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1. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

筑摩書房 ) 掲載の写真②である。この本は、のちに 改題され『鎌倉英人殺害一件』になるわけだが、そ の写真説明に、「さらされた清水清次の首 ( ジェフ ソン、エルムハ ースト『日本在留記』より ) 」と、 はっきり書いている。確かに、この二枚の写真は、 どう見ても同一人物ではない。第一、首を支える粘 土のようなものが、①では二つのまくらを並べたよ うなのに、②では輪を作って、その上にほんと載せ ① 真たようである。 そこで、綱淵氏は、どちらかの写真は、「十八歳 の少年の間宮一ではないのか」と推理されるのだが、 さらに氏を混乱させたのは、池田政敏編『外人の見 た幕末・明治初期日本図会』が、『日本在留記』か らの転載として、②と④の写真を並べ、「これも鎌倉 事件による処刑者の一人松平某の最期とさらし首 . との写真説明を載せていることである。 これについて、氏は「これらの疑問についての結 ②論を提示できないのが残念だが、『清水清次の首が 写ちがう』という驚きが現在のわたしの関心の一つで

2. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

獄門首写真、百ニ十三年めの里帰り 元治元年 ( 一八六四年 ) 、写真師べアトが、イギリス軍人二人を鎌倉で斬り殺したとされる清水清 次の獄門首の写真を撮ったことは、研究者の間では、かねて知られていた。当時のスイス公使ルドル フ・リンドウが、次のような文章を書き残しているからである。 「彼の罪状と判決文の書かれた高札と共に、血のりのついた首は二日の間、横浜の町の入り口にさら された。イタリア人ビートーは、その首の写真を撮り、私は今もなお所有している。死は処刑の瞬間 あのようにゆがんだ顔を、穏やかに気高く変え、私はその写真に清水清一の大胆な顔つきを、はっき りと認めた」 ( 金丸晃子訳 ) 若干の注釈を加えると、さらし首の期間は、正確には「二日 , ではなく、「三日」であり、「町の入 出生はヴェネチアだが、当時はイギリ り口 , とは、吉田橋の北詰めである。「イタリア人ビートー クス・べアトと表記されることが多いので、本 ス国籍を取得しており、近ごろは一般に「フェリッ 文では以後「べアト」と書くことにする。「清水清一」とあるのは、正しくは「清水清次」である。 深夜、横浜で事件発生の第一報を受けたリンドウは、すぐ馬を走らせ、まっ先に鎌倉の現場に駆け つけた外国人であった。被害者は親しい知人でないことがわかり、とりあえすはホッとするのだが、 リンドウにとっては忘れられない事件だったに違いない。 のちに検屍審判で証言する破目になったし、 グロテスクといえはグロテスクだが、異国の風習として、さらし首の写真は珍しくもあった。だから、 自らの体験と重ね合わせて、いつまでも手元に置いていたのだろう。 それはともかく、この写真、長い間人目に、とくに日本人の目にふれることなく過ごしてきた。そ

3. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

る間宮一のさらし首である。図はフランスのエッチングによる」となっている。フランスの新聞にで も載ったのか、明治大学刑事博物館で現物を見たいと思ったが、太平洋戦争の災禍で失われたのか、 残念ながら現物は存在しないとのことである。したがって、この説明以上のことは分からない。 しかし、③の写真が、間宮一であることは確実である。このさらし首の前に、罪状を書いた立て札 が立ててあるのだが、 ( ページ参照 ) そこに「間宮一」と書いてあるのがはっきり読める。これは、 ェッチングであるから、日本語を知らないフランス人が仕上げたのであろうが、その精密さは驚くべ きものがあり、はかに「井田晋之助 , 「清水清次「獄門ーなどの字もなんとか想像で補えば読みとれる ( ような気がする ) 。さらに、その気になって目をこらせば、川島老が、偶然、新聞記者に示した間宮 罪状の内容の真実性を担保するとさえ、思えるほどのものである。それはともかく、この顔は、少年 のおもかげをとどめており、伝えられる最期にしては、意外に穏やかな感しである。 ①の写真は、おそらく、現物に「清水清次」の説明があったのであろうから、これは、これで確定 していいだろう。では、②と③の写真はどうだろうか。一見した印象は確かに違う。しかし、左右逆 向きではあるが、目、鼻・ロと一つ一つ見比べていくと、意外に似ているようでもあり、同一人物と ) 0 ) 見えないこともなし しすれにせよ、判断に苦しむ。こうなっては、とにかく、原本にあたる以外は ないだろう。 国立国会図書館所蔵の「 OUR LIFE IN JAPAN 」は、たまたま②の写真が落丁で欠けているのだ が、さし絵リストには、もちろん載っている。リストの説明によると、②は「べアト撮影の写真から。 鎌倉暗殺者の一人、松平の首ーであり、④は「べアト撮影の写真から。死刑執行人と犯罪者」である。 ②と④は同一人物とされていないが、「松平」という名前はともかく、②は確かに「鎌倉暗殺者の一

4. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

あることを報告させていただいた」とのみ書いてお られる ( 『幕末に生きる』所収「首がちがう」 ) 。 じーっと見詰めていると、④の写真が、清水でも 間宮でもないらしいことは、たやすく見当がつく。 ます、清水清次が目隠しを断ったことは公知の事実 なのに、この被処刑者は目隠しをしている。次に、 この背景には富士山らしい山が見える。くらやみ坂 の刑場は丘の上なので、おそらく富士山は見えるだ ろうが、間宮の処刑は、朝から激しく雨の降る日に ・、し諸写 - 行われたのであり、とても富士山は見えまい。それ に、この被処刑者は、間宮のように泥酔していたよ ということになると、②の写真は 、つには見、たない 一を鎌倉事件関係者ではないということになるが、『図 会』の説明にもかかわらす、②と④は別人という可 し亠ま、しば 能生もないではないので、この結論は、 ) らく保留しておこう。 ところで、綱淵氏はふれておられないが、実は、間 ④宮一の写真は日本にある。③ ( 「刑事博物図録 ( 上 )- 写Ⅱ部分Ⅱ ) がそれである。写真説明は「鎌倉におけ

5. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 れが、オランダ・ライデン大学の写真絵画博物館に 保存されていることが分かった。同館には、幕末日 本の写真が八百枚も収蔵されており、その主要な作 品を選んで、朝日新聞社が各地で「甦る慕末」展を の開いた。一九八六年のことである。特異な清水清次 よ の獄門首の写真も、もちろん、公開された。清次は、 幕その生を絶って百二十三年目に、いわば〃里帰りみ 艇を果たしたのである。 分厚い板の上に、ちょこんと載せられた生首。転 新がり落ちないように、これが正式なやり方なのだろ 朝 うか、両脇を粘土のようなもので固めている。制度 猶としてのさらし首は知っていても、写真にせよ、そ 曇 のれを目のあたりに見たのは初めて、という人が多か ったはすで、ショック度という点では、展示作品中 水 一、二を争うものであった。 清 る よ この表情を、 リンドウは「穏やかに気高く」と見 影た。農いマュは男らしく、確かに、そのようにも見 トえる。だが、その一方で、「その表情は、日本人の 、・〈ならず者の描写にび「たり合「ていました」 ( 英公

6. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

人」とされている。 しかし、さらに詳しく本文を読んでいくと、なぞは解ける。本文には、こうある。「ここに載せた 銅版画は、べアト君撮影の写真からとったものである。第二十連隊の不運なポールドウイン少佐とバ ード中尉を殺した犯人の一人である松平の首は、同しやり方、同じ場所でさらし首にされた」。 つまり、さし絵リストの説明は間違っており、②の写真は鎌倉事件の犯人ではない。鎌倉事件の犯 人もこのようにさらされたという説明のために掲載されたものである。ただ、間違いにきまっている が、鎌倉事件の犯人として「松平」という名前が、どこから紛れこんできたのかはわからない。ある いは、②のさらし首の本人が「松平」なのかもしれない。 こうして見ると、間違いは間違いでも『図会』の写真説明は、ちょっとした間違いとして納得でき る。納得できないのは『鎌倉英人殺害一件』の説明である。べアトが清水清次のさらし首の写真を撮 ったことは、リンドウの著書にも書いてあるので、「べアト撮影」「鎌倉暗殺者の一人」の二つの要素 志 首 から、この首は清水清次と速断したのだろうが、し 、くら著者が、そうだろうと思ったからといって、 獄読者に向かって「清水清次」と固有名詞を断定するのは、どうかと思われる。 『鎌倉英人殺害一件』には、このような思い込みによる積極的な誤りカ ゞ、はかにもある。間宮一の供 述について、この本は「十月一一十二日、同志の者 ( 清水清次 ) と連れ立って鎌倉にいったのです」と 士 儿書く。「続通信全覧」によると、この部分は「同年十月二十二日同意之者同道宿元立出、である。清 水清次の名前はでてこない。実際、リ 宮罪状によると、間宮は、清水清次という名前を知らないとい っているのだから、清水清次の名を口にするはすはないのである。読者の理解を助けようとの善意を 第 疑うものではないが、逆に誤断に導くものであり、いらざる配慮による挿入といわざるを得ない。

7. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

一 1 ロ 頼をよせている船津であってみれば、中山は、ためらうことなく、これを許した。船津は、さらに声 をひそめていった。 「もう一つは、秘策中の秘策です。騒動がうまく鎮圧できたとしても、首謀者が逃げて責任がうやむ やになってはつまりません。懲役人のなかから、とくに気の利いた信頼できる男を選んで、暴徒のな かに放してやるのです。ことば巧みに暴徒を誘導して、懲役隊の方に連れてこさせるのです。そうな りや、しめたものです。首謀者をうまく、生けどりにしてしまいます」 懲役隊には獄吏がついているから、脱走は容易ではない。だが、この案の方は、監視なしで囚人を 文字どおり野に放してしまうのであるから、その気になれば逃走は自由である。法治社会であり得べ さじ 、けば、一挙 きことではない。だが、自在の人である中山権令は、些事にこだわらなかった。うまくし 団に暴動を押さえこむことができる。その放胆な青写真にほれて、中山は、これをも許した。 暗 船津は、すぐ下市赤沼町の懲役分監に走った。彼は、そこで、決死隊ともいうべき六人の懲役囚を 徒 囚選んだ。いすれも、監中の取締、つまり役付の模範囚だった。 ーレ ぶ 石塚藤三郎四十五歳強盜懲役七年 っ を 稲葉弥兵衛三十三歳強盗懲役十年 関口新介二十八歳強盗懲役七年 民 農 照山常之介三十二歳強盗懲役十年 富永徳太郎一一十八歳強盗懲役十年 四 第 鈴木半蔵三十三歳放火懲役終身 117

8. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

幕末・明治の 破天荒な 犯罪者達 奇談追跡歩 幕末・明治の 破天荒な 犯罪者達 佐藤清彦 第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 第ニ話仁右衛門島の錯覚あだ打ち 第三話生き返った死刑囚、その後のニ十六年 第四話農民一揆をつぶした″囚徒暗殺団〃 第五話一夜、ニ獄を破った″義賊″白銀屋文七 第六話おヒモの逢い引き脱獄 第七話判事になった無期懲役の脱獻者 カバー写真Ⅱ攘夷志士・清水清次の獄門首 ( LL ・べアト撮影 ) 写真着彩大澤康夫 佐藤清彦一 ISBN4-479 59021 ー 9 C0095 P1650E 定価 1650 円 ( 本体 1602 円 ) 大和書房

9. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

志 首 附、三つの獄門首のナゾについて 獄 の 朝日新聞社主催「甦る慕末、展で、日本初公開となった清水清次のさらし首の写真①は、見る人そ 十 儿れぞれに、それなりのショックと感銘を与えたようである。 攘 ところで、この写真を見て「おや ? 」と首をかしげたのは、作家の綱淵謙錠氏である。「清水の顔 話 が優しすぎるのである。清水清次の顔はもっとふてぶてしく、どっしりとした悪党づらではなかった 第 か」というのである。綱淵氏の記にある清水は、岡田章雄著『幕末英人殺傷事件』 ( 昭和三十九年、 田原落城後は、徳川家康に召され、大坂冬の陣で戦死した人もいる。寛文のころ、下総印旙に転封に なり、笹下陣屋は廃城となった。このとき、城門は成就坊に移され、時に修理を加えながら、いまに 残る山門になったといわれる。 僧侶の家に生まれながら、外夷を憎み、武士にあこがれた一少年が、わが身を武士らしく整えよう としたとき、まっ先に思い浮かべたのは生家とは山門によって結はれ、しかも武勇をもって鳴る地元 の名家間宮一族であったに違いない この一族は、名前に「信」の字をつける者が多い。こうして、 願成寺の墓標「間宮一信成」は、おそらく、少年が、生前、誇りをもって自ら名乗った名前であろう、 とい、つことになる。 間宮一とは、そういう少年であったらしい

10. 奇談追跡 幕末・明治の破天荒な犯罪者達

第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 獄門首写真、百ニ十三年めの里帰り イギリス人襲撃事件どは なぜか空白の罪状記録 食い違う供述内容 メンツを立てた迅速処刑 遊郭て捕まった真犯人、清水清次 「どらはれて死ぬる命はおしからす : 幻の共犯者、高橋藤次郎 亠朋れてい く犯人像 もう一人の真犯人、間宮一 井田晋之介は実在したか ? イギリス人襲撃事件の真相 闇から闇へ葬られた男 4 少年志士の誇り 9 47 41 37