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検索対象: 悪人が歴史をつくる
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1. 悪人が歴史をつくる

るというのである。 国民精神への方向転換 前言したようにフンポルトは一八〇二年に。フロイセン公使としてローマ教皇庁に出仕した。表 向きは政治家だが、ローマ滞在中、関心は政治でなくて古代研究にむかった。したがってこの第 二期に彼は美学、古代研究などで成果をあげたにかかわらず、政治思想では変化を生じたとはお もわれない。だが「彼のように純粋かっ熱心に、やさしくしかも同時に精力的に個性の秘密にさ ぐりいろうとしたひとには、個人のなかにもまた国民精神が、たんに個人の自由な社会的活動か かっ個人をこえて、確固たる歴史的生命として展開する現 ら咲きでるのみならず、個人の前に、 実的な真の国民的精神がはたらいているという考えが、いっかはあらわれねばならなかった」 ( マイネッケ『世界市民主義と国民国家』矢田俊隆訳、岩波書店刊 ) 。普遍人間的なものから国民的・国家 へきれき 的なものへの方向転換は、。フロイセン文部長官就任という青天の霹靂のような出来事をとおして 遂行された。フンポルトの精神的発展における第三期である。彼がローマで研究や著述に余念が なかったころ、。フロイセンはナポレオン軍にあえなく潰え ( イ = 1 ナの戦い、一八〇六年 ) 、フリー ドリヒ・ヴィルヘルム三世はベルリンを退去する。この年の十月にナポレオンはベルリンに入城 し、ここで大陸封鎖令を発布する。このような敗北にかんがみて。フロイセンの内政改革が焦眉の 急をつげ、一八〇七年にシュタインが首相になると、急遽、改革に着手する。改革は諸般におよ 236

2. 悪人が歴史をつくる

なものを期待したのであれば、それはお門ちがいといわなければならない。だとしたら、両者の 立場には根本的な食いちがいがあったことになる。そうはいっても、ルターの教会改革が、当時 のドイツが政治的・社会的に切実にのそんでいたものと合致したからこそ、あれほど急速に改革 説がひろがり、けつきよくドイツ宗教改革を成功させたのだ。とくに左翼的史家がルターを保守 反動よばわりするにも一分の理があるけれど、現代の社会通念から是非を論じるのはいかがなも のであろうか。過去の人物をみだりに現代人の心理から推しはかってはならない。彼らが彼らの 時代においてどうであったか、を問うべきであろう。 ヒューマニストとの訣別 さて、ここでエラスムスとルターとの宿命的対立を語らなくてはならないが、その前に、ルタ 、・、、レターカとうして ーの根本思想についてひとこと述べておこう。読者には退屈かもしれなしカノ エラスムスと対立するにいたったカが、わからないと思うからである。 いったいルターは、信仰や宗教生活を知的・合理的に基礎づけることには終始反対した。スコ ラ哲学に不満をもったのは、それが理性と信仰をむすびつけようとするためで、ルターにとって AJ ソラ・フィデ ムはつねに信仰が理性よりも上にあった。まさに「信仰のみ」なのである。このように信仰ひとす ス ラじに徹して知識を敵視することが、ルターのもっともいちじるしい特徴をなす。こうした特徴は いかにもドイツ的だ。ルターほど、良くも悪しくもドイツ的な人間をあらわしたものはいない。 かど

3. 悪人が歴史をつくる

あとがき 指弾される。私は彼らの悪業を弁護するつもりはさらさらない。マイネッケがいっているように、 「たしかに歴史においては権力政治や戦争も創造的な効果をもたらすことがありうるし、また時 として悪から善が、原始的なものから精神的なものが生じたこともある。けれどもこのような事 実を理想化することはい 0 さい避けなければならない」。にもかかわらず「イネ , ケは、生の経 験・歴史の経験は善と悪とのあいだに無気味な内面的連関があるのをみとめる。「そのなかで神 と悪魔が手をつないでいる」。それは「デモ = ー」とでもいうほかにいい ようがない。こうした デモ = ーや歴史的生の悲劇的アンティノミーを直視することによ 0 てはじめて、歴史の実相がと らえられるのではなかろうか。直視する醒めた眼が必要とされるゆえんだ。 さいごに、引用にあた 0 て、訳者のご高訳を拝借したことにお礼を申し上けたい。『歴史と人 物』編集部と書籍第三部にもたいへんお世話になった。 一九八四年三月 西村貞二 2 〃

4. 悪人が歴史をつくる

おこう 0 カルヴァンの教義の焦点は予定説にある。神は絶対で、人間の救いは神が予定している。「え らび」、つまり人間が救われるか否かは、はじめから神がさだめているのである。人間は無力で あって、ひたすら神の栄光をほめるべきだ。こうしてカルヴァンは、『旧約聖書』の預言者さな がらに命令する、神と神の代理人である自分へ絶対に服従せよ、と。シュテファン・ツヴァイク ばりにいえば、カルヴァンが成功したのはまさにこの絶対的確信、この大規模な偏執狂のおかげ、 だ。不屈の強直、まことに非人間的な、鉄のようなこの硬ばりが彼の勝利の秘密である。ひとり の人間を首領たらしめるのは、このような絶対的自己信頼であり、自己の使命の重要さにたいす る確信なのである。暗示の力をうけやすい人びとが帰順するのはけっして正しい人びとへではな くて、自己の真理こそ唯一の真理、自己の意志こそ世界法則の根本定式だと声明してはばからな 、大きな偏執狂たちへ、だ。 ( 『権力とたたかう良心』高杉一郎訳、みすず書房刊 ) じっさい、カルヴァンは偏執狂に類する性格たった。彼がさだめた道徳的規律は世にもきびし 工 ウ く、その履行は強制的である。だがこうした一見奴隷的な教義が自由の教義に飛躍するところに、 ム クカルヴィニズムの秘蹟がある。それというのも、「神の栄光のために」みずからすすんで力をつ アくすとき、積極的な行動性が生するから。不安とか悩みをたち、全力をあげて神に奉仕しようと するとき、戦闘的な行動力がおこってくる。このようなカルヴァンの峻烈な精神を直系において うけついだのが。ヒューリタンにほかならない。 こわ 151

5. 悪人が歴史をつくる

たい一致する。ウォルポールが下院にはいって ( 一七〇一年 ) 、陸海軍支払長官になった ( 一七一 四年 ) ときとも、合致する。したがって彼は戦争の全経過と、それがイギリスにあたえた経済的 打撃をしりつくした。 イギリス国民、とくに商工業者や地主階級はいま何をいちばん欲しているだろうか。ウォルポ ールによれば、対外的には平和を維持し、対内的には政局の安定と、経済的繁栄をはかることだ。 大陸の紛争にはたちいらぬのを上策とする。「この国におこりうるもっとも有害な事情は戦争の それである。けだし、戦争が継続しているあいだは、われわれは損失者でなければならぬし、戦 争が終わったときにも、大きな利得者になるわけにはゆかないから」 ウォルポールは読書ぎらいでとおっていたから、トマス・モーアの『ュ ート。ヒア』をよんだと は思われない。だが彼の平和主義は『ュート。ヒア』における島国的幸福国家をある程度まで実現 くちばし した。大陸の争いには喙をいれない。争闘的権力拡張のかわりに経済的勢力拡大をはかる。そ れは島国的政策の基調をなすはずだが、ウォルポールはこれを地でいった。彼は国民をして安ん どうもく じて生業にはげませた。じっさい、彼の時代におけるイギリス商工業の進展は瞠目すべきで、そ うした発展は彼の財政政策に負うところが多い。国債制度の確立、保護関税の撤廃、自由貿易の 実施、近代的税制の施行など、思いきった措置をとった。 注意してほしい。彼の平和主義はべつだん崇高な人類愛からおこったのでもなければ、深遠な 哲学からおこったのでもない。現実が何を必要とするかを見ぬき、これに対応する政治を行なっ

6. 悪人が歴史をつくる

は歴史離れしていた。歴史離れを歴史の物語性といってもよい 。もともと物語的歴史は、ある異 常な出来事とか非凡な人物に出会ったとき、好奇心から、あるいは後世にこれをつたえたいとい う欲求からうまれたものだ。歴史叙述としては素朴な形態だから、見誤りや聞き誤り、作者の故 わいきよく 意の歪曲が行なわれ、学問的に信用しがたい。しかしそのような欲求自体は健全なものなのであ る。そこに時として歴史感情が躍動していることは、たとえば物語的歴史の祖といわれるギリシ アのヘロドトスに明らかである。 近代にはいって歴史学が専門科学になればなるほど、良き意味における物語性を失っていった。 専門化した歴史学は、史実の究明に急なあまり、文学性とか物語性は学問の純粋性をそこなうと びゅうけん いった謬見すらもつようになった。いわゆる科学的な発展的歴史も、ほんとうは物語的歴史の要 素なしにすませることはできないはずなのに、そういう要素を非科学的として追放処分に付した ることが、科学的歴史を味もそっけもないものにした原因といえるのである。今日プームになって す いる思想史など、問題意識は鋭いけれど物語性に乏しいのではないか。 提 を もっとも、現代の歴史学や歴史家がもうストーリテラーに満足できなくなったところに十九世 活 復紀史学から現代史学への変化が端的にあらわれているといえなくもないが、ただつぎのことは思 歴い出す必要がある。すなわち、十九世紀最大の歴史家ランケは、「それが本来どうあったか」の 五ロ 客観主義、つまり「歴史そのまま」を標榜した歴史家であるが、彼の歴史叙述は物語性にとんで 3 物 いた。彼くらい伝記を書いた、あるいは叙述に伝記を挿んだ歴史家はいなかった。物語性が歴 さしはさ

7. 悪人が歴史をつくる

ーコンは伝記資料に事欠かない。断簡零墨とまではゆかないにせよ、主要著作はもち べると、べ ろん、演説や書簡もたくさんのこっている。 ーコン全集』にあたってみた。ちかごろ 先日、大学の書庫にでかけ、スペディング編集の『べ ーコンをよむひとはいないらしく、ほこりをかぶっていた。全集は、一ー十巻が哲学的著作、 十一ー十三巻が文学的著作、十四ー十五巻が職業的著作というふうになっていて、十六世紀の哲 学者にしてはめすらしく完備している。伝記的研究もそのおかげを蒙っているのだろう。だがべ ーコン哲学を論じることは筆者の柄でないし、その要もない。 べ ーコンは直接にイギリス史を動かした人びとに属さないけれど、彼の業績は近世西洋哲学史 上画期的な意義をもっから、『ノヴム・オルガヌム』第一巻ちゅうの一句をあげることは、最小 限必要であろう。 いったい中世人は、自然というものを詩の対象とこそすれ、科学の対象とはしなかった。いや、 できなかった。教会がきびしく禁じていたからだ。ルネサンスは人間を宗教から解放したように、 コ自然をも解放しはじめた。宗教的な先入見や教会の禁令を排して、自然をあくまで客観的に考察 べしようとしたのである。ところで近代的な自然研究の特色は、観察と実験にある。この両者を学 コンにほかならない。 シ問研究の根本原理としたのがべー ン ラ彼は『ノヴム・オルガヌム』において「知はカである」といった。なぜ、知はカなのか。・ヘー コンにとって、知識はけっして自己目的ではない。それは力をうるための、いちばん有効な手段 叫 3

8. 悪人が歴史をつくる

な眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える」と『手記』にかいているが、 はたして彼の死は安らかであったろうか。晩年に一種黙示録的な世界の破減をえがき、あらしゃ 洪水や竜巻の図をのこしたことをかんがえれば、レオナルドのこころは不安の極にいたかもしれ ・ハスの窓から遠ざかる城をふりかえりながらつぶやいた。「ヴァザーリは〈神的な人〉とよぶ が、レオナルドは〈もっとも人間的な人〉だったのではあるまいか」と。「レオナルドは芸術史 上のハムレットであって、われわれの各々は彼自身のために彼を改めて創造しなくてはならな い」 ( ケネス・クラーク ) もっとも人間的な人、 : カ筆者のレオナルド観の総括だ。 94

9. 悪人が歴史をつくる

う。べっしてナポレオン支配のために輪をかけたドイツの国民分裂を救うには、教育改革ほど、 うえん 迂遠に見えてそのじっ緊急のものはない。そういう改革を実施する段になれば、いやでも応でも 2 国家と国民と対面しないわけにゆかない。がんらいフンポルトを代表者のひとりとするドイツの 古典主義あるいは新人文主義は、貴族的色彩がこい。普遍人間性の理念など、一般の民衆にとっ たかね て、しよせん高嶺の花だったではないか。だがフンポルトが教育行政の責任者としてたったとき、 国民教育こそ最大の課題でなければならず、こうした教育は、貴賤貧富の別をなくして国民をひ とつにとけ合わせることを目的としなければならない。ここにおいて彼の貴族的人間育成 ( 教養 ) 理念も変わってこなければならない。かって青年時代に国家を人間育成の妨害者とみなしていた フンポルトは、 いまや国家政治生活との協力をとおして、またそれとの関連においてなしとげら れることを痛感するにいたる。ことばをかえていうなら、彼の育成理念はたんに享受者的である ことをやめて行動者的な性質をおびるようになる。まさに方向転換である。 ただ注意しなければならないのは、こうした国家政治生活との協力は、国家主義的ではないこ とだ。教育制度の整備は国民の各自が自発性・創造性をたかめるための助けをすることであって、 教育にたいする国家の監督権の強化などを意味しない。教育に国家的使命を負わせるというより、 むしろ国家に教育的使命を負わせることが、フンポルトの初等教育にかんする根本意見なのであ る。大学もそういう趣旨にのっとって運営されなくてはならない。『ベルリンにおける高等学術 施設の内外組織』 ( 一八一〇年 ) は論じる。「国家は大学をギムナジウムとしても特殊学校として

10. 悪人が歴史をつくる

史叙述の本質的な部分に属することを、身をもって証明していたのである。 それかあらぬか、最近、海外ではこのように精緻にな 0 たものの面白味のない歴史学に反省の 声があがっている。 ドイツの大手出版社として知られる。フロ。ヒレン社がちかごろ『プロ。ヒレン・ヨーロッパ史』を 出した。趣旨は物語的歴史の復活だ。著者のひとりディヴァルトがこう書いている。「ヘロドト ス以来、歴史叙述は物語芸術の一形式として行なわれた , ー・ - ・まる二千年以上を通じて。物語作者 はさまざまな意図をもった。慰めになる意図、弁明する意図、教化する意図といった具合に。と ころが近代歴史叙述がこの偉大な伝統を断った。歴史にかんする素朴な報告への信頼が失われ、 歴史家は意識的にそれと交渉を断 0 た。せまい意味における史料批判が歴史が何であ 0 たかを知 る標準とな 0 た。過去は歴史の史料によ 0 てしか伝達されない。かくて近代の歴史家は史料の辛 苦にみちた探究を事とするにいたった。だが、歴史は自然主義的な画家にたいする題材ではない のだ。歴史叙述においては模写は問題ではない。空想力のない歴史叙述においては、事実の羅列 を再現することすらまったく不可能である」 要は、物語的歴史の古い革袋に現代歴史学の新しい酒をいれることによ 0 て、一般読者の渇望 一般の人びとが望んでいるのは専門的歴史学ではないからーー・にこたえようとするわけであ る。『。フロ。ヒレン・ヨーロッパ史』が首尾よくいったかどうかは、 いま日炉うま い。かんじんなの は、現代歴史学への反省が物語的歴史の復活の呼びかけにあらわれていることである。 264