メンツを立てた迅速処刑 赤い血潮のヨタレンが、かっこよく見えた時代があるように、攘夷浪人がかっこよく見えた時代も あったらしい。そこで、武士のケもない食いつめ無宿者やちんびら小商人が、ある日、刀を差して攘 夷浪人にヘンシーンとい、つこともあった。 こんな、にわか浪人が何をしたかというと、徒党を組んでの強盗である。攘夷をやるには、ます莫 大な軍資金がいる。そこで、金のありそうな商人、地主の家に押し入って、刀にかけても攘夷に " 協 力。してもらう。といっても、その軍資金のほとんどが、士気高揚のための酒食に費やされたであろ 、つことは、目 5 像に難くない 当時の江戸には、清河八郎の浪士組の後身である新徴組の下っ端落ちこほれをはしめとして、有象 無象のこういう手合いがかなりいたらしい。なかでも名を売ったのは、〃、 旗本憑連隊みの青木弥太郎 にぎわい で、せしめた金で、吉原のお職のおいらん賑をひかせて妾にしたり、したい放題、悪行の限りをつく して、講談のモデルにもなった。 気の利いた商家は、このような連中の恐喝対策として、有力な攘夷浪人に頼み、しかるべき人材を 派遣してもらった。これを宅番といって、もちろん、ほどほどの謝礼を払わなければならない 。攘夷 浪人が押し込んできたら、同じ攘夷浪人である宅番が応対に出て、なんとか穏やかに話をつけよう、 とい、つわけである。これにも、また金がいる。まるで、攘夷のマッチボンプである。 それはともかく、羽鳥村の強盜でも、一応罪状書が浪人と認知してくれたのは、主犯の清水清次だ けで ( もっとも、「夷匪入港録」所載の罪状には「浪人清水清次と申立清次」となっている ) 、あと
としたものだ、というのである。 間宮は、のちに自首して処刑され、大東義観はその後逃亡して行方不明というのが結末だが、たと えは「東国浪士中かねて聞き及ぶ文武に秀でた青年勇士間宮一 , という具合に、やたらに間宮を持ち あげている。 昭和十八年に出版された『尊皇攘夷史秘話』 ( 和田信義著 ) は、間宮単独犯行説である。 横浜焼き討ちを果たせなかった間宮は、鶴ケ岡八幡宮境内にある護摩堂の修行僧にばけていた。あ る日、朝酒に酔った英士官二人は、土足で八幡宮拝殿にあがり込んだ。これを見た間宮は、すさまし い形相で駆けつけ、一一人を拝殿からひきすりおろすと斬り殺し、姿をくらました。 やがて、清水清次が捕まり処刑されるのだが、この本は、清水は有名な義賊であるとしている。当 時、蒲田・女塚あたりに、神官を交えた攘夷グループがあったが、清水は、そのメンバーでもあった という。ただ、ここに引用されている清水供述の内容は、本物の吟味書と同工で、全編まるつきりの でたらめというわけではない。 その場を逃れた間宮は、相川 + 切っての侠客星政こと相模屋政吉にかくまわれる。だが、初志を貫徹 した以上、潔く処刑されるべきだというので自首する。幕府は、すでに清水を真の下手人として処刑 しているので困ってしまい 間宮を連累者として、つまり、本当は単独犯なのに、二人共同の犯行と い、つことにして処刑した。 この二冊、ともに、ディテールはうそ八百である ( もっとも、『尊皇攘夷史秘話』を、まともな史 料であるかのように扱っている学者もいる ) 。しかし、間宮一は真犯人であり、清水清次は真犯人で という基本だけは一致している。
第一話 攘夷志士、偽りの獄門首志願
イギリス人襲撃事件の真相 情報の裏回路というのは、不思議なものである。すべての公式情報が、清水の犯人であることを疑 っていないというのに、ひそひそ話としては、当時から、清水清次は真犯人ではないという説が、一 部に、とくに攘夷志向者の間に流れていたらしい。そのもやもやしたものが、昭和に入って、講談調 の衣をまとい、あるいは秘話の形をとって噴出した。たとえば、昭和六年に出版された『横浜開巷綿 羊娘情史』 ( 中里機庵著 ) である。 この本は、十編の小話からなっているが、問題なのは、「綿羊娘と英国士官斬殺事件」という第二 話である。内容はうそが多いが、一応こうである。 日本資本主義の立役者といわれる渋沢栄一、彼もまた、若いころは、攘夷の志士であった。二十四 歳のとき、というのは、鎌倉英人殺害の前年、文久三年のことだが、上州高崎城を乗っ取って武器弾 楢薬を奪い、横浜の洋館を焼き討ちするという一大暴挙を計画したことがあった。参加者は六十九人。 獄海保章之助の漢学塾や、お玉ケ池の千葉周作の道場などから集めたという。結局、中止になるのだが、 ここまでは、渋沢の伝記に必す載っており、まず事実である。 ところが、この本によると、六十九人の同志のなかに、 Ⅲ宮一がいたという。間宮は、計画が中止 になっても、外人殺害の志を捨てす、ついに、大東義観という浪士とともに、酔っ払って八幡宮に不 敬の行為があった二士官を切り殺し、房州に逃れた。 事件後、浪人蒲地源八、稲葉丑次郎、清水清次が捕えられ、三人とも「われこそ、士官一一人を殺し た攘夷の義士 , と名乗り死刑になったが、これは、強盗殺人で首を斬られるより、後世に名を残そう しやめん
幕末・明治の 破天荒な 犯罪者達 奇談追跡歩 幕末・明治の 破天荒な 犯罪者達 佐藤清彦 第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 第ニ話仁右衛門島の錯覚あだ打ち 第三話生き返った死刑囚、その後のニ十六年 第四話農民一揆をつぶした″囚徒暗殺団〃 第五話一夜、ニ獄を破った″義賊″白銀屋文七 第六話おヒモの逢い引き脱獄 第七話判事になった無期懲役の脱獻者 カバー写真Ⅱ攘夷志士・清水清次の獄門首 ( LL ・べアト撮影 ) 写真着彩大澤康夫 佐藤清彦一 ISBN4-479 59021 ー 9 C0095 P1650E 定価 1650 円 ( 本体 1602 円 ) 大和書房
使館書記官代理マーチン・ドーメン ) と見た人もいる。実際、二十五歳で死んだこの男の人生は、あ るときは攘夷の志士のように見えるかと思うと、あるときは単なる盜賊のように見えることもあった ようで、まことにもって、一筋繩ではいかない。 イギリス人襲撃事件とは 被害者は同じイギリス人だが、事件そのものが、その二年前に起こった生支事件はどには有名でな いので、まず、そのアウトラインを、ごくごく散文的に紹介しておく。この事件に関するまとまった 平易な著作は、東京大学史料編纂所にいた岡田章雄氏 ( 故人 ) の「鎌倉英人殺害一件」のみなので、 以下、おおむね、これによる。日付は日本暦である。 ード中尉 ( 二三 ) は、騎馬で江 元治元年十月二十二日、英陸軍のポールドウイン少佐 ( 三四 ) とバ の島、長谷の大仏を見物したのち、午後三時すぎ、鎌倉八幡宮前の松並木にさしかかった。躍り出た 一人の浪人が、先を行く中尉に斬りかかり、中尉はひざを切られて落馬、そのあと、頭、背中、ひし、 指などを切られた。ほとんど同時に、もう一人の浪人が少佐に斬りかかった。致命傷は背後からの第 一撃であったが、そのはか、はお、左腕、右ひしなどを切られた。少佐はほとんど即死、中尉も夜十 時ごろ、息を絶った。犯人の二人は、すぐ姿を消した。 十一月三日、戸塚近くの羽鳥村の名主宅に三人組の浪人が押し入り、「攘夷の軍資金を出せ」と百 五十両を強奪。犯人の蒲地源八 ( 二六 ) 、稲葉丑次郎 ( 二三 ) はやがて捕まったが、「逃走中の主犯清 水清次は、鎌倉英人殺害の犯人の一人である」と供述した。 同十八日、横浜・戸部の刑場で、源八、丑次郎の二人を処刑 ( 打ち首 ) 。
一一口 の川の流れと人の身の行く末はど変わるものはなし。 同人の事は、さる頃の紙上に載せたりし画家松本楓湖翁の話にも記せしが、これを見て弥太郎の人 に語りけるは、当時、我に粗暴のふるまいありしは、一意攘夷のために計画せしものにて、決して世 にいうごとき尋常の切り取り強盜にはあらすとて、さらに人に嘱して自分の伝記数巻を編せしめたる 由にて、傾日また壮語していわく、おれの事を強盜などいうやつは片っ端からなで斬りにするといっ たところで、今はそれも出来ぬから仕方なけれど、楓湖などへもよく心得違いのないよう注意してお くつもりだと老侠気虹の如し」 「伝記数巻」とは少しおおげさだが、これは、これから引用する「青木弥太郎懺悔談」を指すらしい 明治二十八年に、月刊で発刊された「名家談叢」の十四号から三十五号まで、十八回にわたって連載 され、昭和四十六年に出版された「慕末明治実歴譚」に収められている。 これに、名前の字が違い、結局のところ、どの字が正しいかは確定できないが、ワル仲間として かなり親しい間柄だっ 楢「井田新之助」あるいは「進之助、が、ちよくちよく登場する。弥太郎とは、 獄 たらしい の 以下に、関係がありそうなところだけを、他の資料をも加えて要約する。 品川に、岩亀楼という遊女屋があった ( 正しくは「岩槻屋 . であったらしい ) 。これは、「露をだに おみなえし 志 いとうやまとの女郎花ふるあめりかに袖は濡らさじ . の有名な歌を残して自死した例の喜遊がいた 夷 とされる横浜の岩亀楼のいわば本店である。横浜で、外国人へ女を売ったことが露見して、攘夷浪士 ちゅう の間に、主人佐吉に天誅を加えようという議論が起こった。うわさを耳にした岩亀楼側は、同し攘 第 夷派に頼んで防ごうとした。弥太郎らに宅番を頼んできたので、弥太郎は、古田主税という浪士を派 -4
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 獄門首写真、百ニ十三年めの里帰り イギリス人襲撃事件どは なぜか空白の罪状記録 食い違う供述内容 メンツを立てた迅速処刑 遊郭て捕まった真犯人、清水清次 「どらはれて死ぬる命はおしからす : 幻の共犯者、高橋藤次郎 亠朋れてい く犯人像 もう一人の真犯人、間宮一 井田晋之介は実在したか ? イギリス人襲撃事件の真相 闇から闇へ葬られた男 4 少年志士の誇り 9 47 41 37
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 れが、オランダ・ライデン大学の写真絵画博物館に 保存されていることが分かった。同館には、幕末日 本の写真が八百枚も収蔵されており、その主要な作 品を選んで、朝日新聞社が各地で「甦る慕末」展を の開いた。一九八六年のことである。特異な清水清次 よ の獄門首の写真も、もちろん、公開された。清次は、 幕その生を絶って百二十三年目に、いわば〃里帰りみ 艇を果たしたのである。 分厚い板の上に、ちょこんと載せられた生首。転 新がり落ちないように、これが正式なやり方なのだろ 朝 うか、両脇を粘土のようなもので固めている。制度 猶としてのさらし首は知っていても、写真にせよ、そ 曇 のれを目のあたりに見たのは初めて、という人が多か ったはすで、ショック度という点では、展示作品中 水 一、二を争うものであった。 清 る よ この表情を、 リンドウは「穏やかに気高く」と見 影た。農いマュは男らしく、確かに、そのようにも見 トえる。だが、その一方で、「その表情は、日本人の 、・〈ならず者の描写にび「たり合「ていました」 ( 英公
のだが、攘夷を呼号する浪士集団のようなものがいくつかあったのだろう。 だが、幕府が、どんなに綿密周到に探索しても、高橋藤次郎らしい姿は、浮かびあがってこなかっ た。そこで、幕府は、初めて清水清次の供述は、うそっぱちらしいと気づいた。早々と、あの世に送 り込んでしまったので、改めて清次を問い詰めるわけにはいかない。 「共犯の探索はどうなった」と、 イギリス側は、折にふれて催促する。「いま、やってます」「近く捕まるでしよう」のその場のがれも 言いづらくなった翌年一一月九日、諏訪因幡守は、イギリス、オランダ両公使と会ったとき、こういっ て、シャッポを脱がざるを得なくなった。 「藤次郎は、まったく烏有の者でありました。清水清次がうそを申し立てたものと思われ、いま、別 の方面を探索しています , 「この事件解決は、友好のために大切なことです。しつかり頼みますよ」 「もちろんです , 志 首 というわけである。それにしても「烏有の者」とは、面白い表現である。 獄 清水清次は、共犯をかばって、高橋藤次郎などという架空の名前を持ち出したに違いない。かはわ の なければならないということは、彼の身近な人間に違いない。役人はそう考えたのだろう。そこで、 清水の周辺を改めて丹念に洗い直した。すると、うまいぐあいに、怪しい男が浮かびあがってきた。 志 巴麦藩の医師田中春岱である。 夷月彳 ~ 攘 田中は、浜町新屋敷に住む三十代半ばの男である。かって、清水はこの家に食客をしていたことが 」。ある。二人は、かなり親しい仲で、ときには、「仲間を集めて、英船に討ち入ろうではないか」など 第 と気炎をあげることもあったらしい