房州の村々の名主が、新政府の御役所に呼び出され、今般、土地をお上に返上することになったか ら、村明細帳を差し出せ、といわれたのは、明治と改元して、まだ五十日とは経っていない十月二十 六日のことであった。これが、漁業権紛争の直接の導火線となった。 十一月七日、当時、三十四代仁右衛門はすでに隠居していたようで、仁恵茂 ( 三十五代仁右衛門 ) が浜波太村の名主善左衛門に呼び出された。善左衛門は、組頭長八、小前惣代の酒屋七左衛門ととも に、「今般、御領分替えにつき、今まで島 ( 平野家 ) で支配していた八手いわし役と磯根あわびを、 村で引き取り、村共有のものにすることになったから、左様承知してもらいたい、 とい、フ。三人によ れば、これらの漁業権はもともと村のものであり、仁右衛門に請け負わせていたにすぎないのだから、 この政変を機に元に戻す、というのである。もちろん、仁恵茂は漁業権は先祖伝来のものだと主張し て譲らない。 この争いは、殳所に持ち込まれたが、仁恵茂が、「宝暦年間に差し上げた明細帳のとおり、税は仁 右衛門から納めます」といえば、善左衛門の方は、「重ねて村方支配にお願いします . とがんばる。 ただでさえ、変転目まぐるしく対応に窮するような時代であるから、役所の方でも、面倒なことに深 くかかわりたくはない。 「今まで通りでいいではないか」と仁恵茂に軍配をあげたが、善左衛門は 「いま見せることはできないが、古い記求には村方支配とある。などともいう。あげくの果てに「一 年になにほどと趣意金を村方へ出せば、今まで通りの支配を認めてもよい」ともいうか、これには、 仁恵茂「先例なし」として応しない。 あわび 翌二年正月二十六日、仁恵茂は、例年どおり、磯根鮑御運上四両三分と永弐百文、八手網鰯役金 五両の〃税金みを、前原役所に納めた。この情報をキャッチして善左衛門は驚いた。といって、対抗 いわし
善左衛門の失跡当時の模様について語っている。それによると、善左衛門は、四月三日午前十時ころ、 組頭の長八と二人で現われ、正午ころまでに浜波太の小前の者 ( 零細漁民 ) 十人はどが集まり、「用 談有之」、つまり相談事をしていた。一度、外へ出て行ったが、また戻ってきて、結局、小前の者は 夜八時過ぎに引き揚げた。善左衛門と長八は一泊することになって、夜十時ころまでには寝た。翌朝、 下働きの女が雨戸を開けようとすると、すでに三尺はど開いていた。また裏木戸も開いていた。火鉢 を持って座敷に行くと、長八ひとりが寝ており、善左衛門の姿はなかった。長八も、善左衛門がいっ どこに行ったか知らないという。みんなで手分けして探しているところへ、広場村の名主が、東村海 岸に水死体があるという知らせを持ってきた。 鈴木長八のロ書は、もっとも重要である。長八は、組頭という立場上、善左衛門と行動を共にする ことが多かったからである。ところが、この長八のロ書、四年後の証言という事情はあるにしても、 もうひとつ、はっきりしない。ともあれ、長八の供述は、次のようなものである。 不漁続きで村方一同困り果て相談の結果、いま平野仁右衛門が一手に請負している根浦の漁業 ( 注 Ⅱ主としてあわび採り ) は、もともと村のものであるから返してもらおうということになった。仁右 衛門に申し入れたが、これは由緒あるものだといって相手にしない。そこで、前原役所 ( 注Ⅱ花房藩 庁のこと ) に訴えたところ、役所自身が判断しないで、大名主の前原町高梨助之丞に解決を依頼、さ らに細野村名主吉野郡蔵にも依頼した。その吉野が、四月三日吉田屋に来て、善左衛門と長八に「根 浦は村のものとして、仁右衛門には請負させるということでどうか」というので、善左衛門は承諾し た。そして、小前の主立った者を連れて前原町会所に行くと、吉野の態度ががらりと変わり、小前の どういう了見なんだ」と、まるで取り調べ。一同、ぶぜんとし 者の名前を書き留めては「いったい、
勝利報告がきけるものと思っていた。ところが、意外にも敗報に加え、この紛争に使った経費をどう 始末するかの相談なのであるから、すっかり、あたまにきてしまった。 「大勢呼び出しておいて、負けたとはいったい何事だ」 「意気地のない善左衛門だ。これまで長い間争ってきて、村一同がたった一人の仁右衛門に負けると は、まったくふがいないことではないか」 「馬鹿名主に支配される小前は、これからもどんな目にあうか、わかりやしない。うかつに名主のい うことに従ってはおれないぞ」 「名主は、なんの面目あって帰村するのか」 期待が大きかっただけに失望も大きく、口々に悪口をいう。善左衛門が便所に立てば、目の前にい ないのを幸いに、その悪口雑言がますますつのる、という具合であった。いいように罸鹿にされて、 小前の者が帰ったあと、善左衛門は、がつくりきたのだろう。 翌四日未明、ひそかに吉田屋を脱け出した善左衛門は、あるいは、それまでもよく相談に乗っても らっていた天津の信藤儀兵衛を訪ねようとしたのかもしれない。だが、負け戦と決まったいま、相談 してもいい知恵が出るわけはない。ト」 / 前の者にまで馬鹿にされたのでは、今後、村に戻っても、小さ くなって生きていかなけれはならない。 小前の窮状を救おうと思って始めたことだけれども、こうな っては、もう、だれにも顔向けできない これは、入水の理由としては、十分に納得できるものであ る。長八のロ書が、奧歯に物がはさまったような感しなのは、彼自身が善左衛門といわば、〃同罪み なのであり、善左衛門を擁護しなければならない立場にあったためではないかと思われる。 死体発見直後の事情について、「島由緒」は、次のようにも書いている。
て吉田屋に戻り、小前の者たちは、すぐ村へ戻った。善左衛門は「明日、役所へお願いに行こう」と 同宿したが、長八はすぐ寝入ってしまい、善左衛門がいっ抜け出したのか知らなかった。翌朝、 知らせを受けて、長八は遺体を確認する。長八は、検死については、次のように語っている。 「検使の儀は、翌五日昼後に御出役に相成り、死骸改め候ところ、耳脇に少々傷これあり候。すなわ ち、直七義は人手に掛かり突き傷と申し、御検使御役人はすり傷と申し聞かされ検使相済み、右役人 衆中様、東村役宅へ引き取り、ロ書すり傷と認め相成り、直七義は矢張突き傷候と申し立て候え共、 御取用いこれ無く、よんどころなく、ロ書調印に相成り候次第に御座候」 直七は、あくまで、他殺をにおわせたが、役人には容れられなかったようである。 次に、前原村高梨誠二のロ書がある。この人は、のちに千葉県会議員になるが、その内容からいっ て、すでに名前の出ている大名主高梨助之丞と同一人物と見られる。 これによると、磯根あわび及び八手いわしを仁右衛門の手から取り上げて村のものにしたいという 一三ロ 善左衛門らの訴えは、花房藩庁ではほとんど間題にされなかったようである。「右一件不都合のかど も御座候に付き願書御採用相成り難き旨をもって」、名主グループに扱いを任せることになった。そ 覚 こで、名主グループが双方を呼んで事情をきくと、善左衛門らは「とにかく、近年不漁に加えて物価 高騰、生活が苦しいところから起こった話なので、村の利益になるように解決してくれるなら扱いは 左任せる , という。仁右衛門の方も、「援助金を出せというなら、少々のことなら応じてもよい」とあ「 て、なんとか話を煮詰めようとしているときに、善左衛門がなくなってしまった、というのである。 残る一つのロ書は、広場村副戸長野村武平のものである。これは、善左衛門の遺体発見のいきさっ を述べたもので、別に目新しいところはないが、ただ、「其の場八九間脇に雪駄ぬぎ捨てこれ有り候」
一三ロ しようにも金がない。村方は、善左衛門が口をきき、醤油屋から十両借りて、正月晦日にこれを上納 した。互いに " 納税。の実績をつくろうというのである。伐所はう「かり二重取りしてしまい、あと になってこれに気付いたが、先領主にだれが納めていたかを調べるために、とりあえす、預りという ことになった。調べるまでもなく、これは仁右衛門に決まっている。 とにかく、ことを穏便に収めたい前原役所は、この解決を、この地方の長老連に任せることにした。 大名主高梨助之丞、名主吉野郡蔵とい「た人々に、である。名主グループが調べてみると、仁右衛門 側には証拠の書類もいろいろあり、どう見ても、善左衛門らに分はない。しかし、村方はいま現在、 貧窮に苦しんでおり、しかもこの紛争で借金をふやしている。この厳しい現実を放「ておいて、一方 的に勝利宣言を出すのは、正しいかもしれないが、穏当な解決とはいえない。そこで、三月末、吉田 屋に仁恵茂を呼び出し 「理に勝「て非に負けるということもある。ここのところは、あなたの方でちょ「と譲歩し、なにが ち しかの金銭を渡してうまくまとめてはどうか」と、グループで説得に及んだ。「敵に向か「て金を出 あすやつがいるか」と応しなか「た仁恵茂も、そうそうがんば「てはおれず、まあ考えてみるかと、次 錯第に態度を軟化させてきたときだ「た。これを受けて、四月四日、つまり、善左衛門の死体が発見さ 鴨れた日には、仁恵茂と村方と、大名主宅で手打ちの議定書を取り交わすことにな「ていた。その内容 衛は、もちろん、圧倒的に平野仁右衛門に有利なものになるはすだった。 客観状勢がこのようなものであ「てみれは、組頭長八のロ書からは、それはどの雰囲気はうかがわ 一一れないが、小前との会合は、かなり = キサイトしたものにな「たらしい。それまで、いい情報はかり 第 聞かされていた小前の漁民たちは、三日、善左衛門に呼はれて吉田屋に集ま「たときは、て「きり、
「讐すでに報いたり」 忠孝両道が賞揚された時代、あだ討ちは忠義の華であり、孝道の結露であった。いまはまったくは やらないが、それでも、興行界では「客の入りの悪いときは、忠臣蔵をかけれはいい」などといった りする。いまに残るあだ討ちの根強い人気をもの語るものといえよう。 ふとみ 仁右衛門島ーー房州・鴨川の太海海岸から二百メートルほど離れた島である。周囲約四キロ、県指 定名勝の地である。南房総国定公園に属する。知っている人は、明るい風光と磯遊びの楽しさを思い 出すだろう。知らない人は、その名前から、横溝正史の小説に出てくるようなおどろおどろした世界 を想像するかもしれない。そう、確かにここは、源頼朝や日蓮聖人の伝説に彩られた島である。そし て、いまは知る人も少ないが、かって殺人の鮮血に彩られた島でもあった。しかも、それが、親のあ だ討ちによるものだという。真偽のほどは、おいおい検証するとして、とりあえす、当時の新聞を中 ことのいきさつを追ってみよう。これを報じたのは明治六年八月三十日の東京日日新聞で、見 出しには「飯高直七兄弟復仇の説」とある。 はまなぶと すえ 次を竹一一郎といい、季を秀三郎という。安房国長狭郡浜波太村の民 「飯高氏兄弟、長を直七といし あわび なり。父を善左衛門という。浜波太の地は、安房の極東海角にあり。民皆鮑を捉え、鰯を網するを もって業となす。村の富豪に平野仁右衛門なる者あり。兼并して利をあみせんと欲す。民これを不平 なりとし、まさにこれを官に訴えんとす。ともに善左衛門を推す。善左衛門すなわち一村の総代人と ただ なり、慨然これを花房藩庁に訴う。藩庁まさにこれを理す」 浜波太というのは、江戸期から明治二十二年までの村名で、明治六年の人口は九十一一戸四百九十人
あとがき 父の仇を討ち処罰された一件」が含まれており、遠い記憶を呼び起こすことになった。 裁判の結論としては、これは殺人事件ではあるが、あだ討ちではないことだけが確定できれば十分 であろうが、話の筋としては、では善左衛門はなぜ死んだかまで分からないと、どうも座りが悪い。 その点、この公文書は、すこぶる消化の悪い代物であった。 新しい資科を求めて、二十六年ぶりに仁右衛門さんご夫妻にお目にかかることになった。そして、 平野家には、門外不出の「島由緒」が残されていることを知り、これにより、善左衛門の死が納得で きるものになった。このような取材も、前に一度お目にかかっていたからこそスムーズにいったので はないかとも思われ、因縁のようなものを感じている。 それにしても、明治、大正、昭和三代にわたる平野、飯高両家の抗争は、これはこれとして一編の 物語に成り得るであろ、つ。 見す知らすの土地に行って、百年以上も前の人の消息を尋ねるのは、本当にしんどい。「生き返っ た死刑囚」の話は、文字どおりの奇談に属するであろうから、現地で聞けば、すぐ手掛かりがっかめ るだろうと、甘く見たのが失敗だった。意外に分からない。しからば、死んだ本人にきいてみる以外 はあるまいと、村の墓地数か所の墓標を、無謀にも一々のぞきこんで歩いたのだが、それでも分から ない。分からないのも道理、結論からいえば、田中藤作には、墓標といわれるほどのものは初めから なかったわけである。 老人クラブが集めた昔話 ( ( こま、ちゃんと残っているのだが、その主人公の具体的な人生ということ になると、どこに住んでいたものやら、親類縁者がいまもいるものやら、さつばり分からない。要す るに、現地でも、完全に風化して、伝説ないしは、おハナシのたぐいになっているのである。 229
ことは、想像にかたくない。結局、司法省の決定は、単なる謀殺とするもので、あだ討ちとは認めて いない。刑も、木更津裁判所の申請を、ほばそのまま認めるものであった。 それでは、飯高善左衛門は、なぜ、どのようにして亡くなったのか。関係者の証言からそれを探っ てみよう。まず、主犯の飯高直七のロ書である。 「自分儀、明治一一年四月四日朝、父善左衛門、広場村地内海浜にて斃死する趣承り、打ち驚き同所に でき 赴き視れば、干瀉の中に水に浸し、溺死の体に候えども、顱項に打ち傷、耳辺に突き傷各一か所これ びん あり、鬢も乱れす懐中物も落ちす、他の入水の者と相違致しおり候えば、当時亡父村内一般の依頼を かいしゅ あわび いわし 受け、魁首にて磯根鮑八田鰯漁業の株争論にて平野仁右衛門を相手取り、旧花房県へ訴訟に及ぶ折 柄なれば、これと指す確証はこれ無く候えども、父非命の死は定めて右仁右衛門の闇殺を行うものな らんと一途に存し込み、両弟竹次郎、秀三郎へもその旨申し聞かせ、ひそかに復讐の志を立て : : : 」 全体のトーンからいえば、東日の記事は、この直七ロ書を基礎にしている感しである。磯根鮑は、 討磯のあわびという程度の意味であろう。八田鰯というのは、よくわからないが、別の関係者 ( 高梨誠 はらぐ あ一 l) のロ書には、八手鰯とある。江戸・享保五年に、八手網が始まったと伝えられる ( 鴨川市史年 錯表 ) ので、いわし漁法のひとつで、八手鰯が正しいのかもしれない。 それはともかく、肝心のことについては、「これと指す確証はこれ無く候えども」「右仁右衛門の闇 左殺を行うものならんと一途に存じ込み」と、すこぶる心細い。現代の供述録取書でさえ、供述者の真 意とかけ離れたものになるとしばしば非難されるのであるから、その点は割り引くとしても、具体的 一一一証拠がなかったことは確かなようである。この点、竹次郎ロ書、秀三郎ロ書も、ほば同しである。 次に、関係者五人のロ書を見る。長狭郡前原町の旅宿吉田屋の主鈴木惣吉と、その母ふみの二人は、
第二話仁右衛門島の錯覚あだ討ち 商飯高弘さん ( 四六 ) Ⅱ前同市市議Ⅱはアワビ、イセェビのいけすを妻まさ子さん ( 四 (l) と見回り と同夜遅く家族か に行き妻を先に帰宅させたあと、台風号の高波を警戒中、行方不明になった ら鴨川署に届け出があった。同時刻ごろは、台風の影響で強風と十余メートルの高波が寄せており、 海へ吹き飛はされたものと見て、同署、地元消防団員らが陸からさがしている」 二日後、鴨川市東条海岸でサーフィンを楽しんでいた若者が、この人の水死体が浮いているのを見 つけて届け出た。 弘は、飯高善助の子である。彼もまた、市議会議員を勤めるなど、曾祖父、祖父、父の跡を継ぐ、 その地域のリーダーであった。親分はだの人柄だったといわれる。 と、いぶかしげに眉をひそめる故老がいた。そこは、 「それにしても、東条浦に流れ着くとは : 百十年前、曾祖父善左衛門の水死体が発見されたあたりであった。
とある。遺体のそばに下駄が脱ぎ捨ててあったというのであるから、かなり強く自殺を推測させる。 ただ、鈴木長八や高梨誠二のロ書による限り、善左衛門は自殺しなけれはならないほど追い詰められ ていたようには見えない。 この五人のロ書を司法省判事局に送付するとき、木更津裁判所は、送り状のようなものをつけてい るのだが、 その〃なお書き〃に、次のような一節がある。 「追って右一件に付き、昨年来、探索の者両度まで差し出し候え共、被殺の跡、手掛かりこれ無き儀 に御座候」 、い加減に認定したわけではない。念をいれて調べても、殺人の証拠はなか 木更津裁判所だって、 った、というのである。もはや、勝負あった、というべきであろう。ただ、自殺だとしても、その原 因が、もうひとつ、はっきりしない。 事件の真相を追いつづけた男 。しかし、加害者、被害者 この事件は、地元では、仁右衛門島切り込み事件と呼ばれていたらしい が、ともに同し村の有力者であるという遠慮からか、表立って語られることは少なかったようである。 そのためか、百余年を経た現在では、ほとんど風化しているといってもよい。その例証を一つだけ挙 げておくと、鴨川市郷土史研究会が作成した「鴨川市史年表」では、この事件を「文久一一年」の出来 事としている。実際の発生より七年前の、慕末のことにしているのである。地元の人にとっても、た だの「むかしむかし」の話になっているさまがうかがえる。 例外がある。ただひとり、熱心に事件の真相を追い続けた人がいる。事件当時、七歳だった被害者