申し合わせて外国人を殺害したのは、不届きこのうえもないことであり、引き回しのうえ獄門に処す る」 罪状を書いた立て札は、吉田橋のたもとだけではなく、鎌倉など、外人遊歩区域内の数か所に掲げ られたようである。川島老は、おそらく、まったく個人的な興味から、これを筆写したのであろう。 公式ルートのものでないからこそ、後世に残ったとも考えられる。 罪状の内容を要約すると、井田晋之助と間宮一は英人殺害の共同正犯である。間宮一は、すでに共 犯として処刑された清水清次を知らないといっている。しかし、年齢、格好が似ているので、井田晋 というのである。 之助と清水清次は同一人物に違いない、 川島老も、この判決の論理を素直にうのみにして、その談話のなかで、「その年の十一月初旬にな って、井田晋之助と申す者を捕縛致しましたが、この者は畠山郷之助、または平田鬼之助などと変名 致しておったもので、同月下旬、横浜在の戸部村刑場において清水清次と名乗って、斬罪につき獄門 首 に処せられました」と語り、めでたく、一件落着としている。しかし、事件一か月後に捕縛されたの 獄は、あくまで「清水清次」なのであって「井田晋之助、と名乗る男ではない。清水清次と井田晋之助 が同じ人物であるという証拠はどこにもなく、慕府が後になってわすかに持ち出した根拠は、「いす れにも晋之助年齢格好等清水清次にも引き当たり」という、ただそれだけである。年齢、格好が似て 志 いるから同一人物だというのなら、この世に同一人物がごまんといることになろう。 夷 / し子′し 人が偽名変名を使うときは、一定のパターンがあるのであり、とくに意識したはあいは 一別として、どうしても、本名と似た感じのものになってしまう。ここでいえは、井田晋之助が、畠山 第 郷之助、平田鬼之助などと名乗るのは、なるはど、とうなすけるが、清水清次は明らかに、そのパタ
この対話のなかで、「大阪で捕まった者ーが井田晋之助を指すことは間違いない。それでは、真犯 人は間宮一と井田晋之助の二人なのか、とパークスがきけば、水野和泉守も「左様推察いたし居候」 と答えざるを得ないのである。そのくせ、なんだかんだと言を左右にし、苦しげにヘ理屈をこねて、 国会答弁並みに確定を避けている様子がはっきり分かる。 ークスも、腹のなかでは、清水清次が犯人であることを疑っている。露骨にきくわけにはいかな いから、事件とは直接関係がないのに「連累」を強調して、さっさと首をはねてしまった二人のなら す者のことを持ち出して、チクリと突いてみたりしている。 大阪で捕まったのが井田晋之助であるならは、井田晋之助と清水清次が同一人物であるという論理 は、絶対に通用しない。そこで、慕府の役人は、公式書類では井田晋之助の名前を隠しておきながら、 間宮罪状書では「清水清次は井田晋之助である」というウルトラ 0 の論理を繰って、決着をつけた。 間宮一は、それが、めちゃくちゃなうそであることを十二分に知っている。しかし、捕われの身がど んなに抵抗しても、その強引な論理を覆すことはできない。どんな叫びも、だれにも届かない。ある いは、少年の心に満ち溢れたその絶望感が、一般の目には醜怪とも見える最期の姿を現出させたのか もしれない。 「続通信全覧」は、この事件について、発生から時を追って、七十一の手紙、布令、対話、罪状書、 ロ供書、新聞記事などを収載している。八月三日の水野・ ークス対話は、六十八番目である。六十 九番目は、間宮の処刑を予告する新聞記事。本来のありようからいえは、その次には最低、間宮の掲 示罪状が載せられなければならないはずである。それでないと、事件は完結しない。それなのに、そ れからほば半年もの空白期間を置いて、七十番目は、慶応一一年一一月一一十五日の、間宮一処刑について
大事なのは、この話は、少なくとも、井田晋之助 ( 進之助、新之助 ) と清水清次が別の人物である ことを、十分、証明しているということである。弥太郎は、井田を知っているが、清水を知らない 田中や天方は清水を知っているが、井田を知らないだろう。すなわち、一一人のそれぞれの交友関係は まったく違うのである。清水は常陸弁を使うというのに、井田は姫路の人だという。慕府の役人は、 田中や天方をみっちり調べたのだから、清水と井田が別の人物であることは十分過ぎるほど知ってい るはすである。それなのに、 Ⅲ宮罪状書で井田晋之助と清水清次が同一人物だとは、とんでもない詭 弁である。 清水と井田、この二人のうち、間宮と組んだ真犯人はだれか、ということになれば、間宮罪状書か らいって、井田晋之助であることを否定できる人はいないだろう。 ところで、弥太郎がいうように、井田晋之助と桃巌斎のむすこが真犯人だとすると、すでに真犯人 と確定した間宮一はいったいどうなるのか、はみ出してしまうではないか、と疑間に田 5 う人がいるか もしれない。しかし、疑念は無用である。桃巌斎のむすこが、すなわち、間宮一だからである。間宮 が、お寺の生まれであることは、先にふれたが、間宮供述書は、そこのあたりを次のようにはっきり 書いている。 「四年前、母が病死し、父硯童の手元で成長したが、文武を好み、仕官の希望を持っていたので還俗 し、一昨年十一月、鎌倉郡上野村の浪人医師平尾桃巌斎の養子になり、平尾とか杉本右近とか名乗り、 桃巌斎ともども江戸へ出て剣道修行に励んでいた」 なんと、間宮一は、青木弥太郎とも面識があったことになる。ここまでくれば、だれもが、真犯人 は井田晋之助と間宮一に確定するだろう。
さる十一日、筑土八幡へ参詣に行く途中、南北回り方へ捕まったということである。 一、飯田晋之助は、主人の供をして上方へ行っているので、まだ捕まっていない。 間宮一は、外国人の暴行を防ぐため、剣術を稽古し討ち取ったのだといっている。 一、昨年十一月十八日、千住小塚原町で召しとられ、横浜で死罪になった清水清次は、まったく、 外国への申し訳のために処刑したということである , 風説書、という語感からは、湯屋や髪床でのうわさ話と思いがちだが、決してそうではない。それ が、どのように確度の高いものであるかは、「阿蘭陀風説書」の一例を引くだけで十分であろう。っ まり、風説書は、非公式のルートで入ってきたというだけのことで、内容はそれなりに評価される情 報なのである。「続通信全覧」の原本付箋はその出所にふれていないが、この風説書も、おそらくは、 慕府の役人から江戸詰めの某藩情報係にでも、洩らされたものであろう。「続通信全覧」は、明治七 年から十年の歳月をかけて編集されたものだが、これには、同時代を生きた旧慕府の役人が多く参加 しており、その評価を経て登載されたことにも注目していいだろう。 「飯田晋之助 . とあるのは、当然、「井田晋之助、であろうし、「いだ」を「 いいだ」と誤まるあたり が、まことに風説書らしいともいえる。酒井雅楽頭とは、当時は大老の地位にあった姫路藩主、八代 酒井忠績のことである。青木弥太郎が、「井田は元姫路藩士」といっているのと一致する。根来五左 衛門は七百五十石の旗本。両番であるから、長州対策のため、五月に大坂城に入った将軍家茂に従っ て大坂に行ったのであろ、つ。 「続通信全覧」のなかで、間宮自供による共犯者の名前が出てくるのは、この風説書だけである。ほ かの公文書は、慎重に「井田晋之助」の名前を出すのを避けたふしがある。名前だけではない。取り
活字になって残っているのである。 かって、「横浜貿易新報、という新聞があり、明治四十年十一月二十四日から四十二年十二月七日 まで「開港側面史。という記事を連載、これが昭和四十八年に「横浜どんたく」という本にまとめら れた。要するに、古老の昔話をきくという趣向だが、そのなかで、戸部町の川島弁之助という老人が 「鎌倉八幡前英国人殺害一件」について話している。この人は、維新前、戸塚の宿役人をしていた人 である。間宮一について、あれこれ話したあと、「今、ここにそのときの罪状の写しがありますから、 御参考に御目にかけましよう」と持ち出したのが、そのまま、新聞記事になった。これは、まったく 私的に保存されたものではあるが、このようないきさつから見て、内容がねつ造だなどと疑う人はま すいないだろう。 このときの間宮の肩書は「御小姓組井上越中守組講武所調方出役内藤豊助家来」で「丑十八 歳」とある。丑年つまり慶応元年に十八歳であるから、犯行当時は、数えわずか十七歳だったことに なる。内容は次のとおりである。 「右の者は、井田晋之助と時世を論じていたが、かねて外夷を憎んでいたので、殺害しようと同意し た。昨年十月二十二日、相州鎌倉八幡門前で、イギリス人二人が馬で来るのを待ち受け、晋之助は先 間宮一は後から来た者に切りつけて二人を殺した。その後、そっと逃げて江 に来た者に切りかかり、 戸にきて、この悪事を隠したまま知人宅に同居、やがて内藤豊助方に住み込んだ。ところで、井田晋 之助は、畠山郷之助、あるいは平田鬼之助とも変名していたので、昨年十一月に、清水清次と名乗っ てお仕置になったのだろうと尋ねたところ、その前に別れてしまったので、そのあたりどうなってい るのかわからない、とのことである。しかし、晋之助の年齢、格好は清水清次にも合致する。二人が
第三段階は、間宮一の逮捕、処刑である。これまた、第一一段階の清水の供述とは、まったく関係の ないところで解決した。 つまり、三つの段階が、それぞれ独立して、ごろんと放り出されたようなもので、事件の全体像が うまくまとまらない。発生から解決までが、因果の鎖で結ばれているという感しがしないのである。 ところが、間宮一の供述によると、第一段階と第三段階は、なんとか結びつくように思われる。自 然、第二段階、つまり、清水清次とその周辺に関する部分が浮き上がってしまう。 では、浮き上がった清水清次に代わる男はだれか。間宮罪状書は「井田晋之助 , だという。そんな 男が、果たして実在したのか。例によって、「烏有の者」ではないのか。かりに実在したとしても、 百数十年後のいま、それを証明できるのか。 「井田晋之助」は、たしかに実在した。いまから、それを証明する。 攘夷を旗印に、強盗商売に励んでいた慕末の〃旗本思連隊みの頭株に、青木弥太郎という男がいた ことは、前にもちょっとふれた。この男は、慶応元年に捕縛され、伝馬町の牢屋敷に放りこまれる。 子母沢寛も書いているが、ここで、すさましい数々の拷問に耐えたところが、また〃勲章〃になり、 彼の人気をあげた。運のいいことに、世のなかが変わった明治元年、特赦によって釈放された。 御一新後も懲りすに悪いことをしていたようだが、明治二十九年九月二日の読売新聞は、この男に ついて次のような記事を載せている。著名な画家、松本楓湖が、弥太郎の悪口をいったことに対する 反らしい 「両刀腰にぶっ込みし昔は江戸八百八町を横行して王候貴族をもののかすとも思わす、その名、泣く 児をもとどめたりし青木弥太郎、し ) まは殊勝に行いすまして王子の海老屋に主振りの客あしらい、竟 ろう
いかに稗史とはいえ、事件の構造を根底からひっくり返してしまうような発想が、なんの根拠もな 任意に出てくるものだろうか。しかも、清水の最期は、稗史好みの立派なものである。稗史とし ては、清水を大衆向きにより偶像化したいわけで、真犯人ではないなどと、本来、書きたくはないは すである。それでも、正史に背いて、そう書かなけれはならなかった理由と動機は、いったいどこに あるのだろうか 闇から闇へ葬られた男 稗史には目をくれす、公的史科しか相手にしないという考え方もあろう。そういう人のために、第 一級の公的史料をあげておく。これまでも、たびたび引用した「続通信全覧」である。もっとも、真 正面から清水清次の犯人を否定しているわけではない。しかし、上手の手から水が漏れた状態は、は つきり、これを見ることができる。 志 ークス会談で、水野和泉守が「もうひとり犯人がいる、と述べたこ 慶応元年七月十八日の水野・ 獄 とは、すでに書いたド 宮の供述による「もうひとり」が、井田晋之助を指すだろうことは、容易に の 想像できる。これを率直に認めたのは、会談の三日前、七月十五日付けの「風説書」である。しかも、 偽 この「風説書」は次のように「清水清次はニセ犯人 , とはっきりいい切っている。 志 「間宮一は、昨年十月、鎌倉八幡宮へ参詣へ行き、途中、松林の陰に隠れていると、外国人二人が馬 夷 攘 でやってきたので、元酒井雅楽頭様家来で、いまは根来五左衛門様家来の飯田晋之助という二十歳は どの男と二人で後ろから切り付け、殺害したという。 第 間宮一は、いま牛込無量寺門前、六百石の講武所出役、内藤豊助様にさむらい奉公していたが、
本国政府が満足しているとのイギリス公使の書簡である。そして、最後の七十一番目は、同三月七日 の水野和泉守、松平周防守のパークスに対する返簡である。この儀礼的な往復書簡によって事件は公 式に最終決着を見るのだが、ともに、犯人は間宮一、清水清次であると明記してはばからない。 間宮一は、逮捕から処刑まで二か月かかった。清水清次にこりて、幕府の役人は、この間たつぶり 裏付け捜査をやったのだろう。当然、手のうちにある「もうひとりの犯人」についても徹底的に調べ たと思われる。だが、その結果は、まったく報告されていない。肝心の間宮罪状書さえ、載せていな 八月三日の対話直後に、まるでみんなが一斉にこの事件に興味を失ってしまったかのように、ひ ) ようがない。清水の処刑は、前任者オール たすら沈黙をまもるのみである。これは、異様としかいし コックの時代のことであるし、 ークスも、犯人の頭数さえそろえば母国の威信は守られることから、 あえて、幕府の失態を、しつこくは追及しなかったのであろう。とにかく、とってつけたような慕引 き、との感を免れない往復書簡である。 志 首 井田晋之助は、その後、どのような運命をたどったのであろうか。弥太郎は、簡単に「殺されまし 獄 た . といっている。もちろん、そうだろう。幕府失策の生き証人を生かしておくはすはない。また、 の 井田晋之助はどの男であれば、英人殺しを除いたとしても、死罪の罪状にはこと欠かないはすである。 処刑されたとすれば、当然、江戸でだろう。だが、当時の江戸幕府評定所旧蔵記録は、関東大震災で 志 すべて失われていることもあって、いま処刑を証明するのは困難である。 攘 ところで、風説書は、厳しく「清水清次は、外国への申し訳のために処刑」と、まるで、幕府が、 一「故意に清水を犯人としてでっちあげたかのように書いている。しかし、これはないだろう。故意ので 第 っちあげならば、高橋藤次郎が烏有の者だからといって、あれはどあわてて、生前の清水の周辺をか
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 獄門首写真、百ニ十三年めの里帰り イギリス人襲撃事件どは なぜか空白の罪状記録 食い違う供述内容 メンツを立てた迅速処刑 遊郭て捕まった真犯人、清水清次 「どらはれて死ぬる命はおしからす : 幻の共犯者、高橋藤次郎 亠朋れてい く犯人像 もう一人の真犯人、間宮一 井田晋之介は実在したか ? イギリス人襲撃事件の真相 闇から闇へ葬られた男 4 少年志士の誇り 9 47 41 37
第一話攘夷志士、偽りの獄門首志願 が伝えられている。 間宮一の最期について、日本側の資料で詳しく書いたものはない。ト ク年志士の最期として、だれも が、正しく書き残したくないシーンだったからかもしれない。ともあれ、スイス公使リンドウは、こ う書いている。 「間宮は弱虫で、清次が死に臨んだ時と同様な落ち着きと辛抱強さを示さなかった。奉行は彼の弱さ を知っていたので、看守人に命じて彼に強い酒を飲ませた。完全に酔ったあわれな人間は、」 甲場をあ ちこちょろめいた。二人の介添人は、彼を導くというよりは、むしろ引きすって行った。首斬り人が 待っている凹地に近づいた時、彼はびつくりするような泣き声を出し、悲しそうな表情をした。彼は、 警護人から逃げようとしたが、地上に投げつけられた。そして屠殺場に引かれた無力の動物のごとく、 彼は首斬り人の一撃の下にたおれた」 ( 金丸晃子訳 ) 刑場の隅の小屋に引きすりこまれ、そこで首をはねられたという話もある。 井田晋之介は実在したか ? 事件の発生からここまでを、慕府の公文書類でたどってみると、なにかスムーズではない、 ろしているとい、つ感じが残る。 第一段階は、事件の発生と犯人の足取り捜査である。幕府としては、それなりに、なかなかよくや っている。 第二段階は、清水清次の逮捕、処刑と、清次周辺の共犯者捜査である。これは、第一段階の捜査結 果とは、まったく無縁のところで進行した。 ごろご