長崎監獄署三池懲役場に移監された。ここは、本来、魁のようなインテリの行くところではない。 〃地底監獄〃のニックネームが物語るように、そこに待ち受けているのは、三池鉱のつらい採炭労働 である。 死亡率三分の一、地獄からの脱出 三池藩、次いで個人の経営だった三池鉱が官営へ移行したのは明治六年のことだが、その労働力確 保は最大の難問だった。土地の農民は、農閑期にだけ働きにくるという状態だったし、地下労働は危 険が多いうえに賤業視されていたからである。 そこで、地元の当時三潴県監獄の懲役囚五十人が試験的に坑外労働につくことになった。以後、八 年には福岡県、九年には熊本県、十年には長崎県と、囚人労働は拡大していった。 長崎県についていえば、三池懲役場は、稲荷村字亀谷にあり、六月にます五十人が派遣され、大浦 坑の採炭に従事した。九月には百三十人を増員、さらに十三年六月末には三百人を収容した。魁が、 三池に移送された十四年七月も、おそらく、三百人規模の懲役場だったのだろう。囚人労働を集約し ようと、三池集治監が創設されたのは、十六年四月のことで、懲役十一一年以上の重罪囚を収容したと いわれる。 魁がいたころの三池は、各県別の懲役場になっていたので、待遇も県によって違う。そして、なぜ か、長崎県の囚人は、苛酷のなかでも、もっとも苛酷な扱いを受けていたらしい 当時の資料によると、長崎県の三池懲役場の死亡者は、明治十四年五十人、十五年九十四人、十六 年百三十一人とうなぎのほりで、年平均九十一一人であった。当時の収容者が、常時三百人であったこ
れんとして凶賊に傷害せらるる者両三名これあり候え共、県官重傷の者はもちろん、県庁及び庁下市 街並びに岩鼻己決監、高崎未決分監共凶害波及致さす、もっとも巨魁三名並びに未決囚懲役終身以上 見込みの者三十名、行方不分明に付、分手追跡各隣県へ通知、もつばら探偵中に候え共、とりあえす、 この段御届に及び候なり。 追って本文三名の内二名は、兼ねて警視局より依頼これあり候越獄人加藤長吉、関口文七等の所 為と考えられ、いまだ就縛致さす候え共、蹤蹟相違もこれなきに付き、この段添えて具申候なり」 若干の注を加えると、天川原村己決監仮監があったのは、現在の前橋市三河町一丁目、上毛電鉄・ 中央前橋駅の南である。ここは、旧天川原村 ( 現在の前橋市天川原町 ) の飛び地になっていた。己決 文監は、現在の刑務所である。当時、群馬県では、岩鼻に本監があり、天川原はいわば出張所、しかも 銀仮りの出張所であり、比較的、軽罪の者を収容していた。 くるわ 前橋未決囚監は、現在の拘置所にあたる。これは、当時の前橋・曲輪町、現在の県庁の裏、利根川 賊 義合いにあった。 警視局とは、内務省警視局である。これは、警視庁を吸収した組織でもある。 っ 破 この報告によると、関口文七は、脱獄者として広く手配されている身でありながら、外部から己決、 を 獄 未決の二つの獄を破り、一時にもせよ、二百六十余人の囚人を解放した男ということになる。自分が 脱獄しただけではなく、二つの獄を破壊したのであるから、スケールは確かに大きい。意に反してそ の身を拘禁されている囚人からすれば、ク義賊〃と、仰ぎ見る思いがあったのであろう。 話 最初に、文七が脱獄したのは、現在の東京駅のあたりにあった鍛治橋監倉 ( 未決監 ) である。これ 五 第 は、明治七年十二月に完成した、木造ながら、当時わが国唯一の十字型洋式監獄である。中央部に監 しようせき リ 5
でいる原野の開拓者達を集めて、講談ではない自らの一代記を話して聞かせることがあったというこ とである」 このネタ元は、どうやら、弟子屈出身の詩人として知られる更科源蔵氏らしい。同氏の小説「熊牛 原野」は、その生活体験をもとにしたものであるが、脱獄囚への恐怖にからんで、関口文七が、次の ような形で登場する。 「然し父達の囚人による実害はそれはどでもなかった。い くら凶悪人だといっても、理由なく民家を いためなかったし、また入って見ても盜るようなものもそこにはなかったのだ。むしろ、当時仮出獄 になって、囚人達の取締りのような仕事をしていた、義賊関口文七などは、何の慰めもないこの一握 りほどの気の小さい開拓者達に、自分の一代記を語ってきかせて喜ばれたりした。 日治維新の成上がりの金持ちの蔵を破り、それを貧乏人にほどこしたが、極印入りの金だったので、 使った貧乏人が警察にあげられたので、自首してでたが、群馬の監獄のあっかいが気にくわないとい って、監獄を破って入監者を全部解放し、看守と一戦したという男の話だから、たしかに生きた講談 父は後年までも『立派な人だった』と関口文七をはめていた。その関口文七の話をきいたのも、や はり私の生まれた、大きな草小屋の中だった」 これによると、「義賊 , の形容語は、囚人解放にとどまらす、鼠小僧張りの背景もあったかのよう である。仮釈放後、集治監の業務を手伝っていたようであるが、その経歴から、なにかにつけ、囚人 たちには押さえがきく存在だったのかもしれない。それにしても、「立派な人だった」という一開拓 かっ 者の感想は、文七の開豁な人柄を思わせる。 160
放火の一人を除いて、すべてが強盗である。 「お前らのような者にまで、天朝様は御用を申しつけられる。前非を悔いている証拠に、神妙に御用 を果たせ。うまくいった暁には罪は必す減等される」 船津は、この強盗集団に、減等という甘い餌を投げた。九日のたそがれどき、六人はひそかに野に 放たれた。懲役所から脱監してきたように見せるため、六人とも役服、つまり囚人服のままだった。 県庁官員、士族隊は、夜も明けやらぬ十日午前四時ころ、県庁を出発した。途中で集めた情報によ ると、農民隊は、阿波山村から石塚村に進出、ついで藤井村 ( 現・水戸市 ) 十万原に向かおうとして いるとのことなので、二隊に分かれ、石塚村に向かった。十万原の名は、昔、源義家が軍勢十万を休 ませたことにちなむ。四か村入会採草地だが、その由来からも、決戦にふさわしい土地といえなくも ない。いわは正規軍とでもいうべき官員、士族隊と前後して、船津の率いる懲役隊も、また石塚を目 指した。まことに、風雲は急であった。折から、那珂湊で興行していた高砂浦五郎以下八十余人のカ 士たちから、「角カ隊」の旗をひるがえし、県庁防衛に駆けつけようとの申し入れがあったが、中山 は、なせか、これは許可しなかった。 「天朝御用、覚悟せよ」 農民隊二千余人は、十日早朝、竹貝を吹き、勢威を張って阿波山村を発し石塚村に入った。ここで、 たき出しの朝食をとり、近村の者たちにも声をかけて、いったん、十万原に集結、その後、県庁に向 かって押し出す計画であった。本橋、大町、岡崎、小林らの首領株は、蔦屋に集まった。農民たちは、 かがり火をたき暖をとった。 118
もともと、岩鼻本監は、規則のやかましいところとして知られている。管理の体制も悪くない。囚 人十人のなかから行状のいい者を什長に選び、指揮をとらせた。三十人のなかから房長一人を選んで、 号令をかけさせた。号令のなかには、「進や「止まれ」のはか、「俯」 ( 頭を下げる ) 、「仰」 ( 頭を上 げる ) などがある。四列縦隊に隊列を組むことを知っているし、これを、一一列や一列に並べかえるこ しいことで ともできる。突然、現われた無頼な一一人の " 指揮者。にとって、これは、きわめて都合の、 あった。 一一人は、監内にあった役業用オノやノコギリ、こん棒などを囚人に持たせた。近所の農家に行き、 否応なしに、カマやクワを持ち出した者もいる。はしごをかつぐのもいる。塀を乗り越えるだけでは 文なく、刀を振り回して暴れる監守の動きを封じこめるのに役立つだろう。文七は、総囚に向かって、 銀具体的に今後の行動を指示した。 「今より、前橋未決監を襲い、そこの未決囚と共に県庁に放火する。その騒擾に乗して高崎駅に走 賊 議り、同町で刀剣を奪い、高崎未決分監と岩鼻己決監を破壊する。全囚を合わせて群馬郡観音山に立て 籠る」 っ 破 を 「おーう」、軽率な囚人たちは、雄々しく、ときの声をあげた。全部が全部、軽率だったわけではな 獄 文七が先頭に立ち、門を出るとき、ちょっとためらった囚人がいた。 夜 「なにを、ぐすぐすしてるか」、長吉が背中に切りつけた。血がびゅんと飛んだ。傷は深くはなかっ た。たが、一同を恐れさせるには十分であった。 話 五 本音は、脱監したくない者も少なくない 。とらわれてはいても、数十日の辛抱をすればすむ者が大 第 部分なのである。長期の者も、折紙つきの役付囚で、減等の期待を持てる者ばかりである。しかし、 14 ラ
藤岡警察署、高崎警察署と同未決分監、松井田警察署などに急報させた。長野、新潟、福島の三県へ も雇い探偵を急派し、境界警備を依頼した。 やり 小学校の警鐘の効果はてきめんで、夜が明ける前に、百五、六十人の士族が、刀、槍など、それぞ れ家伝の武器を手にして県庁に集まり、警備につくことを願い出た。このうち二十人を雇い、十人は、 巡査、属官ら三十人とともに高崎、岩鼻の両監護衛と脱走囚追補に当てた。残る十人は、その後二日 間にわたって、未決監の警戒や、県庁内銀行の宿衛に当たらせた。 己決仮監は全焼した。未決監は、すさましく破壊されはしたが、焼失は免れた。賊は未決監にも火 を放ったが、直ぐ消し止めた体制派囚人がいたのである。とりあえす、未決監の外鞘を修復し、未決、 己決を問わす、捕まえた脱走者は、片端から、ここに放り込むことにした。 二百人の破獄者たちは、高崎目指して進む。意気おおいにあがる、というわナこま ) 、 ( : ( し力ない暗 うちはまだしも、明るくなってみると、獄衣に、竹竿や棒切れ、クワなどをかついだこの一群が、飛 び道具を持った巡査隊に勝てるとは、どうしても思えない。 もともと、戦力になり得ない囚人もいる。未決囚野口徳松は、おいばれて、耳がほとんど聞こえな い。なにがなにやらわからす、一隊の後尾についてきたものの、当然足も遅い。「早く歩かんか」と、 長吉に頭を殴られ、びゅーっと血を吹き上げる始末となった。血を見れは、さらにうろたえる。遅い 足がもっと遅くなる。それが幸いして、ずーっと遅れたところを警官隊に捕まり、やっと傷の手当を 受けることができた。 囚人隊が目 ( 沢村 ( 現・高崎市 ) に達したときだった。先兵として、騎馬で追いかけてきた一警官が、 おどしのため、後ろで、空に向けてピストルを一発ぶっ放した。この破獄騒動、初めての銃声である。 1 ラ 2
「沿革史 , によると、関口文七は、前橋榎町の小間物渡世、加藤長吉は埼玉県入間郡砂新田村 ( 現・ 川越市 ) の農民で、ともに持凶器強盗罪で鍛治橋監倉に入れられていた。その出身地から見て、この 大破獄については、文七が主導権を握っていたことは確かであろう。 現在、前橋周辺で、関口文七という名を記慮している人は、ほとんどいない。だが、ごく一部の人 ーその多くは世にやくざと呼ばれる人々であろうカ ゞーは、あるいは白銀屋文七という名で、彼のやっ たことを知っているかもしれない。白銀屋というのは、トリ 物屋の屋号で、人はすべて、屋号で彼を 呼んでいたのであろう。ところで、彼が小間物屋専業であったかというと、これには疑問がある。当 時の新聞に、彼を「旅役者で見かけのやさしい男 , と報したものもあるからである ( 六月八日、読売 新聞 ) 。 榎町という町名は、現在失われているが、いわゆる歓楽街であった。明治末に出版された「前橋繁 昌記」によると、「解語の花の香り床しく料理店、飲食店軒を接して立ち並び、小路横町までも球燈 のひかり華美に、板前の音と共に遊子の心胆を奪わんとす。御神灯の恋のかな文字は、主に東部に彩 人待ち顔なるも嬉しーということになる。解語の花とは、人間のことばを解する花、つまり、美 人のことである。 こうして、関口文七のイメージが浮かびあがってくる。色街育ちのやさ男。小間物屋という商売柄、 ろう くろうと女にもまれてそれなりに洗練された物腰。一転、持凶器強盗のすご味。自分が牢破りするだ けではなく、全囚人を解放して、世のなかを面白くしようという破天荒のアイデアと類を見ない肝っ 玉。とにかく、彼がやらかした一世一代の大芝居を見てみよう。 138
異変を知らせると、身仕度をして首斬り刀を手にした。一般に、局と呼ばれている事務所でのことで ある。 理不尽な集団がかもしだす不気味でまがまがしい騒音が、はじける波のような勢いで局をおおい 諸監を包みこんだ。監房を打ち破る音が連続する。もう、だれも、この勢いを押し止めることはでき この波が、いっ局に襲いかかるのか。瀬川は、息を詰めて暗闇に身構えていた。 果たして、一人の賊が局の縁側に跳び上がって、中の気配をうかがった。障子の中から、瀬川が逆 にのぞくと、白木綿の鉢巻きに白だすき、抜刀の男が、いまにもガラス障子を蹴破ろうという勢いで ある。格好から見て、首領株の男に間違いない。瀬川は、障子を開けると、賊の胸にまっすぐ刀を突 き立てた。手応えは十分だった。不意を襲われ、賊は暗闇に姿を消した。あとでわかったことだが、 重傷を負ったのは文七だった。 六人の監守は、分断されていた。百余人の己決囚は、オノ、こん棒、ノコギリと、手にした武器は さまざまだが、衆をたのんで打ち寄せてくる。そのなかへ、物置き脇から、瀬川はいきなり斬り込ん だ。今度も確かに手応えがあり、賊は左右に分かれて、瀬川を取り囲んだ。なかに、長い竹ザオを持 っている男がいて、いきなり、瀬川の向こうすねを払った。瀬川は横転した。どっと、賊が殺到する かと観念したが、たった一本の真剣を恐れて、そこまではやってこない。起き上がった瀬川は、再び 白刃を構えると、びつこを引き引き、その場を逃れ、県官宅に駆け込んだ。 完全に、囚人たちのなかに取り残され、こわい思いをしたのは、明番勤務の附属小林千代吉である。 この未決監の構造は、江戸時代の牢そのままで、内鞘、外鞘の格子を一一重にめぐらしただけのもので 監 あった。つまり、からっ風の吹きさらしで、未決囚たちは、その内鞘の中で身を寄せあっていた。 148
り込んでるぞ」「大岡候の糺問は喜んで受けても、福江裁判所の偽大岡の糺問なんか受けられるか」 「懲役判事の予審なんて御免だ」 どこからともないうわさが、こんなにも広まっている以上、理非の決着を早くつけなけれはならな いと警部は判断した。そんな警部の耳に、さらに有力な情報がもたらされた。 いま、福江監獄にいる三上看守は、以前、長崎監獄にいたという話なので、人伝てに渡辺魁という 囚人を知っているかと間い合わせたところ、こんな返事がきたのである。 しゅう 「渡辺魁は、長崎で現に取り扱った囚徒だから、よく知っている。三池懲役場から、その後、逃走 していまだに捕縛されないときいている。いま、福江の裁判所で予審判事をしている辻村判事は、確 かに、渡辺魁とウリ二つで、世のなかには、こんなによく似た人もいるんだなあと感心していますー 年を越して明治一一十四年、新年早々、また一つ、奇怪な情報が入ってきた。前年暮れ、辻村判事は、 裁判所に勤めている独身者の仲人を買って出て、長崎にいる旧島原藩士の娘と見合いさせた。そのと き、その青年と連れだって長崎へ行き、しばらく滞在していたのだが、ある日路上で旧友らしい人か ら呼びとめられ、「いよお、渡辺君しゃないか。お久しぶり」と、あいさっされていた、というのである。 これらの情報は、すべて、ただ一点、判事辻村庫太が、脱獄囚渡辺魁であることを示している。 いすれにせよ、これは、離島の一警察署長では、判断できない大事件である。目黒警部は、この五 か月、ただ一人でコッコッと歩き集めた情報を書きまとめ、長崎地方裁判所一瀬検事正に「辻村判事 を捕えるべきである」との意見を上申した。一月下旬のことであった。 一通の投書が検事局に舞い込み」捜査が始ま 後年、一瀬勇三郎は、「五島巡視から戻って間もなく、 ったかのような懐古談をしているが、事実は投書ではないはすで、これは、目黒ジャベール粒々の苦 214
一一口 草むらに人影あれは、怪しと見る中に脇道へ外さんとするの体のますます不審なれは、駆け行きて引 っ捕えんとせしに、曲者は懐中より短刀取り出して討ちかかるを踏み込みて引き捕うるに、賊は覚語 と定めけん、咽喉をかけて六寸程傷ついて自殺せんとせしゆえ、拘引して治療を施し本庄駅の監倉へ 入れしが、恐らくは前橋脱監の余類なるべし」 ( 明治十年六月十一一日、東京日日新聞 ) 「余類」とは、あまりにもかわいそうである。これが「首魁」関口文七であった。 長吉は、なかなかしたたかである。文七と別れたのち、武州の実家に立ちより、その後福島県に行 って、五人組の一人として強盗を働いている。そのうちの一人が捕まったものだから、これはやはい とはかり新潟に逃げ、ここで捕まって、九月半は、東京の警視本署に引き渡された。 七 文 このような破獄によって、一時にもせよ、〃とらわれ人み二百六十二人を解放した男を〃義賊〃と 屋 銀 いってよいかどうかはともかくとして、このハプニングによって、文字通り命拾いをした人が三人い 白 たことだけは確かである。当時、未決監には斬罪囚三人がいたが、解放後、二十四時間以内に自主的 賊 義に戻ってきたので、水火震災の変に準じて、いすれも終身懲役に減等されたからである。 っ 世上を賑した鹿児島賊徒の虚実 破 獄 この大破獄事件、当時の新聞にも少しは載っている。しかし、その内容は、当然のことだが、あま りに不正確である。たとえば、次のような報道がある。 夜 「先月三十日の午後十一時すぎ何者とも知れす、両人ほど抜刀にて熊谷県庁の構内へ躍り入り、監倉 五 の囚人二百人はどこの騷ぎに乗じて反獄せしが、警部巡査等即時に手配り行届き、百人余は直ちに捕 第 縛し、その他は追跡中なりという。もっとも県庁並に市中も静穏にてけが人等は一切なしという」