ハンセン病やベストにはおそけをふるう。風邪をひくのをおそれて旅行をやめる。睡眠はとくに 重大だった。いちど目をさましたが最後、もう二度とねむりにつけないから。 節制、清潔、すんだ空気、暑すぎても寒すぎてもいけない適度な気温ーーーが、彼の身体の、 や精神の衛生に必要であった。そんなきやしゃなからだで、よくもあれだけ住所をかえーーーイギ リス ( 一四九九年 ) からイタリア ( 一五〇六年 ) へ、ふたたびイギリス ( 一五〇九年 ) 、大陸諸国 ( 一 五一五年 ) やスイス ( 一五二一年 ) へ・ー・・・・・旅の難渋に耐えられたものである。 住所不定の暮らしのなかにあってエラスムスは、しかし古典および神学の研究に孜々としては げむ。明敏な頭脳と類いまれな巧妙なレトリックは、ついに彼を「北方ヒューマニズムの王者」 におしあける。一五一七年前後は名声の絶頂に立ったときである。ドイツ皇帝、イギリス王、諸 侯、大学が辞を低うしてまねく。だがいっさい応じない。自由をしばられるのをおそれたからで ある。意気投合して終生の交わりをむすんだのは、イギリスのトマス・モーア エラスムスは 友情の記念に『痴愚神礼讃』をささげたーー、晩年をすごしたスイス 2 ハーゼルの出版業者フロ せぎがく べン、ぐらいなものだった。しかも一代の碩学とあおがれ、彼のことばは西ヨーロツ。、 / の知識 人に啓示のようにひびいた。古典研究にかんしては、イタリアにおける古典研究の第一人者ベト ラルカ以後の、もっとも偉大な学者である。ギリシア・ラテンの古典の翻訳や覆刻、『聖書』の 翻訳や校訂などで大きな功績をのこしているのである。神学にかんしては、神学的合理主義の開 祖だ。だからもしエラスムスが学究にとどまっていたら、悲劇的な最期をとけずにすんだであろ たぐ
いない。。ハリは安住の地でなくなった。そんなとき、クロムウエルが大赦令を発し、彼も恩典に 浴することができ、一六五一年の冬に故国の土をふんだ。自叙伝にいう。「かくて私はロンドン にきた。世界じゅうのどんなところも、ここほど安心なところはなかった。私はこのうえもない 安心をもって引っこみ、以前のように研究に没頭した」 クロムウエルがホッブズに長官の地位をあたえたという報告も、十分に証明されないとテニエ スはのべている。あわや王党派名うての理論家として議会派から弾劾されるところだった彼を、 クロムウエル政府が厚遇するとは、常識的にかんがえられない。権力意志というものを欠く彼が、 いまさら政治に首をつつこむ愚挙をおかすだろうか。王政下であれ共和政下であれ、静かな学究 生活こそもっとも望ましい境地だったのだ。ロンドンで、血液循環説をとなえたウィリアム・ハ 1 ヴィ、その他の自然科学者と交わったり、デヴォンシャー伯の好意で伯の領地に移ってからも 研究にいそしんだとき、無上の幸福感にみたされたにちがいない。『物体論』 ( 一六五五年 ) や『人 間論』 ( 一六五八年 ) はこの時期の作であって、長年懸案になっていた哲学体系を完成した。天文 学におけるコペルニクス、ガリレイ、医学におけるハーヴィになそらえて政治哲学の創始者と自 称した。 生来争いを好まぬホッ・フズであったけれど、論争癖だけは抜けなかった。自由意志論をめぐっ てブラムホール僧正と、幾何学についてオックスフォード大学のウオリス教授と論争し、七十歳 かくしやく の老人とはおもえない矍鑠ぶりである。そういう退屈な論争にふれる要はあるまい。しよせん彼 0
そのころフィレンツェを支配したメディチ家のロレンツォ 「イル・マニフィコー ( 豪華の 人 ) と称され、フィレンツェの黄金時代をつくったーーーの芸術政策にたいする幻減感、自分がさ まで重んじられない不満ゃいらだち、からではなかったろうか。 一所不住のレオナルドにしてはめずらしく、ミラノには十八年も長逗留する ( 第一ミラノ時代 ) 。 同地では、主家をのっとったスフォルツア家のロドヴィコが支配していた。「イル・モロ」 ( 黒い かんねい 凶悪 ) という異名をとったくらい、奸佞な人物だったが、他方で学者・詩人・芸術家を優遇した。 この第一ミラノ時代はレオナルドにとってもっとも生産的だった時代で、絵画においては『岩 窟の聖母』『最後の晩餐』がつくられ、建築ではミラノ大聖堂の円屋根の設計、巨大なスフォル ツア騎馬像原型の制作のほか、都市計画、人体ならびに馬の解剖学的研究、鳥の飛翔の研究、光 ろっぴ 学・数学・地質学・水力学の研究と、八面六臂の活躍だ。 ところが、一四九九年九月 ( 四十七歳 ) にフランスのルイ十二世軍がミラノを占領し、ロドヴ イコは逃亡する。そこでレオナルドは住みなれたミラノをあとにし、マントヴァ、ヴェネッィア をへて一五〇〇年四月にフィレンツェにもどり、幾何学や機械の研究に没頭する。ロドヴィコが 没落しようと、故郷フィレンツェにおけるメディチ家の失脚とかサヴォナローラ事件とかいった 政変がおころうと、レオナルドはわれ関せずだ。ポール・ヴァレリーは「王者の無頓着」という。 それもあろうが、生来のコスモポリタンがそうさせたのたろう。
ーノ・メディチの賓喀となり、研究室をあたえられて鳥の研究や幾何学や化学の研究に沈潜する。 ニスをつく さんたん あるとき、」オ十亠が」オナ ~ ドに一枚 0 絵を注文した。彼は仕事にかかる前に、 るために油と薬草を・せて苦心惨澹する。このことをきいた教皇はい 0 た、「ああ、この人は何 事も成し遂げる人でにない。作品に手をつける前に、完成した後のことを考える」と。芸術的効 果をうみだす物質的 ~ 材料的 ) 条件を研究することが重要なことを、教皇はてんで理解しようと しなかったし、芸術における未完成の深い意義に思いをいたすこともなかったのである。 ミケランジェロ、 二年間のローマ時にレオナルドは芸術上の仕事は、ほとんどしていない。 ぶりよう ラファェロ、・フラマッテは大車輪の活躍なのに、レオナルドはひとり無聊をかこつ。一五一六年 三月にパトロンだったジュリアーノが病死し、あらたに制作を依頼される見込みもなくなった。 ミラノのほうがましだ。いや、フランスは一段とまさるだろう。フランスではルイ十二世のあと にフランソア一世が登極し、芸術愛好家のほまれがたかかった。強大国フランスの国王にレオナ ンルドが望みをかけたのは、しぜんであろう。 ヴ フランソア一世のまねき 一五一六年 ( 六十四歳 ) の秋、フランソアのまねきに応じてレオナルドは弟子メルツイと下僕を ナ しゅうえん オつれてアルプスをこえ、フランスにむかう。故郷喪失者レオナルドの終焉の地はフランスである。 ところで、フランソア一世 ( 在位一五一五ー四七年 ) は、カルル五世の章ですでに読者にお馴染
ーコンは伝記資料に事欠かない。断簡零墨とまではゆかないにせよ、主要著作はもち べると、べ ろん、演説や書簡もたくさんのこっている。 ーコン全集』にあたってみた。ちかごろ 先日、大学の書庫にでかけ、スペディング編集の『べ ーコンをよむひとはいないらしく、ほこりをかぶっていた。全集は、一ー十巻が哲学的著作、 十一ー十三巻が文学的著作、十四ー十五巻が職業的著作というふうになっていて、十六世紀の哲 学者にしてはめすらしく完備している。伝記的研究もそのおかげを蒙っているのだろう。だがべ ーコン哲学を論じることは筆者の柄でないし、その要もない。 べ ーコンは直接にイギリス史を動かした人びとに属さないけれど、彼の業績は近世西洋哲学史 上画期的な意義をもっから、『ノヴム・オルガヌム』第一巻ちゅうの一句をあげることは、最小 限必要であろう。 いったい中世人は、自然というものを詩の対象とこそすれ、科学の対象とはしなかった。いや、 できなかった。教会がきびしく禁じていたからだ。ルネサンスは人間を宗教から解放したように、 コ自然をも解放しはじめた。宗教的な先入見や教会の禁令を排して、自然をあくまで客観的に考察 べしようとしたのである。ところで近代的な自然研究の特色は、観察と実験にある。この両者を学 コンにほかならない。 シ問研究の根本原理としたのがべー ン ラ彼は『ノヴム・オルガヌム』において「知はカである」といった。なぜ、知はカなのか。・ヘー コンにとって、知識はけっして自己目的ではない。それは力をうるための、いちばん有効な手段 叫 3
るというのである。 国民精神への方向転換 前言したようにフンポルトは一八〇二年に。フロイセン公使としてローマ教皇庁に出仕した。表 向きは政治家だが、ローマ滞在中、関心は政治でなくて古代研究にむかった。したがってこの第 二期に彼は美学、古代研究などで成果をあげたにかかわらず、政治思想では変化を生じたとはお もわれない。だが「彼のように純粋かっ熱心に、やさしくしかも同時に精力的に個性の秘密にさ ぐりいろうとしたひとには、個人のなかにもまた国民精神が、たんに個人の自由な社会的活動か かっ個人をこえて、確固たる歴史的生命として展開する現 ら咲きでるのみならず、個人の前に、 実的な真の国民的精神がはたらいているという考えが、いっかはあらわれねばならなかった」 ( マイネッケ『世界市民主義と国民国家』矢田俊隆訳、岩波書店刊 ) 。普遍人間的なものから国民的・国家 へきれき 的なものへの方向転換は、。フロイセン文部長官就任という青天の霹靂のような出来事をとおして 遂行された。フンポルトの精神的発展における第三期である。彼がローマで研究や著述に余念が なかったころ、。フロイセンはナポレオン軍にあえなく潰え ( イ = 1 ナの戦い、一八〇六年 ) 、フリー ドリヒ・ヴィルヘルム三世はベルリンを退去する。この年の十月にナポレオンはベルリンに入城 し、ここで大陸封鎖令を発布する。このような敗北にかんがみて。フロイセンの内政改革が焦眉の 急をつげ、一八〇七年にシュタインが首相になると、急遽、改革に着手する。改革は諸般におよ 236
世に歴史学者は箒ではくほどいるが歴史家は数少ない。学界でなら歴史学者は多々益ます弁ず だけれど、一般読者にとっては、歴史学者の研究よりも血の通った物語的歴史こそ望ましいので はなかろうか。とはいえ、物語的歴史も歴史研究の成果をふまえたものでなくてはならない。で たらめでは困る。かねがね考えていたそういうことを『歴史と人物』にかいた ( 一九八一年九月号、 本書所収 ) 。もっとも、自分のことを棚に上げての論で、私自身、物語的歴史をかいたことはなか った。そんなあんばいだから、物語西洋近世史を書いてみないかというお誘いをうけたとき、は たと当惑した。ない知恵をしぼった挙句、人物伝のような形でならとお引きうけしたのが、本書 のそもそもの成り立ちである。 『歴史と人物』一九八二年八月号から一九八三年十二月号まで、一年半にわたって連載した。 ( ただし、「ヴィルヘルム・フォン・フンポルト」は、都合により『歴史と人物』に掲載されなかったものを、 きこんど一書にまとめるにあたって収録した。 ) 人物選択にかくべっ厳密な基準があったわけではない。 と比較的専攻に近い分野から興味に駆られるままビック・アップした。二十二人の人物が登場する 5 にすぎないから、甚だ勝手な人選である。勝手な人選ではあるが、十六世紀から十九世紀に至る あとがき
ったのであろうか。一五二七年六月二十日、持病の胃痛におそわれ、二十二日、五十八年の生涯 をとじた。片々たる著作『君主論』が途方もない影響を後世におよばそうなどとは夢にも思わず フィレンツェのサンタ・クローチェ寺をおとずれるひとは、マキャヴェリの墓碑につぎの銘を しようじ よむ。「名声の大なるは頌辞なきにしかず」と。生前に頌辞をささげられなかったということこ そ、このフィレンツェ人にたいする最大の頌辞だったのではあるまいか。 ヒューマニズムとカトリック信仰の共存 話かわってトマス・モーアは、マキャヴェリにおくれること九年の、一四七八年二月六日に、 ロンドンの名門にうまれた。一四九二年にオックスフォード大学にはいり、父の希望にしたがっ ほうはい て法律学を修めた。しかしイギリスに澎湃としておこりつつあったルネサンスのあたらしい思想 をよろこび、古典を熱心に研究する。ロンドンにかえってからはリンカーン法学院に籍をおき、 法律研究に専念する。 一四九九年の夏、エラスムスがはじめてイギリスの土をふみ、モーアとしりあう。この北方ヒ ひえき ーマニスト、モーアの成長に裨益したことは疑う余地がな ューマニズムの王者との交遊が、ヒュ かたくな い。ただし注意していただきたい。モーアがルネサンスの思潮に感激する一方で、頑なまでに カトリックの信仰をまもったことを。アウグステイヌスの『神の国』を講義したり、一時ロンド 4
代の研究』 ( 一七九三年 ) にいう。「古代知識は、個々の努力をひとつの全体に、もっとも高尚な目 的、いいかえれば人間のもっとも高く、もっとも調和のとれた完成という目的の統一にまで集め るために必要である」。このように政治論も古代研究も、フンポルトにおいてはひとつの根に根 ざしていることがわかる。 精神の王国 こうした第一期における考えを、時代の背景のもとにおいてみると、どうなるだろうか。非政 治的な、より正確にいえば政治にたいする無関心な性向が、フンポルトにかぎらず、当時のドイ ツの学者・文人の特徴だったことを思いだす。ドイツは中世いらいの国土分裂をなお持続してい ドリヒ二世没後はとみに生彩を欠いた。 た。希望の星とみえた。フロイセンにしてからが、フリー ナポレオンがこんな無気力な国をたおすのにさしたる苦労はいらなかった。ドイツの政治的無力 に失望したあまり、学者・文人は精神の王国に逃避した。外の生活がいかにみじめであろうと、 内の生活はゆたかにできるはずだから。十八世紀末から十九世紀はじめにかけてのドイツの古典 ほうじよう 哲学と文学の豊饒は、そうした政治の貧困の裏がえしだった、という説も一理がある ( ルカーチ 『ドイツ文学小史』 ) 。国家なき、もしくは国家に超然とした文化という考えが、ほかの古典主義者 と同じように、フンポルトをもとらえてはなさなかったのである。 べつにいえば、それは世界市民主義の時代であって、普遍人間性の追求がモットーとされた。 2 引
も彼らのもっとも高貴な力を麻痺させられた」ということばに、フリードリヒ二世の啓蒙専制主 義にたいする不快の念をありありとみることができよう。そうした不快は、独特な人間論からく る。彼の初期の著作はすべて人間論であり、政治論も人間論にほかならない。フンポルトの人間 論がどういうものかといえば、人間がいかにして個性を全体と調和しつつ発揮するか、いかにし て人間を育成 ( 教養 ) するか、の一言につきる。 処女論文にくらべていっそう理論整然とした長大作『国家活動の限界』も、ひっきよう人間育 成論だ。「国民相互の自由な活動こそ、それにたいする憧れが人間を社会にみちびく一切の財を まもるものである。真の国家制度は、その目的として、こうした自由な活動に従属せねばならな 。ところで人間の目的とは、かれのもろもろの力をひとつの全体へ、もっとも高く、またもっ とも均斉をとって育成することである。けだし、人間をして偉大ならしめるのは精神的な力であ り、内的な創造性でなければならない。しかるに国家は、人間がこうした目的を達するためのた ン フ んなる手段にすぎないのであるから、かりそめにも人間が国家のために犠牲となってはならな ン い」。国家を「必要悪」とみる、国家活動の限界をできるだけ狭くし、個人にはできるだけ多く フ の自由をあたえようとする、そういう考えは、明らかに自由主義的な国家観を先どりしたもので ム ~ はなかったであろうか。 フンポルトの古代研究は早くからはじまったが、とくにゲーテやシラ 1 との交遊によってギリ ヴ シア研究が深まった。それも政治著作とじつは同工異曲なのである。『古代、とくにギリシア古 233