な超越、個人的な矜恃の強さ、官能の不安定、野心の執着、鑑賞力の豊 せんこう 富 これらの諸性質が、混合し、よりみだれ、ともどもに閃光を発しながら、彼の神秘な精神 に、蛇のように徴妙に光る皮膚をあたえた」という。つまり筆者には「蛇のように徴妙に光る皮 膚」が、薄気味わるくて仕方がないのである。 146

10. 悪人が歴史をつくる

ーコンなら、収賄ぐらいやりかねない。 のもっとも奇態な出来事のひとつだ」といっている。べ しかし事情は、二かける二は四、といった簡単なものでなかったようだ。ジェームズの専制政治、 議会操縦、贈収賄の横行など、委細を検討してみないと、真相はつかめない。あえて推量すれば、 ジェームズの失政にたいする議会の糾弾がべ ーコンへの反感と重なったのではあるまいか。大臣 コンが、 や高官が多かれ少なかれ収賄行為を犯していたから、累が彼らにおよぶのをおそれたべー すすんで人身御供になり、だまって罪に服したのではないか。 コンは もしかしたらジェームズとのあいだに暗黙の了解がついていたのかもわからない。べー しごく寛大な罰をうけるにとどまった。ロンドン塔からも数日で釈放され、罰金を免除されたど ころか、王から年金さえうけたのだから。 経験論の祖 べーコンは死去するまでの五年間、ゴランべリの邸宅で著述にふける。彼の著述活動はエリザ ベス時代にはじまっているが、『随筆集』のほかには、これそというものがない。・ シェームズ一 世の時代になって『学問の進歩』『古代人の知恵』 ( 一六〇九年 ) 、最重要作『ノヴム・オルガヌム きび ( 新機関 ) 』 ( 一六二〇年 ) 、『ヘンリ七世統治史』 ( 一六二二年 ) を出した。モーアの驥尾に付したユー トビア小説『ニュ ・アトランティス』は死後の出版 ( 一六二七年 ) である。 同時代人シェイクス。ヒアが、史上最大の劇作家でありながら伝記的事実が分明しないのにくら 叫 2