は常陸の出であることを認め、それらしく遇し、あるいは何事かを密約しながら、清水の知らないと ころで、その出生、経歴を適当にすり替えたとも考えられる。 なせか。水戸の名が、外国人にアレルギーを引き起こすのを恐れたのかもしれない。文久元年のイ ギリス公使館襲撃事件などによ「て、水戸浪士の名は、外国人にと「て脅威そのものにな「ていた。 鎌倉の英人殺害についても、オールコックは、はじめ、扇谷の英勝寺にたむろしている水戸浪士の仕 業ではないかと、疑っていたらしい 前年には、英艦による鹿児島砲撃があ「たし、この年八月には、四国連合艦隊による下関砲撃があ った。浪士とはいえ、水戸の名を出せば、江戸の近くに紛争の種をまくことになりかねない。それを 恐れた幕府は、ことをできるだけ小範囲で、いわば、突発的な、完全に個人の問題として解決したか ったのではないか、とも推理できる。オールコックと対立する老かいなフランス公使レオン・ロッシ ュが、なにやら、幕府に入れ知恵した気配もないではないともいう。 いすれにせよ清水清次の吟味書の内容には、政治的配慮からの歪曲があるようで、取り調べのやり 方について、清水がアーネスト・サトウに訴えようとしたのは、実は、そのことであるかもしれない。 幻の共犯者、高橋藤次郎 高橋藤次郎の姿を求めて、慕府は、懸命の探索を続けた。これぞ、と思う情報をつかんだこともあ った。十二月九日に、老中諏訪因幡守らがフランス公使に会ったとき、「清次の仲間のことを探索し ているうちに、昨年フランス人を殺した徒党のこともわか「たので、近いうちに四人はど捕まえて調 べるつもりです」などといっている。これは、結局、実を結ばす、フランス人殺しは迷宮入りになる
の鎌倉で、外国人を斬り殺してやろうと思っていた。 十月二十一日夜は、神奈川宿に泊まり、次の日、武蔵と相模の境の境木で、若い武士と会った。こ の武士は、常陸の出身で高橋藤次郎と名乗った。雑談しながら、夷人を斬り捨ててやりたいものだと いうと、相手も乗ってきたので、二人で八幡宮へ参詣した。折りよく、長谷の方から二人の外国人が 馬で来た。意田 5 を確認しあい、ます、清水が網代笠を投げ捨てて駆け出し、先頭の外国人の脇腹に切 りつけた。高橋も、後の外国人に切りかかった。二人とも落馬したので死んだと思った。 その場で、高橋とは別れ、清水は脇道を通り品川宿関門を越えた。かねて顔見知りだった源八と丑 次郎に会い、京へ上る相談をした。路銀が乏しいので、羽鳥村の豪家に押し入った」 役人は、しつこく、高橋藤次郎について問いただした。とくに住所を知ろうとした。これは、当然 だろう。だが、情水は「知らない」の一点張りである。もっとも、人相風体については、次のように 答えた。 首 「年齢一一十一、一一歳くらい、中肉、中背、顔丸く色白い、人品よし。そのときの服装は鉄御納戸木綿 獄 割羽織、小倉たつつけばかま、着類は不明、さやはウルシ、色赤き方、せったをはき、丸笠ならびに の 下駄一足手に下げ」 しくつか不自然な点がある。第一に共犯者である。いくら意気投合したからといっ この供述には、、 夷て、その日に会ったはかりの男を、外人殺しという重大犯罪の同志として選ぶものだろうか。しかも、 犯行直後に別れて、あとのことは一切分からないというのである。 話 糸かいことをいえば、二子の船頭は、若い方が肥って顔が長いといっているのに、清水がいう高橋 第 は中肉で丸顔と違う。しかし、記億違いはよくあることなので、こういうのは、あまり重視する必要
恐れる幕府が、身代わり犯人を引き出してきて不明朗にケリをつけるのを防止するためのものであっ タ四時ころ、立派なかごに乗せられ運はれてきた清水は、白州に引き出された。庭に面した障子の 陰に、日英の役人と三人の証人が控えている。三人とは、八幡宮の茶店のせい、犯行目撃の少年兼吉、 戸塚宿の茶店の主人市兵衛である。三人は、障子に開けた穴から、たつぶり清水を観察し、それぞれ、 別々に審問を受けた。 せいは、この男が、彼女の店のしようぎに笠を置いた男だと囃 = 」 認 0 た。兼吉は、最初 0 外国人を襲「た武士 0 あゑ』陳述し・ ( ( 、 ' 「「よ た。そして、市兵衛は、あの日、横柄に食物を要求した武士の 一人である、といった。 そこで今度は、イギリス代理領事マークス・フラワーズと通」は 3 訳のアーネスト・サトウが清水の前に行き、名前と罪状を確認 「わたしの名前は清水清次です。わたしは、鎌倉で外国の士官 の一人を殺しましたー と、情水は答えた。さらに 「間違いなく、わたしは、鎌倉で外国人を殺した者の一人です。 しかし、わたしは、取り調べのやり方についてお話ししたいこ とがあります」 清水清次の市中引き回し ( アンべール )
日宮一とその共犯者だったのではないかと思われる。間宮が、江戸まで二人連れだ れは、まさしく、門 ったかどうかはよくわからない。戸塚の川島老は、なにを根拠にしてか、「扇ヶ谷の方から山ノ内へ 出て、ここで別れて、一人は田谷村より東海道の方へ、一人は藤沢の方へ立ち去りました」と、語っ ということになる。もっとも、四十数年後 ており、これだと、戸塚以降の二人連れは犯人ではない、 の記慮であるから、あまり信はおけない。 ともあれ、当時の江戸は、世界最大の百万都市である。かりに、一一人の有力容疑者を江戸まではう まく追跡したとしても、一度、この大海に逃してしまえは、その探索は容易なことではない。実際、 探索は、早々に行き詰まるかのように見えた。そのとき、「ヒョウタンからコマ、の羽鳥村強盜事件 が起こった。 当時、外国人殺害事件は、迷宮入りになるのを常としていた。外交団が、「犯人を捕まえて厳罰に 願しないから、似たような事件が後を断たないのだ」と考えたのも無理はない。そこで、この事件につ 志 首 いては、イギリスはもとより、フランス、オランダ、アメリカなど各国公使が足並みをそろえて早期 獄解決を迫った。とくに、イギリス公使オールコックは、たまたま近く帰国することになっていたので、 それまでには犯人逮捕を、と厳しい。老中水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守の三人は連名で、さ して解決のあてがあるわけでもないだろうのに、「そこもと帰国発帆までには、必す探索を遂げ報告 志 に及ぶべく候と、文書で一筆確約しなければならないところにまで追い込まれていた。そこへ、耳 夷 攘 よりな情報である。この「コマ、にとびつかない手はない。 第
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 認めており、清水の吟味書の末尾に、次のように書いている。 「このほか、悪事もしているようだが何も言わない。さらに、厳重に取り調べなけれは、本当のとこ ろを言わないだろう。だが、厳しくやって、もし、清水が死んでしまうようなことになったら、イギ 。はかのことは、おおよそのところで リスに対し、なんとも申し開きができないことになってしまう やめて、吟味を終わらせた」 この際、本人が英人殺害犯を自認しているだけで十分、多少つじつまの合わないところや納得しが たいところがあっても、、つるさいことはいわすに目をつぶってしまお、つ、とい、つのである。もちろん、 裏付け捜査なんかやらない。 へたにつついて、やっかいな真相や別の事情などがとび出したのでは困 る。とにかく、本人は自白して獄門を覚悟している。被害者側の外国人は早期決着を望んでいる。も 文句ないではないか。役人たち う一人の共犯はあとのことにして、とりあえすはこれでうまくいく。 は、そう考えたに違いない。〃連累〃二人の死に際はぶざまで、見ている外国人は不満足だったよう だが、「剛暴強勇」、若い清水の肉体と、その期待される最期の姿は、外国人を十分に満足させるだろ う。この「臭いものにふた」のご都合主義が、あとで収拾できない混乱を生み、歴史のねつ造へと繋 がっていく。 「とらはれて死ぬる命はおしからず : : : 」 江戸で自供した清水は、捕縛十日後の二十九日、早くも横浜・戸部、くらやみ坂近くの牢屋敷に送 られ、市中引き回しのうえ、即日、打ち首、獄門になる予定であった。横浜では、証人の面通しと、 イギリス側の犯人確認が行われる。この確認は、いつまでも犯人が見つからす、ことが紛糾するのを ろう
その田中が、なせか、清水逮捕の直後に江戸を離れ京都へ行ったという。調べてみると、京都では、 中村泰玄という変名を使っている。怪しいというので、京都奉行所が取り押え調べたところ、見込み どおり、解決に結びつきそうな供述が得られた。一月末のことである。田中は、次のように供述した。 「英人殺害の三、四日前に、清次がたすねてきて、しばらく泊まっていった。二十一日に一日一出てい き、二十三日の昼ごろ戻ってきて、『きのう鎌倉八幡の境内を、外国人五人はどが馬に乗って通りか かったとき、六人連れの武士が襲いかかり、二人を殺してしまった』というので、武士の名前をきい たところ、家内がそはにいたためか、何もいわなかった。五、六日たって、また清次がきたので、重 はじめ ねてきいたところ、『本当は、外国人を殺したのは自分だ。一緒に行ったのは、天方一こと裕順で、 彼も脇腹を切りつけたけれども即死はしなかったようだ』と話した。その後、裕順に問いただしもし ないうちに京都に来てしまった」 筋書きとしては、びったり決まっている感しである。江戸で、すぐ、天方一を捕まえる一方、田中 とうまるか′」 を唐丸籠に乗せて江戸へ護送した。天方一は膳所藩士ともいわれる。父は以伯といい、春岱と同し医 師仲間である。 ところが、天方一は「清水清次とは確かに知り合いだが、一緒に鎌倉に行ったことはない。外国人 の殺された場所に行ったこともなけれは、殺そうと話し合ったこともありません」と言い、あながち、 うそをついているようには見えなかった。田中と対決させてみたが、田中は「清次からそのようにき いた」というだけの話だから、お互いの言い分はかみあうところがない 幕府の役人が、全体の状況から、この二人のうちのどちらかが清水の同行者とにらんだのは無理も ない。清水の周辺では、この二人がもっとも怪しいからである。そこで二人を並べて、例の八幡前の
と、ことばを獨すばかり 調べの内容についても、「まだ分からない」「よく検討してみなければ : である。 八月三日、老中水野和泉守は、松平周防守邸で、英公使パークスと会見した。この事件については、 次のような会話が交わされた。 ークス間宮一の取り調べ内容を教えて下さり、本人に違いないことがわかりました。ところで、 大阪で捕まった者についてはまだわかりませんか。 水野まだ、何をやったのか、はっきりわかりません。 ークスその男が外国人を殺害したということは、どうしてわかったのですか。 水野間宮一が白状して、それからわかったのではありますけれども、きっちり、当人を取り調べ なくては、なかなか事実を確定できません。 ークス清水清次を処刑する前、二人を死刑にしたのですが、あれは何の罪だったのですか。 首 水野あれは、自分で外国人を殺害したわけではないけれども同意し、戸塚宿で盜賊も働いたので 獄死罪になったのです。もっとも、そのことは、前にも詳しく書面でお知らせしていると思います。 ークス間宮一の供述書のなかで、「同行の者」うんぬんというところがありますが、あの同行 偽 の者とは、大阪で捕まった者なのですか。 儿水野そのように推察しております。だいたい、先ごろ差しあげた供述書は、間宮一がひとりで話 攘 したことですから、その内容が一々、客観的に符合しているということにはなりません。それという 話 のも、あなたがちょっと見たいというので、とりあえす差し上げたものだからです。最終的に間違い 第 ないものは、これから、あれこれ突き合わせたうえでなくては決定できません。
ーンから外れる。このような変名も絶無とはいえないだろうが、たやすくはうなすけない。 もし、清水清次以外に、井田晋之助という男が実在するとしたら、幕府の論理は、一挙に吹き飛ん でしまう。このような疑いをもって、事件の全体を眺め直してみると、清水清次の無実は、確実なも のになってくる。 食い違う供述内容 まだ夕暮れには間のある時刻の犯行だけに、犯人の目撃者も少なくはなかった。その主なものを簡 単に紹介しておく ( 主として「鎌倉英人殺害一件」による ) 。 六十二歳になる百姓善兵衛の後家せいは、仁王門のそはで茶店を開いていた。事件前、一一人の武士 が立ち寄った。ともに、灰色のしまのはかま。一人は三十四歳くらい、黒無地の着物にくろすんだ羽 織。他の一人は二十四、五歳くらいで少し背が高く、 黒い木綿羽織に丸い編み笠をかぶっていた。 せ いは、事件そのものには気づかなかったが、後に、現場に遺留されていた笠が、若い方の武士のもの であることを確認した。結果からいえば、十七歳の間宮一を二十四、五歳とふんだのであるから、目 撃者による年齢の証言が、いかにあてにならないものであるかがよくわかる。 犯行そのものを目撃した者もいる。十一歳の少年兼吉である。 少年が油を買って戻るとき、二人の武士が江の島へ行く道を尋ねた。一一人は走って先へ行き、吉次 郎の家の前に腰をおろした。少年がその前を通りかかると、「ここにいては危ないから早く行け」と いった。そこへ、大仏の方へ行く道から、二人の外国人がやってきた。二人の武士は刀を抜き、しつ かりと柄を握っていた。最初の外国人を一方から襲い、一人が突き、一人が斬りつけたので、その外
同年九月十日、間宮一を戸部の刑場で処刑 ( 打ち首、獄門 ) 。 こうして、事件は、発生以来一年近くたって、清水清次、間宮一の共犯ということで解決した。岡 田氏の著書はもちろん、当時の公文書、外交文書、外交官の手記、その後の歴史書などで、この結論 をはっきり疑うものはない。 なぜか空白の罪状記録 結局、この事件に関連して、三回、四人の者が処刑されたわけである。事件の総括は、判決によっ て示されるのであるから、一応、四人の掲示罪状をのぞいてみる。ます、源八と丑次郎である。この 罪状書は、外務省外交史料館に所蔵されている慕末対外関係史料「続通信全覧」に載っている。一一人 とも一応浪人らしい身なりはしていたのであろうが、この罪状書は〃被告人みを指して「浪人蒲地源 八と申し立て候無宿源八子二十六歳」というように、丑次郎ともども、まるで、フウテン扱いで ある。それはともかく、罪状をやさしく書くと、次のようになる。 「右の者、無宿の身分なのに大小をさし、清水清次ともども相州羽鳥村の農家へ行き、清次が『横浜 の外国人退治に行くので軍用金を差し出せ。不承知なら切り殺す』といい、大金を出させ、二人は清 次から配分を受けた。一一人とも犯行には同意しなかったと主張するが、信しられない。不届きである から、と、もに・死罪にす・る 早期解決を強く要求する外国への申し訳のため、慕府は、このならずもの二人を、英人殺害犯の 「同類」とか「党与の者、とかと強調して、さっさと処刑し、かえって英字新聞の投書欄などで、ご
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 の二人は単なる無宿者としか認められなかった。この二人の無宿者、とくに源八はすこぶるロが軽か ったらしい。捕まるとすぐ、「逃走中の主犯清水清次こそ、鎌倉の英人殺害犯の一人である、と、供 述してしまった。こんな有力情報を洩らせば、罪一等を減ぜられ、死を免れるかもしれないと期待し たのかもしれないが、その願いはむなしかった。 折から、外国公使連にしりをたたかれていた慕府は、直接の殺害犯ではないが、「連累」を強調し て二人の処刑を急ぎ、一応の面目を保とうとした。清水は、奪った百五十両のうち五十両を一一人に与 えているし、二人がいくら「強盗には反対で、ただそばに立っていただけだ」といったところで、そ んな弁明が役人の心を動かす道理はない。 二人の処刑は、早々と十一月十八日、その名もくらやみ坂のそはの横浜・戸部の刑場で行われた。 公使館員や将校たちが臨場し、画家のワーグマンは、その模様を写生した。先に執行される丑次郎は、 大声をあげて、わめきながら刑場に入ってきた。源八の方は、捕縛されたときに傷を負い、自分で歩 くことができなかった。彼は、首斬り役に、「まだか、「まだか」と幾度もたすねて、首を斬られた。 つまり、当然のことながら、一一人とも、きわめて武士らしくない最期であった。 これを見ていたある外国商人は、「あの二人は武士しゃない。その証拠に、一人は昨年の夏、私の ところに商談にきたことかある」といった。 遊郭で捕まった真犯人、清水清次 二人が処刑された翌日、つまり十一月十九日夜、江戸近郊の千住の遊廓で、強盗主犯の清水清次が 捕えられた。身分をごまかすため、大小こそ差していなかったが、床に入るときも大きい鉄扇を離さ