疑いない。だが、私が集めた事実によって、この論文でナゾとされていること数点に答えることがで きたし、また、この論文の誤り数点を指摘することもできた。学者と新聞記者の方法論の違いによる ものであろう。もっとも、この論文は、私の知らないことにもいくつかふれていた。それを手掛かり に、また一年はど、事実を追い求めた。 この事件については、氏から「出来ることならば出典を明示した学術論文の形での御発表を期待し て止みません , とのお手紙を項戴した。「〃読物〃では、フィクションか事実かがはっきりせす、後世 に残りませんから」というのである。 氏が、このようにいわれるのも無理はない。戦後、この事件についてふれたものが二、三あるが、 ( ししながら、いすれも、事実関係がめちゃくちゃだからである。一例だ 百年の歳月がたっているとま、 ) けあげておく 三池脱監の状況について、九州のある新聞は、「明治末期、三池集治監内の病監から四人の囚人が 地下道を掘り脱獄、と書く。このうちの一人が渡辺魁で、のちに裁判官になったというのである。明 治四十四年十一月十三日、九人の重罪囚が宮の原炭坑の壁の下を掘り、七浦坑から脱出し一人が未逮 捕という事件があるが、そのイメージに渡辺魁をくつつけたものである。脱走年が三十年も違うので また、ある月刊誌はドキュメントと銘打って、「受刑者六名大浦坑より帰監 あるから話にならない。 の途中、連鎖を切断し、看守に暴行を加え逃亡せるも、うち三名は直ちに捕縛、一一名重傷、一名は逃 走を遂ぐ」として、その一名を渡辺魁にあてている。しかし、このような状況の六人脱走は、三池集 治監開庁直後の明治十六年五月の事件である。前者は過失、後者は故意による誤報のように思われる。 ) ようのないドキュメントを読まされ、手塚氏は研究者として 不正確ならまだしも、ねつ造としかいし 0 234
都合主義を批判されるのだが、この罪状そのものは、犯罪事実だけを簡潔に書いている。金を奪った だけで死罪とは、いまの感覚からは随分重い。だが、江戸時代は財産罪重視で、それも被害金額によ って厳しく軽重をつけていたので、死罪はやむを得ないところだろう。 次に清水清次の掲示罪状である。これも「続通信全覧」に載っている。三人の首領だけに、前の一一 人と異なり、肩書は「浪人 , とはっきりしている。 「この者は、蒲地源八郎外一人ともども相州鳥羽村八郎右衛門方へ行き『外国人を退治するつもりだ もし、不承知なら家族一同を切り殺す』とい が軍用金に差し支えている。お持ちの金を拝借したい。 って脅し、ことに、住所不明の高橋藤次郎と申し合わせ、相州鎌倉八幡門前で、イギリス人を殺害し たのは不届き至極であるから、引き回しの上、獄門に処する」 これはまた、固有名詞の誤りが多い。「源八郎」は「源八」でいいし、「鳥羽村」は「羽鳥村で ある。それはともかく、これもまた簡潔で、すっきりしている。共犯者として「高橋藤次郎 . の名を 首はっきり挙げているところが注目される。 獄 最後は、間宮一の罪状である。これは最後の処刑であるから、当然、事件全体のまとめとなるもっ の とも重要なものである。これも「続通信全覧」に載っている、と書きたいところであるが、故意か偶 この事件について、 然か、載っていない これは不思議なことである。「続通信全覧」だけではない。 儿比較的、詳しく情報を集めている「肥後藩国事史料、「夷匪入港録」、果ては昭和六年に完成した「大 攘 日本維新史料稿本、、東京大学史料編纂所蔵の外務省引継文書など、どれにも載っていない。邪推す 一「れは、故意に隠してしまった、と思えるほどである。それでは、間宮一の掲示罪状は、現在、明らか 第 にすることはできないのか。いや、できる。まったく偶然としか思えないような事情で、その写しが
あとがき 耐え難いものがあったのであろう。しかし、私に学術論文はガラではない。結局、読み物にしてはち よっと固め、という感じになってしまった。だが、一々、細かい出典を明示することは避けたが、事 実関係については、研究者の批判にも十分耐えうるものと確信している。 手塚論文がふれ得なかったものの一つに公判状況がある。それはなぜか。そもそも、このユニーク な事件に関心を持ったのは、その人自身がユニークな尾佐竹猛、宮武外骨の両氏で、それも、昭和に 入ってからの話である。尾佐竹猛は、司法内部の人であるから、判決文入手以外に個人的な伝聞も少 しはあったのであろう。宮武外骨の方は、判決文以外に新聞記事をかなり集めた。外骨によると、こ の事件に関する新聞報道でもっとも詳しいのは郵便報知新聞とのことであるが、その郵便報知を始め として、外骨の集めたすべての新聞に、公判の記事は載っていない。それを基礎にしているので、手 塚論文も、公判にふれることができないわけである。 しかし、外骨の目にふれなかったとしても、この事件について、もっとも詳しい報道をしたのは、 おそらく、地元長崎の鎮西日報であろう。当時、東京、大阪で発行する新聞社は、長崎に自社支局を 持っていないわけであるから、基本的には、鎮西日報その他の地元紙の記事に頼らざるを得なかった はすである。東京で、詳しいとか詳しくないとかいってみても、その実質は、鎮西日報の記事を、ど れだけ省略しないでそのまま伝えるか、にあったのではないか、と思う。 そこで、鎮西日報だが、現在、明治十五年十月十二日からの分が、国立国会図書館などにマイクロ フィルム保存されているが、運の悪いことに、二十一二年九月から翌二十四年七月までの分が欠号にな っている。つまり、事件発生当時のもっとも詳しい報道を読むことはできないのである。従来、この 事件の事実についての解明があまり進まなかったのは、ここにも一因がある。研究者は、東京、大阪 235
イギリス人襲撃事件の真相 情報の裏回路というのは、不思議なものである。すべての公式情報が、清水の犯人であることを疑 っていないというのに、ひそひそ話としては、当時から、清水清次は真犯人ではないという説が、一 部に、とくに攘夷志向者の間に流れていたらしい。そのもやもやしたものが、昭和に入って、講談調 の衣をまとい、あるいは秘話の形をとって噴出した。たとえば、昭和六年に出版された『横浜開巷綿 羊娘情史』 ( 中里機庵著 ) である。 この本は、十編の小話からなっているが、問題なのは、「綿羊娘と英国士官斬殺事件」という第二 話である。内容はうそが多いが、一応こうである。 日本資本主義の立役者といわれる渋沢栄一、彼もまた、若いころは、攘夷の志士であった。二十四 歳のとき、というのは、鎌倉英人殺害の前年、文久三年のことだが、上州高崎城を乗っ取って武器弾 楢薬を奪い、横浜の洋館を焼き討ちするという一大暴挙を計画したことがあった。参加者は六十九人。 獄海保章之助の漢学塾や、お玉ケ池の千葉周作の道場などから集めたという。結局、中止になるのだが、 ここまでは、渋沢の伝記に必す載っており、まず事実である。 ところが、この本によると、六十九人の同志のなかに、 Ⅲ宮一がいたという。間宮は、計画が中止 になっても、外人殺害の志を捨てす、ついに、大東義観という浪士とともに、酔っ払って八幡宮に不 敬の行為があった二士官を切り殺し、房州に逃れた。 事件後、浪人蒲地源八、稲葉丑次郎、清水清次が捕えられ、三人とも「われこそ、士官一一人を殺し た攘夷の義士 , と名乗り死刑になったが、これは、強盗殺人で首を斬られるより、後世に名を残そう しやめん
あとがき 橋監獄沿革史」のみである。「群馬県史」「群馬県警察史」とも沈黙しているが、わすかに「前橋市 史」が、「沿革史 , を要約したものを載せている。 「沿革史」は、監獄の歴史を書くのが目的であるから、破獄についてはそれなりに詳しいが、主人公 の文七その人についてふれるところは少ない。そこで、当時の新聞をあさったり、地元にわすかに残 る伝承を探ったり、 彼が後半生を送ったと見られる北海道東部での痕跡を模索したり、ということに なる。それらの断片をつなぎ合わせ、少しはかりの推理を加えて、やっとこの程度、というわけであ る。しかし、採集できない伝承が、きっと、まだ、どこかに残っているのだろうという気がする。 ここに収めた七編は、百年以上前の事件であっても、事実関係についてはできるだけの考証を重ね、 それなりの自信をもって書いたものであるが、唯一の例外は、脱監密会の田中ヒモである。向こう見 すのヒモの行状のなかでも〃最高傑作みというべきは、やはり、一連の脱監密会ということになろう が、早い話、この事件が、明治何年にあったのか確定できない。 ヒモの「さんげ談」を年譜ふうにしていくと、これは明治二十年、ヒモ三十二歳のときのように思 われる。ところが、ヒモの「さんげ談」に書かれた年月そのものが全面的に信頼できるものではない。 たとえは、ヒモは、最初に警察に捕まったのは「明治七年、十六歳」のときだったという。ところが、 このさんげ談を語った明治三十四年にヒモは四十六歳だったのであり、ここから逆算すると、ヒモの ) 。吉局、ヒモのよう 十六歳は明治四年になってしまう。このような間違いは、一、 二にとどまらなし糸 な女性にとっては、年号より年齢の記憶の方が信頼できるのではないかと思い、一応その線でまとめ ている。「さんげ談」取材の経過を想像すると、ヒモ自身は年号にふれす、自分の年齢だけで話して 231
あることを報告させていただいた」とのみ書いてお られる ( 『幕末に生きる』所収「首がちがう」 ) 。 じーっと見詰めていると、④の写真が、清水でも 間宮でもないらしいことは、たやすく見当がつく。 ます、清水清次が目隠しを断ったことは公知の事実 なのに、この被処刑者は目隠しをしている。次に、 この背景には富士山らしい山が見える。くらやみ坂 の刑場は丘の上なので、おそらく富士山は見えるだ ろうが、間宮の処刑は、朝から激しく雨の降る日に ・、し諸写 - 行われたのであり、とても富士山は見えまい。それ に、この被処刑者は、間宮のように泥酔していたよ ということになると、②の写真は 、つには見、たない 一を鎌倉事件関係者ではないということになるが、『図 会』の説明にもかかわらす、②と④は別人という可 し亠ま、しば 能生もないではないので、この結論は、 ) らく保留しておこう。 ところで、綱淵氏はふれておられないが、実は、間 ④宮一の写真は日本にある。③ ( 「刑事博物図録 ( 上 )- 写Ⅱ部分Ⅱ ) がそれである。写真説明は「鎌倉におけ
とある。遺体のそばに下駄が脱ぎ捨ててあったというのであるから、かなり強く自殺を推測させる。 ただ、鈴木長八や高梨誠二のロ書による限り、善左衛門は自殺しなけれはならないほど追い詰められ ていたようには見えない。 この五人のロ書を司法省判事局に送付するとき、木更津裁判所は、送り状のようなものをつけてい るのだが、 その〃なお書き〃に、次のような一節がある。 「追って右一件に付き、昨年来、探索の者両度まで差し出し候え共、被殺の跡、手掛かりこれ無き儀 に御座候」 、い加減に認定したわけではない。念をいれて調べても、殺人の証拠はなか 木更津裁判所だって、 った、というのである。もはや、勝負あった、というべきであろう。ただ、自殺だとしても、その原 因が、もうひとつ、はっきりしない。 事件の真相を追いつづけた男 。しかし、加害者、被害者 この事件は、地元では、仁右衛門島切り込み事件と呼ばれていたらしい が、ともに同し村の有力者であるという遠慮からか、表立って語られることは少なかったようである。 そのためか、百余年を経た現在では、ほとんど風化しているといってもよい。その例証を一つだけ挙 げておくと、鴨川市郷土史研究会が作成した「鴨川市史年表」では、この事件を「文久一一年」の出来 事としている。実際の発生より七年前の、慕末のことにしているのである。地元の人にとっても、た だの「むかしむかし」の話になっているさまがうかがえる。 例外がある。ただひとり、熱心に事件の真相を追い続けた人がいる。事件当時、七歳だった被害者
あとがき きない。今回は見送って、さらに調べてからと思わないでもなかったが、脱監密会の事実そのものは 藤沢典獄の〃証言〃によって明らかであるし、とびきりュニークな女性の人生を知ってもらいたいと いう思いもあって、あえて取り上げてみた。 ほん 五、六年前、藤沢典獄談話で、田中ヒモという自由奔放な女囚のことを知った。いっか調べてみよ うと思っていたが、手掛かりがない。たまたま、自分は元看守部長だったくせに、悪心発して捕まる と大胆不敵な逃走、破獄を繰り返していた大西真砂という怪盗のことを福岡日日新聞で調べていたと き、ある日偶然、ヒモの「さんげ談」にぶつかった。そんな偶然も嬉しかった。 脱獄判事・辻村庫太に関心を持ったのは、昭和六十一年春のことである。以来一年、それなりにコ ッコッと調べて、自分では、まあ、こんなところかな、と思えるところまでいった。ある日、正確に は六十二年四月十日のことなのだが、手塚豊氏から、学術論文集の抜き刷りであるパンフレットが送 られてきた。気分的には、拙著を送ったことへのお返しであったかもしれない。「数年前の旧稿で恐 縮ですが、事実は小説よりも奇なりを地でゆくような話ですので御笑覧に供します」との添え書きが あった。 その表題を見たときの驚き、というよりは思考も感情も停止してしまった白っぽい静かな時の流れ を、いまでも忘れることはできない。表題には「明治二十四年・辻村庫太事件の一考察」とあった。 なんという偶然だろう。まるで、目には見えないかなたから飛んできたポールが、テレバシーに誘導 されて、私のキャッチャ ー・ミットに吸い込まれるよ、つに収まったという感じであった。 この論文が、法律的問題点だけではなく、事実関係についても、最高水準をいくものであることは 233
この著者は、少なくとも「横浜どんたく」で間宮罪状を読んでいるはすである。「続通信全覧」の ークス対話は、東京大学 風説書は目にしていないかもしれないが、もっとも重要な八月三日水野・ 史科編纂所蔵「外務省引継文書」に含まれているので ( 「大日本維新史料稿本」には載っていない ) 、 読んだ可能性が強い。それなのに、清水清次が真犯人であるとの強い思い込みから、これらの素材を 一方的に黙殺し、逆に、すでに見たように、真犯人として清水清次を不当に強調する重大な誤りを犯 している。 とはいっても、結果として、複雑で難解になってしまったこの事件を、一般向けの読みやすいスト この先 ーリーにまとめた著者の長期間にわたる努力と熱意に、敬意を払デのを階しむものではない。 学の本がなけれは、この歴史の真実発見は、もっと時間がかかったであろうし、あるいは不可能でさ えあったかもしれない。感謝の田 5 いはっきることがない。 それにしても、事件をこれほどに難解にした責任は、ひとえに、清水清次に負ってもらわなければ ならない。清水が、攘夷志士のヒロイズムに酔わなけれは、高橋藤次郎はもちろん、田中春岱も天方 一も、この事件には登場しなかったはすである。なかなか事件が解決せす、外国公使からおしりをつ つかれたり、背中をどやされたりして幕府はおおいに困惑したではあろうけれども、とにかく、十か 月後の間宮一、井田晋之助捕縛で、単純明白、見事にすんなり解決したはずなのである。
日宮一とその共犯者だったのではないかと思われる。間宮が、江戸まで二人連れだ れは、まさしく、門 ったかどうかはよくわからない。戸塚の川島老は、なにを根拠にしてか、「扇ヶ谷の方から山ノ内へ 出て、ここで別れて、一人は田谷村より東海道の方へ、一人は藤沢の方へ立ち去りました」と、語っ ということになる。もっとも、四十数年後 ており、これだと、戸塚以降の二人連れは犯人ではない、 の記慮であるから、あまり信はおけない。 ともあれ、当時の江戸は、世界最大の百万都市である。かりに、一一人の有力容疑者を江戸まではう まく追跡したとしても、一度、この大海に逃してしまえは、その探索は容易なことではない。実際、 探索は、早々に行き詰まるかのように見えた。そのとき、「ヒョウタンからコマ、の羽鳥村強盜事件 が起こった。 当時、外国人殺害事件は、迷宮入りになるのを常としていた。外交団が、「犯人を捕まえて厳罰に 願しないから、似たような事件が後を断たないのだ」と考えたのも無理はない。そこで、この事件につ 志 首 いては、イギリスはもとより、フランス、オランダ、アメリカなど各国公使が足並みをそろえて早期 獄解決を迫った。とくに、イギリス公使オールコックは、たまたま近く帰国することになっていたので、 それまでには犯人逮捕を、と厳しい。老中水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守の三人は連名で、さ して解決のあてがあるわけでもないだろうのに、「そこもと帰国発帆までには、必す探索を遂げ報告 志 に及ぶべく候と、文書で一筆確約しなければならないところにまで追い込まれていた。そこへ、耳 夷 攘 よりな情報である。この「コマ、にとびつかない手はない。 第