の生活とのあいだには、はなはだしいへだたりがあって、当然なされるべきことのために実際に なされている事柄をかえりみないときは、自分の生存を維持するどころか、かえって早く破減を かいしゃ まねく」とは人口に膾炙した一節で、いっさいの幻想を排するマキャヴェリのリアリストの面目 が躍如としている。 これに反して「ユート。ヒア」というのは、がんらいギリシア語の「ウトーポスーに由来し、 「どこにもない場所」、つまり現実には存しない理想郷を語ったものである。遠くはプラトンから 現代のユートビア文学まで、ユートビア思想の系譜は長い。モーアは、単刀直入に「ユートビア」 冫いたとき、エラ を自己の著作の表題としたのである。前言したとおり、モーアがアントワープこ スムスの紹介でペータ ー・ヒレスという名の青年と懇意になり、さらに彼の紹介でラファエル・ ヒュトロダエウスという老人に会った。ヒュトロダエウスは探険家アメリゴ・ヴェス。フツツイと いっしょに航海した。当時は地理上の発見時代だったことを想起されよ。ヴェスブツツイとわか れてから、彼は処々方々を遍歴し、大西洋上の絶海の孤島に理想国ュートビアをみつけ、この国 ア 一のものがたりをモーアに聞かせた。むろん架空の人物であり架空談なのだが、時代の背景からす と れば、根も葉もないことではない。 ヴ対照的な例をもうひとつ。マキャヴェリがえがいた君主像はこんなふうだ。「君主は、獣と人 キ間との両方法をよく使いわけるすべを知っていなくてはならない。そこで、君主がとくに獣の方 おと 法をとらねばならぬ場合には、彼は狐と獅子をえらぶべきである。獅子は陥し穴にたいしてみず 9
メッテルニヒ である」として奔放かっ精緻に政治勢力の均衡保持に策謀した政治的人間。四大国の足並みがそ ろわぬのに乗じて敗戦国フランスに有利な条件をとりつけた、煮ても焼いても食えない男である。 役者が勢そろいしたところへ、三つのすなわちワイン、ワルツ、女がからな。物語作家が食 といって、拙著は、ヴィーン会議や列強のかけ引きをしるそうと 指をうごかすのもなりがない。 ウィーン会議の主宰者の一代を、なるべく客観的にみようとするのである。 するものではない。・ 「党派的なめがねなしに歴史的なすがたをみる、つまりメッテルニヒの人格を偏見によって煩わ されずに叙述するのは骨が折れるーと ( ルタウもいっているが ( 『メッテル = ヒ』 ) 、じっさい彼く らい誤解にさらされた政治家はいないだろう。 手八丁ロ八丁の外交家 ・メッテルニヒは、ドイツのライン地方の名門貴族の家 クレメンス・ヴェンツェル・ロター に一七七三年五月十五日に出生した。今夏の旅でトリアーからモーゼル河下りをした。ライン河 と落ち合う地点がコブレンツ。すなわちメッテルニヒの生地だ。父はオーストリアの外交官であ アンシャン・レジーム った。旧制度下の爛熟した貴族生活のうちで成人し、一七八八年秋 ( 十五歳 ) にストラスプー ル大学に法学を学ぶ。翌年フランスに革命が勃発して地方にも波及する。彼はフランス革命から 、つこ。「革命は破壊するが創造しない」。父がオーストリア 9 深刻な印象をうけた。口癖のようにしナ 領ネーデルラントの総督になると、ストラス・フールからマインツ大学に移ったが、フランス軍が ワイプ
さえ外国軍が侵入する。そういうとき、アレキサンデルの荒療治はある程度やむをえなかったの ではないか。有名なサヴォナローラ事件にしてもそうだ。 修道士サヴォナローラは一四五二年に北イタリアのフェラーラにうまれ、ドメニコ派の修道院 生活を送ってから、一四九一年にフィレンツェにきてサン・マルコ修道院長になった。彼はロー マ教皇と教会の堕落を非難し、火のような熱弁をふるったのである。 一四九四年秋、フランス国王シャルル八世がイタリアに侵入した折、フィレンツェでは、それ まで独裁政治をしいていたメディチ家が追放されて共和政府が復活した。サヴォナローラはこれ を指導して一種の神政政治を行なおうとした。・ : カ反対派の反撃にあい、けつきよくアレキサン デル六世によって異端者と宣告され、一四九八年五月二十三日に火あぶりの刑に処せられた。ア レキサンデルに末代まで汚名をきせた事件であるが、。フロテスタント側からみたら、この宗教改 革の先駆者を殺したアレキサンデルは憎つくきやつだろうし、ローマ教会側からみたら、反教会 運動を放置しているわけにゆかない。。フロテスタント側もカトリック側も、まっとうな判断がで きないのである。 アレキサンデル六世は道徳上では弱点だらけだったけれども、政治家としての才能をもってい た。教皇国家はアレキサンデルによって大いに拡大強化されたからである。もっとも、長い目で みればイタリア全体の歴史にとって幸であったか不幸であったかは、問題だろうが。時は新航路 開拓の時代にあたり、新発見地をめぐってスペインとポルトガルとが争った。アレキサンデルが
諷刺による教会批判 うだい 彼は厖大なラテン語の著作をあらわしたが、大学の書庫あたりで棚ざらしになっていて、篤志 家でないかぎり、ひもとこうとしない。ただ、『痴愚神礼讃』 ( 一五〇九年、渡辺一夫訳、岩波文庫 ) と『平和の訴え』 ( 一五一七年、輪三郎訳、岩波文庫 ) はっとに邦訳され、案外に人気がある。そ れというのも、この諷刺文学の傑作と平和論は、四百数十年のへだたりをこえて私たちに共鳴で モリア きるものをもっからだ。痴愚女神に語らせるつぎのことばを、かんがえてごらんなさい。思いあ たるふしがあるのではなかろうか。エラスムスによれば、ひとが結婚するのも痴愚からである。 しつこく 「結婚というものの不便不都合を予め計算できていたら、一体誰が結婚などという桎梏に首を突 っこむようなことをするものか。子供を産むのにどれくらい危険があるものか、またそれを育て もと あげるのにどんなに疲労するものかを篤と考えたなら、一体どこの御婦人が殿御の許へ行くでし ようか ? 皆さんの生命は結婚のお蔭でできたのでしようが、結婚する気になれるのも、私の侍 ア / ィア 女の無思慮のお蔭なのですー こうしてエラスムスの諷刺は人生万般におよぶ。とうぜん「ルネサンス的教皇」にも。「現在 では、教皇のお役目中一番骨の折れる部分は、お閑な聖ペテロや聖パウロに大体任せ切りにし てありまして、教皇様のほうでは、豪華なお儀式やお楽しみのほうを受け持って居られます。従 って私 ( 痴愚神 ) のお蔭で、教皇様くらい楽しい生活をしている方々はいません」。「軍人教皇」
ひきいて二十一年にわたる長期安定政権を維持することになる。ドイツうまれのジョージはほと んど閣議に出席しなかったから、いきおいウォルポールが議長をつとめ、ここにプライム・ スターという称号が生じた。彼はイギリスにおいて事実上さいしょの総理大臣である。 新内閣にはタウンゼンドも国務相になっていたが、このとき、彼らの地位は逆になっていた。 「この商会はウォルポール・アンド・タウンゼンド商会であって、タウンゼンド・アンド・ウォ ルポール商会ではない」。そして大臣の選択や任命は彼の一存できまった。ノーフォークの田舎 地主がここまでのしあがったのだ。 島国的幸福国家の実現 ウォルポールの生涯を追うわけにはゆかない。彼の政治生活は波瀾にと・ほしいからだ、さいご の数年間をのそいては。そういう政治生活の静穏は、イギリスの安定と重ねあわせになっている のである。グリーンもいっている。「二十年以上におよぶ彼の長い統治のあいだ、ほとんど歴史 がなかった。あらゆる立法的・政治的活動は、彼が職につくと休止してしまったように思われた。 年一年と、なんの変化もなしに歳月はすぎさった」。むろん、外見にすぎない。 ポ料理の名人が包丁の冴えをみせるようなあんばいに政務を片づけたから、なんの苦労もしていな いようにみえるだけ。じつのところは、きたるべき時代のために準備していたのである。 ウ アン女王の治世は、ルイ十四世がおこしたスペイン継承戦争の期間 ( 一七〇一ー一四年 ) とだい はらん ウォルポールま、
ムなどは、マキャヴェリ本人とは縁がない、ということになろう。君主・政治家は、自分のこと は棚にあげて、いっさいの責任をマキャヴェリに転嫁しているのである。 最大の頌辞 とかくするうち、一五一二年に異変がおこる。放逐されていたメディチ家が勢力をもりかえし、 ロレンツオの三男ジュリアーノがフィレンツェに戻ってきた。そこでソデリーニ共和政府がたお れんべい れ、腹心のマキャヴェリは連袂辞職するのやむなきにいたった。それのみか、反メディチ家の陰 謀が発覚し、これに加担していたという疑いをうけ、しばらく獄に投じられる ( 一五一三年二月ー ひっそく 四月 ) 。もう政界に返り咲く見こみはない。 フィレンツェ近在のあばらやに妻子とともに逼塞する。 友人にあてた手紙がのこっていて、当時の手持ち無沙汰な様子をつたえている。一介の外交使節 とはいえ、かってはフランス国王、ドイツ皇帝、ローマ教皇、チェーザレ・ポルジアと堂々わた り合ったほどの男が、毎日、きこりと時をすごしたり、 いなかのうす汚い居酒屋でうさを晴らす ア 一ほかに能がないとは ! 四十四歳という脂ののりきったときに、政変のために無為の生活に追い A 」 やられたのである。屈託がないどころか、無念の涙をのんだことだろう。 工 ヴ しかしこうした不遇時代に、『君主論』や『ローマ史論』その他の重要な作品をかいたのであ キる ( 一五一三年ごろ ) 。世の中はままならない。以後の十四年間は、ときに生活の前途に光明がさ 3 したかと思うと、たちまち闇に消える。長年にわたる無理、貧困、落胆がついに生きる力をうば
ぬ、醒めた精神なのだ。それでも故国の政変に注意をはらってはいた。 内乱の勃発、クロムウエル軍の勝利、チャールズ一世の処刑、共和政の成立、クロムウエルの 独裁と、猫の目のように変わる政治情勢は、ホッ・フズの政治観察にまたとない機会を提供したで あろう。むろん革命のまっ只中においてではない、 リの安全地帯からだ、アウトサイダーとし て。 十一年におよぶ亡命生活は、だいたいにおいて快適だった。フランスは宰相リシュリューのも えんそう とで発展をとけ 。、パリはヨーロツ。ハ文化の淵叢の観を呈していたから、学問研究に打ってつけで あった。メルセンヌやガッサンディと旧交をあたため、自由思想家とも交際する。もうそろそろ 自己の体系を構築していい年ごろに達している。一六四二年にラテン語でかいてデヴォンシャー 伯に献じた『市民論』は、そうした体系への序論であって、『法学要綱』から『リヴァイアサン』 への橋わたしをなすといわれる。 リ生活は、だが愉快なことばかりではなかった。たとえばデカルトとの論争がある。光学に ひょうせつ かんしてデカルトがホッブズを剽窃者よばわりすると、ホッブズは負けていず、自分のほうに 分があると主張する。英仏の代表的哲学者はたがいに一歩もゆずらない。アランふうにいえば 「時に剣をふるって敵をたおす剛胆な武人」でもあったデカルトと、小胆なホッブズとでは、議 言がかみ合わないではないか。 そのころから彼の身辺がざわっいてきた。イギリスの亡命者が大挙。ハリにくる。ニューカスル 新 6
のべる必要があるまい ヴェルサイユ宮殿のシンメトリカルな構造は、まさにルイ十四世の生活をつらぬいた「秩序の もったい 格律」の表現でなくてなんだろうか。正直のところ、そういう格律、規律ずくめと勿体ぶりには うんざりするし、息がつまる。一見華麗な官廷生活も虚飾以外のなにものでもない。それはそう でも、「ルイ十四世様式ーが当時のヨーロッパ宮廷を支配し模範とされた事実は、これをみとめ なければならない。 栄光と悲惨 第三にルイのエネルギーは対外侵略戦争に放出された。というのは、「領土を拡大することは、 主権者にもっともふさわしい、もっとも気持のよい仕事である」 ( 一六八八年一月、武将ヴィラール 侯へのルイの手紙 ) から。ルイは戦争を偉大な国王の天職とみなし、情熱をかきたてられた。キリ スト教界における第一位という自己の王位の優越性の意識が軍隊にたいするルイの愛情をつよめ た、と歴史家はかいている。王は国家の財政経済を全面的に軍隊という栄光と権力の道具に従属 させた。威厳と名声を確保するために、しばしば戦端をひらいた。陸戦、海戦、商業戦、外交戦 世 四と、あの手この手を用いた。ここでは四つの陸戦について一言しよう。 前述したように、マザランのとぎにハプス・フルク家にたいするプルポン家の優位の基礎が成っ リー・テレーズがルイ十四世 た。スペインとの戦争の結果むすばれた。ヒレネー条約 ( 一六五九年、マ
代の研究』 ( 一七九三年 ) にいう。「古代知識は、個々の努力をひとつの全体に、もっとも高尚な目 的、いいかえれば人間のもっとも高く、もっとも調和のとれた完成という目的の統一にまで集め るために必要である」。このように政治論も古代研究も、フンポルトにおいてはひとつの根に根 ざしていることがわかる。 精神の王国 こうした第一期における考えを、時代の背景のもとにおいてみると、どうなるだろうか。非政 治的な、より正確にいえば政治にたいする無関心な性向が、フンポルトにかぎらず、当時のドイ ツの学者・文人の特徴だったことを思いだす。ドイツは中世いらいの国土分裂をなお持続してい ドリヒ二世没後はとみに生彩を欠いた。 た。希望の星とみえた。フロイセンにしてからが、フリー ナポレオンがこんな無気力な国をたおすのにさしたる苦労はいらなかった。ドイツの政治的無力 に失望したあまり、学者・文人は精神の王国に逃避した。外の生活がいかにみじめであろうと、 内の生活はゆたかにできるはずだから。十八世紀末から十九世紀はじめにかけてのドイツの古典 ほうじよう 哲学と文学の豊饒は、そうした政治の貧困の裏がえしだった、という説も一理がある ( ルカーチ 『ドイツ文学小史』 ) 。国家なき、もしくは国家に超然とした文化という考えが、ほかの古典主義者 と同じように、フンポルトをもとらえてはなさなかったのである。 べつにいえば、それは世界市民主義の時代であって、普遍人間性の追求がモットーとされた。 2 引
マキャヴェリとモア ンの修道院にはいって苦行生活をした。こういうヒ = ーマ = ズムとカトリック信仰との共存が、一 モーアの特徴をなしていて、いっさいの行動と思想はこの源から発しているのである。 リンカーン法学院で弁護士の資格をえたモーアは、一五〇四年に下院議員になったが、テ = ー ダー朝初代の王ヘンリ七世にたいして議会で反対演説をおこなったーーもうそのころから硬骨漢 いんとん の面目があらわれているーーーのがヘンリの不興をかい、議員をやめて隠遁生活を送る。たいそう 禁欲的だったので、友人たちは身の為をおもって、一五〇五年に結婚させた。長女マーガレット パーは彼女の はモーアの寵愛を一身にあつめる。モーアの最初の伝記をかいたウィリアム・ロー 夫である。 一五〇九年の秋にエラスムスが三度めのイギリス訪問をしてモーア家の客となる。滞在ちゅう に『痴愚神礼讃』をあらわし、これを友情の記念にモーアにささげた次第は、同書の献辞につま びらかだ。 するうち、ヘンリ七世の御代が終わり、ヘンリ八世が即位する。王はあたら英才を野におくの つらだましい 一は惜しいとおもい、宮中に召す。モーアは王の不逞の面魂をしってかしらずか、首をたてにふ 一五一一年にモーアは妻に死 らなかった。しぶしぶ承諾して、ロンドン市副長官の地位につく。 だんらん 別し、ある未亡人と再婚する。あらたな家庭団欒のうちに時がすぎてゆく。 一五一五年五月、モーアは思いがけない用件でフランドル地方におもむく。かねて羊毛取引を めぐってフランドル商人とロンドン商人とのあいだに悶着が生じていた。ロンドン商人の信望厚 や 125